2001年7月29日 主日礼拝式
「ヨハネ11:25〜26」

「わたしはよみがえりです。」

池田 博牧師:宣教メッセージ



今朝のメッセージのみ言葉をお読み致します。
今朝は ヨハネの福音書11章25節から26節です。
新約聖書の184ページになります。

”ヨハネの福音書”
11:25 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを 信じる者は、死んでも生きるのです。
11:26 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。こ のことを信じますか。」

ハイ、聖書は以上であります。和解礼拝のために祈って頂き、大変良い訪問に なったことについて、少し触れたいと思います。一行23名で訪問しまして、1 7日に発ちまして10日間の訪問でありました。

目的は元日本人の捕虜になった、イギリスの特に泰緬鉄道、ビルマとかタイで捕 虜になった人達がこれ程多くいるとは私も知らなかったし、その人達がもう80 を超えているわけでありますけれども、どんなに大変なひどい目にあったかと言 うことを私は、前回もそうでしたが、改めてこの度それを知り、また現地の様々 な資料をみて、如何に残酷なことをして来たかと言うことを、骨身に染みて感じ たことでもありました。

政府が様々な形の謝罪をしたり、あるいは補償をしたりするのも、1つの方法か も知れません。しかし、これはこう言うことでは、決して出来る和解ではない、 と言うことをしみじみ感じたことでありました。

人と人を通して、心の通い合いがあって、そこで謝罪がなされ、赦し合いがなさ れる。そうした地道な、しかし息の長い活動を通してこそ、和解が出来ていく、 そい言うふうに思いました。

たった1人のイギリス人と結婚し、その夫であるイギリス人が飛行機事故で亡く なった。その後にケイコ・ホームズさんと言う方でありますけれども、ひょんな ことから、この和解に身を投じることになって行き、大変なところを通りなが ら、でも10年を超えて今その成果が認められて、日本大使館においても晩餐会 がありました。

その時に、林大使に会いまして、聞いたのでありますが、大使館では年3回の大 きなイベントがありますけれども、その中でも、このPOWと言う、元捕虜の人 達とのこのレセプションは最も大事な行事。そして、ここには全員参加と言う大 事な行事であると言うことでありました。
そして、またその行事が認められて、このケイコ・ホームズさんは、1998年 にウインザー城において、エリザべス女王から、OD、第4級功労章と言うのを 授かるのです。これはこの働きが、どんなに大事な働きであるかを、イギリスに おいても評価されている、と言うのです。

そして、具体的に和解礼拝として、そこで悔い改める人が起こされたり、和解が 出来て、本当にお互いに握手をしたり、ハグをしたりして、本当に涙の中で和解 しあう光景を見ました。また礼拝の中で救われる人も起こされました。そう言う ことで、私たちは皆様のお祈りに支えられて無事に帰って参りました。

それでは、今日のみことばに入りますけれども、イエス様が「エゴ、エミ」「私 は何々である。」と言われた。今日は、その5番目でありますけれども、「わた しはよみがえりです。」と言うところを今日は見て参りたいと思います。

25節に「イエスは言われた。『わたしは、よみがえりです。いのちです。わた しを信じる者は、死んでも生きるのです。』」とこう言われました。イエス様は この後14章の6節において「わたしが道であり、真理であり、いのちなので す。」とこう言われました。

その中で「いのち」と言われましたけれども、その「いのち」とここの「よみが えり」とは重複するのでありますけれども、でも、この「よみがえり」と「いの ち」と言うこととには、重複する面と、また違いもあります。

今日は違いの面で、「よみがえり」と言うことに焦点を合わせて見て参りたいと 思っております。「わたしは、よみがえりです。」と言う時に、少し表現を変え て言うならば、「わたしはあなたをよみがえらせることの出来るいのちの力をも っています。」

こう言うふうに言うことが出来るかなあと思います。キリストはここでその言葉 をただ言葉として表現したのではなくして、現にそこで死を体験している、死ん だ人がそこにいる。その人を前にして、その人をよみがえらせることとして語っ ておられる。そこにこそ、この言葉の意味の重み、また、そこからの大事なメッ セージが今日私たちに語られている。

そう言うことで、今日は「わたしは、よみがえりです。いのちです。」と言うと ころを見て参りたいと思います。

「わたしは、よみがえりです。」と言う言葉を何度も口に出してみた時に、何と 力強い、そして何と権威ある、そしてまた、何と希望の言葉であることか。それ を深く感じました。

この「よみがえり」と言う言葉の原語は“アナシタシス”と言う言葉であります が、この“アナシタシス”と言う言葉の元々の意味は、「元来倒れているもの が、また真っ直ぐに立ち上がる。」そう言う意味があると言うことであります。

そこから、死者の中から立ち上がること、死者の中からよみがえり、復活すると いう、そう言う意味に使われるようになって来たと言うことであります。「元来 倒れている状態」の言うならば極限が死であると言うことであります。

死と言うのは、倒れた状態の最悪の状態。即ちそれは最早立ち直ることの出来な い、死に至る、それは完全に生から断たれた状態。絶望を意味している。そい言 うふうに取ることが出来ると思います。

しかし、キリストがここで、「わたしは、よみがえりです。」と言われる時、そ の絶望の状態、絶対にありえない最悪の死の状態から、そこから立ち上がらせ る、そこから生き返らせることが出来る、と言う意味であります。

そう言う意味において、イエス様が言われた「わたしは、よみがえりです。」と 言う、この言葉の意味がどんなに高く、そして大事であるか、と言うことを、心 に止めさせられるのであります。

イエス様は先に触れましたように、これをただ言葉として、「わたしは、よみが えりです。」とそう言っても、それは何か頭の上を通り過ぎてしまう。ですか ら、具体的に、1人の人、ラザロと言う人をお手本をそこに置いて、そして、こ のラザロに係わることでイエス様は「わたしは、よみがえりです。」と言うこと について、それを明らかにしておられます。

少しそのことに触れて行きたいのでありますけれども、そのために、ヨハネの福 音書の11章の大半を費やして、このラザロの死、そして、復活、そしてそこに まつわるラザロの姉妹、マルタとマリヤ、またその係わりの人達との、このラザ ロの死にまつわる出来事の中で語られている。

そのことを少し見て参りたいと思います。そうすることで、何か私たちに取って もこれは身近なこと、自分に当てはめて考えたらどうであろうか、と言うふうに 見ることが出来るかと思います。

イエス様はこのラザロが瀕死の状態、もう絶望と言う時に、その姉妹、マルタと マリヤがイエス様に使いを遣わします。そして、一刻も早く駆けつけて欲しい。 例え、死ぬ直前であったとしても、イエス様が来てくださりさえするならば、大 丈夫、助かる、癒される。そう言うマルタとマリヤの信仰のもとで必死に使いを イエス様の元に遣わしたわけでありました。

ところがなぜかイエス様はそのこと承知の上で留まりなさって、そして、実際こ のラザロの元に来た時には、最早ラザロは死んで、そして4日も経ったところに 到着された。マルタとマリヤにしてみれば、どんなに瀕死の状態、絶望に近い状 態であったとしても、生きている間に来てくださるならば、イエス様ならば、癒 してくださる、立ち上がらせてくださると言う、かすかな、でも強い信仰のもと で使いを遣わしたわけでありましたけれども、でもイエス様がそこに来てくださ らなかったと言うことの中で、この2人の姉妹は大変なつらい思いをして行くわ けであります。

そこを少し見てみたいのでありますけれども、期せずして、マルタとマリヤは別 のところでイエス様に出逢うのでありますが、21節と32節を見ますと、そこ にこの2人の状況が書かれてありますけれども、まずヨハネの福音書の11章の 21節を見ますと、マルタはイエスに向かって言った。「主よ、もし、ここにい てくださったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」こう言っていま す。それから32節を見ますと、今度はマリヤでありますけれども、マリヤはイ エスのおられたところに来て、お目に掛かるとその足元にひれ伏して言った。 「主よ、もし、ここにいてくださったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょ うに。」と、全く同じ言葉を別のところでイエス様に発しているのが分かりま す。

ここにはマルタとマリヤの同じような信仰と言ったらいいでしょうか。「イエス 様ならば、癒してくださる。」と言う強い信仰を持っていると同時に、でも、そ れは「生きているならば」と言う条件があったと言うのでしょうか。「死んでし まったならばどうしようもない。死んだ先はもう取り戻すことは出来ない。生き ているならば、イエス様ならば大丈夫だ。」

そう言うマルタとマリヤのイエス様に対する信頼であったわけであります。で も、イエス様はこのマルタとマリヤ、またその周辺の人達もそれと同じだったと 思いますけれども、その2人に対してイエス様は、彼女たちが必死な思いで、使 いを遣わしたその中で、あえてそれを承知の上で留まって、そしてラザロの死を 迎えることを良しとしておられるわけであります。

そして、その中でイエス様がこのマルタとマリヤ、そしてその周辺の人々、そし て信徒私たちに対して大事なことを語ろうとしておられる。も少しそこに至る迄 のところを見てみたいのでありますが、マルタとイエス様とのやり取りのことで ありますけれども、先程21節を見ましたけれども、今度は22節から少し見て みますとマルタがこう言うんです。

”ヨハネの福音書”
11:22 今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神 はあなたにお与えになります。」
11:23 イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」

この22節でマルタはイエス様に対して、「イエス様に出来ないこととはない。 神様はあなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになりま す。」ことを信じております。でも、それは、「ラザロは生きている」と言う、 その前提があってのことだ。とマルタが考えていることをイエス様は彼女の表現 の中にきちんと読みとっておられた。

ですから、イエス様は彼女に「あなたの兄弟はよみがえります。」と言うわけで あります。するとマルタは24節にイエスに言った。

”ヨハネの福音書”
11:24 私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知ってお ります。

とこう言うわけであります。このマルタの信仰と言いましょうか、マルタの立っ ているところ、それは私たちと同じと言ったらいいでしょうか。私たちもクリス チャンである限り、やがてイエス様が再臨なさる。その時には我々もよみがえる でありましょう。それは私たちにとっての希望です。ところがイエス様それに対 して25節に「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、 死んでも生きるのです。」

こう言う答をされるわけであります。ここに、マルタとマリヤと、イエス様との 違い、隔たり。そして、それはまた、私たちとイエス様との隔たりでもあるのだ ろうと思います。

イエス様が「わたしは、よみがえりです。」と言われた。でもその「よみがえ り」です。と言うのは、やがて終わりの日にみんなも復活してと言う、そう言う 隔たりの中でのよみがえりだと言うふうに理解していたわけでありますけれど も、でも、イエス様がここで仰りたいこと、それはそうではない。

時間の隔たりもなければ、空間の隔たりもない、よみがえりは先ではなくして、 今である、と言うことをここでイエス様ははっきりと明言しておられるわけであ ります。そうなっていった時に、マルタとマリヤはそこに大きな隔たりを感じ て、大きな戸惑いを感じるわけであります。

マルタが24節に言っていること、それは同時にマリヤのことでもあり、そして また、そこにいる家族親族の者達、近所の人達の姿でもあったことが分かりま す。それは今度は33節を一寸見てみますと、

”ヨハネの福音書”
11:33 そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣い ているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、 言われた。

とこうあるのです。イエス様がわたしは「よみがえり」と明言したけれども、で も彼女達は、そこに立っていない。あるいは立てない。その状態に対してイエス 様は「霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて」と、こうあるのです。

そして、更にその先を見て行きますと、「彼をどこに置きましたか。」彼らはイ エス様に言った。「主よ、来てご覧ください。」「イエスは涙を流された」こう 見て行きますと、イエス様は「「霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて」と、こう あるのです。

心の動揺、と言いますと、何かイエス様自身が、ぐらぐらする動揺というふうに 感じてしまうのでありますけれども、原語の意味はそうではなくして、「心が波 だって」そして、別の訳では、「興奮して」あるいは「憂いて」と言うふうにな っています。

ですから、憤りを感じながら、心は興奮する。そして、涙を流され、そして「彼 をどこに置きましたか。」この「置きましたか。」と言うのも、原語では、もっ と強く「どこに置いたのか。」「どこに葬ったのか。」と、他の訳ではそうなっ ているところであります。

イエス様は、他にない、ここではとても、感情をあらわにしておられる唯一のと ころであります。イエス様にとって、彼らがイエス様の立っているところに立て ない状態に対して、憤りを感じ、そして憂いて、そして、「どこに置いたの か。」と、涙を流しながら、そう言っておられる。

それは、きっとマルタにしても、マリヤにしても、周りにいた人達にしても、そ のイエス様の感情の様をどんなにか、感じたことであろうか、と思います。そし て、更にその先に行きますと、そのラザロのいるところに行きます。そして39 節にこう言うのです。「その石を取りのけなさい。」と命じました。

すると、マルタは言うのです。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日にな りますから。」マルタにしてみれば、石を取り除けることで、そこに死臭が漂っ ていて、その漂う死臭を身体に浴びるならば、自分たちも、何かその死に呑み込 まれてしまうではないだろうか。それ程のラザロと自分、死んで4日も経ってし まったラザロとの間の隔たりを益々感じて行くわけであります。

するとイエス様は、彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の 栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」ここにもう1つ感情をこめ てイエス様は強調されてそう言われます。

そして、イエス様は神様にお祈りをし、43節に言われます。「そして、イエス はそう言われると、大声で叫ばれた。『ラザロよ。出て来なさい。』」こう大声 で叫ばれました。この大声と言うのも、原語の意味からするならば、「みんなが そこで倒れそうになるような、驚く程の大声」であった。と言うことでありま す。

イエス様がこれ程の感情を込めて、そしてまた、有る限りの声を出して、行動な さった、と言うことであります。これは異例のことでありますけれども、でも、 それだけに、ここでイエス様が彼らに語っていること、そして、私たちに語ろう としている意味の深さを感じないではいられません。

人々はイエス様のその大声のもとで、どうなって行くだろうかと、かたずを飲ん でいました。すると、やがて、入り口に立って、そこに布に巻かれたラザロが現 れた。これは大変な驚きであったであろうと言うことは、想像に余りあるところ であります。

イエス様は正に、ここでラザロをよみがえらせなさいました。「わたしは、よみ がえりです。」と宣言されたイエス様は、正にそのよみがえりの力をここに現し ておられるのであります。

でも、ここでイエス様が本当の意味で語りたいことは、もう一度25節と26節 に目を止めてみますと、こう言うことであるわけです。

”ヨハネの福音書”
11:25 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを 信じる者は、死んでも生きるのです。
11:26 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。こ のことを信じますか。」
と言っておられるわけであります。

この25節の後半「わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」と言われ、 更に26節に「わたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。」とこう言 われています。ここが大事なわけです。でも、私たちはここを読むと、イエス様 は何を言いたいのだろうか。「わたしを信じる者は、死んでも生きる。」

どう言うことだろう。更に「信じる者は、決して死ぬことがありません。」「死 ぬことはない。」そう言うことはあるのだろうか。そう思います。でも、ここに こそ、イエス様がよみがえりです、と言うことを通して、死といのち、死と永 遠、その間には隔たりはないと言うことを言っておられます。

イエス様にとって、神にとって、死はいのちに支配されていて、死はいのちのつ ながりの中にあって、存在しているのであって、死といのちが完全に分離され て、そして、最早そこには、つながることの出来ない切り離された存在である、 と言うことは決してない。

そして「わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」そこに言う死んでも生 きると言うことは、即ちイエス様がよみがえることを通して、イエス様に取って の永遠のいのち、死ぬことのないいのち、霊のいのち、それが「わたしを信じる ならば、わたしがよみがえりと言うことを、あなたがはっきりと告白することが 出来るならば、あなたの内にわたしが持っている、そのよみがえりのいのちがあ なたを支配するのですよ。」そうなった時にあなたの肉体のいのちがどうなるか に関係なく、あなたの霊、あなたの心が、あなたの全てを支配するのです。そう なった時に最早決して死ぬことがない。即ちあなたは霊のいのちに支配されまし たから、最早あなたの体が、例え肉体において死ぬことがあったとしても、最早 死に支配されることは決してない状態にあなたは置かれるのです。イエス様の仰 りたいところはそこにあるのです。そして、ラザロはよみがえり、いのちを再び 得たのでありますけれども、でも、そのラザロはやがてもう一度死ぬ時があった 筈です。でもその時最早ラザロの死はみんなに取って絶望の死ではない。寧ろ希 望の死です。死はわたしたちにとって決して支配するものではない、と言うこと を私たちははっきりと見ることが出来ました。てすがら、死は私たちにとって何 の力もない。今日お互いの心の中にこのことをもう一度新しく刻みたいのです。

お祈りをいたします。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる ものはたとえ死んでも生きるのです。また生きていてわたしを信じるものは、決 して死ぬことはありません。あなたはこのことを信じますか。」主よ感謝致しま す。今日もあなたは私たち1人1人にその問いをかけ、私たちに約束を与え、私 たちにいのちを与えて下さる主であることを有り難う御座います。お1人お1人 をとうぞ主が立たしめ、お1人お1人を豊かに導いてくださるようにお願い致し ます。尊いイエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン!