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2001年8月5日 主日礼拝式 「ヨハネ14:6」 「わたしは道である。」 池田 博牧師:宣教メッセージ |
今朝のメッセージのみ言葉をお読み致します。
ハイ、今日は、このところから、「わたしが道である。」と言うところを一緒に 見て行きたいと思います。 イギリスを訪問しまして、27日に帰国しました。その27日の帰国の日に、ロ ンドンを発ってヒースロー空港に行く途中に、ウインザー城と言うイギリスの王 室が用いているお城がありまして、そのお城を訪問しました。バスで小一時間走 ったでしょうか、色んな道を通って、ロンドンの市中の道を通って、高速道路を 通って、それでお城に行きました。 あるところまで来たら、そのガイドさんが、もう暫くしたら、皆さん右手を御覧 ください、と言われました。そして、ここです、と言うことで見ました。バスは スローになって、そして、右手を見たら、何とそこには真っ直ぐの一本の道があ りまして、そして、その一本の道の終点のところにウインザー城が見えたわけで す。余りに素晴らしいので、それをスライドにしましたので、今日一寸見て頂き たいと思います。素晴らしいでしょう。一本道です。間違いのない道です。ここ を行けば必ずお城に行けると言う、そう言うところであります。 そこを行って、お城に着き、中に入ってお城を見ました。このお城がまた素晴ら しいお城です。大きな大きなお城で、色んな豪華な部屋があって、何と或る部屋 は純金だけで出来ている部屋もあったりして、すごいなあ、天国の雛形みたい な、そんな感じもしましたけれども、嘗て世界の王国であったイギリスにとっ て、成る程こう言う物を作ったのかなあ、とそんな感じでありました。 そのウインザー城から見た光景もありますので、ちょっとそれも映してもらいま しょう。これは手前がお城なのです。むこうに一本道があって、このお城は、建 てたのが、1090年と言うことですから、もう1000年近くと言う感じであ ります。そう言う古い歴史のあるものであり、そしてまた、何度も何度もこのお 城が整えられて、そして今日になっている、と言うそう言う素晴らしいところで あります。 どう言いましょうか、立派なお城があって、そこには一本の道があって、そこの 道から行けば、間違いなくお城に行けて、そして、そのお城は素晴らしい豪華な お城であると言うことであります。もし、仮にそこが天国であったとするなら ば、その道を辿りさえすれば、そこに間違いなく行ける、ここから行けば天国に 行ける、これは素晴らしいなあと思いました。 それで、ふと思いました。このお城が、仮にイギリスに行ってヒースロー空港を 降りたら、そこから真っ直ぐに行けるか、と言うとそうでもないし、あるいは、 ロンドンのビッグベン、有名ですね。ここから一本道でいけるか、と言うと、そ うではない。この道は城から4/5キロあるだけで、それ以上遠いところからそ こに行くには、やっぱり、そこを探していかなくてはならないと言うことであり ます。 この「道」は、どこに行くにも大切なものですけれども、この一本道で真っ直ぐ 行くならば、間違いないのでありますけれども、なかなか普通の道はそうはいき ません。滞在中の何日目かに、今日の夕飯はホテルから5分位の、近いところに あって、そこでイギリスで有名な“FISH AND CHIPS”を食べますと言うことで、 だれでも直ぐ行けますから、それぞれ行ってください、と言う訳です。 私も家内と二人だけで歩いて行ったのです。「左へ行って、また左へ行って、そ れから真っ直ぐ言ったら、それで行けます。」と言う訳です。ところが、いざ行 ったら着きません。分からないのです。後で30分程遅れて、どうにか到着はし ましたが、考えて見ると、教えてくれた人は、左、左と教えてくれた訳です。で も、その左、左が、どこから左、左か、これは出発点で、私はホテルを出たらす ぐ左、教えた方はそうではない、ホテルから出るのは当たり前で、そこから一筋 先を左、左と。 これだけで、とんでもないところに行ってしまうわけです。私は道については多 少自信を持っていたわけです。今年は3月に南関東の総会がありまして、吉田兄 弟と坂本兄弟が初めて行くと言うので、「先生、私たち二人で行きますが初めて なので、道を教えてください。」と言うのです。私はさっさと道をメモに書いて 渡しました。 向こうに行ったら、待っていても、2人はなかなか来ないのです。そして、大分 遅れて来られて、先生、反対でした。とこう言うのです。私は何十回と行ってい ますから、駅を出たら、商店街に出て、そこからすうーすうー来れば直ぐだ。で すから、地図も簡単に書いたのです。ところが彼ら初めての人にとっては、駅前 に出ると言っても出口は2つあって、商店街の方ではなく、寂しい方に出たので す。私は寂しい方に出る筈がない、商店街の方に出る筈だと、勝手に決めていた わけです。彼らは反対側に出たために大分歩いたようです。 私も自信をもっていた。と言うそもそもそれ自体がいけないのだと思いました。 皆様の中にも、「道」と言うと、それだけ聞いて、「迷う」、とそう言う方もい ると思います。ですから、道と言うのは大事なのですけれども、「道」=「迷 う」とそう言うことになる程に、道って分かりそうで、分からない、難しいと言 う印象を持ちました。 今日は「道」と言うことでありますけれども、因みに、私は、広辞苑を開いて見 て、そして「道」と言う項目を見てみました。そうしましたら、道には下記のよ うにたくさん意味があります。即ち、1.道路、2.目的地に至る途中、3.み ちのり、4.道理、5.宗教における特定の教義、6.分別、7.てだて、8. 方面、9.足場。これだけ色々の意味があります。 今日私たちが目を止めたいのは、先程読みました、ヨハネの14:6のイエス様 が言われた、「私が道である。」と言うこのところであります。タイトルとして は、「私は道である。」としましたが、新改訳聖書はそのところを「私が道であ り、」とこう言うふうに訳しています。「は」と「が」の違いでありますけれど も、その違いは、この新改訳聖書の場合には、「が」と言う言葉を使うことで、 より強調している。 即ちこれまで、ずっと見て参りました「エゴ、エミ」、イエス様が「わたしが 何々である。」と主張、強調しておられる。あるいは更に、「わたしが唯一の道 である。」と言うような、そう言う意味合いにおいて、この新改訳聖書は「わた しが」と言うふうに強調していると言うことであります。 そのイエス様が敢えて強調しておられる意味合い、の「道」と言うことについ て、今日はご一緒に見て参りたいと思います。英語では、theがついて、「I am the way.」それは、ただ1つ、唯一、それこそが、と言う、そう言う 意味合いで使われていると思います。 このイエス様が「道」と言う時には、それはイエス様がその先に、こう言う言い 方をしているわけであります。「わたしを通してでなければ、だれひとり父のみ もとに来ることはありません。」と言う意味合いにおいて、「私が道である。」 と言うことを言っている訳であります。 「わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありませ ん。」父と言う言い方をしておりますが、即ちそれは神様へ至る道と言うことで あります。イエス様ははっきりと、「わたしを通して以外にはない。」とこう言 っているわけであります。そこにイエス様の大事な主張がある、と言うことであ ります。 でも、しばしばそう言う言い方をする時に、人は、私たちは、何か自分だけが正 しい、そう言う主張とか、独善的な言い方で、「それだけだ。」と言ったり、あ るいは、その裏返しの排他的、他を受け入れない、受け付けない、他は駄目、こ れだけだ。と言う意味合いで、何かそれを良しとしない、そう言うところが私た ちにあるのかなあ、と思います。 宗教と言うことで言うならば、それぞれに、さっきの教えの道、教義の道があっ て、それぞれが、自分の宗教、あるいは自分の信じる神の教えはこれであると言 う、それぞれの主張がありますけれども、でも同時に、そのような宗教、教えの 主張は持ちながら、でも同時に、特に、東洋あるいは日本の教えと言ったらいい でしょうか、それは多神教的な教えと言うことが出来ると思います。 同時に他を認めて行く生き方です。ですから、独自の教えを持ちながら、でも他 を受け入れて、そして、よく言い方としてこう言うふうに言います。「分け登る 麓の道は多けれど、同じ高嶺の月を見るかな。」とこうあるように、まあ1つの 山の富士山の頂上に行くには、たくさん登り道があって、決められた道だけでは なくして、自由にどこからでも登れる、と言うことであって。でもどこから登っ ても、行き着く頂上は1つ。行き着く宗教のその頂点は1つだ、と言う考え方と 言いましょうか、捉え方をするかなあ、と思います。 これは私たちも納得すると言いましょうか、そう言うことだろうなあ、と思うわ けであります。そして、それは「分け登る麓の道は多けれど、」と言う言い方 で、麓から登って行く、辿っていく道筋であるわけですが、それがたくさんあ る。それを、宗教哲学では、自然宗教と言う言い方をします。人が神様を求めて 行く、人が自分の信じるべきものは何であるかを求めて行く、とそう言う思考で あるわけであります。 それを、もう少し言えば、赤ちゃんとして人は生まれる、母親から生まれる。で も生まれ育って行った時に、誰しもが、親から生まれただけではない。人間は本 当はどこから来たのであろうか、やがてそれを考え、そしてどこに行くのだろう か。生きる目的って何だろう。生きるって何だろう。人間って何だろう、とこう 考える。 そう言うふうにして、私たちは誰しもが、どこから来てどこに行き、存在は何の 意味があるのか。生きていると言う意味は何だろうか、そう言う根底的な、誰し もが持つ探求心、宗教心、ということであります。そこを通って到達していった ところが、言うならば、「分け登る麓の道」誰しもにある、自然に神を求める 心、宗教心を持つと言うことであります。 そして、辿って行ったら、ある教えを通して、ある宗教を通して、ある宗派を通 して、そこに行く、と言う。どこから入っていっても、行き着くところは1つ だ、と言う見方であるわけであります。納得出来るところであります。でも、皆 さん聖書を見た時に、聖書が言うのは、違うのです。そして、先程言いました。 イエス様は全然違うのです。そうではない。 そうではない。唯一だ。とこうあります。ここでイエス様は「わたしを通してで なければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」こう言う言い方を しますから、何か排他的、独善的、と言うような思いを持ってしまうのでありま すけれども、でも、なぜイエス様がそれを言うのか、なぜそれを主張するのか。 そうでなければならない。なぜそう仰るのか、それには訳がある。それは、ヨハ ネの福音書の3章を一寸開いて頂きたいのですけれども、13節です。そこにこ うあります。
”ヨハネの福音書”
イエス様はこう仰いました。皆さん、簡潔ですけど、素晴らしい大事なことをこ こでは仰っているのです。だれも天に上った者はいません。「分け登る麓の道は 多けれど、同じ高嶺の月を見るかな。」高嶺、それはせいぜい山の頂上であっ て、エベレストのような高い山であったとしても、でも、地球の大きさから言う ならば、ほんのこぶでしかない程のそんな高さでしかない。まして、天に、どこ か分からない天に上れる人は誰もいない。そして、天から下った者はいます。す なわち人の子です。 人の子、即ちイエス様、この方は実は天から下ってきたのだ、と仰っています。 別のところで先程、招きの詞で言いましたけれども、ピリピ書の2章の6節を見 ますと、こうあります。
”ピリピ書”
キリストはあのクリスマスに誕生なさいました。でも、それは降誕だと言うこと であります。そして、それは神であられる方が、人の姿をとってこの地上に来ら れた姿である。しかも、それはキリストご自身が自ら選んで、自ら進んで降りて 来られた道だ。と言うことであります。即ち天から下って来た人の子キリスト、 この方だからこそ、「わたしを通してでなければ」と言うことが出来る。そし て、そのうしろから出た一本の道がある。 道を辿って行ったらたまたま、そこに行ったのではない。城がある、天がある。 源があって、そこから降って来たからこそ、そこに至ることが出来る、そこに戻 ることが出来る。それが「道」だ。だから、唯一であって、1つであって、他に はないのだ。イエス様が主張するのは、そこにあり、それが大切なことでありま す。 だからこそ、間違いのない道、安心することが出来る道であり、そして、辿るな らば、必ず行き着くところ。それがイエス様が言う「私が道である。」「わたし だけが道である。」と仰る主張であります。、しかし、それは単なる独善の主 張、排他の主張ではなくして、確信に満ちた、確信の上に立った主張である、と 言うことであります。ですから、大事なのです。しかし、もう1つのことが、そ こにはあります。そこに至る唯一の道でありますけれども、その道は十字架の道 でもある。 十字架を通してだけ、そこに至ることの出来る道だ。と言うことです。それもイ エス様が仰られる大事なところであり、そして、イエス様が、そのためにこそ、 来られたとも言っておられるところであります。 人は神にイエスキリストを通して、ただ1つ入ることの出来る道が、開かれたの でありますけれども、でも、そこに入るには、どうしても、十字架を通してでな ければ、入ることが出来ない。なぜならば、人間は罪人であるからだ。と言うこ とであります。 ローマ書の6章23節だけを一寸見てみたいのですけれども、そこにこうありま す。
”ローマ書”
とこう書いてあります。皆さん考えて見ても、この天国と言うところに誰も行け る。でも、その天国に行く人達が、みんな罪人であって、罪だらけであって、汚 れた者だけであったならば、その天国は、この地上と何が変わるでしょう。地上 が移されただけではないでしょうか。 もっと極端な言い方をするならば、罪がみんな持ち込まれたならば、そこは、イ クオール、地獄になってしまうではないでしょうか。天国が真に天国になるため には、そこには罪が処理されなければならない。罪が洗われなければならない。 罪が清められなければならない。汚れが取り除かれないで、そのまま行ったら何 になるでしょう。 イエス様は、その為にご自分が、十字架を通してだけ入ることの出来る道とし て、十字架の道を自ら辿られた。一寸画面を映して頂きたいのですけれど、皆さ ん、天国は、あの先にあります。天国はこの崖の、断崖絶壁の先にあって、そし て、そこが唯一渡ることの出来る道、それが十字架の道、これ以外にないので す。 この断崖絶壁は、何を意味しているでしょうか。「罪の支払う報酬は死です。」 これです。そしてまた、ヘブル人への手紙の9章27節には、
”ヘブル人への手紙”
これが神の定めだとあります。さばき、そうです、それは罪に対するさばき。で すから、罪を持っているものは、さばきの結果、死に、裁きの結果、滅び、永遠 の滅びでしかない。そして、その先、天国に行くには、この十字架を通る以外に ない。 イエス様はその為にこそ、十字架に掛かられました。むち打たれて、血を流し、 苦しいその中から、十字架上で先ず口を開いて言われたのが、「父よ、彼らを赦してやってください。彼ら、人々、罪人達をみんな赦してやってください。彼ら は、そのままで行ったら、滅びて行ってしまいますから。わたしが罪を負うかわ りに、彼らを赦してやってください。」 ですから、十字架上の7つの言葉の真ん中、中心、4番目の言葉にイエス様は叫 ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」「わが神、わが神、どうしてわたし をお見捨てになったのですか。」と、そう叫ばれました。即ちあなたの罪の身代 わりになって、裁かれたからこそ、その裁きが、どんなに恐ろしいものであるか を、イエス様のあの叫びの中に、私たちは知ることが出来ます。 でも、イエス様はそれを受けてくださったのです。受け切ってくださったので す。そして、唯一の天国に至る道、それを開いてくださいました。だからこそ、 「わたしが道、わたしこそが道、天国に行くことが出来る道、それはこの十字架 を通してである。」今日はもう一度イエス様が仰ってくださったこの道に真っ直 ぐに目を止めたいのです。イエス様が間違いないと言ってくださった、この道に こそ、目を止めて、そこに、私たちの身をおいて、そこに信頼して、信仰を持っ て歩んで行きたいのであります。 お祈りを致します。愛する天のお父さま、今日このようにして、イエス様が「わ たしが道だ。」と言ってくださいましたけれども、その唯一の道について、もう 一度、あなたがここに、その光りを当ててくださって、語ってくださったことを 覚えて、感謝致します。お1人お1人の内に、なお、あなたが届いてくださいま すように、この主に信頼することが出来るように顧みてください。尊いイエスキ リストの御名によってお祈り致します。アーメン! |