2001年8月12日 主日礼拝式
“ヨハネの福音書” 14章6節

「“わたしは真理である”」

“池田 博牧師” 宣教メッセージ

今朝のメッセージのみ言葉をお読み致します。今朝は ヨハネの福音書14章6節 です。新約聖書の191ページになります。先週も見たところです。

“ヨハネ”
14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。

ハイ。聖書はそこまでにいたします。

先週「わたしが道であり」と言うところを、ともにみ言葉から見たところでありました。今日はもう少し背景を見ながら、その次にイエス様は「真理であり」とこう言われました、その事に目をとめていきたいと思います。

1節から5節までをお読みいたします。

“ヨハネ”
14:1 あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。
14:2 わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。
14:3 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。
14:4 わたしの行く道はあなたがたも知っています。」
14:5 トマスはイエスに言った。「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」

今読みましたところで、特に目をとめてみたいところは、2節「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。」とイエス様がおっしゃった箇所です

イエス様はナザレに住んでおられて、父といえばヨセフ、母はマリアということです。そこがいわば実家であります。イエス様は弟子たちと一緒に旅をしながら伝道して歩いていました。ですから、定まった家や住まいは無かったわけです。そのようなことで、弟子たちの中に「定まった家でもあったら良いかな。」とどこかで密かに思ったかも知れません。

そんな事があってかどうか、「もっと緊張があったかな。」と思いますが、ここでイエス様は最後の晩餐の席ということもあって、弟子たちに「わたしの父の家には、住まいがたくさんありますよ。」とこう言いました。

でも弟子たちは、イエス様の実家があるナザレには、そんな大きな家は無いということを知っていました。それがどんな程度の物かは、聖書から読み取ることはできません。ただ、イエス様は弟子たちと一緒にペテロの家に行ったとか、マルコの家に行ったとかはあるのですが、自分の実家であるナザレに連れて行ったとは書かれておりません。ですから、ナザレの家はイエス様の家族が住むのがやっとというような貧しい家と言ったらよく、人を迎えて泊めさせる程の広さは全く無いことを知っていたと思います。

ですから、イエス様が「わたしの父の家には、住まいがたくさんある。」と言っているのは、弟子達は「ナザレのことでは無いだろう。」とわかりました。では、身近な感じでイエス様は話しているのだけれども、本当に言いたい事は、この地上のどこかではなく、天上・天国の事であろうと想像できるかと思います。

そして、これが天国のことであるとするならば、弟子たちは、「イエス様はすぐにでも行けるかのような言い方をしているが、果たして自分達のような者がそこにそれほど簡単に行けるだろうか。」

弟子たちは、イエス様の目から見て、自分達がどんなに足りない者、不信仰な者、失敗だらけの者であるとよくよく知っていましたから、そう簡単に天国に行けるはずもないであろう。でもイエス様はいとも簡単に行けるかのような言い方をしていて、しかも4節には、「わたしの行く道はあなたがたも知っています。」という言い方をしています。

ますます、わかりにくくなったかなというそういう中で、一番疑うことに速いトマスがこう言います。「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」

イエス様のおっしゃっている事は、わかるような、わからないような、近いような、でもやっぱり簡単なことではないと思います。「イエス様はどこにいらっしゃるのですか。」「その場所ってどこなのですか。」とこう聞いておられます。とても大事な質問かと思います。

すると、イエス様が答えられました。それが6節であります。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」とおっしゃいました。

1節から5節までのやり取りの流れからすれば、6節のこのイエス様の答えは単純に考えれば、「わたしが道であり」というそれだけの方がわかりやすいかなと思いませんか?「わたしが道であり、わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」といった方がわかりやすい気がします。

でも、あえてここで、イエス様は、「道であり、真理であり、いのちなのです。」と、もう2つ付け加えています。そこに、今日、私達が目をとめる大切な点があります。このことを先ず心にとめたいと思います。

「真理という言葉自体がなんとなくわかりにくいのかな。」と思います。でもイエス様はそう言っておられるし、聖書を見てまいりますと、真理という言葉はしばしば使われております。私は今日、この真理であるという事について、イエス様のこの言葉と、その前後関係や、真理という言葉そのものの意味も考えながら黙想させていただいて、そこから私自身が教えられたことをおわかちしたいと思います。

真理という言葉でありますが、これはギリシャ語の原語では「アレセイヤ」という言葉です。その「アレセイヤ」の直訳の意味は幾つかの内容がありまして、今日は2つの点で触れてみたいと思います。

まず第1の意味は、「偽りのない事実」ということが、原語そのままの意味であります。イエス様が語られた事は、「偽りの無い事実である、あるいは事実の裏づけをもってそう語っておられる。」という事です。

皆さん。「言行一致」と言いますが、それは言っている事とやっている事が一致するという事です。これは大事な事です。でも私達自身、なかなか言行一致できないものかなと思います。偉大な教祖にしろ、偉大な指導者にしろ、リーダーにしろ、「いい事を言っているけれども、やっている事はどうも言っているようにはやっていない。やっていることを見た時に、それは一致して欲しい。」と思ったりもするところであります。

なかなか、私達は言行一致にならない者であると思いますが、イエス様は真理であるという事は、すなわち、おっしゃっている事は行うことができる方です。ですから、おっしゃった事は、必ず100%その通りに行うことが、イエス様という事です。

その事について、イエス様ご自身の言動から、少し振り返ってみたいと思います。今14章を見ていますが、少し前の8章の45節と46節をお開き下さい。ここにイエス様がこうおっしゃっています。

“ヨハネ”
8:45 しかし、このわたしは真理を話しているために、あなたがたはわたしを信じません。
8:46 あなたがたのうちだれか、わたしに罪があると責める者がいますか。わたしが真理を話しているなら、なぜわたしを信じないのですか。

「わたしは真理を話しているために、あなたがたはわたしをを信じません。」とこう言われています。イエス様にとって、言行は常に一致しているわけです。その言行一致の中でとても大事なことでもある1つの事をイエス様はここで言っておられます。それは46節の前半、「あなたがたのうちだれか、わたしに罪があると責める者がいますか。」と言っておられます。

これは、すごいことですね。「私はこれまでの人生でどこかで人の悪口を言い、私が傷つけた、などということはありません。私が罪を犯したなんて、1度でもあったでしょうか。それを指摘してください。」こう私が言いましたら、皆さんはニヤニヤ笑って「何をおっしゃるのでしょうか。」といった感じですね。

私たちは誰でもそうですよね。「私の言動にそんなもう失敗などありえません。罪などありえません。」と言える人は誰一人いません。当然です。しかし、イエス様はそうではありません。「わたしの過去・現在を見て、誰がわたしに罪があると責められますか。責めることができる人はいますか。」とあえて問うことができたのです。

人々は、自分自身ができないで、やれない事ですから、やれない物差し、やれない価値観ですから、やれる人に対してそれを認めること自体、それ自体がもう考えの中にないわけであります。

ですから、真理を話しても、真理を提示しても、彼らは聞き様がない、受け止め様がありません。だから、「わたしが真理を話しているなら、なぜわたしを信じないのですか。」と言われざるをえない状況がそこにあるということです。

イエス様が楽しいことを言えば言うほど、人々はそこで混乱を生じていくという事です。もう少し、その事を別のところで見てみます。6章の51節から58節までを読ませていただきます。

“ヨハネ”
6:51 わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」
6:52 すると、ユダヤ人たちは、「この人は、どのようにしてその肉を私たちに与えて食べさせることができるのか。」と言って互いに議論し合った。
6:53 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。
6:54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
6:55 わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。
6:56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。
6:57 生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。
6:58 これは、天から下ってきたパンです。あなたがたの先祖が食べて死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」

イエス様は単刀直入にこうお話をされて、大切な真理を語って下さったのです。それを聞いた人々はどう反応したでしょうか。それは60節です。 「そこで、弟子たちのうちの多くの者が、これを聞いて言った。『これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。』」とこう反応したわけであります。

イエス様は真理を語りました。間違いの無い言葉を語られました。そしてそれを実行なさっておられます。けれども、人々はそれを聞いた時に「これはひどい言葉だ。そんなことをだれが聞いておられようか。」という反応なのです。

私も若い神学生の時に、時々公園などに行き、突然声をかけて聖書からお話をするという、伝道実践の場があったのですが、でも一つの忘れられない出来事がありました。その時、一人の人がとても気持ちよく、聞いてくれたのであります。話を聞いて、最後にこういう事を言うのです。「おー、キリストも結構ましな事を言うんだな。」こういう反応が返ってきたのです。

私はそれを聞いたとたんに、おもわず涙が出てきました。イエス様がご自分のいのちを賭けて十字架にそのいのちを渡し、私たちを救うためにいのちを賭けて下さった、そのキリストの言葉に対して、「おー、結構ましな事を言うではないか。」。そのようにしか伝わっていないそのことの悲しさでした。いや、そのようにしか伝えられない、私自身の貧しさに対して、私は涙したのでありました。

この素晴らしいイエス様を、唯一のイエス様を、救い主のイエス様を、いのちを賭けて下さったこのイエス様の愛を「おー、結構ましな事を言うではないか。」ーーー。ここでイエス様は、どれだけ真剣な思いでこれを語っておられるでしょうか。肉を裂き、血を流して、それを食べ、それを飲む者は、と言っておられて、それはまさに十字架を表しておられて、これを信じる時にのみ救われる唯一の道である、という事をどんなに思いを込めて語っておられるでしょうか。

しかし、聞く者の反応は「これはひどい言葉だ。」。私たちの心の反応でもあるだろうか、そんな事を深く心に留めさせたことでありました。

そしてさらに、ルカの福音書の23章をみてみたいと思います。33節以下をお読みいたします。

“ルカ”
23:33 「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。
23:34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。
23:35 民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」
23:36 兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出し、
23:37 「ユダヤ人の王なら、自分を救え。」と言った。
23:38 「これはユダヤ人の王。」と書いた札もイエスの頭上に掲げてあった。

十字架の場面です。磔(はりつけ)にされて、茨(いばら)の冠をかぶせられて、血が全身から流れている、槍が突き刺さってそこからも血が流れている、そんな中で、苦しみのその中で、痛みの極限の中で、主は「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」。わたしが代わりに彼らの罪を負います。わたしを裁くことで彼らをどうぞ赦してください。どうぞ赦してやって下さい。

イエス様の涙の祈り、愛の祈りでありました。でも、そこにいた群集は遠巻きにそれを見て、眺めて、そしてあざ笑っていました。そして、「自分を救ってみろ。」「人を救ったけれども、おまえは何だ。自分自身を救うことができない、そんな哀れな惨めな人間か。」「ここで最後の力を振り絞って自分を救ってみろ。」そういうあざ笑い、嘲笑の中にあったキリストでありました。

でも、たとえどんな嘲笑がそこにあろうとも、どんな嘲り(あざけり)があろうが、イエス様は、ご自身が真理として語ったことを最後まで実行なさいました。十字架にその身を渡すまで決して曲げられなかったのです。キリストの真実、キリストの偽りのない事実、これが今わたし達に突き付けられています。私たちの前に置かれています。あなたはそれをどう聞くでしょうか。

テモテ第2の手紙の2章13節には、「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。」とあります。私たちは不真実極まりない。私たちは「おー、結構いいことを言うじゃないか。」とあざ笑うようなそんな私たちでしかない。でも、キリストはそれゆえに自分の真実を決して曲げることができない。

キリストの真実。そしてそれはやがて、必ずや不真実な私たちの心を変えていきます。真実は不真実を必ずや払拭していく、変えていく、私たちを救わずにはおられず、その事を思わないではいられないのであります。

もう一つの面を見てみたいと思います。それは、この「アレセイヤ」というのは、迷いでない本当のこと、正真正銘のこと、という意味があります。

その事について、1つのみ言葉を中心に見てみたいと思います。それはテモテ第1の手紙の1章15節です。372ページになります。ここにこういう言葉が記されています

“テモテ T”
1:15 キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。

これはパウロという人の手紙の中の1節です。ここに「まことであり、」というのが同じ「アレセイヤ」という言葉であります。

「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」まずこの点に目をとめたいのです。キリストがこの地上に来られる目的は、罪人を救うため、とあります。私は改めて黙想した時に、「あー、これってすごいことだな。」と思わせられたことでありました。

皆さん、仮に天皇陛下とか総理大臣とか、そんな偉い人が何かをするという時に、世の中で良い事をしたとか、善行を積んだとか、業績を積んだとか、人達を表彰したり勲章をあげたりする時に、天皇陛下からもらう、総理大臣からもらうといったように、偉い人はそのようにあげるために、そこにあるというのが、一ついえるのかなと思います。

ところが、ここでキリストは王の王、神であられる方、でも、その方がこの地上に来た時には、罪人を救うために来た、と言っています。そこに私はとても心がとまったのでありました。そして、この言葉をここではっきりと言っているのがパウロです。それはパウロ自身が自分の体験の中で、自分とキリストとの出会いの中で発することが出来た言葉であった、ということです。

パウロという人は、その後にこう言います。「私はその罪人のかしらです。」と言っています。「彼はすごい人なのだな。」そんな感じです。「よほどの極悪非道な人間であった。世の中の悪いことをし尽くし、嘗め尽くし、これ以上ない極悪人であった。」といった感じです。

でも実は、パウロという人はそういう意味の極悪非道な犯罪者ではなかったのです。そうではなく、彼は宗教家でありました。しかも、宗教家の中の宗教家、パリサイ人、とっても厳格にその教えを守る人でありました。ピリピ人の手紙、3章を見るならば、「私は律法を行うことにおいて、欠けなく行っている。」と言っているのです。飛び切り彼は宗教に熱心な人であって、行動派であって、誰からも非難されない人でありました。そういう人物です。

しかし、そのパウロがここでこういう言葉をを発している、告白している、あるいは悔い改めをしているというところに、非常に心がとまるわけであります。それまで、誰の前に出ても絶対に引けをとらなかった人、誰に対しても一歩も二歩も抜きん出ていた、パウロでありました。

しかし、そのパウロがキリストの前に出た時に、そして復活の奇蹟に出会った時に、彼は一瞬の内にわかったのでした。一瞬の内に、彼の心に悟りが来たのでありました。彼は自分の心がどんなに正しいことを正しいとしてやり抜いて来たがこそ、驕りたかぶったものであるか、人を見下す傲慢な人間であったか、そして心の中にいかに人を軽蔑している者で、そして心はドロドロとしている、そんなものでしかない、という事であります。

そして、パウロはその自分のドロドロした心の姿を見た時に、その状態はこの世の中でどんな犯罪を犯した、どんな極悪非道なその罪よりもはるかに自分は罪深い人間である、とそう言わないではおられない彼の心の変化を見ました。ですから、彼はもうどうしようもない自分の罪の醜さの前に泣き伏し、「ああ、悩める人なるかな、この死の体、この罪の体から誰が救ってくれるのでしょうか。」彼はそう叫んだのでありました。

キリストに出会うということはそういう事であり、復活のキリストは私たちの心そのものに照らします。そして、その罪人を救うためにキリストは来て下さいました。そんな私のためにキリストは来て下さいました。

パウロの告白、パウロの悔い改めの告白がここにあります。そして、キリストは正真正銘、このためにこそ来て下さいました。それは彼の心を捉えずにはいられませんでした。彼の心を扱わずにはおられなかったのです。彼の心を開放せずにはおられなかったのです。そんな出来事でありました。真理の道。私たちはまことに真理の道へと導く、まさにこれが主の業であるという事を覚えるのであります。

この度、MSFで浜松に行ってまいりました。その中で、二日目の午後に、私たちは何人かで聖隷福祉事業団の幾つかを見てまいりました。それはそれは素晴らしい働きであるということを、本当に感動と驚きをもって見させていただきました。

大きな病院があって、さらには介護センターもあって、あるいは、また日本で最初に始めたというホスピスの病棟もあり、看護学校看護大学もあり、老人ホーム「エデンの園」があって、その「エデンの園」をつぶさに見させていただいたのですが、一つ一つが「こんなに行き届いてできているのだなー。」と感じました。それが1大センターとなって、何万坪という土地の中にそれが出来ています。働いている人々は、7000人を超えているとの事でした。驚きました。

しかし、私の驚きはそこにあったのではなくして、その働きが一人の人の信仰と祈りから始まった事を知ったのでありました。長谷川保という人でありましたけれども、この人は貧しい家に生まれて、志を立てて、「日本を飛び出して、移民となってブラジルに渡り、野心を成し遂げて、日本にまた戻って来たい。」と浜松を出て、東京にやって来ました。

その訓練センターに行きました。そこは教会が運営しているセンターでありました。ところが、そこで長谷川保は内村鑑三に出会い、そして内村鑑三の一冊の本「来世と復活」に出会いました。その本を読んだ後、長谷川保の中に光が差し込んできます。「この地上のどんな醜い悲惨な状態があったとしても、キリスト・イエスが十字架に架かって死んで復活してくださった事の故に、私たち人類には希望があたえられている。キリストの十字架と復活こそが人類に与えられた最大の希望である。」とう一文に出会った時に、長谷川保は心躍ります。

そして、浜松に帰っていき、大正10年の9月の第1主日の礼拝の中で聖霊が彼の心を捉えていきます。「このために自分は生涯仕えていきたい。」。聖なる神に仕える奴隷という意味で聖隷福祉事業団というのを、やがて作っていくわけであります。

その初めは、数人のクリスチャンと共に長谷川保を中心に、当時1人の結核患者で、誰からも省りみられないで、死を待つだけの辛い悲しい中にある一人を、面倒を見るところから始まっています。やがてその志が多くの人々の感動を呼んでいき、その働きが広がっていき、今日のこの大きな事業になってきたのであります。

70年の歴史の中に積み重ねられて来たということでありました。一人の人のイエス・キリストとの出会い、一人の人の十字架による救いの業は、その生涯を通してどれほどの事を成していくのでしょうか、改めて心にとめさせられたことであります。

この朝、一人一人、私たち誰一人例外なく、このキリストの愛に出会い、この十字架と復活の恵みに出会った時に、あなたは変えられる、あなたの人生は神様の栄光を表すことのできるものへと、変えられていくのであります。

キリストは、その真理の道を私たちに示してくださいました。言葉と真実な行いの中で、今日もあなたの心に主は語りかけ、あなたを導こうとしておられるのです。その主を見上げたいのです。


お祈りをいたします。
愛する天のお父様。感謝いたします。このようにして今日又あなたが私たち一人一人に語り、一人一人にお住まい下さったことを感謝します。どうぞ主が一人一人のその心と人生とをしっかりと支え導いてくださいますように。「わたしが道である。真理である。」と言われるあなたの道に委ねきることの出来る者として下さい。尊い救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。
アーメン!