| 2001年8月26日 主日礼拝式 “イザヤ書” 9章6〜7節 「“万軍の主の熱心”」 “池田 恵賜師” 宣教メッセージ |
| 共に聖書を見たいと思います。聖書は イザヤ書9章6節から7節
です。旧約聖書の1045ページになります。 “イザヤ”
今日はこの処から、万軍の主の熱心ということを共に見ていきたいと思います。先ず初めに、私たちは「神様は私たちの事を真剣に愛しておられる。」という事をこの処から見ていきたいと思います。 私たちは神によって造られれた存在です。しかし神様から叛く道を、神様の言われたことを守らずに歩んでしまった故に、神様から引き離されて生きている状態です。神様が目的を持って、私たち一人一人を造られたのに、私たちはその造られた方から離れている、ですから、私たちは生きている目的が判らずに悩んでしまう。 また、上手くいっている時は良いのですが、何か物事が上手くいかなくなっていくと、人生に対して悩みを覚えたり、「何で自分はいきているのだろうか。」という事が判らなくなる。それは、私たちが造られた方のところに帰る時に初めて判ることであります。罪を犯して、神様から離された状態、罪人の状態になっているわけです。 「神様がどれほど私たちのことを愛しておられるのか。」ということを考える時、私たちは「私たちがどれほど罪深いか、神様からかけ離れた存在であるか。」ということを知らなくてはいけません。 「私は今まで1回も罪を犯したことがない。」「多少は有るかもしれないが、他人の目の前を歩けなくなるような、そんなまねをしたことがない。」という風に言われる方も中には居るかも知れません。でも、神様がもし私たちの真の全てを見せられたとすれば、どうでしょうか。 神学の時代に律法学者とパリサイ人達が姦淫の場で捕らえられた女をイエス様の下に連れて来ました。[イエス様。この女は姦淫の場で捕らえられた女です。モーゼはこのような女を石打ちの刑にするように、殺すように定めています。あなたはどうしますか。」と言われました。 イエス様はこのように答えられました。「あなた方の中で罪のない者が初めに彼女に石を投げなさい。」。そのように語られると、彼らは年長の者から順番にその場を去っていったと有ります。 私たちは年をとれば、その分人生経験が豊になり、物事をきちんと見分けることが出来るようになって、だんだん罪を犯さなくなるのではないか、だんだん人間良くなるのではないか。そのように思うわけですが、現実はそうではない。年をとるにつれて、年齢を重ねる度に、かえって自分がどんなに罪深い者か、願っている善を行うことが出来ずに、悪を行っているか。 神様が、もし、私たちの目に見える罪だけでなく、心の中の思いまで見せられたとしたらどうでしょうか。もし、神様が私たちが今までに傷つけた人たち全ての声を聞かせたとしたらどうでしょうか。誰がそのような状態の中に有って自分の罪と向き合うことができるでしょうか。 私たちは人の罪を担うことも人の罪を裁くことも出来ない。自分で自分の罪をどうしようもない、持て余してしまうような状況にある。「私はあなたの罪も負って上げましょう。」と言うことは出来ないのです。 神様は私たち人間を神と交わりを持てる存在として造られました。しかし人間が罪を犯してしまって、神様から引き離されてしまった。罪を持つ存在を神の内に留めておくことは出来ません。神様は聖なるお方ですから、不正を容れることはできないからです。 じゃー、神様にはこのような方法もあったと思います。「折角人間を造ったけれども、わたしと交わりを持つ存在として造ったのだけれども、彼らは罪を犯してわたしとの交わりを持なくなってしまった。だから、この人類を一旦滅ぼしてしまえばいいんじゃないか。そして、もう一回新しい人を造って、完全な人を造って、その人たちと交わりを持てるようになれば。」 もし、神様がそのようにして人を滅ぼされたとしても、私たち人間は神様に対して何も文句をいえる存在ではない。なぜなら、私たちが自ら罪を犯してしまったから。そしてまた、神様は私たちを造られた創造主であって、私たちは被造物である。その主従関係が有るわけですから、決して神様に文句を言えない。 でも、神様はそのような方法を採られなかった。人が罪を犯した時に、人が神様から引き離された時に、神様は或る一つの別の方法を採られた。それは、神の一人子を彼らの罪の犠牲として地上に送り、彼らの罪を担って、十字架の上で神の裁きを身代わりとなって受けるというものでした。 神様は罪人に対して、この罪人を滅ぼさずにかえって罪人に対して愛を示して下さいました。私は思うのです。天でのイエス様と神様との会話を。 神様がイエス様の前に立って「イエスよ。私が造ったこの人間は罪を犯してしまった、わたしから離れてしまった。わたしの愛の対象として造ったんだけれど、彼らはそれに叛いてしまった。だから、今もう、わたしは彼らをどんなに愛しても彼らをこの胸に抱くことが出来ない。 でも、イエスよ、知って欲しい。わたしは彼らを本当に愛しているのだ。罪を犯してしまったけれども、もう一度彼らをこの胸に抱きたいのだ。だから、イエスよ、あなたは地上に行って、彼らの犯してしまった罪の身代わりとなって、わたしからの裁きを受けてくれないか。それで、あなたによって、あなたを通して来た人々をわたしはもう一度この胸に抱くことが出来る。」そのように語ったのではないでしょうか。 イエス様はそれを聞いて「いやとんでもないです。神様。わたしは今此処で、天においてあなたの傍で何不自由ない歩みをしています。ここには素晴らしい栄光があります。わたしはそれらを捨てたくありません。あの人たちとわたしに何の拘わりが有りますか。何でわたしが地上に行って、神からの裁きを受けなければいけないのですか。」 イエス様がもしそのように答えたとしても、私たちは、先ほど言いましたように、イエス様にも文句を言うことは出来ません。でもイエス様はそのように言われなかった。 神様からそのように語りかけられた時に、「判りました。神様。あなたがこの人間を愛しておられるように、わたしも彼らを愛しています。だから、わたしが行って、彼らの罪の身代わりとなって、あなたからの裁きを受けますから、だから神様、わたしを通して来た人たちを赦して下さい、裁かないで下さい。わたしは喜んで行きますから。彼らの罪の身代わりとなりますから。」イエス様はそのように答えて下さった。 そして、この地上に降りてきて下さった。イエス様がこの地上に降りて、どのような歩みをなされたかは聖書に書かれています。人々に馬鹿にされ、唾をかけられ、鞭打たれて、また裏切られて、茨の冠をかぶせられて、その生涯の最後には信頼していた弟子達から裏切られ、その両手両足に釘を打たれて、十字架の上で死ななければならなかった。 イエス様が馬鹿にされていた時に、馬鹿にした人々を裁く事も出来た。イエス様が唾を吐きかけられた時に、その相手を瞬時にして滅ぼすことが出来た。でも、イエス様はそのことをされなかった。それは何故ですか。イエス様がその顔に唾をかけられた時に、イエス様は私を愛するが故に、私への愛の故に、その屈辱に耐えてくださった。 イエス様が背中に鞭打たれて痛みが走るその時に、イエス様は私を愛するが故にその痛みに耐えて下さった。聖書のピリピ書にはこのように書かれています。 “ピリピ”
キリストは人としての性質を持って現れ、自分を卑しくしたとあります。誰が自分に向かって罪を犯した者、自分を裏切った者のために自分を卑しくしてまで仕える事が出来るでしょうか。愛を示すことが出来るでしょうか。自分に唾を吐きかけた相手にどうして我慢することが出来るでしょうか。それは私を愛して下さったその愛の故であるということです。 神様は私たちのことを真剣に愛しておられました。イエス様も私たちのことを真剣に愛しておられました。私たちの常識からするならば、そんなことは考えられないことであった。理に合わないことであった。でも、理に合わないことであろうが何であろうが、神様の私たちへの愛はそれ程に大きかった。 このイザヤ書の言葉に戻りたいと思います。7節の最後にこのような言葉があります。「万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」一人のみどり児が私たちのために生まれる。神が人となってこの地上に私たちを救うために来られる。こんなことは考えられない事でした。いまだかって有り得ない事でした。不可能な事でした。 でも、神はその不可能な壁を打ち破って下さった。何故ですか。万軍の主の熱心がこれを成し遂げた。イエス様が罪人の身代わりとなって、十字架の上で死んで下さった。そんなことは考えられないことだった。神が人の身代わりとなって死ぬ、そんなことは不可能なことだ。でも、イエス様はその不可能の壁を打ち破って下さった。 何故ですか、それは。万軍の主の熱心がこれを成し遂げた。皆さん、神様の内には熱い心がある。イエス様の内にも熱い心があるのです。そして、その熱心が不可能さえ打ち破って私たちを救い出して下さった。神様はそれほどまでに、私たち一人一人を愛しておられた。神様はただ天の高いところにおられて、私たちは罪を犯してしまった、もうしようがないと言って、諦めて放って置かれる方ではない。 神様は「罪を犯してしまった、でも私は彼らを愛する。」と言って、その愛を実行して下さって、不可能の壁を打ち破ってくださって、私たちに救いの道を開いて下さる。 万軍の主の熱心がこれを成し遂げたのです。 私たちの内にもその主の熱心が注がれています。神を愛する人々へ。神様は私たちを救うために全ての物を投げ出して下さいました。イエス様は天での栄光の全てをかなぐり捨てて、この地上に降りて来て下さいました。 今、わたし達の内に悩みが有るでしょうか、問題が有るでしょうか。どうかこれらをイエス様の前に持ち出してください。イエス様はあなたをいにちをかけて、いのちを捨てられる程に愛しておられます。その主が必ず私たちの問題にも解決を与えて下さいます。私たちが苦しんでいるのを神様は見るに忍びない、私たちをどうにかして助けようと神様は働いておられる。 もし、私たちが神に向かって祈るならば、神はすぐにでもその祈りを聞いて、私たちの所に来て下さいます。たとえそれが私たちの目から不可能に見えたとしても、こんな事は起こり得ない、もう絶望だと思える状況だったとしても、でも、皆さん、万軍の主の熱心はこれを成し遂げるのです。 神の前に、神にとって不可能なことは何一つ無いと、その主に信頼していきたいと思います。 そしてもう一つの事を私はおわかちしたいのです。その主の愛が注がれている者として、皆さんどうでしょうか、自分の心の中に主の熱心が有るでしょうか。神様は私たちを救うために、イエス様は私たちを救うために、馬鹿にされても私たちへの愛を実行して下さった。私たちを救うために全ての物を捨てて、全ての困難に耐えて、侮辱に耐えて私たちの救いを成し遂げて下さった。 その主の熱心が注がれています。どうでしょうか。滅び行く魂のために、皆さんどれほどの熱心を持っておられるでしょうか。未だ主を知らないで苦しみの中に居る家族、友人、同僚、そのような人のためにどれだけ涙して祈ったことが有るでしょうか。イエス様は天での栄光を全て捨てて、この地上に来られました。 未練を持って、なかなかそれが捨てられないというのではない。私を愛する故に、私を救いたい故に握っている物、持っている物全てを犠牲にして、私たちの救いを成し遂げて下さった。私たちは握り締めている物はないでしょうか。魂の救いのために、滅びゆく人々のために、何かを犠牲にしたことがあるでしょうか。 皆さん、イエス様はそのような道を辿られたのですから、私たちもそのような道を辿らなければいけない。私たちは自分が救われたというところで満足してしまってはいけないと思うのです。流れのない水は腐っていきます。しかし、流れがある処には、そこにいのちが宿ります。 私たちが神の愛を流していく時に、私たちが主の熱心をもって滅びゆく魂のために何かを犠牲にしていく時に、神様は上から私たちに新しい力と新しい愛を注いで下さいます。もし、「私のクリスチャン生活は何かぱっとしないな。もっと生き生きとした喜びに満ち溢れた生活を送りたいな。」そのように思っている方々がおられたら是非未だ神の愛を知らない人々へ神様の愛を伝えてみて下さい。 私たちが流していく時に神様は上から新しく私たちを満たして下さいます。もし、私たちが同じ処に留まっているならば、神様はそれ以上私たちに注ぐことが出来ない。 もう一箇所聖書を開きたいと思います。出エジプト記32章の30節から見たいと思います。旧約聖書141ページになります。 “出エジプト記”
モーセはシナイ山で神と語った後に、シナイ山を降りて行ったときに、信じられない光景を目にしました。今の今まで神様を体験して、神様を褒め称えていたイスラエルの民が何と金の仔牛を作って、偶像礼拝をしているではありませんか。すぐ横のシナイ山で神の栄光が現れて、神とモーセが語っているにも拘わらず、イスラエルの人々は偶像礼拝をしていた。 モーセは愕然としました。しかしモーセは気を取り直して神の前にとりなしをしました。「ああ、この民は大きな罪を犯してしまいました。自分たちのために金の神を造ったのです。今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものなら「「。しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください。」 モーセの心の内には主の熱心が有りました、万軍の主の熱心が有りました。イエス様の内に有ったその熱い思いが有りました。だから、「もしお赦し下さらないなら私の名をあなたのいのちの書から消し去ってください。でも、その代わりに、イスラエルの民を滅ぼさないでください。救って下さい。」自らを犠牲にしても彼らを救いたいという思い、これは神の内にある思いです。 この主の熱心を持ったモーセの祈りに神は応えられました。詩篇の106編23節にはこの時の事がこのように書かれています。「それゆえ、神は、「彼らを滅ぼす。」と言われた。もし、神に選ばれた人モーセが、滅ぼそうとする激しい憤りを避けるために、御前の破れに立たなかったなら、どうなっていたことか。」 モーセのとりなしを神様は聞かれた。何故ですか。モーセが主の熱心を持っていたからです。 皆さんの中に滅びゆく魂への熱心があるでしょうか。私たちは主のその愛を、熱心を注がれた者としてその愛を、熱心を流していく者にならなくてはいけません。モーセは主の愛を流すことが出来るようになるために40年間の訓練を経ました。ヤコブは20年間主の器として働くために必要な訓練を受けました。ヨセフは13年間神の前に忍耐を、訓練の時を通りました。パウロは3年間アラビアに退いて神からの訓練を受けました。 私たちはそのままの状態では主の愛を流していくことは出来ない。私たちは神から訓練を受けなければ、私たちの内に与えられている主の熱心が、神に用いられていくためには訓練を受けなければいけない。「でも主の故に、主が此処まで私を愛して下さったが故に、私は喜んで神様の訓練を受けます。」今、そのような若者達が興されてきています。 また、私たちは主の愛を流すために犠牲を払わなければいけない。イエス様が天での栄光全て捨てられて、そして丸裸になって、私たちの救いを成し遂げてくださいました。私たちも滅びゆく魂のために何か犠牲にしなければいけない。時間でしょうか、自分に与えられている能力でしょうか、お金でしょうか。もし私たちがそれらの物を握り締めているならば、神様は私たちを通して働くことは出来ません。 でも、神が故に、神がこんなにも私を愛して下さったから、主よあなたのみ手に、私はこれらを捧げます。そのようにして、握り締めていた物を手放すならば、神の愛は私たちを通して流れていきます。神の熱心は私たちの祈りを聞いて下さいます。そして、そのような一人一人を通して神様は働いてくださいます。 そのような人を通してその人の家族が救われていきます。神の愛が流れていくからです。そのような人々を通して地域が変えられていきます。その人の内に主の熱心が与えられるからです。皆、神様の前に、神がどれほど私たちを愛してくださっているのか、またその主の愛をどのような形で私は流していくことが出来るのだろうか、共に主の前に聞きたいと思います。 しばらくの間お祈りの時を持ちたいと思います。どうかご起立くださって、神様の前に立って、神の声を聞く時を持ちたいと思います。 神様は私たちの心をご覧なさっています。いま、一人一人周りの人は関係有りません。神様と私です。その神様に向かって私たちの心の内を打ち明けていきたい。私も主の熱心を頂いて、魂に仕えていきたい。私の今まで握り締めていた物を主よあなたの元に捧げます。イエス様が全ての物をかなぐり捨てて下さったように、私もそのような歩みをしたいです。そのように願う方はこのように祈って頂きたいと思います。 しばらくの間、共に祈りましょうーーーーーーーー 愛する主よ感謝いたします。あなたが私たち一人一人に語って下さった事を感謝いたします。あなたの愛が注がれています。本当の愛が注がれています。決して裏切ることの無い、唯一私たちが信頼することの出来る愛が注がれています。今どうかあなたご自身がこの処に現して下さい。今御前に集っている一人一人に主よあなたが現れてください。そしてあなたがどんなに素晴らしい愛をもって私たちを愛しておられるか知ることが出来ますように導いて下さい。主よ感謝いたします。 今皆さんそれぞれ、目を閉じて頂いて、心の内に神様を迎え入れて頂きたいと思います。イエス様は私たち一人一人に目を留めて下さっています。私たちはやがて神の前に立つ時が来ます。神様と1対1で向き合う時が来ます。皆さんの中でもし未だイエス様を迎え入れてない方がおられましたらどうか心に迎え入れて頂きたいと思います。 私たちが神の前に立った時誰も私たちを助ける事の出来る人は居ません。あなたを愛する存在で有ったとしても、あなたの愛するお父さんお母さんであったとしても、ご主人や奥さんであったとしても、子供であったとしても、誰も神様とあなたの間に立ちはだかることの出来る人はいません。皆が罪を持っているからです。 でも、たった一人、私たちが神の裁きの座に立つ時、神と私たちの間に立って下さるお方がいます。それは私たちのために十字架にかかって下さったイエス・キリストです。もし「あー、今私が神の前に立ったら辛いなー。あの事を責められたら。私の罪を示されたらどうしよう。」そのように思っておられる方がいるとしたら、どうか今、イエス様の愛を受け容れて頂きたいと思います。 ただいま、神様の前に一人一人目を閉じて頂いて、神様と私です。周りの人は関係ありません。「私もイエス様に助けて頂きたい。イエス様の愛を受けていきたい。」そのように願う方がいるのでしたら、神様の前に手を挙げて示して頂きたいと思います。神様は私たちの信仰による行動を大切に見て下さっています。 もう一つ、クリスチャンの方々に聞きたいと思います。「私も神の愛を流す者となりたい。神に用いて頂きたい。」そのように願う方がいるでしょうか。犠牲があるかもしれません。神の訓練期間を経るかもしれません。でも、「私を通して神様が働いて欲しい。神に用いられる者となりたい。」そう願う方がおられるでしょうか。手を挙げて示して頂きたいと思います。 神様は一人一人の信仰の行動を見て下さっています。「私を通して家族が救われて欲しい。私の故にあの友人が、この友人が救われていって欲しい。私の故に地域が変えられて欲しい。」そのように願う方はおられるでしょうか。 今手を挙げられた一人一人のためにお祈りをしたいと思います。 たとえ、自らが犠牲になろうとも、私たちを救うために全ての物を投げ出して愛を示して下さいました。私たちもその愛を受けた者としてその愛を流すことの出来る者になりたいと願います。どうか今、手を挙げられました一人一人の内に臨んで下さい。 またイエス様を心に迎え入れられた一人一人を内に包んで下さい。その生活を、その歩みを新しく作り変えて下さいますよう、そして私たちの人生を通してあなたのみ名があがめられますように。又、その故に家族が救われます。又、その故に地域が変えられていきます。わたしのあの友人が、この友人が救われていきます。主よ。そのために私を用いてください。 主よ。感謝いたします。どうか今、一人一人の内にあなたが届いて下さいますように。感謝致します。今しばらくの間それぞれの言葉で神様を賛美し、神の前に祈りの時を持ちたいと思います。ーーーーーーーーーー |