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2001年9月2日 主日礼拝式 「ヨハネ14:6」 「わたしはいのちである。」 池田 博牧師:宣教メッセージ |
今週のみことばは、ヨハネの福音書14章6節新約聖書の191ページにな
ります。
ハイ、み言葉は以上です。今日はこのところから、「わたしはいのちである。」 と言うところを見てみたいと思いますけれども、「ヌーチル タカラ ドウ」こ れはヘブル語ではありません。ギリシャ語でもありません。これは沖縄の言葉で あります。今、皆さん大変評判な朝のドラマ、「ちゅらさん」、皆さん見ていま すね。沖縄のことばです。家内の故郷です。 「ヌーチル タカラ ドウ」これは主人公のおばあが、時々言っている言葉で す。 「ヌーチ」と言うのは、いのちと言うことです。「ヌーチル タカラ ドウ」と 言うのは、「いのちこそ宝なんだよ。」と言うことなのです。とても短い単純な 言葉でありますけれども、でもなにか、味わいのある言葉、大切なことを言い得 ている言葉だなあと思います。 イエス様が「わたしはいのちである。」と、こう言われました。「エゴ エニ ゾーエ」イエス様は「わたしだけがいのちである。」そして「わたしは唯一のあ るいはいのちの源なのです。」「いのちを与えるものです。」とそう言われた。 今日は、その「わたしはいのちである。」と言うことについて、ご一緒に見て参 りたいと思っております。 イエス様はそのことを言うに当たって、ここに「わたしが道であり、真理であ り、いのちなのです。」と言う三重の言葉、重ねてそう言うことによって、1つ 1つも大事であり、また重ねて言うことによって、その意味を更に深めていると 言うふうに取ることが出来ます。 皆さん道と言うのは、どこかに行くためにある道筋であります。どこかに行くに は、必ず道が必要、道を通って目的地に行くと言うことであります。しかし、イ エス様が「わたしが道」と言う時には、どこにでも行く道を意味しているのでは なくして、イエス様が言っておられる道は、THE WAY 1つの道、それ以外ない、 たった1つの道と言う意味で「わたしが道だ。」と言われました。 そして、そのたった1つの道、どこに行く道、それは、父なる神に至る道。ただ 神に至る道とは言っていないのです。イエス様にとって神は漠然としたお方では ない。遠い、近づき難い、聖なるお方ではない。いや、そうでありつつ、それだ けでなくして、イエス様に取っては親しいアバ父、お父ちゃんと言えるそういう 父、そう言う神様で、その神様に至る道です。 その神様に至る私は、唯一の道なのですよ、と言われたのであります。イエス様 は私たちに対してそう言ってくださっている。イエス様は決して私たち、あなた はどこにいきたいのですか、わたしはあなたの行きたいところに連れて行ってあ げます。私たちの自由意志、私たちが何かしたいと言うその自由意志にイエス様 は、それについて道を示すというのではない。 あなた方に取って、たった1つの道を示そう。しかし、そのたった1つの道は最 も大事な道、それ以外の道を全部失っても、それだけでいい道。それが、わたし があなた方に与えようと言う道ですよ、と言われた。ですから、大事な道。心に 止めなければならない道、と言うことです。 そして、イエス様はさらに、真理である、と言われた。それは真理の道だ。それ も見ましたけれども、それは、偽りのない事実の道であると言うことでありま す。或いは正真正銘の道であると言うことなのです。真理、偽りのない事実とし て私たちに示された唯一の道はこれですよ、と言われました。そして、今日のと ころ、3番目に、いのちなのです。と、こういわれた。 そこには、もう1つ大事な、重ねての深い意味があるということであります。 道、それは、いのちの道です。皆さん、いのちは私たちに取って、なくてはなら ないものです。いのち、それは私たちを生かすものです。いのちがなければ、私 たちは存在そのものがない。私たちを生かすいのち、その私たちを生かす道、い のちの道がイエス様によって示されたのです。 イエス様は真理の道と言う時に、それは決して単なる観念の世界の道ではない。 あるいは単なる真理、宗教的な、あるいは哲学的な、そう言う悟りの世界のよう な、そう言う道ではなくして、わたしがあなた方に示そうとしているのは、そこ から、本物のいのちを得ることの出来る道であり、あるいは、いのちに至る道で ある。 そのようにして、イエス様はここに、道、真理、いのちと言うこの三重重ねの中 に、とても大切なことを語っておられるわけであります。そう言う大切ないのち と言うことについて、今日はご一緒に考えていきたいと思います。 でも、皆さん、いのちと言うことでありますけれども、大切である、文字通り、 いのちは宝だと言うことであります。でも、今日私たちは、そのいのちが宝であ る、と言うことについて、いや、決してそうではないなあ。そう言う現実、社会 の現象、価値観の変動、そして、人がどんなにか、この宝であるいのちを軽く考 えていると言いましょうか。そして、何とそれを粗末にしているか、そんな現実 を様々なニュースを通して知らされることもそうであります。 そして、人ごとでなくして、自分自身の中にも時として、様々な試練や困難に直 面した時に、自分は生きていて何の意味があるのだろうか、生きていたって、し ょうがないじやないか、こんなことなら、むしろ死んでしまった方がいい。そん なふうに追いつめられた中で考えてしまう、そう言う、私たちの心も否定出来な い。 どうでしょうか、大切ないのち、でも、あまりにも、それが粗末にされようとし ている。 そう言う現実。そして、そこにはいのちは自分のものだから、自分がどうしょう と、それは自由勝手だ。自分のいのちなのだから、生きる価値がないと思った ら、自分でそれを絶つてしまってもいいではないか。そんなふうに思ってしまい 易い、そんな現実も一杯あるように思います。そんな中で死を選ぶことがしばし ばある。 そしてまた、今はゲームの時代です。あるいはゲーム感覚そのものを考える時代 であると思います。毎週毎週、様々なドラマが、アニメのドラマがありますけれ ども、以前の統計では、毎週500回以上は死の現象があると言うことです。そ う言う中にゲームに巻き込まれている、それに夢中になっていた時に、死とか言 うものが、最早壁がなくなってしまって、死んだと思ったら、また生きて、何度 でも死んで、何度でも生きて、と言うような感じでもって、何か、死と生が交錯 してしまって、そして、何か死と言う感覚が薄れてしまうと言うこともあるのか なあ、と思います。 そう言う中にあって、特に若い人達の中には、何かこういのちの尊さと言うこと がとっても軽く見られている。いのちの電話相談と言うのがありますけれども、 でも、このいのちの電話の殆どの相談は、死に対する相談だと言います。どう生 きたらいいのでしょうか、どのように生きるべきなのでしょうか、と言う積極的 な生き方への相談は、少ないと言う。 なぜ、大事な宝である筈のいのちが、こうまでも、粗末に軽く考えられてしまう のでしょうか。それは、いのちに対する正しい認識、理解がないと言うところか ら来ているのかなあと思います。 聖書は、そのいのちについて、大切な光りを私たちに照らしてくださっているの です。そこに少し目を止めてみたいと思います。この聖書を見て参りますと、イ エス様は、わたしはいのちである。と言われました。わたしがいのちだ、いのち の源だ、いのちの付与者だ、と言われました。人間が最初に神様から創造された 時に、こう言うふうに言われているのがあります。創世記の2章の7節にこうあ ります。
"創世記2章7節"
こう書いてあります。ここに2つのことがあります。1つは人間は土地のちりで 造られた。けれども、その土から造られた人間に神様が、その鼻にいのちの息を 吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。とこう書いてあります。ここ でいのちが神様から与えられたものであることが分かります。 その人固有のものでありつつ、でもそれは神様から与えられたもの。神様がその 人の内に吹き込まれたものだと言うことが分かります。ですから、私たちは本来 的に、いのちは神様から与えられましたから、神様によってそれは支えられ、神 様によって生かされているものだと言うことが本来的に教えられていることであ ります。 今度はイエス様がマタイの福音書の4章の4節にこう言うふうに言っておりま す。
”マタイの福音書”
とこう言われています。まず前半に、人はパンだけで生きるのではない。と言う 言い方がなされております。これはパンはどうでもいい、と言うことを言ってい るのではない。パンも大事です。パンがなければ人は生きられないわけです。イ エス様も2節を見てください。40日間の断食をした時に、空腹を覚えられた。 イエス様だから、空腹なんか無縁だと思ったら、そうではなかった。イエス様も お腹が空いたと言うのです。 だから、食べたい気持を何とサタンは察知して、だったら、イエス様、そこにあ る石ころをパンに変えて食べたらどうですか、とこう言って来たわけです。イエ ス様も食べたい気持はあったわけです。そしてまた、人間はパンがなければ生き られない、のも事実であります。絶対にあるべきもの、と言うわけであります が、でも、知って頂きたい。大事なパンが、生きるのに絶対に欠かしてはならな いパンでありますけれども、でも、知りなさい。そのパンよりも、もっと大事な ことがあります。それは神様との交わりです。神様から頂く心の糧です。神様か ら与えられる1つ1つのいのちの言葉です。 それが大切なのだ。神様からまず付与されたいのちは、神様によって生かされて 行くのです。そこに、言うならば、栄養が与えられていくのです。だから、私た ちは何よりもまずパンに依存する以前に、神様に依存する存在として、神様は私 たちを造ってくださった。 この先に山上の垂訓がありますけれども、そこに一寸触れて見ますと、6章のと ころでありますけれども、25/26節を一寸読んで見ますと、
”マタイの福音書”
次のページ、有名な33節は、
”マタイの福音書”
と、簡潔で大事なことを言っております。アーメン!然り、皆さん、その通りで す。なくてはならないパンです。でも、そのパンは誰が基本的に与えてください ますか。神様なのです。確かに働かなければならないでしう。労働することであ りましょう。でも、その働くことの出来る健康を誰が与えますか。そして、また 働くことの出来る知能や智恵や、それはだれが与えましたか。それは神様からで はないですか。 神様があなたに基本的にいのちの根本、いのちそのものを与えてくださって、そ のいのちから与えられた智恵と力によって、あなたがきちんと働くことが出来た 時に、そのパンは最も素晴らしい在り方として、それを生かすことが出来てい き、あなたがこうしてパンが食べられるのは、私の力でも、私の知恵でも、わた しの健康でもない。それ以上に主が与えてくださった神様によるのだ。だから、 まず神の国、神様自身をしっかり見上げて、神様により頼んで、神様の元によっ て生かされて行くことがどんなに大事かと言うこと、それを教えられます。 こうして、いのち、それは神からのもの、いのち、神により頼んでこそ、真のい のちとなって行きます。その道、それは1つです。それは主が与えてくださるの です。分かりますね。とイエス様は仰ってくださる。その主に私たちは信頼して 行きたいなあと思います。 その時に私たちはどうしていのちを粗末に出来るでしょうか。自分のいのちだか ら、どうしょうとも勝手だと言って、死の道を選ぶことが出来るでしょうか。そ んなことは出来る筈がありません。神様が全てをよきにしてくださって、私たち は今そこにあるのだ。 そして、先程のところに戻って行きますが、12章の一寸手前の10章の10/ 11節のみことばに一寸触れてみたいです。イエス様はこう仰いました。
”ヨハネの福音書”
とこう言われました。神様から遣わされたイエス様です。神様に祈れるイエス様 です。 そのイエス様が羊にいのちを得させ、羊とは私たち1人1人です。その私たちに いのちを与えてくださったイエス様。しかも、それを豊かに持つためです。それ は、この地上の豊かさもさることながら、永遠的な豊かさを意味しています。 造営と言う言葉には、人間がもつ、この地上のいのちと、もう1つ大事ないの ち、永遠のいのち、霊的ないのちがそこにある、と言うことが意味されている、 と言うことであります。イエス様がいのちと言った時に、十字架に確かにイエス 様は亡くなりましたけれども、でも、三日目に甦って、永遠の天国に入ることが 出来ました。 イエス様には、そのいのちがあったのです。いや、そして、私たちも同じように 与えられているのです。豊かにと言うことは、すなわち、あなたのいのちは永遠 に続くいのちなのです。わたしはそのために、あなた方が、罪の故に失ってしま ったけれども、あなた方のその失ったものを取り戻すために、十字架に掛かって それを取り戻した。必ず取り戻して、あなた方に豊かに永遠に尽きることのない いのちとして、付与するのです。 わたしはそのいのちです。その与えることの出来るいのちの源です、とイエス様 は言ってくださった。最後に一寸映して見たいのですけれども、そのいのちに与 った1人の方の詩を皆様にお読みしたいと思います。皆様方ご存知の、水野源蔵 さん。この方の「我が恵み汝に足れり。」と言うこの詩集の中には本当に素晴ら しい詩が一杯ありますが、その中から、2つ皆様にお分かちしたいのです。先ず 1つ目。 「私のようなものが、」と言うことですが、「主イエス様の御姿は見えない。御 声は聞こえない。だけど私のようなものが、喜びにあふれ、望みに満ちて生きて いる。」こう詩を作っているのです。この方ですが、私と同い歳で、もう亡くな られましたが、不治の病に犯されて、一切の行動の自由を奪われた。1946年 の夏、小学校4年生の時に、赤痢のため高熱が続き、遂に脳を犯され、脳性小児 麻痺になったのである。手足を自由に動かされなくなったばかりでなく、ものも 言えなくなって、外界に対する意志表明の手段としては、“またたき”をするし かなくなってしまったという。 そう言う重度な脳性小児麻痺の水野源蔵さんです。そう言う状態に陥った何年か 後に、近くに在った教会の牧師先生を通して、聖書を与えられるのです。その聖 書を読みふけって行く。そして、その聖書の中に、救いを見出していきました。 そして、救われた時に、生まれ出た詩、その1つが「主イエス様の御姿は見えな い。御声は聞こえない。だけど私のようなものが、喜びにあふれ、望みに満ちて 生きている。」五体不満足と言えば、これ以上ない厳しい状況です。“またた き”しか人に自分の意志を伝える手段がない。 この水野源蔵さんは、もう1つ、「ただ感謝するだけだ。」と言う短い詩があり ます。「私は家族、人、主のために、何も出来ない。主、人、家族の豊かな愛を ただ感謝するだけ。ただ感謝するだけ。」お母さんもそうですが、兄弟達もそう ですけれども、この水野源蔵さんを心から受け入れている。そして、こんなひど い状況の中にある家族。 でも、そこには、水野源蔵さんから見れば、ただ感謝するだけ。うるわしいです ね。1人の人の中にイエスキリストのいのちが入り、そのいのちがその人を生か した時に、最も不自由な中にありながら、最も大きな不幸を背負っている中で、 でも、そこに感謝を見出し、生きる喜びを見出している。イエスキリストのいの ちは、私たちを主に生かすいのち、今日もまた、皆さん、1人1人を生かしてく ださるいのち。豊かに心に頂いて、皆さん、1人1人も本当に感謝の出来る 日々、感謝の出来る人生を歩みたいものであります。 お祈りを致します。天のお父さま、感謝いたします。このようにして、主が備え てくださった恵みの1つ1つを感謝致します。お1人お1人の内に主が豊かに臨 んでください。尊いイエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン! |