2001年9月9日 主日礼拝式
“ヨハネの福音書” 15章1〜5節

「“わたしはぶどうの木である”」

“池田 博牧師” 宣教メッセージ

今朝のメッセージのみ言葉をお読み致します。今朝は ヨハネの福音書15章1節から5節 です。新約聖書の193ページになります。

“ヨハネ”
         
15:1 わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。
15:2 わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。
15:3 あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。
15:4 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
15:5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。

はい、御言葉は以上です。今日はこの処から「わたしはぶどうの木である。」というイエス様についての大事な事を見てまいりたいと思います。ずっと「わたしは何々である。(エゴウ エイミ)」「わたしこそそれです。」というのを見てまいりました。今日はその7番目、最後の処です。ここで、イエス様は植物、ぶどうの木を例えとして「わたしはぶどうの木です。」と言っておられます。

私は植物は苦手なのです。大分前に、或る方から素敵な観葉植物の植木を頂きました。「水を遣るだけで大丈夫です。」という事で安心して何年も水一本でやってきました。或る時に、ふと気が付いたら、葉っぱは青々としているのですが、なんかこうだらんとしている感じがしているのです。「あれ、一寸生気がないなー。」と思いまして、外に出しまして、幹を掴んで持ち上げましたら、ポンと抜けてきました。

しかも、根を見たら、もう根が腐って溶けている感じになって、丸坊主になっていました。その姿を見ておもわず「御免なさい。」と言わないではいられませんでした。家内を呼んで、「もうこんな状態だ。」ということでもって、急いで新しい土と、肥料とたっぷりの水を遣って、日陰の処に置いてやりました。

動物とか、人間だったら「お腹すいた。」とか「困った。」とか声を出します。叫ぶわけです。だから、「どうしたらいい。」「こうしたらいい。」と判るわけですが、でも、植物は声を出さない。ある人は声を聞いているかもしれませんが、私には解らないわけです。

水さえ遣れば大丈夫かと思っていたら、どんどんどんどん痩せ細って、ついには根っこが全然なくなるまで、耐えに耐えてきた。それを思ったら涙が出てきてしまったのです。「かわいそうだ。」。そんな経験が私の中にあります。

イエス様はその植物に例えられて「わたしはぶどうの木です。」と言っておられます。私は「植物は難しいなー、意思が伝わらない、何を考えているか解らない、どうしたらいいか解らない、どうして欲しいのか全然解らない。」と感じます。そんな中で、先ほどの物はたまたま、奇跡的に助かったわけですが、何度も枯らしてしまう事があったわけです。

イエス様は、此処で「わたしはぶどうの木です。」こうおっしゃって植物の例えで「エゴウ エイミ(わたしはそれだ)」という大事な締めくくりをしておられます。ですから、この植物の例えを以ってイエス様はどんな大切な事を私たちに教えようとしておられるのかを考えてみたいと思います。

先ず目を留めたいのは1節です。そこにこうあります。「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。」こうイエス様はおっしゃっています。「ぶどうの木、しかもまことのぶどうの木」だとイエス様はご自身について言っておれれます。そしてその後に、今日先ず目が留まるのはそこなのですが「わたしの父は農夫です。」と言っています。

皆さん、イエス様にとって父とは、言うまでもなく、それは神様であるわけですね。イエス様は此処で神様を農夫と敢えて言っておられます。そこにとても目が留まったわけです。神様であるならば、聖書の中に「わたしはあなた方をぶどうとして植えた。」とイスラエルの民のことをいっています。

それは暗に、この農夫を意図しているようにも思えます。神様は全能なお方ですから、全知なお方ですから、どんなことでも出来るということからするならば、敢えて神様がそうしたといって差し支えないところですが、でもイエス様は、そう言わないで「農夫です。」と言っている。そこに大事な意味があるかなと思いました。

農夫であるということを通して、イエス様はきっとイエス様にとってのお父様が農夫である、それは言うならば絶対に失敗の無い、あるいは本当に命がけで守り育て、どんなことでもしてあげるという事を言わんとしている、そんなことを感じるのです。

皆さんの中にも植物大好きという方が結構多いかなと思います。大好きな人にとっては、何を必要としているのかがある程度判るのかなと思います。「植物に水を遣る時もただジャッとかけるだけでなくして、『きれいだね。』『美しいよ。』『今日も一日よろしくね。』と声をかけてあげることが大切だ。」とよく言います。

さらには「音楽、BGMを流しながらやると、とっても植物にはいいんだ。」とも聞きます。「なるほど、その心が伝わるのかな。」という風に思います。

その道のプロといえば植木屋さんでありますが、私はある時植木屋さんに聞きました。「いや、私は植物は怖いのです。口をきかないし、どうしたらいいか解らない。でも植木屋さんは全部解ってやっているのでしょうね。」と言いました。そしたら返ってきた答えはこうでした。「とんでもない。解っているのはほんの僅かです。あとは皆経験と勘でやっているのです。だからしばしば失敗するのです。」こう言われたのです。

私はそれを聞いて「えー、植木屋さんでもそうですか。」と言ったのですが、心の中では「あーそうか。やっぱりプロでもそういうことがあるんだな。その道を極めれば極めるほど奥が深いことが解って、『自分はその入り口にいる者でしかないのだ。』と解るのかなー。スペシャリストであればあるほど、そう謙虚に認めるのかなー」との思いもしました。それも真実であるかなと思います。

イエス様は此処で「わたしはぶどうの木、そしてわたしの父は農夫です。」と言う時には、人間が言うプロとして、人間が極めたスペシャリストとして「植物の事は任せて下さい。」と言いつつ失敗もし、極めがたい物があるというような意味合いとは少し違うのかな、イエス様が敢えて神様を農夫と言って紹介している処には神様の私たちに対する約束、素晴らしい大事な物が含められて言われているのかなと思いました。

人間であるならば、どんなに名医であろうと、どんな植木屋さんであろうと、どんなスペシャリストであったとしてもでもやはり失敗がある、限界があるということであります。しかしイエス様が「わたしの父は農夫です。」と言う時には最早それは失敗の無い、どんな事でも出来るという事であるし、「大丈夫です。完全です。」と確信をもって答えることの出来る、全てを知り尽くし、全てをなすことの出来るお方として、イエス様は私たちに紹介して下さっているのだと思わせられたわけであります。

そのイエス様が今度は5節に目を移して見ますとこうおっしゃっています。「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。」とあります。ぶどうの木と父との関係を話した後で、今度はぶどうの木と私たちとの関係をイエス様は此処では話しておられるのです。

私たち、これはクリスチャンととっていいわけですが、クリスチャンとイエス様との関係は幹であるぶどうの木に繋がる枝だと言っておられます。枝と幹、そこには完全な繋がりがあって、そのつながりを通して、幹の樹液が流れて枝は葉が繁り実を結ぶということであります。

そのことをとても大事なこととしてイエス様はこのところで話しておられるのが判ります。4節だけもう一度読んでみます。「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」こう言っています。

ここに「とどまりなさい。」「とどまりなさい。」と3度も繰り返されています。これは口語訳では「繋がっていなさい。」と訳された枝と幹との繋がりということです。 5節にもそう、6節以下にも繰り返されています。10節までに何と10回繰り返してイエス様は「とどまりなさい。わたしに繋がりなさい、繋がって初めて実を結ぶのですよ。」という風に、とても大事なこととして、教えておられるわけであります。

イエス様がここで「とどまりなさい。繋がりなさい。」ということは、私たちにとってどういうことなのか。枝が幹に繋がるということとクリスチャンがイエス様に繋がるという事がこうして判り易い明瞭な例えですが、その例えはどういうことを意味しているのか、何をしなさいと言っているのか、どうしたらそうなるのかということでしょうか。

私は此処を黙想する中で3つの事を教えられました。それを参考におわかちして、そこから更に深めていきたいと思います。

私は先ず、この枝と幹の繋がり、そこには樹液が流れているということですが、それは聖霊の流れを言っているだろうかなと思います。先ず第1のこと、聖霊による交わりの喜びがある。イエス様と私たちとの間には聖霊という素晴らしい物が流されて、その聖霊によって私たちは心が清められ、心が整えられ、心が引き上げられていくのです。

聖霊の交わりを通して、私たちは本当に整えられていきます。聖霊の交わりの喜びの大切さ、素晴らしさを感じます。そして2番目のこと、それは御言葉による養いということがいえるかなと思います。

イエス様の中に留まるということは、聖書として与えられた神の御言葉を私たちは頂くことで、私たちがどうしたら良いかを1つ1つ御言葉から教えられていきます。皆さん、御言葉を読むことの大切さであります。毎朝御言葉を頂く恵み、皆さんどうでしょうか。喜びでしょうか。

私は喜びでたまらないのです。朝どんなに疲れていても、目が覚めると爽やかですねー。爽やかな気持ですぐ最小限度の洗面をして、密室に行って、聖書を読む、御言葉を開いて読む。なんかわくわくしながら、今日何を教えてくださるか、何が開かれるか本当に楽しみです。

ですから、つい10章、20章、30章と読み込んでしまい、「おー、祈りの時間が少なくなったかなー」という感じです。本当に御言葉は素晴らしいですね。御言葉に琴線する、御言葉に聞く、御言葉に開かれる敬虔、なにか世界が神様に近いな、と感じます。

御言葉による養い、1つ1つその中から本当に私たちは整えられていきます。これが2つ目、そして3つ目それは、祈りによる敬虔です。祈り。皆さん、祈りは大切ですよね。「あなた方の願いは何ですか。さー、どんな願いでもわたしに言いなさい。」。イエス様に祈りを言いますね。困った時に祈りますね。病気になれば祈りますね。

時には図々しくなって、「100万円どうしても欲しいのです。何としてもあれが買いたいのです。」そんな祈りもしてしまうわけです。ポンと100万円来たら、ワーと思いますが、なかなかそうはいかない。そんな簡単に応えられることはない。それはどうしてか。動機が悪いということです。

でも、兎に角こういう風に、何でもご利益的な祈りから始まって、「何でもいいから祈りなさい。」とイエス様はおっしゃっています。応えられない事を通して、応えられない応えを通し、私たちはイエス様の御心を少しずつ判っていきます。右と祈ったのに応えが左であったり、白と祈ったのに黄色い応えが帰ってきたりということで以って、私たちは「あー、そうか、こういう風にして祈りは、1つ1つ自分自身がみえてくるなー、判ってくるなー。」と自分自身が見えてくるしイエス様がわかってくるという交わりの深まりです。

それが枝と幹の関係、このようにして、私たちはイエス様により近く歩むことの中で整えられていくということであります。でも、皆さん、今日イエス様がここにお話くださった中により大切なことがあります。それは2節のことばです。ここに目を移したいと思います。

「わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。」とあります。皆さん、刈り込みの話です。これがイエス様の今日のポイントなのです。

5節を見ると「人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。」と、どんな枝でも繋がってさえいれば実を結ぶという書き方、そういう言い方であります。

ところが2節では、いや、そうではない。「実を結ばないものは父がそれを取り除く。」とあります。そして、「刈り込みをする。」ともあります。一寸矛盾したような言い方ですね。でも、そこに大切な意味がある、メッセージがあると思います。

これも私の実例であります。私は5年ほど前に牧師館に住むようになりました。その時、庭に生い茂ったキウイの木がありました。前の持ち主さんが「このキウイは結構実がなるんですよ。何百個となりますよ。美味しいですよ」と言われたのです。「これは素晴らしいなー。」と思いまして、翌年期待していました。

でも、どうした良いのかよく判らなず育ちっぱなしにしていました。キウイはすごく勢いが良くて、4月、5月、芽が出たら、どんどんどんどんその芽が大きくなって、何処まででも伸びていくといった感じで生い茂っていきました。ベランダまで届く感じで隣の梅の木にも絡んでいくものですから、そういうものだけは取ったりしていました。

そして秋を迎えました。何百も生るかなと思ったのですが何十でしかないのです。「あー、やっぱり植物は野放図に放っておけば良いものではないのだ。」と思い、今度はキウイの本を買ってきました。本を見ると「果実の生る枝はまっすぐに出て、翌年そこから出る芽が実を結ぶ。」とか「花は雄花雌花があって、交配をする。」とかややこしいことが色々書いてありました。

でも、一生懸命それなりにやってみました。秋を迎えました。もっと数が少なくなりました。十数個しか生らないのです。「やっぱり駄目か。」それで今度は「もう駄目だ。また、放っておこう。」と思いながら、自動的に覚えたことをやりながら今年を迎えました。今年実は0でした。ついに0になってしまいました。

家内と色々論議をしながら、結論に達しました。「もう、これ以上駄目だから、切ろう。」ということになりました。本田さんに来ていただいて7月に刈り込みではなくして切り込んでしまいました。全部切ってしまったのです。やはり私はその程度かなーと思わされました。

本田さん曰く「これは老木ですから、もう実は生りません。」私は妙に納得して「良かったかなー。」でも、何かしこりを残しながら「本当かなー。」と複雑な心境でもありました。「いや、刈り込みは難しい。」本当にそう思います。

私はイエス様がここにおっしゃった刈り込みということについて、改めて考えさせられたことでありました。イエス様が此処に言われる「わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。」ということを改めて心に留めさせられたことであります。

昨日もそのことを深く黙想させて頂いたことでありました。私はこのイエス様がおっしゃっている刈り込みということについて、まず1つ心に響いてきたことは箴言の言葉です。「あー、こうして具体的に刈り込みということを教えているのかなー。」と思いました。

枝をどうするかということで植物の刈り込みは判りますが、それが私たちクリスチャンに対する刈り込みとなった時に、「これはやはり違うかなー。」と思いました。イエス様が私たちを救うということにおいては、条件なしに私たちを救って下さいます。「誰でも信じる者は恵みによって救われます。」とおっしゃられています。

そしてまた「幼子のように信じる者は神の国に入ることが出来る。」とそう教えられています。ですから、救われるという事において、神様は私たちを無条件です。どんな罪深い人であろうとも、どんな事をしてきたとしても、「だからあなたは駄目です。」とは何処にもない。イエス様も、強盗殺人に対しても「今日わたしはパラダイスにいる。」とおっしゃって下さっている。

しかし、イエス様が私たちを無条件に救って下さるのでありますが、救われた私たちに対しては、きちんと刈り込みをするんだという事であります。

ふと、私は思いました。自分の過去もそうだった。時々そんなことも聞くのですが。 教会に新しい方が来られたり、求道者の方々がクリスチャンを見たりする時に「クリスチャンでも、あんなことを言うんですか。クリスチャンがあんなことをするんですか。」と言う事を聞きます。あれでもクリスチャン、デモクリというのです。

確かに、そういう面があるかな-と思います。自分もそう思っていたんだ、でも自分がクリスチャンになってみると、今度は自分のことには少し甘くなってきて、「私なんか駄目なんです。私を見ないでイエス様を見て下さい。先輩を見て下さい。」とか言ってしまいがちであります。

そして、私たちは自分のクリスチャンであるという事について、なかなか自分を見つめるということに対して、甘くなりがちかなーと思います。でも、イエス様はそうではない。イエス様は私たちをきちんと見て下さる。イエス様は見逃さない。絶対に見逃しはなさらない。そして、適切に私たちを刈り込んでくださるという事です。

先ほど少し見ました箴言の17章の3節にこうあります。

“箴言”
17:3 銀にはるつぼ、金には炉、人の心をためすのは主。

「金や銀が純化されるにはるつぼや炉が必要だ。そのように人の心をためすのは主だ。」とあります。まさにそれが、刈り込みをするということであります。更には27章の21節を見ます。

“箴言”
27:21 るつぼは銀のため、炉は金のためにあるように、他人の称賛によって人はためされる。

イエス様は私たちを本当に受け容れて下さいます。そしてお互いに受け容れあう中で、評価もされ、褒められもし、称賛もあるでしょう。良いことを良いこととしてお互いに認め合うことはとっても大切なことです。でも私たちは評価され、称賛されるということはイコール良い実ではないのです。良い実というのは私たちが黙っていて称賛されることの中にあるのでは決してないのです。

エレミヤ書の2章21節には「わたしは、あなたをことごとく純良種の良いぶどうとして植えたのに、どうしてあなたは、わたしにとって、質の悪い雑種のぶどうに変わったのか。」とイスラエルの民に対して主が嘆いておられるのです。

イザヤ書の5章2節にもそのことについて「甘いぶどうのなるのを待ち望んでいた。ところが、酸いぶどうができてしまった。」とあります。イスラエルの民がそうである、そのように、私たちクリスチャンも実を結ぶという事において、私たちは刈り込みをしない中で結ぶ実というのは、実は本当の良い実ではない、甘い実ではないんだということであります。

それが良い実を結ぶために主はあなたの隣に、あなたの友として、でも、あなたにとって実は少し辛くて、いやで、顔を見るのもいやだなと思うようなそんな人が実は隣に置かれるのだと言うのです。その中で私たちはいやな思い、辛い思い、痛い思いをする。しかしその事が実は大切なんだということです。

私も、それなりに信徒の時代に通りました。でも牧師になってなお通ります。なお通りつつもあります。

私はある時、「信徒は楽だ。」と思いました。何故なら、信徒はいやだと思えば教会に行かなければすむのです。事は簡単です。牧師は「いやだ。今日は説教なんかしない。」そうはいかないのです。信徒はここの教会ではなく他の教会へ行けば良いのです。でも牧師はそう簡単に今度は此処の教会に来さしていただきますとはいかないのです。

そのように思ってしまって私自身の中に、「あー、信徒は楽だなー。」とか「あの人は問題だなー。」とか「ここの教会はズーと悪いことばかり引きずっているなー。」とか色んな事を考えてしまう。でも、その一つ一つが実は、イエス様が「あなたの心だよ。」「あなたの内側だよ。」「あなた自身だよ。」と刈り込みをするためにきちんとそこに立たせておられる、それを深く考えさせられたのです。

もう一つ、箴言の27章17節にはこうあります。

“箴言”
27:17 鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる。

隣に本当に色んな方が居られる事を通して、いやな辛いところを通して、実は砕かれていく、扱われていく。皆さん、河口に近い石はみな滑々しています。山から取り出された岩はごつごつしています。ズーッと下っていく中であっちにぶっつかリ、こっちにぶっつかりしながら、やがて丸い石が出来ていくのです。山からそっくりそのまま河口に持ってきたらやはり駄目ですよね。

私たちは刈り込みをされていくのです。刈り込みが大切なんです。刈り込みによって滑らかに、柔らかに砕かれて練られていくのです。イエス様はそれをきちんと私たちを見て下さっているのです。

ですから、時にふさわしい人をそこに置き、時にふさわしい試練を通らせ、時にふさわしいトンネルの闇の中で光の見えない辛い経験をします。でも、それが大切、振り返ってみる時に「恵みはその中にあるなー。」という事を思い出します。

15章の16節に目を留めて見たいのであります。

“ヨハネ”
15:16 あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。

救われた私たちがやがて刈り込みをされる中に有って、「教会に行かなかった方がよかったかなー。」『クリスチャンにならない方が良かったかなー。」「あの人に出会わなければ、あの人が誘ってくれたから、たまたま教会に行ったから。こんなことになってしまった。」「どうして出会ったのだろう。」「どうして行くなんて言っちゃったんだろう。」とそうまで思う私たち。

でもイエス様はおっしゃる。「あなた方が選んだのではないよ。わたしが選んだのだ。わたしがあなたを選んだ。わたしがあなたを選んだ限りにおいて、わたしはあなたを必ず実を結ぶ者としてわたしは選んだのだ。間違いなく実を結ばせるためにこそわたしの主権によってあなたを選んだ。あなたは自分だと思っていたけれどもそうではない。わたしだ。

わたしの父は農夫であって、農夫である父は間違いない。絶対間違いなくあなたを育てて、実を結ぶ者とする。そしてその実は何時までも残るために、あなたを派遣するのだ。何処にでも安心して遣わすことが出来る。あなたが何処に行ってでも、そこに砕かれた実をもって、そこに主をあかしする時に人々はあなたの中にキリストを見るでありましょう。そのようにして実が残る、そのようにして実は更に豊かな稔りを与えていく者としてわたしは選んだのです。」

今日、主は私たちにそのように声をかけて、私たちを、本当に原石のような私たちを主は選んで実を結ばせようとしておられる。その主の深い配慮を感謝したいのであります。

お祈りを致します。
天のお父様、「わたしはぶどうの木であなた方は枝だ。」と言われる私たちが、どのようにして本当の実を結ぶ事が出来るようになるのでしょうか。主よ、一つ一つ、あなたは御言葉の中から開き教えて下さいます。どうぞ一人一人の内にあなたが届いて下さい。一人一人に主が主権をもって導いて下さい。
尊い主イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン!