| 2001年9月23日 主日礼拝式 “ルカ”23章32〜34節 「“キリストの十字架上のことば 2”」 “池田 博牧師” 宣教メッセージ |
| 今朝のメッセージのみ言葉をお読み致します。今朝は ルカの福音書23章32節から34節 です。新約聖書の153ページになります。 “ルカ”
ハイ、聖書は以上です。先週から、イエス・キリストの十字架上のことば、それは7つ発せられました。その1つ1つを見ておりますが、今日はもう一度、最初のことばであります34節の「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」と祈られた、その祈りを見ていきたいと思います。 とても大事な、そして憐れみ豊な主のことば、祈りのことばであります。今日は先週とはまた違った側面からご一緒に見てまいりたいと思います。先ず最初に、32節にこういう書き出しがあります。「ほかにもふたりの犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために、引かれて行った。」とあります。 此処に、キリストの十字架刑というのは、他の犯罪人、強盗・殺人罪といった犯罪人というなれば同列に置かれての処刑であるということであります。その事が目に留まります。そして、その事は更に、1ページ前のルカの福音書22章の37節(150ページの一番最初のところ)にイエス様はこう言う風に言っておられます。 「あなたがたに言いますが、『彼は罪人たちの中に数えられた。』と書いてあるこのことが、わたしに必ず実現するのです。わたしにかかわることは実現します。」とあります。これは「旧約聖書の中に預言された、具体的にはイザヤという人のイザヤ書53章12節に預言されていますが、その預言の言葉通り『わたしは罪人の一人、罪人の仲間の一人として立つのです。』と、その事がまさに実現しようとしているのですよ。」とイエス様がおっしゃっています。 「これは大変なことである。」という事を今日見ていく中で改めて感じるわけです。そして、「その事が今日の、今の私、私たちとどういう関係が有るのか。」その事が大事である。そういうことを先ず心に留めながら見てまいりたいと思います。 先ほど32節をお読みしましたが、33節を見ますと今度は「『どくろ』と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。」とあります。 『しゃれこうべ、どくろ』と呼ばれる場所に来て、そこに3本の十字架が立てられた。その真中にキリストがかけられ、右と左に犯罪人が一緒にかけられた。このようにして、キリストは死刑囚、大変な罪を犯した人たちと同列に置かれた罪人として、今まさに処刑されようとしているということであります。 もう少し見てみますと、実はこの三人が処刑されるに当たっては、経緯がありました。本当は、キリストはどう見たって無罪であるということが裁判長ピラトの調べによって判ったので、このキリストは赦される手筈であったのです。でも結果的には一番重大犯罪者であったバラバという人が赦されるというとんでもない出来事が起こっていることが19節を中心にそのことが書かれています。 「バラバとは、都に起こった暴動と人殺しのかどで、牢にはいっていた者である。」そして死刑の判決を受けていたということです。当然バラバが処刑されるはずだったのですが、そのバラバが赦されて、キリストが十字架にかかって殺されなければならないという羽目になってしまったという経緯があったわけです。 そのようにして、キリストは大変な重大犯人と一緒になって、十字架上で処刑される場に置かれたということであります。キリストの場合には、特別な人として見られているわけですから、仮に処刑されるにしても、他の人たちとは違い特別にキリストだけを処刑するという風な仕方で処刑しても良かったはずなんですが、ところがそうではない。 大変な重大犯人と並べられて今処刑されようとしているということであります。その事が及ぼしている影響がどんなかという事を一寸見て見たいのであります。マタイ27章41節以下を開いて下さい。 “マタイ”
このような情景が此処にあるわけであります。罪人の仲間として立てられた十字架ですから人々はあざ笑った。その嘲りの言葉がそこにありました。しかも注目したいのは44節、そこに「イエスといっしょに十字架につけられた強盗どもも、同じようにイエスをののしった。」とあるところです。 指導者達、周りの人々、彼らが罵った上に、右左につけられている強盗たちもイエスを罵ったということです。一緒に十字架に付けられて同罪で殺されていく仲間である。ですからそこには「同病相憐れむ」では有りませんが何かあっても良いのかと思いますが、そうではなかった。 四面楚歌とでも言いましょうか、キリストはこのようにして、周り中の人々から、そして同罪で殺されようとしている殺人犯の人々からも罵られているというこの姿です。誰もキリストが処刑されようとすることに対しての哀れみの心を持ってみる人は一人も居ない中に立たされている、さらされている姿であります。 そして、キリストはここで一言の弁解もしていないのです。すぐ傍にいる二人に向かって「あなた達はそれ相当な罪を犯したから、今そうなっているのだ。でもわたしは違う。わたしは何一つ罪を犯していない。あなた達とは違うんだ。それを言っておきたい。』そんな風にイエス様が右左の強盗に言っても良かったかなと思うのでありますが。 でも、キリストはそうではなくして、全く弁解していない、一言も自己主張していないで、100パーセント任せきっている。そのキリストの姿が目に映ります。そして、まさに、そこにこそ罪人の一人として敢然とたたれた姿を見る思いがいたします。 ウイリアム・バークレーというイギリスの素晴らしい神学者がいますが、この方は十字架の場面を描くに当たって、書き出しの処にこういう事が書かれています。「わたし達が十字架について考える時は、まことに足から靴を脱がねばならない。わたし達が立っている処は最も聖なる処だからであります。」こう言っているのです。 その言葉の中に私は改めて、「あー、キリストの十字架、その十字架の前に立つ、その十字架を思う、その時の私の心が (以下 一部欠落) 繰り返し嘲笑い嘲られたという事がでています。キリストは既に39の鞭を当てられ、背中の肉は裂け血が流れている、そして手足に釘を打たれて、もはや気が狂うほどの痛みの中にあったわけであります。そのキリストに対して更に嘲りの言葉が飛び交っているという様であります。 民衆もそこには居たとあります。民衆の嘲笑い。私はそこに目が留まりました。どうしてだろうか。どうして民衆が嘲笑ったのだろうか。キリストにかつて恵みの福音を聞いたことがあったはず、あるいは病が癒されたこともあったはず、奇蹟の恵みを受けたこともあったはずの人たちが居る、その民衆が嘲笑うとはどういうことだろうか。 でも、それはまさに、今目の前に、十字架上に無残な姿を曝け出しているキリストを見た時に、彼らの口からそういう言葉も出るのもやむをえない惨めな、哀れな姿がそこにあっただろうか。人を助けることにおいて惜しみなく愛を注いできたキリスト、けれども今、そのキリストが十字架にその身を晒しているではないか。 十字架上に、重大犯罪人と同じレベルで同列に置かれている。なんという惨めな事だろう。そんな人間だったのか。それだけの人間でしかなかったのか。キリストは。そのような姿を見た時に、民衆はその哀れな姿にもはや嘲りの言葉が出るしかない状況と思うのです。 しかもキリストは自らをメシア・救い主だと広言していた、メシアであると広言したならば、今この場においてこそ、この窮地においてこそ、そこから自らを救い出して、この土壇場において、自らが救い主であるということを、権威を、力を人々にみせて良いはずだ。 しかし、それが出来ていない。それが出来るどころか、その頭から手から足から血が流れて、いままさに息絶えなんとしているその惨めな、哀れな姿を見た時に人々の口からもはや「もうこれまで。」ということで、その空しさ、その醜さの故に彼らは突き放した思いが彼の心を占めてしまったでしょうか。 そんな事を黙想してる時に、私は思わせられました。皆さんもしあの場に自分が居たらどうだっただろうか。民衆の中の一人としてそこに立っていたならば、どうだっただろうか。そう思った時に、民衆が嘲っている、でも自分も同じように嘲っただろうか。或いは又、嘲らないまでも嘲っている人々のその言葉に心の中で「そのとおりだ。」と同調しただろうか。 いかに自分が恩恵を蒙ったかもしれないけれども、この惨めな姿の前にもはやどうにもならない、なんというざまなのだろう。その姿の前に呆然と佇んでいたであろうか。皆さん。ここです。キリストは十字架に恥を晒し、罵詈雑言を浴びせられ、そこで何にも出来ない、一言の弁解も出来ない、その惨めな惨めな最も惨めな姿の前に私たちは向き合うのです。 どうでしょうか。向き合った時にあなたの心はどういう心で、どういう思いでそこに立つことが出来るでしょうか。「足の靴を脱いで聖なる処に立つ。」と言われましたが、私と十字架のキリスト、私と裁かれ殺され行くキリスト、そこで向き合う姿を見る時、私たち一人一人がキリストに対して自分がどうあらねばならないかが問われると思います。 しかも、キリストの十字架の辱めは先ほどのルカ23章36節にローマの兵士のことが出てまいります。「兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出し、『ユダヤ人の王なら、自分を救え。』と言った。」とあります。この兵士の嘲りはまた凄いものを感じるのであります。 それは、マタイの福音書を見てみると判ります。27章27節以下を一寸見てみたいのであります。 “マタイ”
ローマの兵士達の罵詈雑言、嘲りの姿がそこによく表れています。キリストは背中に鞭打たれて、着物と肉がぐちゃぐちゃになっていたでしょうか。その着物を無理やり剥がして、緋色の着物を着せたとあります。ローマの兵士の一人が着ていた緋色の着物であったでしょうか。それを着せた。それは王の色でもある。 キリストはユダヤ人の王だという事の故に、彼らはそれをからかって、そうした。そして王の黄金の杖の代わりに葦の棒を取ってきて、それを握らせた。葦の棒、すぐに折れてしまうような、よれよれの棒であります。それを持たせました。そして棘で冠を作って頭に被せ、兵隊達はそこに跪いて「王様万歳」と言ってからかった。 或いは、衣を着せて拳で殴って「誰が叩いたか。お前がキリストなら当ててみよ。」と言った。或いは何と、面と向かって唾をかけたりしている。その光景を見るに、私は涙無しにそれを見ることが出来ません。屈辱、辱め、この上ない姿を晒しているキリストであります。そのキリストがされるがまま、全てを、自分を投げ出している姿です。 こんな屈辱が、耐えられない痛みの上に心の屈辱を受けているキリストの姿を思う時に、どうしてそんな事を許されただろうかと思うことでもありました。皆さん、ローマの兵士は何故此処にいるでしょうか。何故此処に置かれたでしょうか。ローマの兵士、それはそこに処刑されるキリストをこの判決の出たところから、処刑場に連れて行く、ただそれだけの任務であります。 であるならば、彼らは丁重に、兎に角そこに連れて行けばよい。それが任務だったわけです。その兵隊達がしたことは、なんという辱めでしょう。私は思いました。「全部のシナリオを知っておられた、更には予定されたイエス様が、どうしてそんな人を。 有能な良識ある兵士をそこに置いて、丁重に運び、連れて行って行ってくれて良かったのではないか。」 でも、現実はそうではなくして、「こんな兵士がいるのだろうか。」と思える最低の兵士を此処に置いて、辱めている。でも、それもこれも全部、キリストは黙々と受け止め、その中から出てきた最初のことば、最初の祈り、それが先ほど見ました「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」 彼らがしている事は何という事でしょうか。彼らそれは全人類であり、彼らそれは私たちであり、彼らそれは私でもあります。あそこに居たならば、何を言っただろうか。言わないまでも心の中で呆れていたでしょうか。裁いていたでしょうか。そんな私たちです。でも、キリストは人々の、私たちの、全人類の罪、醜い心、汚れた心、怒る心、弱い心、不道徳な心一切合財を自分の身に受けた。そして「父よ。父よ。赦してやって下さい。」 そこからしか彼らの救いは無い、そこからしか彼らの正しい真の道は生まれて来ない。主は全てですから受けきって下さった。心の中に深く探られました。この朝、どうでしょうか。お互い一人一人のそのキリストの前に立ち、そのキリストの前にあなたはどう応答するでしょうか。 23章の47節に目を留めたいのです。そこに一人の人、あのどうしようもない兵隊達の百人隊長が居りました。この人はこうです。「この出来事を見た百人隊長は、神をほめたたえ、『ほんとうに、この人は正しい方であった。』と言った。」皆さん、何か光が有りますね。皆さん、この人は何故このような言葉を吐くことが出来たでしょうか。 どうして、このような反応が出来たでしょうか。特別な人が、そうではなくして、彼は自分の部下の兵士達がしたことを自分の罪として彼の心の中に恥じたでしょうか。悔いたでしょうか。そこに聖霊が働いたでしょうか。神の霊が彼の悔いた心の中に働いたでしょうか。その時に彼の心はキリストの十字架の意味が何であるか判ってきたでしょうか。悔い改めた中に聖霊が働いた時に、この人は正しい人だと見えてきたでしょうか。 そこに新しい始まりが有ります。そして私はこれは更に、使徒のはたらき10章を見ますときにコルネリオというイタリア隊の百人隊長の事が出てまいります。彼はユダヤ人のために本当に良いことをしていたとあります。この百人隊長があかしをしたでしょうか。自らの部下がしたこと、そして自分がそれがきちんと正則の出来なかったが故に悔い改めのあかしをしたでしょうか。 それがコルネリオの心を動かした。コルネリオの心を変えていった。やがてそれはローマの近衛兵の中にいのちの流れとなっていったでしょうか。やがてそれはローマがキリスト教化していく流れとなっていったでしょうか。 どうにもならない罪人、でもそれが悔い改めに変えられていった時に、自らの罪の姿を知ってみて、悔い改めへと導かれていった時に、そこから新しいいのちが流れ出すのであります。 この朝、十字架の前に「主よ私です。こんな私です。こんな醜い、こんな罪深いそしてその私の罪があなたを十字架に追いやったのでしょうか。赦して下さい。こんな罪深い者を赦して下さい。」そう素直に主の前に出れる人は幸いです。それはあなたの人生、あなたの生涯が、あなたの心と全てが変えられていく始まりですあることを信じるのであります。 お祈りを致します。 私です。私こそがあなたをその罪人の中に身を置かなければならない自らの罪のためであったことを深く心に留めさせられるものであります。主よ、どうぞ、この朝、御前にありますお一人お一人の中に届いて下さい。主よ、「彼らを赦して下さい。」と祈られたその祈りによって一人一人が、主よ、あなたの恵みに満たされますように。 尊い救い主、イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン! |