| 2001年9月30日 主日礼拝 ヨハネ4:13〜26 「あなたの近くにおられる神」 “月井 博師” 宣教メッセージ |
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イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」 女はイエスに言った。「先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」 イエスは彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」 女は答えて言った。「私には夫はありません。」イエスは言われた。「私には夫がないというのは、もっともです。 あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。 」 女は言った。「先生。あなたは預言者だと思います。私たちの先祖は、この山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」 イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。 しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」 女はイエスに言った。「私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています。その方が来られるときには、いっさいのことを私たちに知らせてくださるでしょう。」 イエスは言われた。「あなたと話しているこのわたしがそれです。」 ヨハネによる福音書4:13 〜26
人生の失敗者わたしの二度目の母親はとてもすばらしい女性なのですが、三回の結婚に失敗しました。しかし今は、彼女の人生はその三回の失敗を通しても、人間としては明らかに成功だったと言える生活をしています。私自身、この二度目の母親がいなかったら絶対に今の自分はありえないと確信し、いつも感謝しています。 一方、ここに人生の失敗者がひとりいます。この物語に記録されている女性は明らかに人生の失敗者でした。結婚を5回繰り返し、さらに今は結婚相手ではない人と一緒に生活しています。なぜ5回の結婚に失敗したのか、理由はわかりません。わたしの母に関していえば、出会う男性、出会う男性がいろいろな問題を持っていたとしかいいようがありません。この女性が娼婦のような貞操観念のない女であったのか、それともわたしの母のようにズーッと男運が悪かったのかわかりません。 この女性の心の中はどのようだったでしょうか。恐らく、人の心の中を知るイエスさまが、この女性に対して腹の底から湧き出る水、汲めども汲めども尽きない水について語ろうとしたところによると、潤いのない、渇いた、いや乾ききった状態だったのではないでしょうか。恐らくこの女性は美しかっただろうと思われるのですが、喜びもない、感動もない、味気ない生活を毎日送っていたことだろうと思われます。いやむしろ自分がいやでいやで仕方がなかったかもしれません。自問自答していたかもしれません。または「神さま、もしもあなたがおられるのでしたら、…」と心の中で叫んでいたかもしれません。 そんな日々を送っている中で、ある日いつものように水を汲みにいつもの泉まで出かけてきたところが、その泉で明らかにユダヤ人と判る身なりの人が声をかけてきました。7節にあるように、イエスさまは「わたしに水を飲ませてください。」といって声をかけられたのです。そこからの会話が今読んだ聖書の個所です。 ところがここには、普通ユダヤ人がとらない行動があります。今その理由を説明する時間がありませんが、9節からわかる通り、普通ユダヤ人はサマリヤ人を宗教的に軽蔑していて、彼らの町は通らないのです。ましてやユダヤ人の男性がサマリヤ人の女性に話し掛けるということは27節にもあるように、不思議なことなのです。にもかかわらず、サマリヤを通って、この泉に来て、この人生に失敗している女性に主は語りかけられたのです。 ということは、イエスさまはこの大きな渇きを心の中に覚えているこの女性の傍らにたたずむまで、とても大きな努力をしているのだということがわかります。でもイエスさまがこの日、この女性の傍らに座って、救い主であるご自分との出会いにまで導かれたように、主は今日、この今もあなたの傍らにおられてあなたの一番必要のあるところで出合って下さろうとしておられます。 イエスさまはここで、この水を飲むものは…という言い方で話を切りだしていますが、飲んでも乾く水はいわゆる物質的な水で、この女がこの泉に汲みにきた飲み水ですね。しかしこのことから切り出してイエスさまは、飲みはじめると乾くことがない水、汲めども汲めども更に次々と湧き出てくる水の泉について語っておられます。
わたしたちを探しに出て来てくださった神わたしもこの水を飲みました。そしてこの泉を発見しました。今から約29年程前のことです。私はもともとキリスト教が大嫌いでした。理由はただ単に外国の宗教だからということでした。私は愛国心のとても強い少年だったのです。それゆえに高校の時にはクリスマスにケーキを食べることに強い抵抗を感じ、家族の楽しみにしていた団らんの時に反旗を翻したこともありました。防衛大に合格して横須賀に移動して初めてキリスト教の教会というものに接しました。 多少英語を話すことに興味があったのですが、それならということで2年生になったとき先輩が案内してくれたのが米軍基地の中にある軍属のための教会でした。ひとつの建物の中にユダヤ教とカトリックとプロテスタントのチャペルがそれぞれある素敵な建物でした。基地の中に入ると外国にいるような雰囲気の中で、たまに日曜日クラブ活動のない日などにプロテスタントの礼拝に出てみましたがほとんど何を言っているのかわかりませんでした。 そのうちオルガンを弾いていた日本人の方が声をかけてくれ、実は礼拝のあとで日本人対象のバイブルクラスをやっているから出てみてはどうかということでした。出てみると私と同じように英語が目当てでそこにきている大学生や社会人が七、八名参加していました。たまにしか出られなかったのであまり強いつながりはありませんでしたが、たまに寮生活の気分転換に出席していました。その間そのクラスを担当していた宣教師も妻帯者の宣教師から単身の宣教師に変わりましたが、三年生のクリスマスが近づくころ横浜にある彼の家に招待してくれました。 招きに応じて訪問してみると他に何人かの方々も招かれていました。その中に若いクリスチャンビジネスマンの夫婦がいて、ご主人のほうがなにやら熱心に神のこと、信仰のことを語ってくれました。私はその方の顔の輝いた様子にとても魅力を感じました。もしもあの人が一生懸命語っていることが本物だったら自分もそれがほしい…そう思うようになりました。 その日以来信じてみようかなという思いで聖書を読むようになりましたが、あまりにも信じられない記事が多くて前には進めませんでした。四年生になるとクラブ活動の責任からも開放され、比較的自由になったので5月5日の祝日し何も予定がなかったので横浜のその宣教師の家を訪ねて一日を過ごすことにしました。彼も喜んで迎え入れてくれ、その日は一日中神のこと、聖書のことを話し合いました。しかし議論に進展はなく、夕方になったので帰ることにしました。帰ろうとする直前に、その宣教師がしきりに食い下がって、最後にマタイの4章17節を読んでほしいというのです。 そこにはこうありました。…この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」 その時までは、あるかないかわからない天国のために自分を律して生きようとするのはいやだと思っていたのですが、このみ言葉に出会って、私たちはこの地上にあって天の御国、つまり天国を体験して生きることが可能になったのだ、ということがぼんやりと感じ取れる気がしました。それでもまだぼんやりとしていたので宣教師には何も言わずに帰途につきました。帰りの電車の中でそのことを思い巡らしてみると、それまでの自分の人生の経験に照らしてみて、神は存在するということ、そしてその神を体験して生きることができるということが確信となってきて心がわくわくしてきました。 舎に帰ると早速、今しがた自分が確信したことを同室の、その日外出することなく過ごしていた同学年の友人に分ち合いました。彼はいくつかの質問をしてきましたが、あまり答えにはなっていなかったようです。しかし彼は、その夜一人で屋上に上がり、カトリックのミッションスクールであった中学の時に覚えた「主の祈り」を夜空に向かって祈ったのでした。次の日、朝起きてみると、なんと彼も私と同じところに立っていたのでした。その日から私達の「神と共に生きる人生」がスタートしました。 私達の礼拝しているイエスさまが、その働きを開始された時、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」といわれてその宣教を始められました。近づいたということは天国の方から私たちのところに近づいて来てくれたということです。あなたには、天の御国または天国とは死んだ人がいるところというイメージがありますか。それとも神さまが居られる所というイメージがありますか。もちろん神さまだと思います。天国というのはまことの神がおられるところということです。ですから「天の御国が近づいた。」ということは神さまの方から私たちのところに近づいてくださっているということです。 ある個所で、というか、マタイという人を弟子としてご自身に招かれたとき、イエスさまはこのようにいわれました。「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。…ルカ5:32 」この方はご自身の歩みと共に天国が来た、といっておられ、またここで「わたしは来た。」といっておられます。ですから、ここにどこからか来られた方がおられます。このどこからか来られた方は天国をご自身と共に持って来られました。天国を私たちのところまで持ってくることのできる方というのは天国の中心的な方ではないでしょうか。別なところでイエスさまはこのように言われています。 「あなたがたが来たのは下からであり、わたしが来たのは上からです。あなたがたはこの世の者であり、わたしはこの世の者ではありません。」ヨハネの福音書8:23 「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」と主は言われました。私たちは神さまがどこか遠いところにいるように感じています。イエスキリストは私たちを探しに出てこられた神さまの姿です。福音書には神がすぐそばまで来て語っておられるのに、それに気がつくことのできないユダヤ人たちの姿が描写されています。この時代の多くのユダヤ人たちが正しく生きることを心がけていました。しかし彼らは
今あなたの傍らにおられる神ところで、イエスさまが本当に神から遣わされた救い主であって、聖い方ならどうしてこのような5回も結婚をしてしかも今は誰かわからない男と同棲しているような女と会話しているのでしょうか。それはイエスさまが人の罪を赦す権威をもった方だからです。イエスさまの生涯を書き記した福音書を読んでいってみると、イエスさまが人の病を奇跡的に癒す前に、その人の罪を赦しておられる場面があります。当時の宗教者たちはそれゆえにキリストにつまづいたのです。人の罪を赦すとというのは神にしかできないことだ、と彼らは言ってイエスさまを非難しました。しかし彼らは自分たちのすぐそばまで出て来てくださっていた神に気が付かなかったのです。 どうしてイエス・キリストは人の罪を赦す権威を持っているのでしょうか。それはこの方が、ご自身は全く聖い方であられるのに、私たちのすべての人の罪の身代わりとなって、十字架の上で私たちの罪の罰を受けてくださったからです。でもあなたはこういわれるかもしれません。それは十字架の上で死んだからでしょう。ここで、キリストがこのサマリヤの女と話している時には、死ぬ前であってまだ十字架にはついていないではないですか。キリストが十字架の上で成し遂げられた、罪の赦しの業は永遠の御業であって、それは十字架の働きの前でも、後でも力を発揮するのです。 キリストは、世の始まる前から知られていましたが、この終わりの時に、あなたがたのために、現われてくださいました。1ペテ1:20 ですから、キリストは永遠から永遠まで、人の罪を赦し、聖めることのできる方です。 ですからイエスさまはこのサマリヤの女を不完全なまま、罪深いままで受け入れられました。そしてこの女に、ご自身が何のためにこの地上に来たのかを明かされたのです。それは23節に言っておられることです。 「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。」 キリストは真の礼拝者を求めて神の御もとから出てこられたのです。どのようにして私たちは真の礼拝者となることができるのでしょうか。それは霊と誠によって礼拝することです。誠とは真実のことです。私たちが神に本当に出会うには自分に真実に、正直になる必要があります。 神さまはイエス・キリストにおいてあなたのすぐ近くまで来てくださいました。イエスさまが十字架につかれたのは、あなたがなんとか神さまの前に正しい生活をできると思っているからです。自分で何とか自分の問題を処理できるといっているからです。でもあなたの神さまの御前における生活はとてもとてもそのようなものではない、にもかかわらずあなたは表向き正しい人を装っているのです。パウロは自分の表面的な行動にだけ目を留めて、他の人々を裁いている偽善者たちをさししてこう指摘しています。 ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行なっているからです。ローマ2:1 最近のわたしは主の前に出るときに「主よ、わたしは全くの失敗者です。」といいながら主の前に出ています。以前は自分はそれなりにやるべきことをこなしている、やれていると思っていました。しかし神さまの光が来たときに、本当に自分の歩みが上辺だけであって、主の思い、御霊にある歩みとは程遠いところを歩んでいたことをいやというほど思い知らされました。しかし不思議です。自分のだめさ加減、至らなさ加減が思い知らされれば思い知らされるほど、神さまがよりそば近くに感じられるのです。これはなぜでしょうか。 主が「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」といわれたように自分のことをそれなりに正しく生きている、と思っている人は主の下に、神のもとに行くことができないのです。 神さまはどこか遠い星のかなたに居られるのではありません。イエスキリストが十字架にかかってくださったということは、神ご自身が自らこの世界に私たちを探しに来て下さったという意味なのです。そして今あなたがこの十字架のメッセージに耳を傾けているというのは、神があなたのすぐそばまであなたを探しに来てくださっているということです。 人間が神を捜し求める、これが宗教です。しかし救いは違います。神が罪人を捜し求めておられる、これがまことの救いです。この世界に宗教はたくさんあります。しかし救いはたった一つしかありません。神が人間を探しに出てこられた。そして人間が神に近づくことのできない根本的な問題を解決するためにご自身自らその障害を取り除いてくださった。その場所が十字架です。
あなたといける水の泉私たちが真の礼拝者となるためには、霊と誠によって礼拝しなければならないとイエスさまは言われました。誠については、真実な、神の前に飾らない裸の自分になるということでした。では霊と誠によるといわれた霊についてはどうなのでしょうか。実はまことの神さまは、イエス・キリストによって十字架の業を成し遂げることにより、私たちのすぐそばまで、私たちをありのままで受け入れることができるまでそば近く来て下さいましたが、しかし神さまは聖霊によってあなたの内側に住んでくださるのです。 この内側に住んでくださる神さまと隠し事のなく真実にあなたが交わる時、あなたの腹の底からいいようもない喜びが湧き出てくるようになるのです。これがイエスさまがあなたに提供しようとしておられる「いける水」です。 イエスさまに自分の秘密中の秘密を知られていることを知って、そこから救い主との出会いがあったこのサマリヤの女のように、真実の、ありのままの姿でこそ私たちはまことの神と出会うことができのです。「あなたと話しているわたしがそれです。」とう言葉を聞いて、この女は自分が神に見出されているといういいようもない深い喜びに満たされていきました。そして、水がめをそこにおいて、いつのまにか町の人々のところへと走り出して行ったのです。このサマリヤの女には何が起こったでしょうか。まさしくイエスさまが約束したとおりに「永遠のいのちへの水」が流れ出たのです。 どうでしょうか。あなたはあまりにもたくさんの隠し事を神さまの前にしてはいませんか。人類の歴史の一番初めのところで、アダムとエバが罪を犯した直後に、彼らは自分たちが裸であることを知って、身を隠しました。 神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」 彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」…創世記 3章9 10 節 またいちぢくの葉を用いて覆いを作った、とあります。神さまの前に私たちはすべての人が裸であるにもかかわらず、何枚も何枚もの自分を隠す覆いを身に付けているのです。というよりは自分の問題点をあまり神さまの前に出すことなく、教会ってこんなもんだ、自分はこう考える、と言ってはいないでしょうか。でももしあなたがそのような上辺だけのクリスチャン生活を送っておられるのでしたら、残念ながら真の礼拝はできませんし、ましてや真の礼拝者たちに約束してくださっている「いける水」を味わうことなく過ごしてゆくことになります。もったいないと思いませんか。
祈り・恵の御座への招きこのサマリヤの女のようにイエスさまを自分の救い主として信じたい方はおられるでしょうか。または自分が握り締めているいるものがある、自分が身を隠しているところがある、そこから出て神さまの下にで、もっと深い交わりを体験したい、と感じられている方はおられるでしょうか。他に困難や課題を抱えている方、是非主の御前に出てきてください。一緒に祈りましょう。 |