| 2001年10月7日 主日礼拝式 “ルカ” 23章39〜43節 「キリストの十字架の上のことば(3)」 “池田 博牧師” 宣教メッセージ |
| 今週のみことばは、 ルカ23章39節から43節 であります。新約聖書の153ページになります。
“ルカ”
はい、聖書は以上であります。キリストの十字架上のことばについて、1つ1つ 触れております。今日はイエス様の2番目のことばであります。そこに目を止め たいとおもいますけれども、キリストが十字架につけられた時、そこには一緒に 2人の強盗・殺人犯が死刑囚として処刑されるべくつけられたということであり ます。決してキリストが1人で処刑されたのではないと言うことです。 そのことは実はイザヤ書の前以ての預言の中にも言われていたことである。イザ ヤ書の53:12に「キリストは罪人の中の1人として数えられる。」とそう預 言されています。そのことは即ちキリストは、宗教裁判と言いましょうか、特別 な裁判に掛けられて1人で、そこで処刑されると言うような、そう言う処刑のさ れ方ではなくして、言うならば極悪罪人の1人として烙印を押されて、そして処 刑されると言うことでありました。 その預言通りにことが運んだと言うことであります。そのように殺人犯であっ て、死刑囚であって、と言うことであります。ですから、いずれ殺されて行く、 死んで行く者への扱いでありますから、扱う人も乱暴にめちゃくちゃなことをし ても、一向に構わないと言う、そう言う状況であった。ですから、何の関係もな い兵隊達が、まあこれ以上ない罵詈雑言を浴びせ、そしてはずかしめをしている と言うことであります。 そして、又そこに集まって来ていた群衆もありったけのあざけりのことばを浴び せ掛けていると言う、そう言う状況があります。しかも、ここに引かれて来た3 人の死刑囚達は既に39回の鞭を当てられていて、背中の肉は裂け、血がだらだ らと流れていて、もうその時に既に気絶してもおかしくないと言う、痛ましい悲 惨な中に置かれていて、そしてゴルゴダと言う丘の上で磔にされて、太い犬釘を 打たれて、手と足が十字架の上に磔にされてそこに立たせられたと言う状況であ ります。 手から足から頭から、色んなところから血が流れていて、益々痛み苦しみが増す そう言う状況です。それを見る人々の目はどうだったのであろうか。まあ悲惨極 まりないその光景に、まともに見れない目を覆わんばかりの状況であったのだろ うかなあ、と言うふうに思います。しかし、皆さん、今私たちはこの3人がその ような痛ましい悲惨な状況の中にいる。と言うことを忘れさせるような光景、あ るいは会話、そしてそこに交わりがあった。 それが今読みました聖書の箇所であります。もう1度改めてそこを見て行きたい のでありますけれども、まず39節に2人の犯罪人の中の1人の犯罪人のことば が出てまいります こうです。「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と言うこと ばを発しています。この言葉は、一番新しい新共同訳で見ますと、もつとリア ル、生々しいと言いましょうか、「お前はメシヤではないか。自分自身と我々を 救って見よ。」とこう言う言葉だと言うことなのです。ですから、この犯罪人の 口から、吐き出しているその心の内がもろに出ているなあと感じられるところで あります。 でも、この犯罪人のこの言葉でありますけれども、少し前の35節を見ますとそ こにこうあります。「民衆はそばに立ってながめていた。指導者達もあざ笑って 言った。『あれは、他人を救った。もし神のキリストで、選ばれた者なら、自分 を救ってみろ。』とこうあるわけです。こう言う言葉を浴びせている。それを耳 で聞いていた。ですから、この犯罪人も、そうした聞いた言葉が耳に残りなが ら、同じような、それに近いことを言ったかなあと思います。 でも、後に付け加えていることがあります。「あなたはキリストではないか。自 分と私たちを救え。」とこう言っているわけです。そこには、十字架に掛からな い人々とは違ったこの犯罪人の心の内が吐き出されている。「俺達を救ってみ ろ。」とこう言うのですけれども、救って欲しいのだ、と言う思いもそこに込め られながら、こう叫んでいる。そこには、もううめきの叫びがそこにあるだろう かなあ。 確かに悪口を言い、決して褒められた状態であることは分かりますけれども、で も、キリストはそれに対して即座に責めたり騒いだりしておられない。むしろ沈 黙をしている。その沈黙が何か心に残るところであります。そして、しかも、あ なたはキリストではないか。と言っています。そう言う言い方の中に、言葉は乱 暴でも、でもその深いところにある意図をキリストはしっかりと受け止めて、そ して沈黙しておられたかなあ、とそんなふうな思いが致します。 そして、今度はその沈黙の中から、もう1人の犯罪人の言葉が出てまいります。 それが40/41節であります。そこを読んで見ますと、 “ルカ”
こう言う言葉がここにあるわけです。この言葉は皆さん。驚くような言葉と言っ たらいいでしょうか。特に41節の言葉などは、まさかこんな言葉が犯罪人の口 から出てくるのだろうか、と思えるようなそんな言葉であると思います。とても 何か心打つところがあります。でも、マタイの27:44を見ますと、こう書い てあります。「イエスといっしょに十字架につけられた強盗どもも、同じように イエスをののしった。」とあります。ですから、この強盗どもとあるわけですけ れども、2人の犯罪人たちはキリストを、この39節にあるこのもう1人の犯罪 人といっしょにののしっていた。そのののしっていた中から、この40節の言葉 が出てきている。なぜ変わったのだろうか。何があったのだろうか。そう思わな いではいられないところであります。 なぜ変わったかの理由が分かるようにも思います。それはイエス様の十字架に掛 けられた最初の言葉、それがもう1人の犯罪人の心を動かしたでしょうか。改め て見てみますと、少し前の34節に「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何 をしているのか自分でわからないのです。」とこう祈っている。あるいはとりな しをしている。その言葉を隣で聞いたわけであります。 正しい人、真面目な人が、そんなことを、自分の身に覚えのないようなことを今 されていると言う中。ですから、こんな言葉が出たかと思いもしますけれども、 でも、正しいから、真面目だから、そう言う言葉が出るかと言うと、そうではな い。むしろ正しければ正しい程、なぜこんな不当な扱い、裁判をするのか。と反 発したり、怒ったり、責め立てたりしても、おかしくないだろうな。なぜ、赦し の言葉か、なぜ、こんな言葉が口から出て来たのだろうか。 彼らが今置かれている状況はどんな状況か。鞭打たれて背中から血が流れ、釘打 たれて手足から血が流れ、そして、苦しみの絶頂の中にある、そう言う中。その 中にあって犯罪人は圧倒されるような言葉を聞いた。その言葉を聞いたこの犯罪 人は自分の意志を越えて、その心が変えられていったでしょうか。そんな思いが します。 そしてその犯罪人から出てくる1つ1つの言葉が意味深いなあと思います。まず 何が出たかと言うと、40節に「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑 罰を受けているではないか。」とこう言う言葉です。それはもう1人の犯罪人が キリストに向かって言っているありったけに叫んでいるその言葉に対してそれを いさめている。そんなことを言っていいのか、とそれをいさめている。反省を促 している。あるいは悔悟の心を促している。 更にこの犯罪人は41節にこう言うのです。「われわれは、自分のしたことの報 いを受けているのだからあたりまえだ。」とこう言う、自分を受容する。まあ犯 罪を犯すような者であるならば、受容なんかするはずがない。社会が悪い、人が 悪い、おれがこんなことをして当然だ。と言うような自己正当化があれば何時 も、悪いことでも、何でもしでかしてしまう。と言うのが犯罪の論理であります けれども、でも、この犯罪人は「われわれは、自分のしたことの報いを受けてい るのだからあたりまえだ。」と謙虚に受け止める心、それがここに見られます。 そして、更に続いてこの犯罪人が言つているのが凄い言葉であります。「だがこ の方は、悪いことは何もしなかったのだ。」とこう言っているのです。どうして 分かったのだろうか、と思います。同じ犯罪人として、その現場で初めて出逢っ たし、それまで、どう言う生き方、どう言うことをして来たかを全く知らないこ の犯罪人が「この方は、悪いことは何もしなかったのだ。」とこう言っているの です。そこには何かこの犯罪人の意識を越えた、神様の霊の働きを見ずにはいら れないのです。 私はペテロがイエス様に告白した、あのマタイの16章のあの言葉を思い出しま した。「あなたは生ける神の御子キリストです。」と。イエス様に対してペテロ はこう告白しました。何かそれと共通するような思いがいたします。とにかく、 意志を越えた素晴らしい告白をしている。ペテロに対してイエス様はこう言った のです。「このことをあなたに明らかに示したのは、人間ではなく、天にいます 私の父だ。」とこう言っています。 ペテロの信仰告白に、そう言ったイエス様です。ですから、この犯罪人のこのよ うな告白も、何かそこにある聖霊の働きの中で、そこにある神様の臨在の働きの 中で、このような告白が出て来たであろうかなあ、とそう思います。そして、ふ と私の中にはイエス様のもう1つの言葉が、思い浮かんでまいりました。「2人 でも3人でも、わたしの名において集まるところにはわたしもその中にいるので す。」 犯罪人の死刑囚の処刑のそのただ中です。悲惨極まりないその中にあります。で も、そこが何とうるわしい素晴らしい交わりの場所となっていることだろうか。 そして、この犯罪人は次の42節に行きますとこう言う告白になって行きます。 「そして言った。『イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私 を思い出してください。』」こう言う告白になって行くのです。 もう、そこには死刑囚とか、犯罪人とか、そう言うものがどこかに消えてしまっ て、キリストの前に罪を悔い改めて、素直な心になって、しかしまた、「そんな 私ですけれども、あなたが御国にお帰りになって御位に着くそのときには、この 者を思い出してください。」とそう願っている、心の訴えのような、そう言う言 葉であります。 すると、イエス様の答えが素晴らしいですね。43節、「まことに、あなたに告 げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」十字架上にお いて、今死刑囚として正に処刑されようとしていて、血が流れて、苦しみの絶頂 の中にあって、最早間もなく彼らは死んで行く。そして、それは正に地獄の門か ら、奈落の底へと落ちて行くような、そのような状況であって、誰もがそれ以 上、それ以外のことを考えられない中に立たせられているこの犯罪人でありま す。 でも、その犯罪人、その地獄の入り口に立っているこの犯罪人、でも、そこにキ リストがいた時に、キリストは見事にその地獄の門を閉じて、そして天国の門へ と導き入れる。それが出来る。それをすることの出来るお方。「きょう、あなた は、わたしとともにパラダイスにいます。」とこうありますけれども、「わたし とともに」と仰っているのが、何か素晴らしいなあと思いました。 「キリストがわたしとともにいる。」と言うこと、それは最早天国であり、安ら ぎの場であり、救いの場である、と言うことです。そして、皆さんもあるいは気 になっているかも知れませんけれども、あの39節のもう1人の犯罪人はどうな んだろうかと思います。あんなことを吐いた後、沈黙している。やり取りが消え ている。聖書は何も語っていない。 どうしたかなあ、と思います。でも、思うのです。この犯罪人は、もう1人の犯 罪人とイエス様とのやり取りをつぶさに一言一句、洩らさず聞き耳を立てて聞い ている筈です。全部を聞いている筈です。そして、天国への約束が与えられてい る。そんなことを思いながら、もう1度読み返した時に、この犯罪人はこう言っ ているのです。「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」私たち を救えと、こう言っています。俺を救えとは言っていない。俺だけでもいいから 救えとも言っていない。 私たち、我々だ、同じ犯罪人の仲間である彼も一緒に救え。とこう言っていま す。彼らの中に見えるほのかな灯火かなあ、そんなふうにも思います。確かに悪 口を言っていたかも知れない。でも、何かそれだけでない、この犯罪人の心の深 いところを感じないではいられないです。そして、沈黙していて聖書は何も語っ ていないように見えますが、むしろ私たちに多くを私たちに沈黙を通して語って いないだろうか。そんな思いがします。 そして、言うならば、この沈黙の中に、だからあなた方も、神の前には、キリス トの前では、黙っていてはならない。告白しなさい。叫びなさい。救いを叫びな さい、求めなさい。そうするならば、キリストはあなたの手を取って、天国に入 れてくださるのだ。黙っていてはいけない。告白しなさい。そこに救いがある。 そこに天国が開かれるのだから、沈黙をしないで告白をしなさい。と叫んでいる ような、そんな気がします。今日主は私たちにそのようにして語っている。 この素晴らしい、うるわしい交わりの中に、今正に滅びなんとする、その場が天 国への入り口となって行く。このうるわしい、素晴らしい姿。それは今日、私た ちへの主の訴えであろう。極悪罪人とあるのですけれども、それは例外だ。それ は特別だ。我々と違う。そう思わないようにしたいのです。この姿が私だ。正に 私だ。そう思えるへりくだった心。その人こそ、今日あなたが天国に行ける有資 格、主の恵み、主の素晴らしい招きであることを心に止めながら主に感謝した い。主を見上げたい。主よ、私を心に止めてください。 こんな者に目を止めてください。そう言える者とならせて頂きたいのです。 お祈りをいたします。 |