| 2001年10月14日 主日礼拝式 “ルカの福音書” 23章43節 「“キリストの十字架上のことば 4”」 “池田 博牧師” 宣教メッセージ |
| 今朝のメッセージのみ言葉をお読み致します。今朝は ルカ福音書23章43節です。新約聖書の153ページになります。 “ルカ”
ハイ。素晴らしいイエス様の十字架上のことばであります。そして又素晴らしい約束のことばであります。今日はこのことを中心に考えてみたいと思います。先週もこのみことばから共に見させていただいたのですが、その日の午後に故S.Yさんの納骨式をいたしました。 ここで礼拝をして、東戸塚にある新しく出来ましたメモリアルパーク(霊園)に行きました。新しい霊園で、まだ事務所も出来ていなくて、ほとんど他の墓石もない状態でした。S.Yさんの墓石が霊園のほぼ中央にあってとってもよく目立った近代的な、綺麗な石で、造りもとても立派でした。そして何よりも際立っているのはその墓石にみことばが刻まれているわけです。 そのみことばはS.Yさんにとって忘れられないみことばでありますが、第2コリントの4章18節のみことばです。 「墓石にこんなに長いみことばを刻んであるのも珍しいかな。」と思いますし、真っ白な字で浮き立っていて、「あの霊園に行った人は皆がこの墓石に目を留めて、みことばに触れるなー。これは本当に素晴らしいあかしでもあるなー。」とも思いました。ご主人がこのみことばを墓石に彫りたいとの願いがありましたが、本当に素晴らしいと思いました。 私はそこに立ってじっと見ながら思いました。「あー、この1つの墓石には一人の人の人生の総決算、総括した物がそこから伝わってくる。」そんな思いがいたしました。そして、更にこのみことばから、そこは墓石であって、そこに遺骸が埋められているのですけれど、でも何か、「そこは天国への入り口、天国を指差す素晴らしいあかしの場でもあるなー。」そんな風にも思いました。 とっても爽やかで、とっても素晴らしいひと時でありました。皆さんはS.Yさんといっても、知っている人はほとんどいないと思います。それというのも、S.Yさんはクリスチャンになられたのですが、教会生活は0でした。全く病床洗礼でしたので、教会生活をして居られません。 私は先週同じところから取り次がせていただき、午後にそのことをして、思い見たときに、改めてこのS.Yさんの最後が浮き彫りにされてまいりました。S.Yさんが本当に絶望の淵にありながら、瞬時に本当に変えられて、生まれ変わって救われていったという出来事の中に今日のみことばと重ねあわされて、真実な主のみことば、その約束の確かさを深く思わせられました。、 そういうとこから、今日もう一度このみことばに目を留めてみたいと思わせられたところでありました。S.Y姉妹自身はまだ60代前半で、元気でした。しかも病知らずということでしたから、こういうことになって、とっても大きなショックを受けらたわけであります。 そのショックの中で姉妹は本当に苦しんで七転八倒していたということでありました。そんな中で深く心に留めながら、祈りながら、いつも手紙を書くN姉妹の手紙がS.Y姉妹に届けられました。その一通の手紙はS.Y姉妹の心をいたく感動させたようでありました。その返事の手紙がNさんのところに10月4日の消印で届きました。 Nさんはその手紙が「大事な有言的なあかしでも有るので。」ということで、私に託して下さいました。S.Y姉妹は10月頃から病の痛みとの苦しい戦いが始まって、12月8日に召されいくのであります。12月2日に病床洗礼を受けたのですが、姉妹はその苦しい戦いの中にありながら、救いの喜びの中にあって、見事にそれを乗り越えているあかしを知ることが出来ます。 そんな事を心に留めながら、先ずみことばに目を留めてみたいのであります。43節をもう一度読みます。「イエスは、彼に言われた。『まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。』」 これは、同じように強盗殺人犯として死刑になるもう一人の死刑囚にかけたキリストのことばであります。そこには「素晴らしい、真珠のようなことばとしてここに記されているなー。」と思います。一つ一つ見てまいりたいと思います。最初に「まことに、あなたに告げます。」とキリストは言っています。 この「まこと」と訳されている言葉は「アーメン」という言葉です。お祈りの時のあの「アーメン」ですね。「アーメン」というのは「まこと」と訳されていますが、言語から更に「真実」あるいは「偽りのない本当のこと」という意味合いがあります。 ですから、ここでイエス様は「わたしがあなたにこれから語ろうとしている事は真実そのもので絶対に間違いのない事です。必ず実現する事です。」そんな意味合い、そういう力強い裏付け、そして確信の下に語られているということです。「それは何と頼もしく、私たちに確信を与える約束だろうか。」と思わないではいられません。 約束という時に、皆さん、私たちの約束というのは、当てになる様でならない、もっと言えばいい加減だと思わないでしょうか。 私は自分に本当にそう思うのです。私と家内がまだ婚約時代のことですが、みかんを食べて家内が「おいしい。」と言ったときに、私はどうも家内に約束をしたらしいのです。「じゃー、いつかみかん狩りに連れて行ってあげるよ。」と言ったらしいのです。 そして又、ぶどうを食べて「おいしい。」と言うと「そうか。ぶどう狩りに今度連れて行ってあげるよ。」栗を食べて「おいしい。」と言うと「栗拾いに連れて行こう。」私は約束したらしいのです。今、私達は結婚して30年を越えていますが、時々家内は果物を食べると思い出したように「あのー、約束したみかん狩り、ぶどう狩り、栗拾い、どれひとつ未だ実現していない。約束が果たされていないのですが。」と言うのです。 「あ、そーか。」約束をしたことも不確かな私ですが、でも、そう言われるから「いつか、しないといけないなー。」と思いながら、ふっと気がついた時は3月頃でみかん狩りするには時期外れだったり、又今はシーズンですが、でも今は忙しくってなかなかそれが出来ないわけですよ。ですから、なかなか約束を果たせないで、気が付いたら30年を越えていたというようなことであります。 私のいい加減さは一応割り引いたとしても、やはり人間同士の約束はなかなか果たせないなーと思わないでしょうか。まして重大な内容をもちかけられたり、どうしたらよいか、何とかして欲しいと投げかけられてくる問題に対して、それを何とかしようと、例え思ったとしても、私達はそれを果たせない、出来ないことがいっぱいあります。 病気になって、苦しんでいる人を目の前にして、家族を目の前にして、何とかしてあげたい、代わってあげたい。でも現実は代われないし、どうすることも出来ない。私達はしたいと思っても出来ない自分、せめて出来ることは傍にいてあげること、その程度であってそれ以上の約束は果たすことの出来ない私達の姿がそこにある。 真実であろうとすれば、するほど出来ない自分に突き当たって、「あー、人間て本当に出来ないんだなー。」そう思いますね。でもイエス様は違います。イエス様の約束はいつも「アーメン」なのです。真実なのです。必ず出来るのです。何一つ出来ないことはない。「アーメン、わたしはあなたに言います。わたしの言ったことは必ず実現するのです。」とおっしゃって下さっています。 私は改めてこのイエス様の約束の言葉の確かさを思わないではいられません。しかもイエス様はこの約束を、どういう時にしているか。今まさに、十字架上において、がんじがらめになって、手足に釘を打たれて、血が流れている、そのさなかでの出来事です。でも今、それがどこにおいて語られているのか現実を忘れてしまうようなイエス様の確信に満ちた言葉です。なんという力強い、そして頼もしい言葉であろうか。 先ほどのS.Yさんでありますが、6月に癌の宣告を受けたなかで、どんなに苦しいところを通られたか。そのお手紙を一寸読ませて頂きたいと思います。Nさんに宛てられた手紙です。
手紙の途中ですがこうしてS.Yさんは50数年前の小学校6年生、まだ小さい小学生に果たしてどこまでこのみ言葉が理解できただろうかと思うのでありますが、でもそのみ言葉は確かに朽ちない種として心の隅に蒔かれて、50数年残りつづけていた、生きつづけていた。だからこそ、娘の1枚のファックスの中にそのみ言葉が書かれたときに、もう体中が震えて止まらなかった。 毎日のように病院の通院にS姉妹が車で奉仕をして下さっていたのであります。9月7日のことですが、そこでの点滴とか終わって、辛い体であったのですが、どうしてもS姉妹として「病院から教会に直行して、先生に祈ってもらいたい。」という思いが働いて、これは本当に主の前の大事な決断としてS.Yさんを教会に連れて来られたのです。 私は応接室でS.Yさんにお会いしました。そして私は初めて9月に起こった出来事の経緯を聞いたのであります。私はお会いした瞬間からそこには神様の臨在があることを感じないではいられませんでした。以前の姉妹を知っている私にとっては、今目の前にいるS.Y姉妹は何か別人の様でありました。 神の前にも、人の前にも本当に素直にへりくだっていて、私が「大事なときだな。」と思いまして、個人的に姉妹にみ言葉から罪の悔い改めと主イエス・キリストに対する信仰をはっきりさせるための導きをさせて頂きました。その1つ1つに対して姉妹は染み透るようにうなづいて、悔い改めの祈りをし、告白をしたのでありました。 そして、明確に、改めて主の前に救いの経験をしたのでありました。ハレルヤです。本当に主は生きてあられるお方。そのことを、その時そこに居た皆さんにも報告して共に喜んだことでありました。 数ヶ月七転八倒して、苦しんでいて、ご主人はじめ周りの人たちも「何とかしてあげたい。でもどうにもまらない。」中にあって、どうしてあげたらいいのか判らない中で、本人も苦しいし、周りも苦しいし、どうにもならない中にあった。でも主は1つのみ言葉をもって、この姉妹の心を捉えて下さいました。 そして、生まれ変わらせて下さいました。全く新しく作り変えてくださったのです。主の真実です。主がひとたび「わたしがあなたにいう。」その言葉の約束はどんなに確かなことでありましょうか。そのことを思わないではいられないのであります。 そして、次にイエス様はこういう風に言うのです。「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」とおっしゃいます。キリストは私たちに手を差し伸べて、助けをし、そして救い出してくださるお方であります。でもそれは明日とか、何時かではなくして、今日、今、それをするとイエス様はおっしゃって下さっているのです。 イエス様の救いは「明日でない、いつかではなくして、今日、今である。」と言われるのです。目の前のそこにいた強盗殺人犯にとっては、もうまもなく確実に死んでいかなければならない存在です。その人に向かってキリストはいつかではなくして、「今あなたをわたしは救う。」と言って下さるのです。 主はそのようにして、いつでも私たちに対して「今日、今あなたを救う。」と言って下さることの出来る主であります。主にとって遅すぎるということはないし、主はいつも時を持っていて下さるし、更には主にとっていつも現在である。主は私たちにとっていつの現在だ。過去ではないし、将来でもない。今、この時私たちを救い、私たちに臨み、私たちを変えてくださる主であるということです。それを思います。 先週、もう一つ素晴らしいことがありました。それはS.Fさんの洗礼式です。S.Fさんはおばあちゃんで、元気でおられたのですが、9月8日に突然夜中に倒れられて、救急車で病院に運ばたということでありました。しかもそれは、狭心症とか心不全とか更には肺炎も併発していたということで、病院では高齢でもあるので、この先とても厳しい、危ない状況だという診断が下されたようでありました。 翌朝早くから、娘さんが電話をかけて下さって、早天祈祷会でそのことを祈ったことでもありました。真剣な祈り、願いが神の前に昇った事でありました。神様は不思議なことをして下さいました。もうどうなるか判らない状況の中から、何と10日間で退院して、お医者さんに「退院しても寝たきりになってしまうか、動けない状態かもしれない。」と言われたのですが、元気になって、教会の礼拝に来ることが出来たのです。 娘さんとしては「どうしても早いうちに洗礼を授けてあげたい。」という願いが起こって、私たちにも「そうなるように祈って欲しい。」ということでありました。そう祈っている中で、先週急に洗礼式ということになったわけであります。 朝ここに来られて、一番前に座られて、そこで私は「S.Fさん、お聞きしますけれど、私たちの神様は唯一ただ一人の神様ですと信じますか。」と聞きました。「はい。信じます。そのとおりです。」とはっきり答えられました。次に「それでは、イエス・キリストは私たちの唯一の救い主だと信じますか。」とお聞きしましたら「はい。信じます。そのとおりです。」とはっきり言われました。 そして、めでたく洗礼式を行ったわけです。いやー、素晴らしいと思いました。そこには本当に御霊が働いたなー。そして今というこの時に、主はこの方を捉えて下さいました。背後の祈りもありました。期待もありました。でも何よりも主がこの時それを活かしてくださった。そう思いました。そのようにして主はいつも現在のお方として私たちに臨んでくださるお方だということです。 皆さんにとって、どんな問題が、どんな悩みがあったとしても、あなたが主の前に真剣に出るときに、「わたしは今日あなたに臨む。」と言って下さっている。 最後にイエス様はここでこう言われます。「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」これもまた素晴らしい約束です。イエス様は明日ではなく、今、今日救ってくださる。その救いは「アーメンです。確かです。真実そのものです。」と言って下さる。そして、救ってくださるイエス様は私たちを何処に導いてくださるのでしょうか。 それはパラダイスです。パラダイス、それはほぼ天国といって良いのですが、一時控え室といって良いでしょうか。イエス様がやがて再臨くださる時に、永遠のみ國に全ての者が入ることが出来るように、主は天国を備えてくださった。そこに私たちを連れて行って下さるのだということであります。 今イエス様がおられる場所は十字架上です。死刑の処刑をされている只中であります。キリストも処刑される強盗犯たちも、いうならばそこは地獄の入り口に立っている。地獄に落ちる淵に立っている。でも、その淵の前でイエス様は「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」そう宣言して下さって、その地獄の入り口が同時に天国の入り口、天国への門として開いてくださって、私たちを引き上げてくださる、導きいれてくださるということであります。 皆さん、誰がこのようなことが出来るでしょうか。キリストは十字架において、それをしてくださるのです。キリストは私たちの罪の上に裁かれるべきその罪を、今まさに十字架において、苦しみつつ、身代わりになっている。そしてその死の呪いを今受けつつあります。 しかしキリストは、その裁きを受けるそのことの故に、そのもの自体が私たちを地獄から、私たちを滅びから、永遠の裁きから、天国へと引き上げる、その只中の出来事として、なおキリストは揺るぎない確信を持って、泰然自若として、み言葉を語ってくださった。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」と言ってくださるのです。 私たちは、小さな約束も果たせない、まして大変な悩み事に対してどうすることも出来ない中にある。でもキリストは地獄の奈落に落ちるその門前で、私たちを天国に導くことの出来るお方です。素晴らしい救い主です。偉大なるお方です。唯一の方です。私たちが与えられている救い主はこういうお方です。 今日、私たちはそのことをもう一度心に深く留めて、十字架の言葉の1つでありますけれど、それは私たちを永遠の滅びから永遠の救いへ導く素晴らしい約束の言葉であることを深く心に留めたいのです。キリストにあるものはいつも希望です。どんな絶望の淵にあっても、希望だけがキリストにある者に与えられています。 キリストにあるのは、いつでも出来る、大丈夫ということであります。どんな不可能に見える現実をも通してその先に、可能な道を開いて下さる、それが主です。主はそのようなお方として、私たちにこの朝も皆さん一人一人に臨んで下さっています。この主にこそ信頼し、この主こそ見上げて、「きょうわたしとともにパラダイスにいる」と言われる主に全てを委ねたいのであります。 お祈りを致します。 天の愛するお父様。このようにして、今日もまた、あなたがここに臨んで下さって、あなたがしてくださった十字架の贖いの、その素晴らしいみ業をもって、今日又新しく「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」と言ってくださる哀れみと恵みに富める主であることを覚えて感謝します。 どうぞ、今日、お一人お一人の心の中に深くそのみ言葉を刻ませてください。そしてまた、新たに、信頼し、お委ねしていくことの出来る者として導いて下さい。 尊いイエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン! |