2001年10月21日 主日礼拝式
“ルカの福音書 5章27〜32節”

「“神の食卓への招き”」

“月井 博師” 宣教メッセージ

今朝のメッセージのみ言葉をお読み致します。今朝は ルカの福音書5章27節から32節 です。新約聖書の108ページになります。

“ルカ”
5:27 この後、イエスは出て行き、収税所にすわっているレビという取税人に目を留めて、「わたしについて来なさい。」と言われた。
5:28 するとレビは、何もかも捨て、立ち上がってイエスに従った。
5:29 そこでレビは、自分の家でイエスのために大ぶるまいをしたが、取税人たちや、ほかに大ぜいの人たちが食卓に着いていた。
5:30 すると、パリサイ人やその派の律法学者たちが、イエスの弟子たちに向かって、つぶやいて言った。「なぜ、あなたがたは、取税人や罪人どもといっしょに飲み食いするのですか。」
5:31 そこで、イエスは答えて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。
5:32 わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」

この物語に登場するレビとは、新約聖書の一番最初の福音書、マタイの福音書を書いた人でイエス・キリストの十二弟子の一人となった人物です。彼はイエスさまに御自分の弟子になるように呼び出された時は、仕事中でした。彼の仕事は今で言う国税庁職員ですが、当時は地中海世界を広く征服して支配していたローマ帝国のために、その被支配地の民族から税を取りたてる仕事なので、その民族の人々からは、いわば、裏切り者扱いされて嫌われていました。

イエスさまに呼び出された時、彼は仕事中だったのですが、おそらく、かねがね聞いていたイエスさまの教え、その生き様に目を開かれていて、「この人こそが自分達がずっと待ち望んでいた救い主ではないのかな。」と考えていたと思います。それで主に呼ばれるとすぐに、喜んでイエスさまに従って行くことにしたと思います。

彼はそれなりの財産も持っていましたが、もうこれからは主に従って、いままでとは異なった生活スタイルになるので、自分の友人知人達を招いて大盤振る舞いをしたようです。それは又自分がこれから従って行こうとしていたイエスさまを皆に紹介するためでもありました。

彼は元々取税人という、イスラエルでは軽蔑された仕事をしていたので、当然の事ながら、彼の友人知人という人たちはそれに類した仕事をしていた人たちでした。その宴会の場は飲めや歌えのドンちゃん騒ぎだったと思いますか。おそらくその食卓は喜びと楽しさが溢れていながらも、不思議な聖さが支配していたと思います。

イエスさまは、特別な伝道集会や礼拝式といった場を使わずに、食べるというわたしたちの基本的な生活の場を通して、大切なメッセージを伝えたり、儀式を定めたりしています。5000人の給食や聖餐式の制定などがその代表的なものです。主は食べたり飲んだりする時をとても大切にしておられたのです。自分の歩みを振り返ってみるとき、人生の転換点となってのは、やはり食べたり飲んだりした場所だったなぁと思います。

大学3年のときに宣教師にクリスマスの食事に招かれて、彼の家に訪れたのが私の人生の大きな変化の始まりでした。その場に私たちと共に若いビジネスマン夫婦が招かれていたのですが、そのビジネスマンがしきりに神様のことを熱っぽく語っていたのです。その場にいた私は彼の顔がとても輝いて映りました。そして、この人の持っているものが本物だったら、自分もほしいと思うようになりました。その食卓にはおいしいものがたくさんありましたが、その場は食べ物以上のすばらしさが覆っていたのです。

それから半年して私はクリスチャンになったのですが、次の年のクリスマス、同じような食事の場を今度は私たちが用意しました。そしてその場所で、主をはっきりと信じる人たちが更に起こされたのです。聖書にこのような言葉があります。

“ローマ”
14:17 なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。

神の国は飲み食いのことではないといっていますが、引き合いに出されることから考えると少し似ている部分があるのだと思います。もちろんここで聖書が語る神の国と天国とが同じものかということがありますが、この地上において神の御心による支配が及ぶところと天上においてのそれとの違いはあります。神の国は飲み食いのことではありませんが、しかし質的には同じもので、私たちは、義と平和と聖霊による喜びをこの地上において体験することができるのです。

レビは自分がイエスさまに従う生活に入ること、またイエスさまをみんなに紹介しようとして、大宴会を開きました。しかしその場には特別な、楽しくも聖い雰囲気が支配してしました。

しかしそのような光景を見て面白く思わなかった人達がいます。ここに書かれているパリサイ人と言われる人々です。パリサイ人とは、当時のこの国の民族であったイスラエル人とは別にパリサイ人というもう一つ別な民族がいたという事ではありません。パリサイとは「隔て、分かたれる」という意味で、この物語の当時は、現在私たちが持っている聖書の前半半分、旧約聖書の部分しか存在しなかったのですが、その旧約聖書の中にある様々な戒律と宗教的な教えを実践して生きていこうとしていた人々でした。

それゆえに、一般の人々とは隔てられた生活を心がけていた人々でした。彼らは道徳的な基準の高い宗教家たちでした。宗教家として生きているということは、神の前に生きているということです。つまりこのパリサイ人たちは、神の前に自分は正しく生きていると考えていた人達でした。

この人々がイエスさまのあり方を見て文句をつけてきたのでした。こんな、まことの神を信じてもいないローマ帝国の手先になって働いている、しかもどこでお金を騙し取って懐に入れているかもわからないようなこの罪人連中と一緒に食事をする事は、イエスさま、あなたにはふさわしくないんじゃないですか。

彼らは心の中でこう考えていたのです。「自分は罪人なんかではない。自分はそれなりにモラルのある生活をしているし、さして悪い事もしてはいない。それに引き換えこのイエスというヤツはなんだ。神を信じない国の手下になった連中と飲み食いをして…。」しかしイエスさまが問題にしている罪とはそのような悪い事をするとか、モラルの低い生活をするとかそのようなレベルの事ではありません。

この物語の中での本当の罪人はパリサイ人です。旧約聖書の書かれた本当の目的は、神の基準に照らして私たちが生きようとすることを通して、私たち一人一人が自分は、神が望んでおられることをひとつも徹底して満たすことのできない、本当に罪人であるという事を悟ることです。自分は神さまの基準には到底到達できない不完全なものである事を知る事だったのです。

では罪とは何でしょうか。罪とは真の神の前に傲慢に、また高慢になって生きることです。この神の御前における傲慢や高慢の根底にあるものは何でしょうか。それはかたくなな、砕かれない自我です。私たちのかたくなな自我、砕かれていない自我が私たちの人生の最大の問題です。

これがあなたの独特なものの見方を形成します。あなたは人を疑います。あなたは人をけなします。あなたが自分の世界に閉じこもるのも砕かれていない自我です。あなたが怒るのも砕かれていない自我です。あなたが高慢になるのも、傲慢になるのも、砕かれていない自我の故です。

あなたが劣等感を持ったり、自己憐憫に陥ったりするのも砕かれていない自我の故です。あなたが人との人間関係がうまく行かないのも、あなたの砕かれていない自我の故です。人生の、生活の、家庭のあらゆる分野において、あなたがうまくいっていない問題があるとすれば、それはあなたの砕かれていない自我が問題なのです。

聖書の一番最初の書物、創世記の3章において、善悪の知識の木の実を食べさせようとして、蛇は人間を欺いて言いました。

「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」創世記 3:5

自分をこの世界の原点とすること、すべての感情と考え方・思考の仕方の原点を自分に置くこと、これが私たちが神になることであり、私たちのすべての混乱といらいらと悲しみの原因です。こんな風に語っている私にも今、人間的にはとてもつらいこと、悲しいことがあります。しかし私はそのことをこのように見ます。

そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです。…」ヨハネによる福音書 5:19

私はこの御ことばを示されてからは、この悲しくなる問題を、父が見ておられるように見ることにしました。するとそこには希望が湧いてくるのです。いいですか。私たちのすべての問題と困難、悲しみと混乱の原因はまことの神さまがあなたの心の中心を占めていないところにあります。そうではなく、あなたの中心には、かたくなな、砕かれない自我があるのです。これが聖書の語る原罪です。罪です。

そしてそのような硬い、かたくなな、砕かれない自我を持っていて、まことの神の前に身を低くすることができず、救い主として来られたイエスさまの前に自分を低くすることのできないパリサイ人こと罪人だったのです。一方、どうでしょうか、マタイを始めとする取税人やそれに類する罪人たちは。彼らは救い主が必要であることを認め、イエスさまを招き入れました。またはイエスさまとの交わりの招きに応じました。しかしあなたはいかがでしょうか。

聖書の福音書とはキリストの生涯を記録した書物ですが、なぜ四つもあるのでしょうか。しかもこれら福音書がすべてそのキリストのこの地上での最後の日、つまり十字架にかけられた日とその前日の記録になぜ多くのページが割かれているのでしょうか。ヨハネの福音書にいたっては福音書全体の半分近くを占めています。それは前日の夜のゲッセマネの園での祈りから十字架の上で「完了した。」と叫んで死ぬまでの一切の労苦と痛みと苦しみがすべて、あなたのためであったことをあなたが十分に味わい知るためです。

ゲッセマネの園でイエスさまは、このように祈られました。

それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」マタイの福音書 26:39

そこから主の血のにじむような祈りと試練と困難の時間が始まりました。というのは主はこの杯を飲むためにこそ、この地上に来られたからです。杯とはその人に与えられた苦難の試練のようなものです。なぜ主はこの杯をできるならば飲みたくなかっのでしょうか。

それはご自分の御性質と全く正反対のものが、その杯の中にたっぷりと入っていたからでした。イエスさまは御父とその思いが全く一体となった、その思いが父に従順そのものの方でした。でもその杯の中に入っていたものは何だったでしょうか。それは一言で罪といわれるもの、わたしとあなたのそして全人類の固くてかたくなな、砕かれようとしない自我なのです。

ところであなたの手元には聖書が一冊ありますか。その聖書が一冊、あなたのためにあって、その一冊一冊にイエスさまのゲッセマネから十字架までの苦しみの道が描写されているように、あなたの持っている聖書一冊の中のイエスさまの苦しみの道の描写はあなた一人のための描写なのです。なぜならあなたのかたくなな、砕かれない自我のためにこそ主イエスはこの地上に来られたのですから。

イエスさまは、この聖書の時代に自分の仕事にいそしんでいるマタイに目を留め、声をかけられたように、主は今あなたに声をかけておられないでしょうか。あなたは知っているのです。救い主はイエスさましかおられないことを。ゲッセマネから十字架の上でのその死まで、いっさいの苦しみはあなたのためでした。この方によってあなたは天国に入ることができるのです。神さまの御心と一致して生きることができない、あなたの砕かれていない自我を抱えたままで、神がその中心におられる天国には入れないのです。

しかしこの方の苦しみがあなたのためであったことをあなたが認め、主よ私のために死んでくださったこと、ありがとうございました、と主にあなたが申し上げるなら、あなたは救われるのです。主は言われます。

見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。ヨハネの黙示録 3:20

なぜそんなにまでして苦しまれたのでしょうか。あなたのいかんともしがたい、砕かれない自我が砕かれるためです。その徹底した苦しみによって、イエスさまは私たちのための罪の聖めを成し遂げられ、死んで葬られて後、三日目によみがえられました。そして今、あなたに声をかけておられます。ちょうど、この物語の中で、マタイに声をかけられたのと同じようにです。主をあなたの家に招いてください。主をあなたの人生に招いてください。あなたの人生の霊の食卓を豊かにしてくださるのは主です。今一緒に祈りましょう。