2001年10月28日 主日礼拝式
“ヨハネの福音書” 19章26〜27節

「“キリストの十字架上のことば 5”」

“池田 博牧師” 宣教メッセージ

今朝のメッセージのみ言葉をお読みいたします。今朝は ヨハネの福音書19章26節と27節 です。新約聖書の202ページになります。

“ヨハネ”
19:26 イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます。」と言われた。
19:27 それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます。」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。

はい。聖書は以上です。キリストの十字架上の言葉を見てきておりますが、今日はその3つめのキリストの言葉を見ることになります。今、読みましたところにありますように、まず母にとありますが、これはマリアに向かってのキリストの言葉です。

「女の方。そこに、あなたの息子がいます。」。そして、その弟子にとあり、これはヨハネに対してですが、「『そこに、あなたの母がいます。』と言われた。」という、このところであります。

十字架の痛み、苦しみのなかから、キリストは7つの言葉を発せられましたが、この3番目の今日の言葉は、とっても慈愛に富んだ言葉であると思います。今日はこの言葉をご一緒にみてまいりたいと思います。

まず読みまして、皆様の心には何が響くでしょうか。ここから皆様はどんなことを聞き取るでしょうか。何が教えられるでしょうか。そんなことを心にとめながら、ご一緒に見てまいりたいと思います。

先週は、皆さんに祈っていただいて、私の母教会である、柴又の教会に行ってまいりました。教会創立50周年ということで、記念の特別礼拝と午後の特別伝道集会ということで招きをいただいて、行ってまいりました。皆さんのお祈りに押し出された、という感じでありましたが、とっても祝福されまして、よい時を備えてくださいました。交わりもとっても良い時でありました。

私はそこで1958年(昭和33年)に洗礼を受けて、1964年(昭和39年)、ご存知の東京オリンピックの年に献身をして、神学校に行きました。その時から数えますと、実に37年ぶりに教会に行かせていただきました。

途中、何回かお邪魔したことはあったのですが、でも、50周年という区切り、記念でありましたので、久しぶりの方々、遠くに行った方などがお見えになって、文字通り37年ぶりという方々が大勢いまして、「大分、年をとったな。」と思いました。それ以上に、向うは「先生こそ。」という感じでありましたが。

そんな中で、和やかな、しかしまた、そこに素晴らしい恵みを分かちあうことができました。いろいろな事がありましたが、私の中に1つのことがとっても深く心にとどまり、また感動もしたことでありました。それは一人の姉妹であります。この姉妹は地方から出てきて、東京で働きながら、やがてお母さんを迎えて、親子お二人で生活をしておりました。

この姉妹は、私が献身してからしばらく後に主に献身し、教会献身をし、特に本郷先生ご夫妻に仕えるという形での献身をした方であります。本郷先生は、ご夫妻ともあまり丈夫でなくて、いつも婦人達が食事を作ったり、掃除をしたり、さまざまな形でのお手伝いをしていました。ですから、教会員は助け手が必要であることを知って、祈っていた中で、この姉妹が献身して、ご夫妻に仕えたのでありました。

それはそれは、本当に大きな助けになったと思います。私も晩年に家族で毎年お訪ねし、そのことも伺いました。その先生方も今は既に亡く、天にお帰りになっています。1976年に奥様が、そして10年後の86年に先生が召されているわけであります。

先週行きまして、その姉妹が相変わらず台所において陰で仕えて、しかも本当に生き生きと、晴れやかに仕えている姿を見て、私は心に深く痛く感動したのであります。以前にも勝って、本当に主に仕えきった、そしてご夫妻に仕えきったその姿が、麗しくも何か私の心に刻まれたことでありました。

「少し話もしたいな。」と思ったのですが、とにかく姉妹が台所にいて、チャンスもなく、ちょっと挨拶の言葉を交わした程度でありました。一人の人が主に仕えきるという、麗しい姿を見たことであります。

今日は、今読みましたところに目をとめたいのであります。キリストは母に向かって「女の方。そこに、あなたの息子がいます。」とヨハネを紹介し、ヨハネには「そこに、あなたの母がいます。」と紹介しています。

言ってみれば赤の他人でありますが、でもそれを超えて、ここにキリストはとっても大事なメッセージがある、そして「おや?」と思うようなことが語られて、でもそれが新しい主にある兄弟姉妹としての有り様について、とっても大切な事を語っておられると思いました。

まず27節の方に目をとめたいと思います。弟子に「そこに、あなたの母がいます。」とキリストは言われました。その弟子はヨハネということであります。母マリアには少なくとも6人の子供がいたということがわかります。マタイの13章55節にこうあります。

“マタイ”
13:55 この人は大工の息子ではありませんか。彼の母親はマリヤで、彼の兄弟は、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではありませんか。

キリストの兄弟にヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダ、少なくともこの4人がいて、また姉妹達も一緒であった、と書いてあります。ですから、姉妹も少なくとも2人以上はいたということです。ですから、その6人にイエス様をいれれば7人子供がいて、少なくとも両親と9人家族ということであります。

その6人いる子供の誰も、この最後のところには来ていません。いまだ、この時、彼らははたして主を信じていたか、受けいれていたかどうかは、定かでありません。そういう中にあって、キリストは母マリアをヨハネに託すのであります。

私は、「なぜ、ここでヨハネに託したのか。なぜ、ヨハネなのであろうか。」。そのことを思わせられたのです。皆様、どうでしょうか。イエス様は、ヨハネに、「ひとつ、母マリアを兄弟の誰かのところに連れて行ってほしい。」という風に言っても、おかしくないかな、と思うのであります。

でも、イエス様はここではそうは言っておられないで、ヨハネにご自分の母を託しておられます。マリアはこの時、どこに住んでいたか、誰と住んでいたかは定かではないのですが、それを超えてキリストは母マリアをヨハネに全部託しました。

どうしてヨハネなのだろうか。私は黙想しました。また、いろいろな本も読ましていただきましたが、やはり自分の黙想の中で開かれたことをお証ししたいと思います。

なぜヨハネでしょうか。皆さん、この十字架の下に、キリストの下に来た弟子は、実はこのヨハネ一人でした。ヨハネだけがキリストを離れないで、キリストの下に、この十字架までついて来たのであります。ご存知のように、ペテロは遠巻きにキリストを見ていました。遠巻きに見ていましたから、ペテロはキリストを拒みました。「私はあの人を知りません。あの人の弟子でも何でもありません。」最後には呪って誓った、とまであるのです。

ペテロは遠巻きにいたために、なんと弟子としてだらしのない弱虫の姿をそこに曝け出してしまったのでしょうか。そんな姿が聖書から習得できるのですが、それではキリストは「そんなペテロはもう要らない。」と言って切り捨てたかというと、そうではありません。不甲斐なくキリストを否んだ彼は、キリストの眼差しを見て、そこで泣いて悔い改めていくのであります。キリストの哀れみの眼差しは、ペテロにも述べられているのを知ることができます。

でも、ここで大事なことは、最後までついて行った、たった一人の弟子ヨハネであります。マタイの26章35節を見ますと、弟子達がイエス様に対して、イエス様にまもなく起ころうとしていることに対して明かされた時に、ペテロは真っ先にこう言うのです。「たとえご一緒に死ななければならないとしても、私はあなたを知らないなどとは決して申しません。」と断言したのです。

そして、その先にこう言っています。「弟子たちはみなそう言った。」。弟子達も「そうです。アーメン。その通りです。私たちは絶対そんなことはしません。」と誓ったのです。その誓いの中には、「イエス様がどうなるかわからないけれども、でもどうなったにしても、私たちがついていれば大丈夫、出て行く。そして守る。絶対に守ってみせる。」と広言してやまなかった弟子達でありました。

その舌の根が乾かないうちに、彼らは逃げ出しました。そして、ペテロは「知らない。知らない。知らない。」と言って拒んでしまっていました。でもヨハネはついていきました。弟子達が逃げていく時に、「お前達は、なぜ逃げていくのだ。」と言って、彼らの後をついて行ったのではなくして、みんな逃げて行ったのですが、ヨハネだけは逃げませんでした。

ヨハネだけはついていきました。ヨハネだけは、十字架のところまでついていったのでありました。私は「ここに一つの服従の模範、忠実なしもべの模範があっただろうかな。」と思います。

後にペテロは、悔い改めて、キリストの素晴らしい弟子になっていくのですが、そこにはヨハネの21章15節以下にあるように、ペテロに声をかけられたイエス様の姿があります。でも、ペテロの心の片隅にしっかりと残っている、最後までついていったヨハネの姿に、彼は大きなチャンレンジを受けたでしょうか、励ましを受けたでしょうか、模範の姿をそこに見たでしょうか。

ですから、ペテロもついていった。さらに後の弟子になっていくパウロも、ヨハネの中に「一つの模範を見たのかな。」とも思うのです。コロサイ書の1章24節を見ますと、そこにこうあります。

“コロサイ”
1:24 ですから、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。そして、キリストの体のために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。キリストの体とは、教会のことです。

パウロは「きリストの苦しみの欠けたところを満たそうとして、自分は励んでいるのだ。」とそう言っています。キリストの十字架、そこでは皆逃出してしまい、誰も助ける人がいなくて、たった一人で孤独の中に立っていたキリストでありますが、その悩みを本当に誰にも助けられない中において、たった一人ヨハネがそこにいましたた。

「ヨハネに続いて、自分もそのキリストの苦しみの欠けたところを補おう。キリストが助けて欲しいところで何の手助けもできなかった。今、私は全力をもって仕えていこう。全力をもってその十字架を担う者となっていこう。少しでもそれを満たすことのできる者となることができたなら、それで良し。」そのようにして、パウロもヨハネの姿の中に一つの大切な模範を見たと思います。

そして、なによりも、キリストご自身が、ヨハネを大切に見ておられるな、と思います。誰一人ついてくることができなかった中の、たった一人のヨハネです。ご自分の大切な母を託しました。私は思いました。「十字架、それは誰もが決してついて行くことのできない場所でありますが、でも、そこに行かなければ、聞くことののできない声がある。そこに行かなければ、見ることのできない必要がある。」

ヨハネはそこに行きました。彼は皆が逃げ出した中で、自分だけがついていきました。のこのことついていきました。あるいは捕えられて、キリストがそうであるように、自分も殺されるかもしれないという危機、そんなことも彼は覚悟したであろうかな、と思います。

でも、従いました。忠実にどこまでも従いました。その中で彼はキリストの声を聞き、キリストに役に立つ大事な奉仕をすることができました。大切な、大切な主の期待に応えることが出来たな、と思います。

イエス様がマタイの福音書の24章45節以下に、こういうこともおっしゃっています。

“マタイ”
24:45 主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な思慮深いしもべとは、いったいだれでしょうか。
24:46 主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。
24:47 まことに、あなたがたに告げます。その主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。

なかなかできないことではありますが、でもできない中にあって、忠実に従っていこうとするその心に、その姿勢にキリストは応えてくださいます。ヨハネはその一つの大事な模範を残して下さった、と思います。忠実なしもべ、その忠実な歩みは、やがて他の人たちにも大きな励ましにもなっていきます。

皆様方は、主にどこまでも従えるような、そういうしもべであります。その置かれたところで、あなたの賜物で、あなたの与えられている能力でしょうか、時間でしょうか、そこで仕える時に、主はそれをどんなにか活かして、用いてくださいます。一人の姉妹が忠実に仕えている中に、私はとっても素晴らしい輝きを見たのでありました。

それから、2点目であります。もう一度戻り、26節であります。「イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に『女の方。そこに、あなたの息子がいます。』と言われた。」

ここに、もう一人、十字架の下まで、最後までキリストに従った人がいました。それは母マリアでした。他の人たちも、マリアを含めて4名いたと25節にありますが、マリアも従った一人でありました。

マリアを見てまいりますと、イエス様が公生涯、伝道生涯に入られてから、マリアはナザレにずっといて、キリストの下に行っているという記事は、どこにもありません。ルカの8章に、弟子達の外側に大勢の女達が仕えていたとあります。名前がいろいろ書いてありますが、その中にマリアは入っていません。ですから、遠くから見ていたのだ、と思いました。

でも、今、十字架に架けられる、この最後の時に、マリアは出て来ました。そして最後までついて来ました。十字架の麓までついて来ました。そこにはほとんど99パーセント、わが息子キリストではなくして、私の主キリストとしてのマリアの信仰の姿があるでしょうか。信仰ゆえに従った、信仰ゆえに最後まで見届けたい、という思いが大半であったかな、と思います。

でも、1パーセントは、やはり自分の子としてキリストの最後を見届けたい、自分の子への愛情がそこには注がれたでありましょう。その情が彼女の心を突き動かしたのでもあろうかな、とそのような思いもいたします。そして、目のあたりに十字架の姿を見たときに、マリアの心はどんなに疼き、傷つき、痛んだことか、と思いました。

あまりにも惨い仕打ち、あまりにも悲しい辱めがありました。その姿を目のあたりに見続けなければならないマリアの心境は、いかばかりであったでしょうか。そんなマリアの心を誰よりもイエス様は良く知っておられて、そのマリアに声をかけて、「さあ、あなたの息子だ。」と言われました。私はそこにとっても大事なことがあるかな、と思いました。

マタイの12章50節を見ます。これが教会で兄弟姉妹と呼ぶ裏づけの御言葉であります。「天におられるわたしの父のみこころを行なう者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、母なのです。」とイエス様がおっしゃいました。

教会でお互いに兄弟姉妹と呼び合うのが、ここから来ているわけです。ここにキリストは、肉の親子、肉親を超えたキリストにあっての親子、キリストにあっての兄弟姉妹、その愛しあう麗しい姿、助け合う姿を示してくださっているのかな、と思います。

皆さん、十字架には不思議な力があります。十字架には大きな力があります。十字架から流れる愛は無限であります。その十字架の下にヨハネが、その十字架の下にマリアがいました。そして、マリアとヨハネはそこに親子の関係だ、とキリストは言われました。そして、その関係のなかに盛られているキリストの熱い思いが、どんなに深いものかを考えさせられるのであります。

教会の中に、まさにその命が流れる、その愛が流れている姿を、しばしば私は目にして、あるいは耳にしております。先日も、ある家庭に、一人の姉妹が夜中に駆けつけて行きました。辛い厳しい中にあった親子の間に立つためでありました。体を張っての行動に、親子の間に和合が生まれていきました。

それを動かしていたのは、決して義理で頼まれたからではなくして、主の愛、十字架の愛に動かされた行動でありました。それ以外でないことを覚えるのです。ある姉妹は乳飲み子を抱える身でありましたが、悩んでいる友のためにその訴えを聞いた時に、姉妹はじっとしておれずに、乳飲み子を抱えながら、遠い秋田の地まで訪ねて、悩みを聞いて、ともに泣き、ともに祈り、そして彼女を支えたのでありました。

それを突き動かしたのは、キリストの愛でした。私は、ある人が友の病のために、私の部屋の上階の祈祷室で、世を徹して祈っている姿を、何度も見るのであります。病める友のために、夜を徹して祈る姿があります。若いユースのスタッフ達の中にもあります。友のために40日間断食をもって真剣に主の前に出て、とりなしているのを見ます。

ある姉妹は祈りを依頼されると、体がどんなにきつくとも、辛くとも真剣に祈ります。手応えがあるまで、祈り続けます。そして手応えがあった時、行動します。祈りと、愛を込めた一通の手紙を書きます。その手紙は、受け取ったその人の心を動かします。その人の心を変えていきます。そのようにして、厳しいなかから平安を得ている姿を、しばしば耳にします。

そこにも、主が働いていることを見ます。今日、あなたは一人で苦しんでいるでしょうか。孤独に悩んでいるでしょうか。でも、あなたの傍に、そのあなたのために、とりなして真剣に祈っている誰かがいるということを、知っていただきたいのです。そして、その祈りは、誰よりもキリストが目をとめてくださいます。キリストはその心の訴えを絶対に見逃しなさいません。

主はそれを喜ばれます。主はその祈りを、その行動を大切にして下さって、必ずやそれに応えてくださいます。キリストは、あの十字架の苦しみの真っただなかで、愛を実践されました。キリストの愛の実践、それは肉親の親子をこえて、主にある十字架の下に、主の十字架の愛に動かされているその友を通して、真の主にある兄弟、姉妹がどのようなものであるか、そしてそこに主がどのように働いて下さるのかを、みせてくださいます。

多くの兄弟姉妹はそれを体験しています。それゆえに、訴えを聞く時に、業を聞く時に、黙っていられず、祈りを主の前に持ち出さないではいられない、そうした人たちがいます。教会はそのようにして、主にある兄弟姉妹によって、結ばれています。そのようにして愛の絆がしっかりと結び合わされています。

この群れが、さらにそのようにして、ここに置かれてくる痛みのある人がいるでしょうか。苦しんで、どうしてよいか判らない人が送られてくるでしょうか。でも、大丈夫です。主はその友を通して、その祈りを通して、主が応えてくださいます。主は生きておられます。主はあなたを決して見捨てる方ではありません。

水の中、火の中、どんな試練の中にあっても「わたしはあなたの名を呼び、あなたはわたしにとってかけがえのない高価で貴い。」と言ってくださいます。ですから、あなたを必ずや、それに足る者として、困難な道を開き、道無き所に道を設けてくださる主が、今日あなたを導いてくださるのであります。その主を見上げたいのであります。


お祈りをいたします。
愛する天のお父様。今日また、あなたがあの十字架において、あの苦しみの中から、痛みの中から声をかけて下さいました。そして、真の愛しあう関係がどのようなものであるか、またその愛しあう中に、あなたがどのように目をとめ、心を動かし、業をなしてくださいますか、それを見せてくださいました。

主よ。天涯孤独な人がおられるでしょうか。また、どのように助けてよいか判らない、逡巡する人があるでしょうか。どうしたらよいか判らない中で、苦しみ悶えているでしょうか。どうぞ、そのような人の友となり、そのような人の隣人となって、とりなし祈る者、そのようにして、また主にある交わりを回復することのできる方々、どうぞ主よ、また多くここに興してください。一人一人を祝し、導いて下さい。

今、あなたの前にいるお一人一人の内に、主が届いて下さい。 救い主イエス・キリストの尊い御名前によってお祈りいたします。アーメン!