2001年11月14日 主日聖餐式礼拝 
“使徒の働き” 11章19〜30節

「アンテオケの教会に学ぶ」

“松見 睦男師” 宣教メッセージ

今週のみことばは。 使徒の働き11:19〜30 であります。新約聖書の230ページになります。

“イザヤ”
11:19 さて、ステパノのことから起こった迫害によって散らされた人々は、フェニキヤ、キプロス、アンテオケまでも進んで行ったが、ユダヤ人以外の者にはだれにも、みことばを語らなかった。
11:20 ところが、その中にキプロス人とクレネ人が幾人かいて、アンテオケに来てからはギリシヤ人にも語りかけ、主イエスのことを宣べ伝えた。
11:21 そして、主の御手が彼らとともにあったので、大ぜいの人が信じて主に立ち返った。
11:22 この知らせが、エルサレムにある教会に聞こえたので、彼らはバルナバをアンテオケに派遣した。
11:23 彼はそこに到着したとき、神の恵みを見て喜び、みなが心を堅く保って、常に主にとどまっているようにと励ました。
11:24 彼はりっぱな人物で、聖霊と信仰に満ちている人であった。こうして、大ぜいの人が主に導かれた。
11:25 バルナバはサウロを捜しにタルソヘ行き、
11:26 彼に会って、アンテオケに連れて来た。そして、まる一年の間、彼らは教会に集まり、大ぜいの人たちを教えた。弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。
11:27 そのころ、預言者たちがエルサレムからアンテオケに下って来た。
11:28 その中のひとりでアガボという人が立って、世界中に大ききんが起こると御霊によって預言したが、はたしてそれがクラウデオの治世に起こった。
11:29 そこで、弟子たちは、それぞれの力に応じて、ユダヤに住んでいる兄弟たちに救援の物を送ることに決めた。
11:30 彼らはそれを実行して、バルナバとサウロの手によって長老たちに送った。

はい、聖書は以上であります。今日はこのところから、「アンテオケの教会に学ぶ」サブタイトル「本郷台の群に学ぶ」とありますが、それでは松見先生を拍手をもってお迎えしたいとおもいます。

一言お祈りして、御言葉をお取り次ぎ致します。

「2人、3人、我が名によって集うところに、わたしもそこにいるのであると、目に見奉ることは出来ませんが私共が顔と顔を会い見えて共にさせて頂きます以上に、あなたはじっと1人1人に目を注いで安否を問い、力を与え、智恵を与えて、何としてでも、あなたのお役にたつようにと、後ろ盾となって、生ける主となってお働きくださることを覚えて、有り難うございます。今どうぞ1人1人に御言葉の説き明かしをお与えくださるように、又この群のために、あなた様が御慶道を与えてくださるように、主イエスの御名でお祈りいたします。アーメン!」

13年振りと言うことでありますが、物凄い若い元気な時、58か9位でしたか、今73になります。牧師になって53年目になります。感無量でありますが、最近7つの病気が一斉に出て来まして、そして、どうしようもない、もう目が見えなくなり、声が出なくなり、存在が分からなくなり、そう言うように脳が梗塞して、そして、話が出来なくなると言うそう言う状況の中から、もう1度神様は立たしてくださいました。

30年前にもうどうしようもないような重度の結核と脊髄カリエスのために神様から、病院から見放されて、その中から不思議に立ち上がることが出来るようになって、それから30年ずっと考えられないことですが、御用をさして頂いて、そして、少し休養させようと言うので、神様が脳の1部をばつと摘まれたのです。そうすると、どこにいるのか分からないようになって、目から血が出て来たりして、そして、どうしょうもなくなった。その時に、エレミヤ記の33章の3節、これは本郷台の教会のこれからに大きなビジョンになる預言です。これはよく読んでください。

33:3 わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。

9節33:9 この町は世界の国々の間で、わたしにとって喜びの名となり、栄誉となり栄えとなる。彼らはわたしがこの民に与えるすべての祝福のことを聞き、わたしがこの町に与えるすべての祝福と平安のために、恐れおののこう。」

これが、昨晩ここで寝させて頂いた時に与えられたお言葉です。何とも言えず感激して、興奮して、神様はこの群に対して更に新しいことをさせようしていらっしゃる。この本郷台に来させて頂いた時と、今日ここへこう運ばれた間に走馬燈のように色んなことがずうっと浮かんで来た。クルセードの後で、あの特許局の大野さんでしたね、私は忘れません。自転車に乗っていた人でした。それが車を用意して来られた。吃驚した。今度は13年目で又車を用意して来られた。私はその人のことをちゃんと覚えています。

そして、神様は不思議に今も生きて働いておられます。もう、どうしようもない状態の中にあっても、神様は生きて、ちゃんと次のページをめくっていらっしやる。そして、私たちはぼんやりした人間ですから、その時はほうとして聞いています。ところが後で気が付くてんかん病みです。もう、この本郷台の教会でじいっとお話をさして頂いた薬の博士の先生。森さん、あの人の話しを私は今でも覚えています。私の顔をじっと御覧になつて、先生、「それは誰の話しです。」、「この教会の話しです。」「いや、それは無理じやないですか。」「無理だと、どうして、そんなことが言えるのです。」いや、言っていたことが次々と実現して来ました。

それから、又新しいことをなさろうとしています。この教会の雰囲気、ここに入って来たら直ぐ私にはぴーんと来ます。どんなことがぴんと来るかと言いますと、主の臨在が濃厚であると言うことです。主は歩いて、生きて、耳を傾けておられる。あんまり目に見えるように言うと、先生は頭がおかしいのではなんいか、そう思われたらいけませんので、出来るだけ謹んで、あまり大げさに言いますと、とうとう、どこかへ来たと、こう言うふうになると困りますので、まともなのですけれども、その時は分からない人が多いのです。

ところが暫く経つと、申し上げたことが次々と実現していく。次々と実現して行く時には、私はいないのです。喋っている時にはいるのですけれども、後になってから、ああっと分かります。それはどうしてかと言いますと、神は人を用いて、ご自身がなさろうとすることを、次々とその時にかなって実現なさるのです。必ず神が直接語らない。しもべを通してお語りになる。語った私自身はあまり分からないことが多いのです。最近も色んなことが聞かされます。けれども、良く謹んで良く祈り深く、そして、示されたことを少しづつ語る。1遍に語ると教会が分裂していまうかも知れない。分裂と言うのはばらばらになるのでなくして、核爆発を起こすのです。

そして、教会がこちらも荒野の地であったところが、良く見たら一杯の人の町になると言う、これから、そう言うことが起こって来ます。えらく朝早くから、そう思われる人もおられるかも知れませんけれども、本論に入って行かなければなりません。

このエレミヤ記の33章のところで、脳梗塞を主として7つの病に取り付かれた時に、神様は、エレミヤ記の33章の3節の言葉をくださったのです。それはどう言うお言葉であったかと言うと、

33:3 わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。

このお言葉を頂いて、そして、目が見え出したのです。こんな小さな聖書を最近までずうっと大きなレンズでこうやって見ていたのですよ。ところが最近見え出したのです。ここでちゃんと見ているでしよう。皆さん、何でもないことのように思われますけれども、これは奇蹟的なことです。もう70を過ぎて73になっています。70を過ぎた人は7〜80%の人は目を患っています。緑内障とか白内障とか、それからぼおっと霞んで来たり、色んなところがやりにくなって来ているのです。そして、今聞いたことでも、いや、誰でしたか。今日の朝何食べたのですか。あれだけ元気で溌剌としていたのに、だんだんと目が霞んで来るのです。

目だけでなく、脳の方も霞んで来るのです。手足がびりびり痺れて来る。そうしたら、歯ががくがくなる。耳の方があやしくなって来る。そして、五体満足で、誰の話かな、と思っていた人もみんな同じように、70を境にして、殆ど色々の面で患いが出て来る。もし、70を過ぎてどこも悪くないと言う人は、それは人間ではないです。それは自分でそう思っているだけで、診察したら、あっちこっち悪い。むしろ少し悪いと思うのがまともなのです。

ですから、私は今1つの痛みを持っているのですけれども、この痛みがあることによって、生きている証拠なのです。ですから、おお痛みよ、痛みよ、とそうすると、痛みの方まで気の毒になって、ちょいちょいお休みになります。それで、忘れていますと、痛みは又来るので、ずうっと毎日痛みがあると、「心の貧しい人は幸いです。」と言って、そして、自分がどんなに罪人の頭であり、どうしようもない者であると言うこと、痛みを通して知らせてくださる。もし、この痛みがなかったら、いろんなことを言い過ぎたりするのです。それをちゃんと押さえなさるのです。そして、まともになるように、パウロが経験したのです。何遍お願いしたけれども、それは、お前に取っては、恵みは十分である、と言われました。

ところが4つの病が取り下げられたと言う話はまだしていません。これは瞬間に取りさられたのです。その病気はお医者さんで言うならば、大病です。それが瞬間に取りさられたのです。そして、先程申し上げた30年前に、遺体霊安室の隣にいたのです。遺体霊安室と言うのは嫌な部屋です。その部屋から出されたのです。そこから開放されて、癒されて、そして、日本中を飛び回って歩き回るようになったのです。お医者さんが7人集まってくださって、そして、その中心のお医者さんは、私にじっと眼鏡を外して、「先生、お気の毒ですけど、再起は不能です。」よくあんな冷たいことを言ったなあ。もう、あれから医者の言うことは聞きません。今に見ろと思いました。

そうしたら、やがてそれから暫くして、その京大の長橋と言う教授は、世界の第1の結核の研究者でありましたが、その人が沢山写真を並べて、そうしてこう仰った。「どう言う療養生活をされましたか。」「どう言うと言って、まあ、先生のお陰です。」そしたら、この長橋教授がね、「ご信仰の力です。」と仰ったのです。皆さん、その人は信者ではありません。ずぶの素人の人です。そのずぶの素人のお医者さんの先生が「ご信仰の力です。」と仰ったのです。私は「まあ、先生のお陰です。」何やら役者が変わったようですね。それから、30年、日本中、アジア中、世界を飛び回って、御用は出来たのです。誰も誇ることはない。主がなさることです。

そして、主は生きておられます。色んなことを経験させて頂きますが、その経験も皆「心の貧しい人は幸いです。」この心の貧しい人と言うのは、言葉を変えて言うと、「罪人です。憐れんでください。」そう言う意味です。「心の豊かな人は幸いです。」と言うのは、殆どの人は分かります。けれども、聖書によりますと、マタイの5章を見ますと「心の貧しい人は幸いです。」それはどうしてかと言いますと、神のお声に瞬間に敏感に聞き続けることが出来るからです。心が貧しいと、神の言葉に渇き続けられるからです。そして、神の言葉に渇き続けると同時に、満たし続けてくださるのです。

ですから、このことを思った時に、私たちは本当に御言葉が与えられて、それの副題として、いやしは与えてくださった。30何年前にそう言うふうにして、霊安室の隣から出て、37.9キロになった。そう言うところからもう1遍回復して、そして、お腹の周りが106センチまでになって、そして、てかてかの顔になって、元気になつて、そして、動き回った時に、今度は先程申し上げたように、えっと来たのです。それで少し摘んでがっと入られたのです。そうしたら、その前に15キロ痩せさせてくださいました。15キロ痩せたと言いましたら、服は全部だぶだぶ。もうズボンなんかは、袴みたいなものです。バンドがなかったら、もうえらいことになります。そう言うな状態にまで、又回復しました。7つの病から4つの病を取り去られて、そして、エレミヤ記の33章の3節の言葉

33:3 わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。

つまり、神は生きて、そして、私を呼んでくださる。お声を掛けてくださる。世の中がどんなになろうと、あるいは様々なことが起ころうと、私たちが一番聞いて信頼出来るこの言葉は、主のお言葉です。主のお言葉は変わらないのです。どんな状況の中に置かれても、主はちゃんと聞いておられます。「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。」今日皆さん9節の言葉をしっかり覚えてください。これを聞いただけでもえらいことですよ。わざわざここまで運ばれて来て、そして、朝の早くから起こされて、もう夜か昼か分からないようにぼおーとしたそう言う状況の中から私は連れて来られたのです。

ほんとに早くから飛行機に乗せて貰って、そしてここに運ばれて来て、どこ行ったか分からない。階段を降りたり上がったり、まあ、名前はアガペですが、アカベ見たいにして、そして、うろうろして、階段で1度落ちそうになったのです。電気もずっとついておりましたから問題ありませんでしたが。そして、もう寝ようと思ったら、寝床の中の集会が続いているのです。夢です。私が集会を指導しているのです。時々家内が録音機にちゃんと入れて、そして、喋っている時もあるのです。15分ばかりメッセージしているのです。そのメッセージを聞いて、ああ、凄いメッセージだなあと感心している。実際は私は寝ていたわけです。ところが寝ていた筈の私が喋っている。恐ろしいですね。そして、その喋ったことが、やがて実現して行くのです。ですから、夢はただ夢ではないのです。

正夢。そして、あっちこっちの教会でそう言うことが起こって来るのです。これは本郷台だけではない。四国でも、九州でも、あるいは沖縄でも、北海道でも色んなところでそれが実現して行くのです。そして、その実現して行くことが、みんな、はっきり言うと御言葉です。そして、御言葉が働くと同時に少しドラマも入るのです。そのドラマの全部を喋ったらいけない。ちゃんと謹んで、あるべきところだけ、ちょっちょっと語るのです。そうしますと、耳あるものは聞くべし、2〜3人の人はじいっと聞いています。殆ど他の人はえーえーと言う顔をして聞いているのですが。

あの森さんと同じです。じいっと聞いているのです。そして、そんなことと思ったことが実現して行く。実現して行くと、みんなは主を崇めるのです。ですから、皆さん、色んな器がありますけれども、その器、器は違いますけれども、「私に呼べ。そしたらわたしはあなたに答える。」そんなはっきりとした言葉を掛けてくださると言うのは光栄なことです。そして、それだけではなくして、光栄からの教会の未来に対して、こうこうなると言う預言をしてくださる。皆さん、こうしてお話して、やかで後になって、ああ、エレミヤ記の33章の9節は、本当だったなあ、どえらいことが次に起こるなあ、そして、段々起こって来たら、又更に仰います。ああ、主は生きておられる。

世の中がどんなにひっくり返ろうと、神様のお言葉は変わりません。段々とお年をお召しになって、今日の朝の食事は何でしたかなあ、それは私たちのやることです。神様は全然お年は召さないのです。いや、この頃、神経痛。そう言うことはありません。目が霞んで、そう言うこともありません。6から10位の目で見ておられるのです。怖いですね。ロンドンの方で、こう目を向けていらっしゃると思ったら、ニューヨークの方でずっと見て、そして、本郷台もちゃんと見ておられる。怖いですね。そして、あっちで言ったこと、こっちで言ったこと、皆両方聞かれるのです。どんなにして聞けるのでしょう。私たちだったら、1人のことを聞いていたら、他の人のことは聞けません。ところが神様は世界中の全ての人に耳を傾けて聞いておられる。

これだけ言ったら、訳が分からなくなります。私たちは小さい者でありますけれども、この小さい私たちを神様は、偉大なほど小さいものを通して御業を現します。この使徒の働き11:19から30の間から3つの大事なことを申し上げて、もう本論に入っているのです。その19から30までの間の第1のポイントは何か申しますと。「救霊圧」と言うのです。「圧」と言うのは圧力と言うことです。パワーと言うことです。この使徒の働きの11章のところを見ますと、良く読み込んで行きますと、そこにはっきりと分かって来ることは、アンテオケの教会はご承知のように、もう吹けば飛ぶような数人の人しかいなかったのです。迫害の最中で、もう、おろおろして逃げ回って、そして、アンテオケまでたどり着いたのです。

だから、伝道の計画を立てるとか、伝道の理念は何であるとか、又伝道の動機は何であるか、そんな難しいことは言わなくてもいいです。時々訳の分からないこと、難しいことを言つて、そして、感心させる人がいます。けれども、理念がとうだとか、立派なことを喋っても、実現しなかったら何もなりません。そして、実現しなかったら、私は弱い者でそこまで分かりません。と言うのなら牧師を止めた方がいいです。牧師に取って大切なことは、私は小さな者である、と言うことに徹底することです。

しかし、私は小さい者でありながら、神が用いて小さい者としてではない、大きく使ってくださる。これが牧師なのです。だから、牧師を間違って、牧師にならなくてもいいのになつた人は、教会も信者も気の毒です。しかし、逆に小さい者であることは分かったけれども、その小さい者を通して、神様は教会を牧し、羊を養い、そして、これを豊かにしてくださると言うことを、はっきりした牧師がいたら、教会は変わって来ます。私は280の教会を33年廻ったら、そこで色んな社会をそこで拝見させて頂いた。

ある1つの教会で、この教会はつい最近500人になったのです。私が初め行ったときは17〜18人の教会でした。そんな大勢の教会になるとは、初め分からなかったのです。それは、なぜかと言えば、その教会の牧師が私がこう言ったと言うのです。「あのね、先生、ここで起こったことはあそこに行って喋るなよ。」みんな、手をこうやって、「使いは主のもの。いいか。」そう言って私が喋ったと言うのです。私は覚えていないのです。そして、その教会が、100人、200人、500人になり、会堂がはち切れんばかりになって、大きな、立派な会堂が出来たのです。この前献堂式に行って来ました。その教会の会員は籤を引いて9時に当たった人が献堂式に出席しているのです。当たっていない人は会員の2〜3以上が献堂式に来ていないのです。一杯で入れないのです。

そんな全部の会員が入れないような会堂をどうして作ったと言ったらいけないのです。矢っ張り神様の計画はあるのです。1遍に出来て見なさい。又なあと言うことになるのです。ですから、神様は小さいところから、こつこつちゃんと広げてくださるのです。そして、この教会からこの間、朗報が来たのです。オーナーが捧げて、みんな教会の為に捧げてくれた。未だ所有権はオーナーの人にありますけれども。私はオーナーの人に会いました。私は「顔を会わしたので、大きな声では言えないけれども、もういい加減に所有権を委ねなさい。」そう言って喋ったのです。そしたら、その聞いた人は未信者ですけれども、その通り信じて預けたのです。それをこの間連絡が来たのです。皆さん、そんな話も本当かな。疑ったらいけません。小者は疑うのです。大物はアーメン!と言いますよ。もう、そんなことはありえない。ありえない、と言うからありえないになるのです。ありえないことが、ありうることになる。それが信仰です。

ただ、受け止め方は大事にしなければなりませんが。そして、その教会は今関西の地域では、3番目の指に入って来る教会だと言うことです。皆さん、その先生は言われたことを、はい、はい、と言う人なのです。物凄い頭の良い人です。凄く勉強した人です。でも、1番大事なことは素直な、幼子のような人です。顔を見ても桃太郎のような人です。顔を見ただけでも、恵まれる顔をしています。大事なことは、神様は生きてご自身が何かをなさろうとする時に、必ず人を立てるのです。そして、その人を立てる場合、教会を通して立てなさる。1人ぼっちで歩かないように、人を通して語られる。ですから、この名もない、聖書を見ましたら、そこには、ペテロとかヨハネとかトーマスとか、そう言う名前なんかなしで、ただはっきりとあることは、19から21節を見ますと、数人の人がと書いてある。数人。これが大事なことです。伝道のコツは、その人がどれだけのことをしたか、どれだけのことをやりこなしたか、そんなのどうでもよいのです。何をやらして頂いた、そんなのどうでもよいのです。誰がそれをやったのか、それもどうでもいいのです。大事なことは11章の21節のところを見ますと「11:21 そして、主の御手が彼らとともにあったので、大ぜいの人が信じて主に立ち返った。」

これはどう言うことかと言うと、救霊の活力の強さです。今も象にたかった蟻のような存在であった、この幾人か、幾人かと言うから、十数人ではないです。それこそ指で数えたら5本の指位でしょう。その幾人かの人がイエス様のことを語った。そうしたら、語っただけでなく、その語った言葉に主の御手が置かれて、それで大勢の人が主に立ち返った。これは救霊の結果です。ですから、皆さん救霊と言うのは、必ず結果が出ないと駄目なのです。事業の世界でも、大きなことばかり言ったら、あれはほら吹きと言われる。ところがほらを吹いたことが次々と実現したら、ほら吹きとは言わなくなるのです。

神様が約束されたことは、1つとしてほら吹きはないのです。実現するのです。それはどうしてかと言うと、主が責任を取られるからなのです。語るのは私たちです。けれども、実現するのは主なのです。ですから、出来るだけ、言葉に注意して語らなければなりません。聖霊の助けを頂いて語らなければなりませんが、語られた言葉は、信じて語ることです。そうするとなるのです。

この間、神戸で西山会館と言うところでクルーセードして、そこで1回の集会が700人集まって、5回の集会をしたわけです。それで吃驚したことがあったのです。丁度最後の5回目の集会で、殆ど1,000人近くの人が集まって、そしてメッセージが終わる時に、手を伸べてお祈りをしたのです。お祈りした時に車椅子の人がずうっと他の会衆と共に出て来た時に、ああ、車椅子の人が出ているなあと思って、そして、お祈りしたのです。お祈りが終わって、そして、ふっと見たら、車椅子があるけど、そこに座っている人がいないのです。

あれ、どこに行ったのだろうか、と見たら、とっととっと立ってむこうに行ったのです。それから他の人も見たのです。ついこの間その話をしたところです。今から7〜8年前のクルーセードの時の集会です。そして、ふっと見たのです。とっととっとと立ってむこうに行ったのです。そして、立って行った後で、行ったなあと思いました。そこから、その人は1遍も見ないのです。会衆は牧師を初めみんな見たのです。じやあ、その時、5月の終わりの集会でこれを語った。そしたら、みんながぱちぱちと手を叩いた。どうして、みんな手を叩いた。その時、みんな知っているのです。けれど、それは、誰であって、どこへ行って、どうなったか、それは知らないのです。けれども、そこではっきりと見たのです。それはあの車椅子の人が帰る時に、車椅子から離れて、歩いて行くその後ろ姿を見たのです。こんなこと、色んなことが起こるのです。

ひとつも不思議なことではないのです。それは、どう言うことかと言うと、神がなさる時には、人はああと言うことなのです。何にも自然なことのように、すうっと見過ごしが出来る、それが主の業です。わあーと言ったら、それは偽りの証しになります。本当の証しと言うのは、まるで普通のことのように、すうっと、それで、暫く経ってはあとため息をつく、けれども、言葉に出ない。これはどう言うことかと言うとね、そこの5月の30日の神戸の集会の時に、そう言って話した時に、みんなけ飛ばした。その教会は今、350〜360人集まります。

この間の献堂式の時には700人集まりました。そうして、この栄えを拝したのです。あの教会もどんどん祝されてきたのです。そして、色んなことが起こるのです。ただ色んなことが起こるのてすけれども、一番大事なことは、主の御手が彼らと共にあったので。と言うことなのです。どんなことも、私たちがやらして頂くのではなくて、主の御手が彼らと共にある時に、又あり続ける時に、神は栄えを現しなさるのです。そして、ご自身の栄えを決して奪うことがないようになさるのです。そして、このところをやがて、婦人や子供を取り除いて、この10万人の人達が加えられたと言う、このアンテオケの教会、初めはごく限られた名もない人であった、と言うことです。

有力な人ではなかった。いのちからがらアンテオケには、ステパノのことから起こった迫害で散らされた内の何人かの人が、たまたまギリシヤ語が喋れたので集まった。それで、イエス様のことが喋れたかと言うと、それは、用いられ、導かれたのです。そのために、まあ、次々大勢立ち返ったと言うのです。大勢と言うのは、3人や5人ではなかったのです。と言うことは、まず救霊の圧力。救霊圧。教会が本当に霊が段々深くなると、圧力が増大するのです。1メートルしか水がないところに、ぽちゃぽちゃやっても何も起こらないでしょう。しかし、10メートルのところに入って御覧なさい。もし、プールの底の蓋を明けたら、人間の2人や3人すうっと、どこかに出て行ってしまいます。ことろが1メートルのところに、じっとしていたら、皆座ったままです。

それはどう言うことかと言うと、救霊の圧が強くなると、すうっと、すうっと吸い込まれるのです。この間イースターの集会の時に、17人がイエス様を信じて、前に出て来た。四百何十人でしたかね、その時大勢集まった。そして、救われた。その救われた人のことを聞いたら、こう仰った。「どえらいことやわ。」どう言うことかと思ったら、その人は社長さんですからね、ずうっと頑張って私を聞いていたそうです。うっかり、説得されて、なるものか、と言う顔をして、顎を引いて、私の目をじいっと見ていた。そうして、魔術を掛けたのではないですよ。声を掛けたのです。藤田よ、藤田。口には言わないですよ。そうしたら、藤田さんは前にたったと出て来たのです。嫁さんも後から付い出て来たのです。出たら駄目だ、と思っていたそうですけれども、もう出て行ったのです。そして、救われてしまったのです。

そして、それから、社長を止めて会長になって、今キリスト気違いになっています。もう顔を見たら目が寄っています。そして、喜んで、喜んで。そのことを聞いたら、救霊の厚みに、ずうっと吸い上げられたのです。教会の中に、霊の高さ、霊の深さ、これが高くなると、ずうっと来ます、救霊圧。

第2番目は、22節から見ますと26節までに、バルナバとサウロの働きが書いてあります。このバルナバとサウロの働きを見ますとこれはどう言うことかと言いますと、救霊圧だけではなくして、牧会の教えることの圧力。これがずうっと聞き広がりますと、聞いた人は皆ずうっと返って来る。ですから、このアンテオケの教会を見ますと、毎日人が集まって、そして、この聖書を見ますと、どこどこで導かれたと言う言葉が書いてあります。その後を見ますと、教えたと書いてある。導かれたと言うのは、バルナバの真骨頂です。教えたと言うのは、パウロの真骨頂です。この導かれることと、教えられることのバランスでアンテオケの教会は物凄く爆発的に成長しました。毎日毎日、教会に集まってそして大勢の人達を教えたのです。まあ、サウロですから、ピカ一の男です。

又牧会者としては、24節を見ますと、立派な人物で、聖霊と信仰に満ちている人であったと言うのは、バルナバです。ところがバルナバと言う人を良く調べて、サウロと言う人を良く調べると、ちゃんと特徴があるのです。どこに特徴があるかと言うと、バルナバと言う人は、心を慰めたり、励ましたり、そして、下を向いた人を上向けることが出来る、そう言う暖かいハートの持ち主である。牧会者の賜物を持っていました。ところがサウロというバルナバとは別のパウロという人を見ますと、牧会者でもあったのですけれども、神学者でもあり、そして、同時に説教者でもあった。あんまり凄い説教者ではないですよ。つっ、つっ、と詰まるのです。あんまり、アポロみたいに喋りまくらなかったのです。

それはどうしてかと言うと、神様の御姿が見えない程、語ったらいけないのです。神様が段々と現実となるように語れる能力が必要なのです。気が付いて見たら、我もなく、世もなく、となって来なければいけないのです。来たときには、今日はライスカレーだったかなあ、うどんだったかなあ、兎に角120円だっかなあ。と言って入ったのです。入った時にはライスカレーもうどんも皆なくなっていた。そこに残ったものは何が。我もなく、世もなく、ただ主のみいます。そこに行くのです。その世界へ引き込める人、それがサウロだったのです。そして、諄々と、ただ励ましたり、慰めたりするのではなくて、その折りにかなって、教えを深く打ち込めた人だったのです。ですから、心は和らいで、暖かくなると同時に、その心は和らいで、暖かい中で、この福音の神髄がパウロを通して、ずうっと入っていったのです。

だから、爆発的に牧会の力と、そして、宣教の力と言う、この2つが、相まみえて、しかも、そのリーダーシップを発揮して、それはそのまま、教育圧力、訓練圧力、牧会圧力になたのです。ですから、教会が成長して行くとか、教会が教会としてどうなるかと言うのは、それは圧力が問題なのです。

そして、第3は何かと言うと、27節から30節まで見ますと、そこにこう書いてあるのです。

「大飢饉が起こって、そして、その大飢饉が起こった時に、それぞれの力に応じて、ユダヤに住んでいる兄弟達に救援のものを送ることに決めた。そして、彼らは実行して、バルナバとサウロの手によって、それを長老達に送った。」これはどう言うことかと言うと、この救霊圧に対して、牧会圧だけでなくて、交わる圧だけでなくて、その圧力は、愛の霊圧、愛のパワー、それが爆発したのです。どう言うふうに爆発したのか、それぞれ力に応じて、このユダヤに住んでいる人達に救援の物を送ったと言うことです。愛と言うのは、早いと言うことです。時々「よく考えるように」あう言うことは政治家がよく言います。けれども、政治家が政治家として、本当に素晴らしいことは、言ったことを直ぐ実行すると言う、これが説得力のあることです。勇気が要ります。実行力が要ります。そして、人がどう思おうと、今の時代がどうあろうか、それをちゃんと読んで、そして、ぱんと言うだけでなくして、それを実行する。愛と言うのは皆さん、出来ないことをやる。これが愛と言うものです。どう考えても私たちの考えでは、無理ですと言うこと、評論家みたいなことを言う人が、気を付けなければならないことは、実行することです。

そうすると、どうなるかと言うと、エルサレムの教会までそれが鳴り響いて来たのです。500キロ離れたエルサレムの教会に、このアンテオケの教会でやった救援のものを送ったことによって、関係はぐうっと近くなったのです。ユダヤ人の教会であった筈の、中心の教会から、異邦人の教会まで及んで行き、そして、それは、やがてアジアや世界に福音が到達して行くのです。ちゃんと順序はあります。私たちはこの中で主の御手が彼らと共にあったので。そして、更に大切なことは26節

「弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。」

分かり易く言えば、キリスト気違いと言うことです。もう、顔を見たら、口をひらいたら、又寝言でも、キリスト、キリスト、キツツキみたいになっていきます。皆さん、クリスチャンが本気でキリスト者になったら、もう気違いにならなければなりません。狂っていく方の気違いではないです。キリスト狂いです。これには2つの意味があります。1つは何か、キリストのためなら、何もかにも第1に捨て、そして、これで生きていく。これがキリスト者。第2番目は何か、もう本当に愛の権化みたいな、いかに互いが愛しあうことが明らかになった、それがキリスト者と言う意味です。キリスト気違いだけではない、キリストに塗りつぶされているだけではない、その塗りつぶされたお互いが愛し合っている。

その姿を見て、未信者の人達は、ああ、あれはキリスト者だ、クリスチャンだ。そして、やがてアンテオケの教会に福音が伝わって行った。この討論を見た時に、このバルナバとサウロを通しての、良いリーダーシップによって、キリスト者と呼ばれるようになったと言うことは、徹底したと言うことです。ただ救霊の業だけでなくて、その救霊の業を通して教会が建て上げられ、教会がしっかりと牧会の流れで、そして、滞り無く細かいところまで届くような牧会がなされたために、人々は皆彼を見てクリスチャンと呼ばれるようになった。そして、それを最後として、27から30節を見ますと、そこで彼らは喜んで持っているもの、援護委員会や理事会を開いて何回もねってねって、そんなことは、聖書のどこにも書いてない。「弟子たちは、それぞれの力に応じて、ユダヤに住んでいる兄弟たちに救援の物を送ることに決めた。」委員会も理事会もないのです。直ぐ実行しているのです。どう言うことか、愛は止まることが出来ない、ということです。そして、あのルカの19章にありますように、「イエス様はザーカイを御覧になって、どう仰ったか。」「今日、救いはこの家に来た。この人もアブラハムの子である。人の子が失せた人、失われた人を探して救うためだ。」と。これと同じです。そうすると、ちゃんと変わって来ます。と言うことはどう言うことかと言うと、愛と言うのは圧力が増して行くと、実行可能になって行き、説得力が出て来ます。それでは、そこにユダヤに対する色んな偏見やエルサレムの教会の本部の人達に対して色んな偏見が、愛が力強くものを言った時に、そこに友好関係が生れて来たのです。何と皆さん素晴らしいことにもう500キロの距離は縮まってしまうのです。出来ないと思うことが、出来るようになって来る。出来るようになって来るとどうなるか、ああ、プレイ ザ ロード、生ける主を頌えましょう。そうしたら、その教会は先に申し上げたように、気が付いたら、500人になっていた。私は何でこんなに大きな教会が出来たのに、私にそれを言わなかったか、と言ったら、私が「無理や。」と言ったからです。私は覚えていません。そして、献堂式の時に先生は桃太郎のような顔を金時ようになられた。そして、みんな、顔中、目にして讃美しました。そして、それを見た時に、ああ、主は生きておられる。と改めて感動いたしました。

(註) 10分分位、この後にメッセージがありました。宣教メッセージが全部テープに入り切れず、再現出来ませんので、このテープ起こしも、尻切れトンボ的になっております。悪しからず、ご了承ください。