| 2001年11月11日 主日礼拝式 “マタイの福音書” 27章45〜46節 「“キリストの十字架上のことば 6”」 “池田 博牧師” 宣教メッセージ |
| 今朝のメッセージのみ言葉をお読み致します。今朝は マタイの福音書27章45節から46節
です。新約聖書の55ページになります。 “マタイ”
ハイ、聖書は以上です。十字架上のキリストの言葉を見ていますが、今日はその4番目、7つの言葉の真中、とても大事なところであります。今日はこの御言葉に目を留めていきたいと思います。 先週私たちの教会に久しぶり、13年振りに、松見先生をお迎え致しました。お迎えもしたのですが、来ても下さった。それというのも、1985年から3年、4年かけて私たちの教会はこの松見先生を通して、集中方式伝道を致しまして、前教会にとって大事な一つの転機を迎えることが出来ました。多くの祝福を頂きました。 その後、この教会がどうであろうかということもありました。2回のメッセージを通して、また交わりを通して、先生はいろいろ語ってくださって、アドバイスも下さいました。心よりじかに祈っていただいた方もあります。本当にめぐみですね。 私たち夫婦も最後の時按手の祈りをして頂きました。とっても幸いでありました。先生は全国を周っておられる事もありますが、とっても鋭い霊性を持っておられて、洞察があって、そういう中から、単刀直入にものを言って下さる方でもあります。 先生が最初に教会に来て「この教会には新しい風が吹いている。聖霊の風が吹いている。これは素晴らしいことだ。」と言って下さいました。そして、「その新しい風がどういう風であるのか、何がそこに興ってくるのか、それを皆さんがこれからしっかり祈って、取り組んでいって欲しい。」そんなアドバイスも下さいました。 その何かがこの教会にしっかりと掴み取って行かなければ変わっていかないし、変わらなければならないために、真剣に取り組んでいって欲しい。そんな事をアドバイスして下さいました。それは又タイムリーであったなという風にも思います。 既に皆さん方にも来年度のビジョン、来年度の標語等を申上げておりましたし、そのためのアンケートをとり、皆さんの声を反映して、この教会が新しくなるようにと、私たちの中にもそういう期待がありました。それがきちんと客観的に洞察されたということもまた素晴らしいことだと思います。 そういうことの為に、今日も大事な総会を控えているわけでありまして、今日は具体的なことを審議し、承認して、来年度に向けてスタートするわけであります。その中で、私たちは一つ一つ教会が何をするということの大事さと共に、一人一人がそのために何をしていくのか、一人一人がどう主に応答していくのか、さらにどのように新しい風によって変えられていくのか、これは一人一人に大事な事です。 そんな事を心に留めながら今日もまた御言葉に目を留めていきたいと思います。 先程の御言葉でありますが、この御言葉は7つの言葉の中で最も大事な言葉であります。しかし、これは他の言葉と内容が違う言葉であります。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」というこの叫びであります。 そのことを改めて私も黙想していく中で私自身がいろいろと教えられて参りました。何よりもビジョン、来年度の計画の中でこの御言葉を黙想していく中で、主が立っておられるところと私たちが、そして私という一人の人間が立っているところの違い、落差を思わせられました。 キリストが何故あの十字架につけられなければならなかったのか。そして、つけられた十字架上で何故このような叫びをしなければならなかったのか。それは、とりもなおさず私たちの為であった。全人類の為、私たちの為、そして私の為であった。 そのことを思う時に、私はどれほどそのキリストの心を自分の心とすることが出来るだろうか。そのことを思わされました。私たちは主が十字架に身代わりになってくださったが故にこそ救われた一人一人であります。 ですから、私たちはそれぞれが救われた恵みを感謝しつつ、更にあなたの隣に居てまだ救われていない誰かに、その救いの恵みを伝えていく大切な使命があると思うのです。更に言えば、あなたでなければこのイエス・キリストの御愛、恵みを伝えることが出来ない人が居るはずです。その人にあなたが伝えているだろうか。そんなことも思わせられるのです。 自分のことを振り返った時に、私自身まだ私の兄弟の中で救われていない者が居ます。救われていない兄弟に、どれだけ真剣に、熱心にこの救いを伝えているだろうか。私にとっては一つの大切な神様の警告がる様に思います。アドバイスでもあると思いますが、もう8年目になるのですが、私の弟は49歳で世を去りました。 まさか、そんなに若くして、7才も違う弟が先に逝くとは考えもしませんでした。でも、癌が発病して、3ヶ月で召されてしまいました。その知らせを聞いた時に、私と家内は本当にあわてました。「彼はまだ救われていない。」ですから私たち夫婦は入院している東京女子医大のある新宿まで何度も何度も足を運びました。 「なんとしても救われて天国に行ってもらいたい。」そして本当に主の哀れみの中で、弟は死ぬ間際に主を受け入れることが出来て、平安の中に召されていきました。彼の奥さんは或る別な宗教に熱心でもありました。弟は喘息も持っていまして、とっても辛いところを通っていました。そんな中でその嫁は真剣になって何としても治したいというところから、或る新興宗教に知らないうちに入っていたということもありました。 私は「自分の兄弟に救われないで終わってしまう者があってはならない。」という中にあって祈らせられていました。そんな中で「何処まで本当に、真剣にそれが出来ていたのだろうか。」と反省もありつつ、でも、「本当に主の哀れみは大きかったなー。」そう思いました。 しかし、そうでありつつ、すぐ下の弟は今北海道に居ますが、まだはっきりと主を告白していないのです。下の弟がそれだけの処を通ったにも拘わらず、上の弟には真剣に語れていない自分があるのを見て「本当に生ぬるいなー。」と思っています。 イエス様が立っておられて「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫んで、私たちが滅びないために、私たちが救われるためにいのちを賭けて下さっている、それなのに自分は何と生ぬるい処に立っているのだろうか。そのことを本当に反省させられるのであります。 そしてこれは、お互い一人一人、皆さん一人一人にとっても大事なメッセージであると思います。皆さんの中に皆さんでなければ伝えることの出来ない身近な人がいるはずです。家族が居るはずです。友人が居るはずです。もしあなたが伝えなかったならば、きっと一生涯福音に接することなく終わってしまうかもしれない、そういう人のために真剣にとりなしをし、真剣に伝える者とならせて頂きたい。 新しい年のビジョンそしてミッション3000のビジョン、それは一人一人がそこに立つところから繋がっていく。そういう風に思わせられています。 もう一度、このみことばでありますが、イエス様が「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と叫んでいるこのところであります。 神がキリストを見捨てるというところであります。どうしてだろうか。その言葉だけを取り上げますと、「神って冷酷だなー。冷たいなー。」と思えるようなところであります。果たしてそうだろうか。そうではないのです。その一つの大事な証しとして同じマタイの福音書の3章17節に目を留めて参りますとこうあります。 “マタイ”
これはキリストが公の生涯に出てこられた時、パプテスマのヨハネから洗礼を授けられた後で天からの声が聞こえた。その天からの声、すなはち神の声であります。 神様はキリストをご自分の「かけがえのない一人子だ。」そして「これを愛する。」「最愛の対象だ。」「かけがえのない愛の対象だ。」と言っておられるのです。だから喜んでいる。この神の言葉は真実な言葉です。そして変わらない言葉です。 人間は愛すると言っても、やがて何処かでそれが憎しみに変わってもしまう。愛が薄れてもしまうのですが、神は真実な方です。不変な方ですから愛すると言ったら、生涯貫かれる、永遠に貫かれる愛であるはずです。 でも、ここでその神が愛の告白、愛の大事な約束をしたにも拘わらず、一人子を見捨てなければならない、ここに愛と罪との厳しい交差がある。そういう風に見ることが出来ます。愛しながら絶対の愛をそこに注ぎながら見捨てなければならない。何故そのようになっていくのか。それはひとえに罪がそうさせているということです。 皆さん、罪がどんなに恐ろしいものかということについて、私たちは知っているようで知っていないといったらよいでしょうか。神のレベルで見た時に、それはもはや人間の怖さを遥かに越えたものであることを私たちは聖書を通して知らされています。 私たちは相対的に罪を考えます。罪、それは不道徳をすることだ、犯罪を犯すことだ、法律違反をすることだ、だからそれさえ拘わっていなければ罪の対象とならない普通の人間と考えたりします。でも、聖書のレベルで言う時には、犯罪や不道徳や法律違反が罪ではない。それ以前の問題であって、すべての人は罪人だといっています。 ローマ人の手紙の5章12節にこうあります。 “ローマ”
また、6章23節を見ますと「罪から来る報酬は死です。」とあります。死があるのは罪の結果だと聖書ははっきりいっています。全ての人は罪人なんだとあるわけです。その罪がどういう意味で罪なのかということについて聖書はまた教えています。イエス様が山上の垂訓の中で判りやすく、具体的に罪の何であるかを教えています。 そこを一寸見てまいりたいと思います。いろいろ有りますが、先ずマタイの福音書の7章3節に目を留めてみたいと思います。これは1節から5節までが1つの区切りになっていますが、3節が中心です。 “マタイ”
塵、元々は木屑ですが、おが屑とも訳したりしています。そのような小さな木片が目に入ると、本人は目障りになりますが、他人の目の中のごみなどなかなか気が付かないと思います。でも、それが気が付いてしまうのだというところであります。 気が付いてしまう人の目のごみとは何かと思いますよね。それは前後関係を見れば判ります。それは裁く心だということです。皆さん、私たちは裁く者ではないでしょうか。人の事は小さなことでもすぐに裁いてしまう。どうでしょうか。 私自身の体験からそう思うわけですが、人はひとたび裁いてしまうと、その裁く心が何処から来ているかを探っていきますと、それは自己中心です。自己中心にものを見ていくから人を裁いてしまうのです。自分を正しいとしている物差しがあるから人を裁いてしまうのです。更にその裁く心が膨らんでいくと、人間は傲慢になってしまいます。 傲慢になって、見下してしまう。そして平気で裁いてしまう。という風になっていく。それが人だ。そうなったらどうかというと、後半の部分にこうあります。 今度は、自分の目の中の梁には気がつかなくなってしまう。ということです。梁、それは家の中で最も大きな材木です。この大きな大きな梁です。イエス様もオーバーなことを言うなーと思いませんか。棒切れではないのです。爪楊枝でも目の中には入りません。絶対に入りっこないそんな大きな梁、でもイエス様はあえて「あなたの中のその大きな梁に気がつかないか。」と言われるのです。 イエス様がおっしゃりたいこと、それは「あなた方は他人の小さな小さなことも裁いてしまうその心が、やがてあなたにとってどんなに大きな罪になってしまうか、あなた自身がどうすることも出来ないほどの大きな罪になってしまっているということに、あなた方は気付かないですか。さあ、気付きましょう」ということです。 人を裁くなんて日常茶飯事ですよね。一日一度も裁かなかったという人は絶対に居ない。数え切れないほど一日に裁いています。私のことですが、朝町を歩いても、すれ違う関係のない人でも、ふと見て「目つきが悪いな。どんな育ちをしているのかな。」とか「服装が一寸だらしないな。」とか「頭が禿げあたまだ。」とか、兎に角目に付くことを自分の秤で計って余計なお世話の裁きをしている。そんな裁く心って通じますね。 それは私自身の心を実は毒しているだろうか。でもそれに気がつかない。あたりまえのこととして自分の内側でごみを大きくしている。梁にまでしてしまうほど裁きが心を支配してしまう。「さー、あなたはそれに気付いているか。」とおっしゃる。 罪が何であるか解りました。また5章の21節と22節を読んでみます。 “マタイ”
「おー、きびしいなー。」と思いませんか。皆さん、誰しも腹を立てない人は居ません。人間誰しも腹を立てます。虫の居所が悪ければちょっとした事で腹を立てる。いやみを言われたらもっと腹を立てる。そして何処かで「ばか者。」とか「能無し。」と言ってしまう。でもイエス様は前に何と言っていますか。「人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。」と言っておられます。 人を殺すということを議論するわけです。でも人を殺すというときにイエス様は「あなた方はよく気を付けなさい。どんなことがあっても人殺しなどしないように気を付けなさい。」等とは言っていないのです。 そうではなくして、「腹を立てるでしょう。そしてそれが膨らんだら『ばか者。』とか『能無し。』とか言わずにおれなくあなたの心が膨らんでしまうでしょう。そうなったあなた自身が既に殺人をしているのです。『能無し。』という言葉そのものがイコール殺人だということを知らなくてはいけません。 誰が行きずりの関係ない人を殺すでしょうか。殺すのは腹が立ち、怒りが、憎しみが一杯になって、その結果として殺すのです。ですからその小さな種が問題です。その種が人を殺すのです。」とイエス様はおっしゃっています。 そうであるとするならば、私たちは生涯に何百人、何千人人殺しをしているでしょうか。私たちの心の姿がどんなに罪に染まっているかを知ります。 更に27節を読んでみます。 “マタイ”
これも厳しいですが、この秤で計ったならば、姦淫しない者が誰が居るだろうか。心のどんなに汚れているか、どんなに醜いか、その醜さに汚れにおぞましさを感じる、それが私たち、それが私たちの生の姿です。そしてそれがいかに様様な罪を生み出していきますか。あなた方はそれがあなた自身の心にしっかりと根付いていることを知らなければいけない。 そして更に結論的に大事なこととして言われているのが43節、44節です。 “マタイ”
皆さん、「隣人を愛し、自分の敵を憎め。」とあるけれど、イエス様は「わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」とおっしゃっています。これが天国憲法です。神様の教えなのです。敵を愛するなどということはありえない、考えられないことです。 私たちは心から愛している者に対してでも、その愛が何処まで続くだろうか。何処まで純粋だろうか。何時まで濁りなく愛せるだろうか。やがて濁り、憎しみにすら変わってしまう、それが私たちの愛する者、かけがえのないはずの愛する者への愛、ましてや敵になど愛を向けられるはずがない。あまりにも違いすぎる自分の姿。違いすぎる人間の罪の姿です。そして不完全な姿です。 そして最後に「天の父が完全なように、完全でありなさい。」とこう言って下さっています。この完全なお方、完全な御存在にイエス・キリスト以外に誰がそうなり得るでしょうか。その様にして見ていった時に、私たちの心、私たちのありようがどんなに汚れ、罪深く、自己中心で、罪そのものでしかない、そんな者であるかということを知らされます。 そしてイエス様はおっしゃる。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と叫ばれました。イエス様はどうしてこれを叫んだのでしょうか。イエス様は私たちの罪の姿、イエス様は私の罪の姿、私の罪の姿を見過ごしに出来なかった。捨てることが出来なかった。 ご自分の身をもって十字架にまで架かって「彼を赦して下さい。わたしは彼を愛しているから。彼のためにわたしを裁いてください。」キリストはこの私の身代わりになって下さって、キリストはあなたの身代わりになって下さった。身代わりにならずにはいられないで、自ら進んで身代わりになって下さった。 そして皆さん、身代わりになってイエス様が十字架上に身をさらした時に、神がそれをご覧になった時に、もはやどうにもならない、見捨てなければならない、裁かなければならない、滅びなきゃならないその現実をこのところは見せているのです。生の姿を見せているのです。 私の罪をキリストが身代わりに負って下さった時に、最早裁かれて死ぬしかない滅びるしかないその現実を見ています。そしてキリストはそのためにこそ来たのでありますが、でも今目の当たりに罪の裁きを見た時に、「どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」とこの裁きの恐ろしさ、厳しさの前にたじたじとなったイエス様の姿がそこにあります。 もし主を知らないで裁きに立ったならば、誰一人立てない、裁きに耐えない、その滅びが耐えられない。ですからイエス様は自らの身を捧げてくださったのです。私のために、あなたのために、皆のために、全人類のためにです。その愛を今日もまた心に刻ませて頂きたいのであります。 そして、その愛を頂いて、私たちは私が赦されることで済まされないこの滅びを家族に招いてはならない、友人知人がこの滅びを招いてはならない。キリストが叫んでくださったその叫びを私たちの心の痛みとし、叫びとし、そしてとりなす者、祈る者、伝える者、愛を現すことの出来る者と変えさせていただきたいのであります。 お祈りを致します。 そして私たちがどうしなければならないかもあなたが今日こうして見せて下さいました。主よ、本当にあなたの救いを頂いていながら、なお繰り返し罪に染まり、汚れに染まってしまいます罪深い愚かな者をあなたは幾度も幾度も許し、愛してくださいます。 主よ、どうぞこの朝、御前にありますお一人お一人にその愛が注がれて、赦されて、そしてあなたの愛の中に生かされる者となりますように。今日初めての方にとっても、また信仰年限の長い者にとっても同じようにあなたの許しと愛を頂かなければ立ち得ない自らもいますからどうぞ主よ迎えてください。一人一人を受け入れて下さい。新しく主のみ手の中で生かしてくださいますようお願いいたします。感謝します。 |