| 2001年11月25日 主日礼拝式 “ヨハネの福音書” 19章28節 「“キリストの十字架上のことば 8”」 “池田 博牧師” 宣教メッセージ |
| 今朝のメッセージのみ言葉をお読み致します。今朝は ヨハネの福音書19章28節
です。新約聖書の202ページになります。 “ヨハネ”
はい!聖書は以上であります。十字架上のイエス様のことばを見てきていますが、今日はその「わたしは渇く。」という所に目を留めてみたいと思います。 先週1つの嬉しいニュースがありました。それはK.Hさんのお母さん、K.K姉妹の洗礼式でありました。K.H姉妹の要望で20日に私たちがお訪ねして、ご自宅で洗礼式を致しました。お母様K.K姉妹は今年93歳です。私たちの教会では最高齢の洗礼式になりました。 久しぶりにお訪ねしてお会いしました。「今日は洗礼式に参りました。」と申上げましたところ、本当に明るい顔をしておられて、「よろしくお願いします。」との返事でした。そこそこの挨拶の後、すぐに洗礼式に入らせていただきました。 私が「K.Kさん、イエス様は私たちの救い主です。K.Kさんにとっても救い主です。そのことを信じますか。」と訊きました。すると、はっきり「はい!信じます。」と応えが返ってまいりました。続いて「イエス様は十字架に架かって私たちのために身代わりとなって、死んでくださいました。それで罪が赦されました。お母さん、イエス様の私たちの身代わりの十字架を信じますか。」と訊きました。「はい!信じます。」とはっきり応えられました。 その大事な応えを頂きましたので、ただちに、そこで滴礼での洗礼を致しました。雰囲気が本当に爽やかでした。ご高齢にも拘わらず、受答えもはっきりしておりました。そこには天からの聖霊が注がれて、天と地が繋がれた、そんな思いも致しました。聖霊の臨在の中で、爽やかな中で、はっきりした受答えの中で洗礼式をすることが出来て大変嬉しくなりました。感謝でありました。 そこに至るまでにはK.H姉妹の祈りがあり、関係者の祈りがあり、ファミリーの祈りがあり、そして又K.H姉妹がずっとお母さんと一緒に聖書を読んでこられたことであります。既に新約聖書は2回読み終わっていた。K.H姉妹が声に出して朗読をしてこられた。そして旧約聖書もずっと読んでこられて、その日が最後のマラキ書で、あと2章で終わりというところまできておられました。 こうして、聖書の言葉がいつも目から入って、耳から入って来るということの素晴らしさ、そして背後の祈りの中で導かれるという幸いを感じました。聖書のことば、それは生きて力があります。イエス・キリストの十字架、それは私たちを罪から救う権威があります。その事がなされた時に、本当に心が爽やかになります。 お母さんは長い間、他の宗教を持っておられて、信じてこられた方でありました。そういうことがあって、実に長い間の祈りが積まれたということでもありました。それが全部消えてしまって、本当に神のことばの前に額づくその姿は、もう神様の臨在に溢れていました。 もう大丈夫。永遠のいのちを頂いて天国に行くことが出来るという安心感。そんな爽やかな中で洗礼式を執り行うことが出来ました。ご高齢であったり、これまでの祈られた中にあっての式である、それだけに本当に素晴らしい恵みを頂いた感じがしました。 救われること、十字架の救いを頂くこと、聖書のことばにきちんと立つことが出来るということは本当に幸いだな。そのことを深く深く知ってみる時に、そこに身を置いてみた時にその世界がなんて素晴らしいことか。改めて心に感謝せずにはおれませんでした。 今日もそのイエス・キリストの十字架、その十字架のことばに目を留めていきたいと思います。先程お読みしたところでありますが、その十字架の最も頂点、中心が先週・先先週も見てまいりました「イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」という所でありましたが、それに続いて、今日のところは、短い「わたしは渇く。」と言われたこの一言のことばであります。 でも、このことばも大切です。このことばにも深い意味があります。私も改めてそのことを黙想しながら、今日のために備えさせていただいたことでもありました。この「わたしは渇く。」とイエス様が言われたこの時ですが、朝の9時に十字架に架けられたイエス様がそこでは手足に釘を打たれて、頭には棘の冠が被せられて、そこで血が流れました。12時が過ぎやがて3時に息が絶えますがその間際の出来事であります。 ですから、ほとんどの血はもう流れ尽きてしまったであろうと思われるこの時であります。ですから先ずここで言われる「渇く。」というのは、ほとんど流れ出してしまっている血のない状態の中での辛い辛い肉体上の極限的な叫びであろうかと思います。 皆さん、夏の暑い日に運動したり、歩いたりした時には渇きますねー。喉が渇きます。そして水を飲まないでどんどん運動したり歩いたりしたならば、やがてどうなってしまうでしょうか。もう喉が熱くなって、飲みたくてしかたないですね。そしてそれを越してしまったならば、脱水状態になって、やがて命の危険に晒されていくという、水に対する渇きがどんなに大変かがわかりますね。 でも、血が流れて、ほとんど無くなってしまった渇きは比較にならない程の渇きですと書いてありました。誰もがそのような経験を出来ることではありませんが。血が流れきるといことは遥かに水の渇き以上のものだという事を知った時に、イエス様は血を流しきる中での苦しみに敢えて直面された。それは人間が肉体的にも精神的にも苦しむ極限がどんなものであるかということをイエス様ご自身がそこに立たれたということです。 そして、その事は前もってイエス様が通らなければならない事だと聖書にはいわれています。ですから28節にはこうあります。「イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、『わたしは渇く。』と言われた。」と書いてあります。 この聖書が成就するという前もっての預言のことばが有るわけですが、そこに少し目を留めてみたいと思います。それは旧約聖書の詩篇の22篇に有ります。この詩篇の22篇はキリストの十字架を預言したことばであります。1節から始まって十字架上のことが次々と描かれています。今のところは15節です。 “詩篇”
この預言のことばですが、新共同訳で読みますともう少しはっきりしているかなーと思います。新共同訳では「口は渇いて素焼きのかけらとなり/舌は上顎にはり付く。あなたはわたしを塵と死の中に打ち捨てられる。」とあります。いかにその血が流れ出る中での渇きが大変なことであるかがよく描かれています。 そして更に1節前の14節を見ますと、これと繋がっているのですが「私は、水のように注ぎ出され、私の骨々はみな、はずれました。私の心は、ろうのようになり、私の内で溶けました。」とあります。その症状と言いますか、その状態がわかる気がいたします。その極限状態がよく伝わってくると思います。 そのようにして、イエス様は人間が苦しむ極限の状態を自らそこに味あわれた。そしてその極限の中から、イエス様が敢えて「渇く。」と叫ぶその中に、私たちが受けなければならない罪の裁き、その苦しみをイエス様が受けて下さろうとしている、それをみることが出来ます。 先ず、ご自身の肉体的な極限の状態のことをここで表現していますが、でも、ここにはもう一つの面がある。それはもっと深い意味をもっての「渇く。」ということの意味だということです。もう一つの「渇く」というのはキリストが差し出される杯を飲むことへの渇きだといわれるのです。キリストの前に差し出される杯を飲まずにはおれない事への渇きの叫びだといわれるのです。 イエス様が十字架の上で杯を飲むということについては、既にその前のゲッセマネの園において、その事の苦しみを祈りの中に託しています。そのところも少し見てみたいと思います。それはマルコの福音書の14章です。32節から36節までをお読みいたします。 “マルコ”
有名なゲッセマネの祈りの光景です。このゲッセマネの祈りはルカの福音書を見ますと、イエス様の額から血の汗が流れ出ていたと書かれています。いかにここでの祈りが大変な祈りであったかが判ります。 そして、何故かここでイエス様は「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。」と祈っておられます。皆さん、イエス様は神様の前に従順そのもので従ってこられました。イエス様が神様の前に従わなかったことは何一つ有りませんでした。いつも従順でおられた。 けれども、ここでイエス様は何故か「この杯をわたしから取りのけてください。」と祈っているのです。これはどういうことだろうか。何故こういう祈り、願いをイエス様は神に捧げたのだろうか。 杯を頂くという時に、私たちはすぐに連想します。それは聖餐の杯です。聖餐の杯で私たちは葡萄液、葡萄酒を頂きます。いうならば美味しい感じですよね。もっといっぱい有った方がいいというくらい飲んで美味しい杯であります。しかしイエス様が頂いた杯は葡萄液、葡萄酒ではありません。また血でもない。血を飲むことも辛いと思いますが、その血でもない。 その杯に詰まっているものは、そこに満ちているものは人間の罪、人類の全ての罪がそこに満ちていると言われるのであります。でも、人間の罪が満ちていると言っても私の中にはもう一つぴんと来ない処もありました。 でも数年前に私が聖地旅行に行った時に、その中で聖餐式がありました。その時にガイドのスチーブン・エイコ先生が話されたことが私の心を捉えました。「皆さん、今頂く杯と同じ杯をイエス様は飲まれました。そのイエス様が飲まれた杯の中には何が入っていたとお思いですか。そこには皆さんのドロドロした、汚れた、腐りきった罪が、そしてそこには蛆虫がうじゃうじゃある。そういう状態の杯です。」 皆さん、私たちの心の罪、私たちが持ち抱えている罪はどんなに汚れているでしょうか。どんなに汚いでしょうか。どんなに菌があるでしょうか。蛆虫がうじゃうじゃあるでしょうか。その杯をイエス様は飲み干してくださったのです。 イエス様も一旦は「飲めません。」と言わないではいられないほどのもの、それが杯です。私たちの罪が詰まっている杯です。でも今この十字架上において、イエス様はその杯は飲めないのではなくして、飲むことに渇いて渇いて、飲まずにはおれない状態になっているということです。 どうしてでしょうか。ゲッセマネの園からどうしてこのように変わったでしょうか。私は思いました。ゲッセマネの園を出てからのイエス様はやがて捕らえられていきました。多くの群集はイエス様に対して叫びました。「彼を十字架につけろ。」「彼を十字架につけろ。」と叫んだのであります。 弟子達もイエスを見捨てて、逃げてしまったことでした。兵隊達は何をしたでしょうか。唾をかけました。拳で殴りました。そして葦の棒で頭を叩きました。膝まづいて「ユダヤ人の王様、万歳。」と言って罵詈増減を浴びせ掛けました。人々はそして言いました。十字架を横目で見ながら「お前はユダヤ人の王か。だったらば降りてきて自分を救い、我々を救ってみろ。」と馬鹿呼ばわりをしました。 そういう罪の状態です。目の前に人々のその罪の状態を見た時に、浴びせ掛けるその罵詈雑言を聞いた時に、イエス様はもはやもう彼のこの罪を何としても飲まなければ彼らは滅んでしまう。彼らは救われなければならない。ですからどんなに汚かろうが、蛆虫がうじゃうじゃ居ようが、何としても飲まなければ彼らは滅んでしまう、地獄に行ってしまう。ですから「渇く。」と叫んだのであります。 「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫びました。「どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と叫ばずにはおられなかった罪のその裁きの恐ろしさと共に、しかしそれを飲まなかったならば彼らが滅んでしまう時に「わたしは渇く。」と言ってその杯を飲まずにはおれない主の私たち一人一人の救いへの、ご自分が身代わりになろうとしている姿です。 皆さんはどうでしょうか。仮に2000年前のあの事態に群集の一人として立っていたならば、あなたは他の群集と同じように「十字架につけろ。」と叫ばなかったでしょうか。兵たちが拳で殴り、葦の棒で叩いている姿を見て、「やめなさい。」と叫ぶことができたでしょうか。 人々が「ユダヤ人の王なら降りてきて自分を救い、我々を救ってみろ。」と叫んでいましたが、そこに通り過ぎていく一人であったときに、あなたも同じような心でいなかったでしょうか。 そうです。私たちは皆心が汚れはて、心が罪に満ち、心が呪いに満ちている。そんな者でした。ですからこそ、イエス様はその全てをご自分の身に飲まないではおられない叫びがそこにあったのです。 「わたしは渇く。」「わたしは渇く。」「その杯を早く飲みたい。飲まなければ彼らが滅んでしまうから、早く飲みたい。」と叫ばれました。そのようにして私たちの罪を、そのようにしてあなたの罪を、あなたの苦しみを全部飲み干して下さった。それが「わたしは渇く。」この十字架の深い深い意味であるということです。 今日、もう一度、私たちはこのイエス様の叫びの前に、この苦しみの中で私たちが癒されていき、この苦しみの中で私たちは救われていき、この苦しみの中で私たちは開放されていく道が開かれた。ここに、ここにのみ、開かれていく。 この素晴らしい救いをもう一度私たちは深く心に留め、感謝し「主よ。こんな罪深い者をどうぞお赦しください。こんな罪深い者ですが、あなたはお救いくださるのでしょうか。あなたの救いを私に与えて下さい。」そう額ずいて祈る者とならせて頂きたいのであります。 お祈りを致します。 主よ、どうぞお赦し下さい。どうぞ主よ、お救いください。そして、清めて下さい。心の汚れを清めて下さい。洗い流して下さい。そして、あなたのみ前に、あなたの癒しを頂いて、新しくあなたに贖われた者として、あなたに従い行く者とならせて下さいますようにお願いいたします。 主に信頼します。お委ねします。主を見上げます。 尊い救い主イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン! |