| 2002年1月13日 主日礼拝式 “ヨハネの福音書” 4章35節 「“収穫に向けて”」 “池田 博牧師” 宣教メッセージ |
| 今朝のメッセージのみ言葉をお読み致します。今朝は ヨハネの福音書4章35節 に目を留めたいと思います。新約聖書の164ページになります。 “ヨハネ”
はい、聖書は以上です。今年の標語が収穫の年、御ことばにありますようにイザヤ書の35章10節からとり、贖われた者は帰ってくるということから、何回かにわたって「収穫に向かって」という事で、ご一緒に見てまいりたいと思っています。 たった一枚拾ったチラシがきっかけで、或いはメールボックスに入っていた一枚のトラクトから、或いは一寸スイッチを入れてみたラジオから流れてくる福音放送、チャンネルを廻してみたらたまたまキリスト教番組が放映されていた、そんなきっかけから、教会に導かれクリスチャンになったというあかしをたくさん聞いております。 なかには、このチャンネルを合わせて見ていたその番組の中で、悔い改めに導かれて、最後のお祈りの時に涙を流し、救われたというあかしも聞いたことがあります。素晴らしいことであります。 しかし皆さん、身近なところで、先週のことでありましたが、初めて教会に来られた方がイエス様を信じて、救われただけでなく洗礼を受ける決心をなさったということであります。今年は申上げましたとおり、収穫の年、祝福の年となるようにとの願いをもって、先週は第1主日でありましたので、本当に期待の中に礼拝をまもった事でありました。 それに神様が応えて下さるかのように救われる人を送ってくださいました。本人は全くそういうことは知らないで参りました。来てみて、信じてみて、知ってみた時にそういうことであったということであります。Y・Aさんという方です。 本当に素晴らしいですね。主は生きておられます。本当に主の御名を賛美いたします。本人の喜びもそうですが、教会に神様は祝福を与えてくださった。教会の喜び、皆の喜びとしてくださっています。初穂でしょうか。毛ほどの雲でしょうか。これからこの1年、主がどのような事をして下さるか、私たちにわくわくするような祝福を与えてくださった、そんな風に思います。 昨日も役員会が2時までかかりました。この1年、これからの教会の将来、いろんなことについて疲れきるほどに話し合いました。本当に主を期待していきたいと思っています。 さて、今日の聖書の御ことばに目を留めたいと思います。ヨハネの福音書4章の35節であります。まず、前半のところでありますがこうあります。「あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある。』と言ってはいませんか。」 このことばでありますが、これは当時、格言として言われていた言葉だと言われるところです。 これは、考えてみると、自然の法則であろうかと思います。種を蒔けば、芽が出て、育って、実が結ぶまでには時間がかかる、時が必要ですということです。それは当然なことです。でも、とても大事なことがあります。「何処まで実ったかなー。」と言って、掘り起こしては駄目です。信じて待つことが大事なことだなと思います。 イエス様は、そういう当たり前な自然の法則ではあるのですが、その自然な法則に逆らうような、或いは否定するかのような形で、このことを言っておられる。「『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある。』と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。」と言っておられるのです。 敢えて、自然の法則を否定するような形でイエス様がこのことを言われている、その意図が何なのか、何故敢えてそうなのかというところにとっても大事な、聞かなければならないメッセージがあるであろうかと思います。 私たちはそんな自然の法則を通して考え得ることは聖書のことばがしばしば種といわれるわけですが、聖書のことばを聞いた時に、その聞いた聖書のことばからその人が導かれてクリスチャンになっていくには、やっぱり蒔かれた種が実るまでに時間がかかるように時間がかかります、時間が大切です、そういう風に自然から学ぶという風に理解すると思うのです。 しかし、どうもイエス様はここではそうではないと、自然界ではそうであるが、自然界には大切な法則ではあるが、でも、霊の法則、霊の世界の法則はそうではなくして、「蒔かれた種は即実を結ぶ、そういうことでもあるのですよ。」ということをイエス様はおっしゃりたいのだとここでは感じることが出来ます。 それというのは、このことを話しながら、同時並行で大事な1つのことが起こっているのです。それは39節に目を留めてみますと、そこにこうあります。 “ヨハネ”
何と、サマリア人の内の多くの者がイエスを信じた。「私がしたことを全部私に言った。」と証言した女とは、遡って28節、29節にあります。「女は、自分の水がめを置いて町へ行き、人々に言った。「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。」これを受けて39節があって、大勢の人々が信じたとあるわけです。 これはとても普通の教会の出来事としては、また、本郷台の1つの仕方としては、あまりにも入り口過ぎると言いましょうか、まだクリスチャンになる入り口に立つか立たないかの感じがするのです。一人のサマリアの女が自分の水瓶をそこに置いて、町の中に飛んで行って、人々に「来て見て下さい。私にしたことを全部私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。」と言いました。 「この方がキリストなのでしょうか。」この部分は脚注を見ますと「メシアでしょうか。」と言った。素晴らしいことですが、それだけです。それ以外、それ以上のことは何も言っていない。なんと、それを聞いた人の多くが信じたというのです。 これはとっても不思議といえば不思議ですね。そして、大事なことですが、それを脇で見ながら、そのことを心に留めておられたイエス様が言われたのは『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある。』 クリスチャンになるということは、御ことばの種が入る、それはそれとして大事なことだ。けれども、実が結ぶためには時間が必要です。だから、これから「一歩一歩クラス」をやります。それは5歩まであります。終わったら、次に「信仰告白の学び」があります。そして又終わったら、決心するかどうか、静まって神様と交わってください。 ちゃんとカリキュラムが出来ているのです。そこを通らないと、そこを終わらないと、クリスチャンにはなれないみたいなことであります。でも、こうして原点、イエス様のなさったことに振り返って見ますと、そういうことをしていないのです。一歩一歩クラスがありますとは書いていない。何も書いて無い。 このサマリアの女の人が「あの人は救い主でしょうか。」と言うことばを素直に信じた。「それでいい。」とおっしゃっているのです。聖書が、イエス様が私たちに示してくださっていることを私たちは大切に聞いていきたいなと思います。 このイエス様がおっしゃっていることの中で、も一つ大事だなーと思うのは、この女性自身のことです。もう一度28節をみますと「女は、自分の水がめを置いて町へ行き、人々に言った。」とあります。この人がどんな人であったのかは4章をずっと読んでいくと判ります。およそ、教会やクリスチャンとは無縁の人であることが判ります。 更に言えば、あまり褒められた人生を生きている人ではなかったと判ります。でも、それはどうでも良いのです。この女の人がイエス様に出会いました。イエス様と話をしました。そしてイエス様の語られた御ことばによって、この人はイエス様との霊の出会い、心の出会い、そして生まれ変わりがあったのです。確かにあったのです。 ですから、彼女は本当はあまり人目に触れたくない、そういう時間に水汲みに来ていたのですが、それがどこかに吹っ飛んでしまって、大事な水瓶をそこに置いて、町に行って、人々の間に出て行って「私がしたこと全部を私に言った人がいるんです。」と証言した。 「私のしたこと全部、それは見られたくないこと、知られたくないことをずばり言われた。それは私にとって、私の心、私の人生、私自身が変えられていった。不思議なことです。この方こそ、この方こそ救い主であるに違いない。その通りです。」と彼女はそう言った。 ですから、言葉は僅かであった。語ることは僅かであったかもしれないけれど、そこに込められているもの、それを裏付けているこの人自身の内側にあるものが伝わっていったかなーという風に思います。 大事なことは、イエス様に出会って、いのちを頂くことです。きっかけはどうでもいい。一枚のチラシ、拾ったものでも何でもいい。でもそこから始まって、確かな出会いがなされたらそれでいい。 聖書を通してずっと読むとか、知識を得るとか、そういうことは第2の問題であって、いちばん大事なことは、イエス様からいのちを頂くことだ、イエス様と出合って、本当に私の心が変えられましたという、その経験です。 ですから、イエス様は敢えて「時の問題でもないし、どういう学びをそこでしたかの問題ではない。出会ったか、触れられたか、そこです。」とおっしゃっている。そのことの大切さを先ず心に留めさせられることであります。 そして、その後から学ぶことは大事な事です。小学校で6年間学ぶ。そういう風にクリスチャンとしての学びは勿論大切なことであります。クリスチャンであるかどうか、それは学びではないのだ。「出会いです。いのちです。」という事をここでしっかり教えられることであります。 それから、もう一点のことに目を移したいのであります。それは後半の部分です。「さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。」とイエス様はおっしゃっています。 「あなたの目を上げなさい。」とおっしゃっています。イエス様は弟子達に目の前の麦が未だ伸びつつある状態を見せて言っているのかなーと思います。決してもう穂が垂れて、刈り入れるばかりの状態を見せているとは思えません。 まだまだ、これから先という状態を見せながら、でも「あなたがもう一つ、目を上げて見た時に、あなたはもう色づいて刈り入れるばかりになっているその状態を見ることが出来ますか。」とおっしゃっているわけなのです。 このことを通して、イエス様が本当におっしゃリたいことが何なのかきちんと聞いていきたいと思うのです。先ず、「イエス様は目を上げて畑を見なさい。」とおっしゃっています。畑という言葉が出てまいります。勿論畑というのはそのままいけば麦畑のことでありますが、でも同時に、イエス様はこう言う風にもおっしゃっている処もあるのです。 それは“マタイの福音書”13章38節です。そこにはこうあります。「畑はこの世界のことで、良い種とは御国の子どもたち、毒麦とは悪い者の子どもたちのことです。」畑は世界を指しているということです。麦畑を見せながら、でも、「目を上げてご覧なさい、目を転じてご覧なさい。それは世界ですよ。」こうおっしゃるわけなんです。 世界という視野に目を移させて、イエス様はその世界という視野を見たときに「さあー、そこは色づいて刈り入れるばかりになっています。」と言っておられるのです。イエス様の目、それは世界であって、全人類であって、全ての人であって、私たちであり、私でもある。そういう目で見て下さっているイエス様。 そして、その目で見た時には、もうそこは色づいていて刈り入れるばかりですよとおっしゃっているのです。イエス様にとっての世界、先ずそれはイスラエルの人々であった。皆さん、イエス様にとってイスラエルの人々、イスラエルの世界、そこは確かにイエス様の話を聞いて、救われていった人たちも大勢いました。 イエス様に何処までもついて行こうとした人たちも大勢いました。でも、私たちは知っています。やがて、或いは同時にイエス様の話に耳を貸そうとしない人たちが大勢いたことも。更には、話に対して反抗する人たちもいたことを。更には、その話を遮って、イエスを捕らえる人たちがいたことを。 やがて、捕らえられて、裁判にかけられて、死刑の判決が下されて、十字架にかけられていくという過程を歩んでいきます。涙を流して「あー、エルサレム、エルサレムよ。」と嘆かなければならない人々、それもイエス様の見ていた世界であったわけであります。 イエス様が、何故、そういう世界を見ながら、なお色づいていて、刈り入れを待つばかりだとそう言っておられるのでしょうか。そこに、このことばのもう一つの深い意味があるように思うのです。 イエス様は確かに私たちの目で見る世界であると同時に、もう一つの目が有った。それは十字架を通してみる目、十字架を通してみる世界、それがイエス様のもう一つの目であり、そして大事な目であり、その目をもって見ることをイエス様は私たちに求めておられるであろうことを思わせられるのです。 皆さん、私たちが見る世界はどうでしょうか。私たちが見る日本はどうでしょうか。私たちの周りを見る目はどうでしょうか。「あかしをしたいけれども、主を伝えたいけれども聞いてくれる人は先ず居ないでしょう。」「日本人は頑なです。日本人は異教です。日本人は宗教にはほとんど無関心です。」 「いや、宗教に関心なくはないけれども、多くはさまざまな偶像に向いています。ですから真の神様に耳を傾ける人はほとんど居ないです。ですから、決して色づいているとは言えない、刈り入れるばかりの世界だとは決して思えない。」どうでしょうか、それが私たちの見る目、感想、実感だと言えないでしょうか。 でも、皆さん、イエス様はある意味ではそれ以上の世界、イスラエルの世界において、イエス様自身を捕らえて磔にして殺してしまう、そういう世界です。イエス様の周りの世界はそういう世界でした。でも、イエス様はそういう世界を色づいて刈り入れるばかりの世界ですとそう言っておられる。私たちはそういう目で見ることが出来ているでしょうか。 私たちの心の目、私たちの見る目がもう一度主によって問われている。そんな気がするのです。 金曜日のことです。今日の準備をしながら夕方牧師室から平和台チャペルに降りていきました。玄関のところに来ましたら、そこにS兄弟がいて、一人の若い子が一緒にいました。S兄弟が「S君です。」と私に紹介してくれました。彼は中学3年生で、ことの経緯を聞きました。 今朝、その人が何故そこに来たかという話の元になるT姉妹に確認しましたら次のようでした。T姉妹が金沢八景からバスに乗りました。荷物を持っていたのですが、一人の若い子が「荷物を持ちましょうか。」と言ってくださったそうです。でも「大丈夫です。」と言うと、キョロキョロしながら席の空くのを捜してくれて、空いたらさっと行って「どうぞここに。」と言ってくれました。 2つ席が空いてそこに二人で座ったそうです。そしたら彼の方から「あのー、幸せですか。」と訊いてきたというのです。「とっても幸せ。本当に幸せですよ。私は。」「どうしてですか。」「クリスチャンなんです。」「えっ、クリスチャンですか。」「本郷台キリスト教会、ダイヤモンドチャペル、素晴らしいとこよ。どう、あなた、行ってみない。」「行きたいです。」という事でダイヤモンドチャペルに来たそうです。 そこにS兄弟がいて、ケーキを一緒に食べて、今度は「ユースのためにこういう場所があるのです。」と言って平和台に連れて行ったというのです。そこで私と出合ったわけです。彼の目は澄んでいました。彼の目は本当に祝福を受ける目でした。 T姉妹が出会った一人の人でありますが、でも彼女の中にある目、いつでもそうなのですが、本当に主を伝えたいなー、主を伝えずにはおられないそういう思いがあります。そういう目で見たときに、不思議ですねー、そういう人がそこに備えられるのですねー。 皆さん、皆さんの世界はどうでしょうか。皆さんの世界、先ず家族でしょうか。家族にどういう目を持っているでしょうか。「うちの人は死ぬまで教会に行かないのではないでしょうか。」と思ってはいないですよね。でも何処かで半分思っていたりして。私たちはしばしば身近な人、知れば知るほどこの人を難しいと思ったりし勝ちです。 ですから、私たちは刈り入れを待つばかりの世界、なかなかそう思っていないのですが、そういう目で見ること、そういう転換をすること、十字架を通して見ること、その時に私たちは頑ななその人の心に自らも引いてくのではなくして、主がこの人のためにも死んで下さった、主がこの人のための血を流してくださった、だから滅びてはならない、救われなければならない、そこには愛のほとばしりが、涙が、痛みが溢れて参ります。 その目をもってみた時に、心は通じてきます。いのちは伝わってきます。愛は通じてきます。そして、皆さん、私たちはどうでしょうか。トラクトを持っているでしょうか。教会案内を持っているでしょうか。持っていきたいですねー。いつでも誰にでも渡せるように。そして祈り心を持って。 日本の人々の救いのために、私たちは本当にいたむ心を持っていきたいですねー。日本は1%の壁が破れないということでありますが、誰がそうしているのでしょうか。クリスチャンです。何処でそうなっているのでしょうか。教会がそういう目で見ていないからです。 私たちは本当に主の心「さー、色づいて刈り入れるばかりになっている」という目で、あなたの家族を、あなたの友人を、あなたの学校、あなたの職場、あなたの趣味仲間をそう見ていきたいのです。そうして、そこに伝えていくならば、愛をもって伝えていく者にならせて頂きたいのであります。 お祈りを致します。 自らいのちを賭けて下さったがゆえです。十字架のゆえです。その愛のゆえです。ですから、どうぞ、私たちにその目を与えて下さい。その心を与えて下さい。涙せずにはおれないいたむ心を与えて下さい。家族が滅びてはならないからです。友人が滅びてはならないからです。周りの人々が滅びてはならないからです。日本人が滅びてはならないからです。そして世界が滅びないためにです。 どうぞ、私たちに哀れみの心を与えて下さい。 尊いイエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン! |