2002年2月3日 主日礼拝 
マタイ9:35〜38

「収穫に向けてB」

“池田 博師” 宣教メッセージ

今日の御言葉はマタイ9:35〜38、新約聖書の15ページです。

9:35 それから、イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。
9:36 また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。
9:37 そのとき、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。
9:38 だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」

はい、以上です。今日はこのところから見てまいりたいと思います。日本の政治家あるいは役人あるいは政府機関、こうした人達のNGOに対する無理解さには目に余るものがあるように思います。今世界の目がアフガニスタンに注がれています。先日も東京でアフガニスタン復興支援会議が、全世界の注目の元に行われました。この復興支援会議は、NGOが影で支えたのであります。

NGOの働きと言うのは、全世界に何千と言う数があります。そして、その働きの多くはキリスト精神に基づいて行われております。私たちが知っている身近なところでも、幾つかの働きがあります。国際飢餓対策機構ですね。あるいは、また、ワールドビジョン、あるいはまた、ブリッジ・フオー・ピース。これは特にイスラエルのための働きでありますけれども、

この度,韓国を訪問しましたが、まあ、団長でもあり、責任者の峰野先生とご一緒しましたけれども、この峰野先生はワールドビジョンの総裁でもあられて、世界の難民のいるところ各地を訪問なさっておられます。今回のアフガニスタンについても、とても心を痛めながら話をしておられました。日本も、もっともっと支援をしなければならない。その点私たちは祈りつつ協力をしていかなければならないので、1つよろしくとのことでした。

なぜ教会やキリスト教関係者が、こうした働きに積極的に手を延べているのか、現地に出掛けて行っているのか。それは、イエスキリストのスピリットと言っていいでしょうか、そして、イエス・キリストの御心であると言うこと。それに基づいて、そうした行動がなされていると言うことが、言えます。

また、マザー・テレサに代表されますけれども、弱い立場にある人々への、支援活動、福祉の働き。これが世界中に行われております。この多くもキリスト教の精神に基づいてなされております。それはキリストが弱い者の立場に立って行動されたと言うところから来ております。

教会にも福祉ミニストリーがあり、あるいは給食ミニストリーがあって、小さいながら、そのスピリット、その心で行動していると言うのであります。イエス・キリストが愛を実践された。そのように教会もクリスチャンも、私たちもそれをすると言うことが、どんなに大切なことか、そんなことを覚えることであります。

今日の御言葉に目を留めたいのでありますけれども、9章の35節「それから、イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。」こうあります。

このイエス様の行動を表す表現でありますけれども、これは遡り4章の23節、5ベージを開くと、そこにも殆ど同じ表現がされています。「イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。イエスのうわさはシリヤ全体に広まった。それで、人々は、さまざまの病気と痛みに苦しむ病人、悪霊につかれた人、てんかん持ちや、中風の者などをみな、みもとに連れて来た。イエスは彼らをお直しになった。」とこうあります。

これを見ますとイエス・キリストと言うお方が地上の公の生涯を歩かれた。その行動の様子と言うものが良く表されていると思います。キリストはどう言う行動をされたのか、何をされたのか、それがここに言うならば集約されていると言いますか、象徴的に言われているのかなあと思います。

全土を巡って、そして、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。そのため、シリア全体にとあるのですが、エルサレム、イスラエルもそうでありますけれども、もうその回りの多くの地方にまで、その噂が飛んで、そして、多くの人々がやって来たと言うことであります。そして、やって来た人々に対して、イエスは彼らをお直しになった。まあ、無条件で受け入れて、それをなさったと言うことが、ここで良く分かります。

戻りますけれども、マタイの9章の方でありますけれども、この35節36節も同じ側面でありますけれども、このイエス様の行動を見て、まず目に留まるのは2つの言葉です。それは「巡って」と言う言葉と「見て」と言う言葉であります。35節に「巡って」と言う言葉があり、36節に「群衆を見て」と言う言葉があります。この2つの言葉が目に留まるし、又鍵の言葉かなあと思います。キリストは全ての町や村を巡って歩いたと言うことが分かります。町々村々を巡り歩いたイエスキリスト。キリストは留まっていたのではない。キリストは人里離れて籠もった生活をしていたのではない。

何時も巡り歩いていた。しかも、全ての町や村であります。一部ではない、全体だ。そして、好きな、受け入れてくれる場所だけではなく、そうでない場所にも、と言うことであります。キリストを歓迎しないところがあったのです。石を投げて追い返す、来てくれるなと言って追い返される。そう言う場面も出てまいります。

だから、そこには行かないと言うのではなくして、どんなに石を投げられ、嫌われ、出て行けと言われる、そう言う場所にも、あえて、キリストは巡り歩いた。くまなく巡り歩いた、と言う事であります。

キリストの行動の原点と言いましょうか、そこには、そうせずにはおれない、突き動かされているキリストの愛のほとばしりががそこにある。それを見る思いがいたします。そして、もう1点「群衆を見て」とあります。まあ、口語訳では「御覧になって」とやっておりますけれども、それは、特別な眼差しをもってと言うふうに訳すことが出来ます。

見ると言うのは、ただ漠然と何気なく見ているのではない。じっと見つめられた。しかも、それは、ただ外見ではなくして、心を見た。人々の心の状態を御覧になった。そして、しかも、傷つき、痛んだ状態にイエスは目を留められた、と言うことであります。36節は「群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。」と言う。ここにキリストの見る目の焦点がどこにあるのか、何を見たのかと言うことが、良く表されております。

イエス・キリストはくまなくイスラエルの全地を歩いて、そして、痛んだ、傷ついた人々のその状態を、しっかりと目に留めておられた。そして、36節の後半にありますように、「あらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。」とあるわけであります。病気、心のわずらい、苦しむその問題、キリストはその1つ1つに目を留められた。

そして、彼らを直された、癒された。開放してあげたと言うことであります。イエス・キリストは、一方において、当時の指導者達、律法学者、祭司長、あるいは又、宗教家、パリサイ人達に対しては、とっても鋭い目をもって、更に言うならば、対決姿勢をもって、彼らの非、彼らの偽善。それをキリストは指摘なさいました。

しかし、もう一方では、弱い立場の人々には、限りなく憐れみの心、愛の心を現しなさって、そして、彼らにたいしてかわいそうに思われた、とあるのでありますけれども、このかわいそうに思われたと言うのは、弱り果てて倒れている彼らにたいして、もう、じっとしていられない。近づいて、手を延べて、そして、あるいは癒し、解放し、立たせないではいられない。ですから、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直された、と世の中にそれらのことが象徴されております。リビング・バイブルを読みますと、このところについては、「キリストの心はズキズキと痛んだ。」とあります。とても実感がこもっているかな、と思います。

ズキズキと痛んだ。そう言う心をもってキリストは倒れている人に近づき、手を延べ、そして、1人1人を立たせてくださったのだ、と言うことであります。先々週見ましたヨハネの福音書の4章の中に、イエス様がそこに1つの行動をなさったことが出てまいりました。「目をあげて畑を見なさい。色づいて刈り入れるばかりになっている。」と言いました。

そして、具体的に刈り入れを待つばかりの、その魂、その状態、それは誰かと言うならば、サマリヤの1人の女であったのだ。と言うことであります。たった1人の人のことを言っていた。たった1人の人にキリストは敢えて、サマリヤを通って、そして、近づいておられる。当時、サマリヤは絶交状態で、誰もサマリヤに行く人、サマリヤを通る人はいなかった。

そう言う中で、キリストは敢えて、そのサマリヤの地に行き、そして、1人の心の痛んでいる女性に近づいて、その人を言うならば、買い取ってくださった。癒してくださった、と言うことであります。

又これも有名でありますけれども、ザアカイと言う人にも、イエス様は目を留めておられます。ルカの福音書の19章1節から10節にそうあります。

「19:1 それからイエスは、エリコにはいって、町をお通りになった。19:2 ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。」

しかし、彼の心は、あまりにも、荒んでいました。傷ついて倒れていたのであります。彼はイエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることが出来なかった。それで、イエスを見るために、前方に走り出てイチジク桑の木に上った。丁度イエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。

ザアカイはどんなに心がうずいていたのか。イエス様はよくよくご存じでありました。大人が木に登って見下ろす姿は、滑稽そのものです。でも、そうしないではいられない心のうずきの中にあるザアカイを主は知っておられました。

ですから、イエス様はそのザアカイに目を留められました。イエスは丁度そこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ、急いで下りて来なさい。今日はあなたの家に泊まることにしているから。」こう言っているのです。エリコと言う町には多くの人々が住んでいる。その中のたった1人、ザアカイを、巡り歩いて尋ねたのがイエス様です。

そして、そのイエス様はそのザアカイの家の客人としてお泊まりになった。すると、人々は言うのです。あの人は罪人のところに行って客となられた、とつぶやいた。人々は非難しました。良いことを伝え、正しいことを伝える神の人だと言いながら、罪人の仲間になつて、彼は何と言う、それは自らの身を汚す行為であるのか。人々はそう非難しました。

しかし、主はそのザアカイの家に入りました。ザアカイは喜びました。そして、主に言いました。「主よ、御覧ください。私の財産の半分を貧しい人達に施します。又誰からでも、私が騙し取ったものは、4倍にして、返します。」そう言いました。主は言われました。今日、救いがこの家に来ました。キリストはそのようにして、失われた人、このようにして、痛んでいる人、傷ついた人、倒れている人を尋ねて行かれたのであります。そして、最後に言いました。「人の子は、失われた人を探して救うために来ました。」こう言われたのであります。キリストはこのようにして巡り歩き、このようにして1人1人を尋ねられたのであります。

戻りますが、マタイの9章でありますけれども、彼らをかわいそうに思われたイエス様はは駆り立てられて、せき立てられるようにして、押し出されるようにして出ていったイエス様です。その後に37,38節を語られたのです。その時、弟子達に言われた、「収穫は多いが働き手が少ない。」だから、収穫の主に収穫のために働き手を送って下さるように、祈りなさい、とであります。その時イエス様が何をしておられたか、その行動のその結果もキリストはその行動の中で、その行動の延長線上で、弟子達に言われた。「収穫は多いが働き手が少ない。」と言われたのです。皆さん、ここに「収穫」と言う言葉が出てくるわけですね。

皆さん、収穫と言うと、どう言うのでしょう。秋のたわわに実った黄金色の、日本では、米ですね。向こうでは麦ですね。刈り取るならば、そこには本当に豊かな実りがある。と言うそうした収穫であります。でも、収穫と言う言葉の中に響いて来る、私たちが想像する収穫と、イエス様がここで言わんとする収穫とそれは、35,36節。そして、イエス様がその御生涯を貫いて、巡り歩かれたその中での、イエス様の言葉であると言うことが大切の私たちの視点であると言うことであります。

そうすると、私たちは収穫と言う言葉において、私たちは刈り取れば、豊かに実って、そして、それは収益をもたらし豊かな結果をもたらす、と言うだけを見るのであります。でも、キリストが、そこで見ている、収穫、それは巡り歩いて、探し出して、探ねて、痛んでいる人のために、この人に手を延べて、そして、あなたのいのちの限り、愛の限りを注いで、その人がそれによってしか、立つことが出来ないであろう、弱さにある人に手を延べることだ。それが私の意図する収穫である。

そして、そのように痛んでいる人が、あなたが巡り歩いた時に、そこに行って見た時に、初めて気が付く、目が留まる。そこに行かなければ、その人はどうすることも出来ない。その場で傷ついて倒れている、そういう人である。イエス様が目を留めておられるのはそこです。そして、あなたの目をイエス様の目と合わせた時に、あなたの心にも、それが見えて来るのでありましょう。さあ、イエス様の目とあなたの目をだぶらせてください。あなたはあなたの耳に痛んでいる人の声が聞こえないでしょうか。助けてくれと叫んでいる人の声が聞こえないでしょうか。

私たちは、私たちの行動の原則、収穫の原則があることをしっかりと目を留めたいのであります。今日も主はそうした人々を、私たちの回りに人々をおいてくださっているのを見ます。

私もそうした場面を色々な時に見てまいりました。今日は時間がありませんので、少しカットするのでありますが。なぜ私がちり紙交換をするようになっていったか。今、皆さん、ダイヤモンドの光りを読んでいらっしゃると思いますが、とっても辛いところを今書いております。先週も本当に私は、こう言うことを書くことへの、心の疼きを感じないではいられませんでした。

「先生は信仰ですと言われますが、私たちは信仰と言われますと何も言われなくなってしまいます、でも、お金を渡すのは私たちなのです。」痛かったです。本当に痛かったです。でも、その痛さは自分自身のその痛さに届いていない。自分自身の辛さだと思いました。そして、私はこれから何かする時は、必ずや私自身が捨て石にならなければ、行動のその模範とはなりえない。やがて、会堂建設となって行った時には、私は何としても捨て石になる、それが私自身の大前提であると思いました。

ですから、やがて会堂の話が起こって来た時に、私はちり紙交換に導かれて行きました。そして、出て行った時に、いろんな傷ついた人と出会うことになりました。ちり紙交換を脇において、家に上がって、そして、涙の中に、祈り合う。そう言う場面もしばしばありました。ああ、こうして尋ね会うことへの、主の招きであったんだなあ、巡り歩くことへの主の招きであったんだなあ、と思いました。ですから、十数年、本当に私に取って、大切なイエス様の姿を後付する、私の収穫に向けての、巡り歩く目を養ってくださった、そう思いました。そして、今日も、私たちは、痛んで、傷ついているあなたのとなりにいる、その人にあなたが近づいて、その心をしっかりと見据えて、その人を刈り取ることが出来るように主に祈りたいのです。

最後に、だから、収穫の主に「収穫のために働き手を送ってくれるように祈りなさい。」と主は締めくくっているのです。あなたが何か良きものを刈り取れと言っているのではないのです。あなたは、その人を主の元に刈り取る力など到底ない。さあ、祈りなさい。主があなたを助けるから、と言っておられる。私たちは痛んでいるその人の痛みを担いきれるような、そんな者でないことを、私たちは近づいて見て、知ってみて、助けようと思って見て、出来ない自分に泣くのであります。

祈りが、主に近づくことが、ですから、主に働いて貰わなければ、何1つ出来ない私たちの姿を知るのであります。でも、それは大切です。そこから始まるからです。そして、そこから、主の収穫があるからです。近づく者、そして、祈る者とならせて頂きたいのであります。


お祈りを致します。愛する天のお父さま。感謝します。
今日も私たちは収穫の日に祈る者、収穫の主の前になすべきことは何であるかを、正しく知ることが出来るものとして、導いてください。
1人1人をどうぞ遣わしてください。尊いイエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン!