2002年2月10日 主日礼拝式
“マタイの福音書” 13章1〜9節

「“収穫に向けて C”」

“池田 博牧師” 宣教メッセージ

今朝のメッセージのみ言葉をお読み致します。今朝は マタイの福音書13章1節から9節 です。新約聖書の22ページになります。

“マタイ”
13:1 その日、イエスは家を出て、湖のほとりにすわっておられた。
13:2 すると、大ぜいの群衆がみもとに集まったので、イエスは舟に移って腰をおろされた。それで群衆はみな浜に立っていた。
13:3 イエスは多くのことを、彼らにたとえで話して聞かされた。「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。
13:4 蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった。
13:5 また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。
13:6 しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。
13:7 また、別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びて、ふさいでしまった。
13:8 別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。
13:9 耳のある者は聞きなさい。」

はい、聖書は以上です。イエス様が例え話をよくなさいます。今日のところもその例え話の1つなのです。これは大変に有名な種蒔きの例え話です。この例え話をとっても判り易く歌った聖歌があります。今日は久しぶりに皆さんに、この間一寸カーネギーホールに行ってきたのですが、それをもって戻ってきたばかりなので、聖歌を歌ってみたいと思います。

聖歌は680番です。これを4節ずっと歌うといいのですが、私の歌はとても美声ですのでうっとりと痺れて混乱するかなーという気もいたしますので、1節だけお聞かせして、2節からはご一緒に歌ってみましょう。

畑の中の細い道。ぽろりと落ちた麦の種。
いたずら烏が飛んで来て、ぱくりと食べて逃げました。

石ころばかりいえる道。ぽろりと落ちた麦の種
意地悪嵐に荒らされて、芽生えてすぐに枯れました。

畑の傍の藪の内。ぽろりと落ちた麦の種
棘のジャングル邪魔をして、伸びきる前に枯れました。

よく耕した黒い土。ぽろりと落ちた麦の種
恵みと愛との日を受けて、百倍麦が取れました。

素敵な歌でしょう。日曜学校では歌いますね。日曜学校の子どもは大好きですね。昔、日曜学校に行った人は皆覚えていますね。博君もよく歌って、お話もさせていただいたんですね。

この歌は子ども賛美としてあるのですが、それだけでなくして、この例えを端的にきちんと歌っています。ですからこの例え話は、この歌を歌えば判りました。「今日の礼拝はこれで終わります。」と言っても良いかなと思うほど判りやすいのです。

イエス様はこの例え話をこうゆう自然現象や動植物など身近な物を取り上げてお話なさいます。そして難しい真理を私達の身近なこととして適用してくださいます。この13章にはいろんな例え話がこの後続きます。天の御国の話であります。麦と毒麦の話、からし種の話、パン種の話、などなど例えの話が続くのです。

その例えを通して判り易く語ってくださるのですが、しかし、判り易さだけでイエス様はお話するのではなくして、判り易く話す中に、同時にものすごく深い真理をイエス様は語ろうとしておられるのです。単純にこれを話として聞けば、4種類の畑に種を蒔くわけです。しかも道端、岩地、棘の中だと、賢く種を蒔くならばそんなところに種を蒔くなどは愚かなことです。

当然よく耕した良い地に全てを蒔いて、100倍、60倍、30倍の稔りを得るべきなのです。そうではないところに真理が隠されているわけだと思うのです。

少し見てみたいのですが、もう一度3節に「イエスは多くのことを、彼らにたとえで話して聞かされた。『種を蒔く人が種蒔きに出かけた。』」とあります。この種ということが何なのかということでありますが、イエス様自身が後の方で解説をされておられます。18節以下にこうあります。

「ですから、種蒔きのたとえを聞きなさい。御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行きます。道ばたに蒔かれるとは、このような人のことです。」という風な解説がなされています。「種とは御ことばのことです。福音です。」ということです。

そして、種を蒔くのは畑でありますが、その畑とは何かというと、それは心です。人の心です。私達の心の中ということであります。種蒔く人とありますが、これは誰なのか。それはクリスチャン、宣教師、牧師です。福音を伝える者という風にいえると思うのです。そしてイエス様ご自身でもあるという風にもいえるわけであります。

その種蒔く人が御ことばという種を人々の心の中に蒔いてくださるということであります。人々の心の中にというところに1つの大事なことがあるわけです。最初の「道端に落ちた」とありますが、全部落ちたとありますから、偶然に落ちてしまったというのではなくして、蒔いたと理解するわけでありますが、「道端に落ちた」というのは解説によりますと、「その人の心の中に蒔かれたものを悪い者が来てそして奪っていきます。」とあります。

皆さんも以前にそんな経験があったか、或いは今そういうところに居るかもしれません。私自身もそんな経験もしましたが、教会に行ってみて、話を聞いた。聖書の話ということで興味を持って聞いてみた。「なるほど、聖書は世界の最高のベストセラーだ。素晴らしい話だな。」と思うところも有るんですが、でも、何か教会の雰囲気とか、そこに居る人人を見ると、全然違う世界、違う人種がそこに居るのですね。「なんか全然なじめないなー。」ということで以って、「1回行ったけれども、もう2度と行くところではないなー。」と皆さんも感じたことは無かったでしょうか。

意外にそれが有るのだということなのです。そんな風にして、折角聖書の話、神様の話、大事な話を聞いたんだけれども、でもあたかも道端に落ちた種、それは鳥が飛んで来てパッとついばんでしまう、そのように折角聖書の「いいかなー。」と思ったそれがツッと取られてしまって、「それ以外は全部違いすぎる世界だなー。」「2度行くところではないなー。」ということで以って、教会に行かなくなりがちです。

「そんなところがあるのですよ。」とイエス様はおっしゃっています。

そして、その次に今度は4節に「また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。」とあります。今度は岩地とあります。イスラエルは岩地が多いのですが、そこに土が少し出来て、薄い土の上に蒔かれた種。

「芽が出ると」とありますが、教会に行き始めた。「いやー、何かこう、今までに無い爽やかな世界だ。聖書の話は何かこう新鮮で心に響いてくるなー。聖書の言葉って不思議だなー。」と心に響くものがあって、言い知れない喜びとか、平安とか「聖書の話って違うなー。」と感じるのです。

そんな風にして教会に少しづつ慣れてくるのであります。でも、「日が上ると、焼けて、根がないためにかれてしまう。」と有るように、20節の解説によりますと、「また岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。しかし、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。」とあります。

「いやー、これも実感だなー。」と思います。私も教会に行き始めて、とても感じるところが有ったりしました。で、続いて教会に行っていました。行くと祈りのことやいろいろなことを教えられてくるのです。やがて、私の場合受験にぶっつかりました。受験でも皆さんが祈ってくださるし、自分でも祈ったりしたのです。

ところが、受験に失敗してしまった。そうしますと「なんだ。神様は祈りをきくというけれど、きいてくれないじゃないか。」「病気になって祈っても治らないじゃないか。」「困難にぶっつかって祈ったけれども、ちっとも解決されないじゃないか。」

最初の頃、一寸そんなことがあって「よかったなー。うれしいなー。」と思ったんだけれど、ことごとくそうではないし、いろんな予期しないことが起こってきて、「あまりご利益無いなー。」なんとなく、そんな感じになって、祈ってもきかれないというようなところから、徐々に教会に行く喜びを失っていってしまう。

困難や迫害が起こると、つまづいてしまう。「まさにそんな感じだなー。」というところです。私もそんなんで、ずっと教会に行かなくなってしまったことでもありました。皆さん、どうでしょうか。そんな経験の有る方も或いはあるかなと思います。「それが二番目の岩地に落ちた種ですよ。」とあるのです。

それから、今度は三番目のことについてですが、7節に「また、別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びて、ふさいでしまった。」とあります。皆さん、種を蒔く時に、どんな土地でも言えると思いますが、雑草が必ず生えます。雑草は勢いがいいですから、種よりも速く伸びてしまって、覆ってしまって、枯れてしまうということも有り得えます。

教会に行って、「いなー。」と思う以上に、そこでいろいろ話を聞いていくうちに、イエス様の十字架が解ってきた、罪が解ってきた。「あー、自分は本当に罪深い人間だなー。赦されなければならない人間だなー。」「でもイエス様はそのために十字架にかかって下さった。こんな罪深いこの私のために十字架にかかって下さった。」「感謝のことだ、信じてみよう。従っていこう。」そういう決心が出来て、洗礼を受けてクリスチャンになった。

で、喜びの生活をしているわけでありますけれど、ここに、22節を見ますと、「また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。」とこうあります。

クリスチャンになって、クリスチャン生活をしていくわけでありますが、でも、或る時期にこういうところを通るのです。「自分はクリスチャンになったのだから、クリスチャンらしい考え方や、クリスチャンらしい生活、生き方をしたいなー。」「そういうことが大事だなー。」と思うのですが、でもなかなかそういかない。

クリスチャンらしい生活がなかなか出来なくて、「いやー、こんなことを考えてはいけないかなー。こんなことを言ってはいけないかなー。こんなことをしては『あなた、それでもクリスチャンですか。』と云われはしないだろうか」そんな風にして周りに気を使ってしまう。心遣いが段段だんだん、あれもこれもとなってしまって、クリスチャン生活に少しいやな気持が心を支配してしまう。「息苦しいなー。』と思ったりしてしまう。

最初の頃は「洗礼を受けました。」「クリスチャンです。」「教会に行っています。」と言っていたのですが、だんだん心が苦しくなってくると、「いやー、もう教会に行っているなんて言わない。言えない。」となってくる。そして教会に行って神様の前に出るのがとても心苦しくなってくる。教会に行くこと自体に重苦しくなったりしがちです。

そして、むしろ教会に行かない方がいいだろうかといった気持になっていく。とってもクリスチャンであるという生活そのものが窮屈で窮屈でならない。そんなところも通るのです。何かそのような心遣いや思い煩い、「富の惑わし」とあるのですが、金銭的にもいろいろ戦いを通るところがあります。

そんなこんなでもって、折角イエス様を信じて、洗礼を受けて、永遠のいのちの約束を与えられ、天国の約束が与えられたにも拘わらず、心遣いや、自分の生活の中でどうしても平安が得られなくなっていった中から、窮屈な生活に嫌気をさしてしまうという風にして、そういう中から、素晴らしい頂いた祝福、素晴らしい永遠のいのちをいつしか自分の中で失ってしまうということも有り得るのです。

一つひとつ考えていくと、「ここに言われていることは自分の心の姿だなー。」「自分の通ってきた一つひとつの足跡だなー。」と思わせられるところです。

最後に8節には「別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。」とあります。その解説の23節にはこうあります。「ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」

良い地に蒔かれる種ということについて、ここでは良い地とは何かとか、どうしたらそうなるのかという事についてはあまり説明がない。ここにみことばを聞いてそれを悟るという言い方がされているのですが、それってどういうことだろうかなーと思います。

この最後の大事なところについて、イエス様はさらっと言ってこの例えのお話を終わっているのです。そして、皆さん少し目を移して10節から13節にイエス様はこういう風におっしゃっています。

“マタイ”
13:10 すると、弟子たちが近寄って来て、イエスに言った。「なぜ、彼らにたとえでお話しになったのですか。」
13:11 イエスは答えて言われた。「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。
13:12 というのは、持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。
13:13 わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。

「こうしてイザヤの告げた預言が彼らの上に実現したのです。」と話しを展開しています。解りやすい例えを話されたのでけれど、その例えの意味はここでは実は「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。だから例えで話したのです。」と話しが展開していくのです。

少し難しい展開になっていくのですが、それはとっても大切な事をイエス様はおっしゃりたいわけなんです。イエス様は13節にこう言われます。「わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。」

皆さん。私達はこの例えにしてもそうですが、「何かえらく単純なはなしだなー。要はよい地に種を蒔けばそれでいい。それだけの話しだ。」と思いがちです。でも一歩踏み込んでいった時に、自分の心はそうでないなーという所にも突き当たっていくし、突き当たっていってイエス様がこう言っていった時に、「あなた方は見ているが実は見えていないのだ。聞いてはいるのだがあなたの耳はそれを塞いでいるのだ。」とおっしゃるのです。

私達は教会に来て、話しを聞いて、「成る程そういう事か。聖書はいい事を言っているかな。」という風にして、客観的に解っているかに感じがちです。もっと達観して「聖書はいい事を言っている。」みたいな、そんな風に見がちであります。

でも、実は、そのようにしてあなた方は見ていると思っているかもしれないけれど、実は見えていない。見えていないと自分に気がついていないのが解りますか。聞いている。確かに話しは聞いているかもしれない。解ったと言っているかもしれない。それなりに理解したと言っているかもしれないけれど、実は本当のところは聞こえていないという事についてあなたは気付いていますか。

イエス様は今度は16節にこのように言われます。「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。」と言っておられます。幸いですといっている。ここで言うあなた方とは弟子達です。そして更に弟子達のように見えている人。

皆さん、イエス様はここでとっても解りやすい話しをしたわけですが、でも、道端に落ちた種、そして岩地に落ちた種、棘の中に落ちた種、その一つひとつについて、よく自分の胸に手を当ててみる時に、自分の心の中にきちんと光を当ててみた時に、「あー、自分自身だなー。自分の心だなー。」

良い正しい神のみことばを聞いて、それを本当だろうと思いながら、でもなんと簡単に、なんとしばしば私達はそれを自分の経験や、自分の知識や、更には自分のプライドでそれを捨ててしまっている。

謙虚になって、「あー、そうか。本当に自分は知るほどのことも知っていない、小さな者でしかないなー。真理がなんであるかについて自分は本当に知っていないなー。」そして、「自分にさまざまな世の煩いが襲ってきた時に、その煩いに翻弄されて、その煩いに自分が縛られてしまって、そして自分を見失ってしまう。そんな者でしかない小さな者だなー。」「まさに棘の中の自分の状態かなー。」

そんな風にして、1つひとつ、自分の心の姿、自分自身の姿、自分自身の迷っている姿、もしあなたがそこにきちっと目を止めることが出来るならば、あなたは見えている人です。そして、見えている人は幸いです。「見えている人はわたしの弟子です。」イエス様は私たちに大切な真理をそのようにして語ってくださっています。

そして、私たちがその真理を悟ることが出来るためにこそ、ご自分自らが「さー。あなた方を鈍らせる、あなた方を頑なにし、あなた方をキリストから神から遠ざけているその罪を、わたしはあなたに代わって十字架に背負って、神の前に裁かれます。あなた方が本当に真理に生きることの出来るためにです。

主はそのようにして、ご自分のいのちを差し出して下さったのであります。「わたしの弟子だ。わたしの真の家族だ。」とイエス様はおっしゃる。

13章の最初のところに目を留めてみますと「その日、イエスは家を出て、湖のほとりにすわっておられた。」とあります。「その日」とあります。その日というのは12章からのつながりを意味しています。12章の終わり、46節以下を見ますと「そこにイエスの母と、兄弟達がイエスに何か話そうとして立っていた。」とあります。

イエス様の肉親、マリアとイエス様の弟達がイエス様を引き取ろうとして、やって来たわけです。どうしてでしょうか。イエス様の評判がどうもあまり良くない。あらぬ評判もたっている。だから身内である自分達が引き取ろう、面倒みようという気持でやって来たわけです。

そのことを聞いたイエス様はこう言うのです。49節から読んでみますと「それから、イエスは手を弟子たちのほうに差し伸べて言われた。『見なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。天におられるわたしの父のみこころを行なう者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。』」とおっしゃっているのです。

肉親のマリアと兄弟達が心配してやって来たんだけれども、イエス様は「その心配は当たらないし、解っているようで解っていない。あなた方は心配して来るけれども、あなた方の目は何処を見ているのですか。何を見てるんですか。わたしが真理のことばを語って、その真理に目が開かれて、謙虚になって、自分の罪を知って、神の前に自分をへりくだることの出来る、その人こそわたしの兄弟であり、わたしの姉妹であり、わたしの家族ですよ。

それが大切ですよ。そうなった時に、あなた方がこの世の中で本当に戦わなければならないこと、悩まなければならないことがが何であるかということが見えてくるはずであります。見えない中であなた方は世間体や自分のプライドや自分の経験や知識の中で生きようとしているから、いきずまったり、悩んだりして、どうしていいか解らなくなって、あたかも道端や岩地や棘の中に落ちた種のような悩みを持っているでは有りませんか。

さー、そういうところからわたしが見えるその眼であなた方が見ることが出来るように、わたしが聞けるその耳であなた方も真理のことばを、聖書のことばをしっかりと聞き分けることが出来るようになりましょう。」それが良い地です。イエス様との関係において、良い繋がり、信頼の繋がり、それが出来た人、それがまさに良い地です。

良い地に蒔かれた種、それはもう自動的に必ずや100倍、60倍、30倍の実を結ぶことになっていくのです。イエス様はそうおっしゃるのです。皆さん方の家族の祝福、それは皆さん一人ひとりがしっかりと主と繋がってそのなかで主ご自身からのいのちを頂いて、実を結ぶことです。それは必ず家族に祝福をもたらせます。必ずあなたの周りに祝福となっていきます。

この年、皆さん一人ひとりがそうした祝福を得ての豊な実りが得られる様にと願ってやまないのであります。


お祈りを致します。
愛する天のお父様。今日このようにして、備えて下さいましたこの時に感謝致します。あなたの語ってくださいました例えを通して、一人ひとりの心の中に、どうぞ新しい光を通してください。そして一人ひとりが主の恵みを頂いて、主を崇める事が出来るようにしてください。

尊い救い主イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン!