| 2002年2月17日 主日礼拝式 “Uコリント” 9章6〜8節 「“収穫に向けて 5”」 “池田 博牧師” 宣教メッセージ |
今朝のメッセージのみ言葉をお読みいたします。今朝は Uコリント9章6節から8節
です。新約聖書の325ページになります。
“Uコリント”ハイ 聖書は以上です。 今日は教会総会、教会祭です。年1度の大事な礼拝です。皆さん方にとってもそうであると思います。 先週、教会資料をお配りして、じっくり、ゆっくり時間をかけて読んで頂きました。ここに記されている名前、数字、あるいは行事、これは昨年1年間教会でなされた、まとめであるわけです。 この一つ一つが大切な意味をもっています。一つ一つに神様は目を留めていてくださっている、勿論私たちも祈りを込めて、期待をもって取り組んできたことです。その結果の記録がここにきちんと記されているわけです。 この一つ一つが大切な意味をもっています。一つ一つに神様は目を留めていてくださっている、勿論私たちも祈りを込めて、期待をもって取り組んできたことです。その結果の記録がここにきちんと記されているわけです。 神様は1年を通して、様々な恵みを、私たちの教会に、一人一人に与えてくださいました。そのことを改めて心に留めながら、1年を感謝して主にお返しをする、そして主を崇める時に、また神様は新しい1年も祝福してくださいます。 過ぎたことは葬る、過ぎたことは忘れるのではなくして、過ぎたことの一つ一つをきちんと心に留めること、感謝すること、それが大切です。聖書の中にもそれが大切なこととして書かれています。「エベン・エゼル」。主はここまで私を助けてくださった、私たちを導いてくださったと、記念の塚、記念の石をそこに置くのです。それはいつも私たちの心を留めておくべき事であると思います。 「主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」と、詩篇の103篇にありますが、一つ一つを心に留めること、そして感謝すること、心に刻んでおくことが大切です。主のしてくださったことを積み重ねて、それを土台として、あるいは更にはそれを種として、豊かに実っていく、次の祝福につながっていく、それが主の次のみわざになっていくということです。そういう意味もあって、しっかり心に留めておきたいと思います。 昨年は嬉しいこと、感謝なこととしては、22名の受洗者が与えられました。本当は、もっと、もっと、という期待もあります。新しい年にはこれが倍加するようにと、そう願い、そう祈り、そう取り組んでいきたいと思います。 その22名の内9名はユースからの受洗です。小学生、中学生、高校生という若い人たちが、やや半分占めているということは嬉しい事です。これからの教会を担う器として、期待して主が導いてくださっていると思います。転入者の一人一人も主が導いてくださったことを覚えます。 それから昨年1年間、どういう形にしろ、この教会に足を運んでくださった方、新しい方は何人おられるでしょうか。340数人います。一昨年もそのぐらいの数でしたが、年々増えています。 新しく求道するという意味もありますし、他の教会から、あるいは出張とか、いろいろな意味で、この教会で礼拝を守ったという方々もあります。そういう方々にとって、礼拝を通して主を崇め、そこになされる主のみわざを見て、主を喜ぶ、これも大切なことです。 そういう方々一人一人も主が祝福されるようにと願わないではいられません。一人一人どんな形にしろ、たった1回の礼拝であれ、ここで礼拝を守れたことを覚え、主に感謝する、これも大切なことと思います。 本当に多くの行事もなされました。それを皆さんが主催し、取り組み、そこにオイコスを連れてきて、祈って、主のわざが拝せられたということで心に刻んでいる方もあると思います。それら一つ一つも大切なことであります。 台所が完成したことも大きいことです。先日も「オリエンタル・ファミリーセール」の時、ダイヤモンド工場の社長がおいでになり、「立派になりましたね。」と感動しておられました。いろいろな形で、この場所が主の栄光を現わす所になっているという事は素晴らしいと思います。 会堂返済とか、会計の多くの必要が満たされた、というのも大きな事だと思います。1年間の会計の規模は1億4600万円です。皆様の1円の献げものが、皆様の感謝の献げものが、皆様の主への什一の返金1つ1つが、こうしてまとまった時に、このような数字になっています。 また会堂返済は3700万円です。これもまた本当に大きな数字であります。皆さんの日々の、月々の主への感謝が、このような形になって数字に表されているということです。 私たちは数字をきちんと見て、読んで、「主よ、感謝します。」と心に留めましょう。私もその中の1つの石として、小さな石かもしれないけど、でも主の目に大事な石として献げることができたことは、本当に感謝します。主は御国のために少しでも天に宝を積めと言われました。小さな砂粒のような石かも知れない、でも献げることができたことを本当に感謝します。 感謝し喜ぶことを、主はまた喜んでくださるということです。私たちは感謝して献げる時に、私たちができる心の一杯の感謝こそ、また主がそれを喜んでくださるということです。 数、行事、できたこと、それを挙げていくとき、1つ1つが大きな事と思います。でも皆様、この朝、いつも私が以前から心に留めていて、いつも何度も繰り返して皆さんにお伝えしていることがあります。それは、皆様方の一人一人が1つの大切な主のピースであるということです。皆様はジグソーパズルのピースであると、お伝えしたいのです ジグゾーパズルは子供が小学生の頃よくやりました。2000ピースや2500ピースとか、1週間も1ヶ月もかけてやり遂げますが、本当に大変です。このパズルの2500ピースのたった1つでも足りないと、それは完成品ではないのです。 それだけでなくして、たった1つ足りないということで、どんなに残念か、何としてでも探そうとします。2500の中の1つです。2500分のたった1つでしかないのです。でもそのたった1つが足りなければ完成しない、完成品ではないのです。 神様が教会という、この建物を建てる時に、一人一人は大切なかけがえのないピースである、なくてならない一人である、イエス様はそれを本当に大切にしておられると思います。 改めてそのイエス様の心を見ておきたいと思います。マタイとルカにありますが、ルカ15章4節から7節です。 “ルカ” イエス様はこう言っておられます。私たちは10人の中の1人、100人の中の1人という時に、どこかで100分の1でしかない自分ということを考えます。 自分は礼拝にはそんなに熱心に行っていないし、奉仕もあまり熱心にやっていない。ファミリーにも入っていないし、献金も思うようにできていない。だからみんなからもイエス様からも、おまえはもうあまり役に立たないしもべだと思われているだろうか、いや思われているに違いない、そんな風に私たちは思いがちです。 でも今、御言葉を読み、イエス様の心を改めて知りました。いうならば、迷い出た羊は迷惑をかけた羊、困った羊、他の99匹を野に置かなければならないそんな羊です。でもイエス様の目には他の羊とこの羊との間に差違はない、差別はない、違いはない、同じ平等、全く同じイエス様の愛の対象であるのです。 イエス様の目はそこにあります。イエス様はそのようにして一人に目を留めてくださるのです。100分の1ではなくして、そこに1人の人として、そこに1人しかいないようにして、イエス様は目を留めてくださるのです。 ですから何人、何百、何千、何万、何億いようとも、主は、「わたしはあなたの名を呼んだ。」とおっしゃいます。名を呼んだということは一人です。池田博の同姓同名も、電話帳を見ればよく分かるようにたくさんいます。誕生日が同じ人とかいます。でも一つ一つ突き詰めていったなら、やはりこの池田博は世界何十億の中のたった1人です。 そして皆様方の一人一人もそうです。神様の目には一人一人が、世界中にあなたしかいない。あなたをあなたとして神様が愛をもってお造りくださって、愛の中にご計画をもっていてくださるということです。私の目にはあなたは高価で尊い、そう言ってくださる主、その主が目を留めてくださることを覚えたいのです。 そして今日のみ言葉に移ります。読みました9章6節から8節ですが、特に8節に目を留めたいのです。こうあります。 “Uコリント” 何という素晴らしい御言葉でしょうか。自分を見るならば、比較するならば、大勢の中のたった一人でしかない、そんな自分というふうに相対的に見てしまいます。相対化した時、比較の中で見た時に、出来る出来ないという中で見た時に、有能であるかそうでないかという目で、計りで見た時に、私たちはいつも、必ずそこで自分に対して劣等意識をもってみたり、自己卑下をしてみたり、大勢の中で自分の存在など誰の目にもとまっていないと、そう思いがちです。 でも主はそうではなく、「あなたがたを」とあるのですが、あなたを、一人一人を、その一人を、豊かに全てのことに満ち足りるようにしておられると、言ってくださるのです。何という主の恵みでありましょうか。 私たちを富ませるために、主は貧しくもなったともあるのです。その前の8章9節の御言葉です。 “Uコリント” 豊かに富む者となるために、イエス様はあえて、私たちの貧しさをすべて知ってくださるところに、ご自分の身を置いてくださったのです。そして貧しさの中でいかに富む者となるかについての術を、イエス様はきちんと教えてくださった、そういう主であります。そのことを心に留めたいのです。 あなたは今日どういうことにおいて、富む者となりたいのですか。主はそれを願って、求めておられます。主はすべてのことにおいて、と言われています。どんなことにおいてもあなたが、それを求めるならそれをかなえてくださる、あふれさせてくださるということです。ある人は愛において富める者となるように、と願うでしょうか。主はそれをしてくださいます。 急なことで、シンガポールに行くことになりました。そこでホームズ恵子さんにお会いしました。恵子さんとの交わりを通して、その働きの一端を見させて頂いて、改めてその働きの大きさ、大切さが心に刻まれました。この方のこの働きに関わりだしたきっかけのことを、以前にも聞きましたが、今回また改めてその大きさを再確認させて頂きました。 「アガペー」という冊子や新聞記事によると、第2次世界大戦中、日本軍が虐待して死亡させた連合軍の捕虜は、なんと泰緬鉄道に関わった人だけでも6万8千人もいたということです。驚きました。イギリス、オーストラリア、アメリカ、連合軍の中から、泰緬鉄道に関わった人たちだけでもこの数字です。 シンガポールに捕虜収容所があって、そこでどんなに日本のかつての軍人が虐待をしたかは目を覆うばかりでありました。そういう中で、かろうじて生き延びた人たち、POWと言っていますが、その人たちが毎年、日を定めて集まっているのです。 恵子さんも十数年前、イギリスで千人近く集まっているその会場に行ったそうです。入り口の所で日本人と分かると、「おまえたち日本人の来るところではない、帰れ、すぐ帰れ。」と言われたそうです。その語気、言葉遣いはあまりにすさまじいほどであったそうです。ののしる者の声もしたそうです。でも、この時に恵子さんは、その人たちに愛を感じた…、愛を感じたと言うのです。 常識的にはそんなところ行かなければよかった、行ったことは間違いだった、そうだ、行かない方がよかったと、すぐ帰ってくる、それが普通であろうと思います。 でも恵子さんは愛を感じたというのです。あの人たちはそこまで傷ついて、そこまで痛んでいた、そう言わないではいられない、もしその場にいたならあるいは殺されてしまうかも知れないほど、この人たちの心は傷つき傷つき傷つき抜いていたんだ、そう思った時、もうほとばしる愛があふれてきて、どうしようもなかった、その愛に押し出されて、そういう集会に繰り返し繰り返し出向いて行き、一人一人の名を知って、訪問したというのです。 やがて一人また一人とその傷がいやされていき、そしてその人たちを日本に招き、日本の人たちとの愛の触れあいをし、ホームステイや接触を通して、何としてでもいやされるようにと、そういう働きをしているのです。 1992年から毎年2回春と秋にしているそうです。この度も3月にその一行が、私たちの教会に来てくださいます。出来るだけホームステイを通して、少しでも触れ合うことができるならばという、そういう期待の中で送られてまいります。 私はシンガポールにおいて、陥落60周年という儀式に出席いたしました。何千人という人が集まっていました。広島の原爆の記念式典、あたかもあのような感じで、いろいろな人が花を捧げたり、短く話をしていました。 でも皆さん、その中には正式にはたった一人の日本人もいないのです。何のためにそうなったのかと言えば、日本人によって陥落させられたシンガポールですが、日本人は恐れて、そこに出席できないのです。 ホームズ恵子さんはそういう中、たった一人で出てきていました。そして一人でもいいから日本人が参加してほしいという訴えの中で、私どもが参加することになりました。 記念碑の所で3人で、涙の悔い改めとお詫びをせずにはおれませんでした。それは小さな、決して目立つ行為ではありません。でも主の前にさせて頂きました。主の愛に押し出されてさせて頂きました。そして私は改めて、こうして一人の女性の、あの何万人の捕虜たちの中に、傷つき傷つき、そのままやがて死んでいく多くの人々の中に、愛を注がないではいられない行為を見て、本当に悔い改めました。 その晩ある一人の信徒の家の集会に出席させていただきました。100人近い人が集まっておりました。そこで始めて日本から来たということで、私は前に立つ機会が与えられました。恵子さんが通訳してくださったのですが、なぜ今私がここにいるのか、そして皆さんにお詫びの言葉、許しを求める言葉を伝えました。 短い時間でしたが、皆様の心にそれが流れていきました。聖霊が働いてくださっていました。後から一人の女性が来て、あなたが何を言おうとしているのか、何を話そうとしているのか、私は通訳を聞く前から分かりました。 私は涙が止まりませんでした。主にあって心から赦します。主がここにいてくださったことが本当に分かります、と言ってくださいました。ああこうして一つ一つの訪問を通して、小さな中にでも主が働いてくださっていると感じないではいられませんでした。 あなたは豊かに与えてくださる主に何を願うでしょうか。愛でしょうか。奉仕でしょうか。教会において様々な奉仕を、主は必要としておられます。その奉仕にあなたが、心を尽くして、思いを尽くしてしていくこと、それをまた主が喜ばれることです。 憐れみの心のある人がいるでしょうか。その憐れみを惜しみなく、主の注ぎの中で現して、教会に送られてくる、心の痛む人の側にいて、良く聞いてあげ、祈ってあげ、支えてあげる、慰めの大切な働きがそこにあると思います。 ある人は与える恵みをもっているでしょうか。それを求めるでしょうか。時間を、エネルギーを、財を与え、様々な形で与えることの大切さも覚えます。人はどれだけ集めたかを評価しますが、主はどれだけ与えたかを心に留めてくださるお方です。あなたは主のためにどれだけ与えることができるでしょうか。 箴言の中には、このようなみ言葉があります。11章24,25節です。 “箴言” 皆さん、この年、収穫の年です。どのような収穫をするでしょうか。愛において、奉仕において、憐れみにおいて、与えることにおいて、主を伝えることにおいて、様々な形でこの年豊かな実を結ぶことができることを願ってやみません。主はあふれる恵みを私たちに惜しみなく与えてくださるお方です。 私たちはそれを、与えてみて、奉仕をしてみて、貧しくなって見た時、いかに主はまたそれを豊かに満たしてくださるかを知ることができて、本当に仕える喜びを私たちは知っていきます。それらのことを、この1年を通して体験していきたいのであります。 お祈りをいたします。 天のお父様、感謝いたします。まことにあなたは豊かに恵みを与えてくださるお方であります。感謝をいたします。 少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ちたりて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。 お一人お一人の上に、この御言葉が確かなものとなっていきますように。イエス・キリストの御名によってお祈りをいたします。アーメン |