| 2002年3月3日 主日礼拝 ローマ10:1 「祈りによる収穫(1)」 “池田 博師” 宣教メッセージ |
| 今日の御言葉はローマ10:1、新約聖書の279ページです。
はい、聖書は以上であります。私が最初に教会に行ったのは、高校生の時でありました。久しぶりに会った友人が、教会に行っていると言うことで、何かとても興味を持ちましたので、行ってみようと言うことになり、行ったのであります。 けれども、教会に行くと言うことを家族に話した時に、家族から色々な抵抗があったと言いましょうか。壁を感じたと言いましょうか。兄弟の兄貴はそんな柄か、とそう言われ、どうせ行ったって直ぐ止めるよ。とからかわれました。キリスト教がどんなものか、聖書には何が書いてあるのか、少し勉強してみたいんだ、と言った。しかし、いずれミイラとりがミイラになるぞ、と色んなことを言われました。 両親は、家は仏教の禅宗を先祖代々受け継いでいるし、田舎はその檀家総代もしている。だから、そう言う違った宗教は、あまり良くない、と言うような、そんなふうなことを言ったりしました。 まあ、ふと一寸したきっかけで教会に行こうと思ったことに対して、意外な反抗や抵抗があるのを知って、私は何かそれをはね除けてと言いましょうか、とにかく、信教の自由なんだと言うことから、そのことがあってから、壁を逆に感じたのです。家族の反対を押し通して教会に行ったと言う、そんな実感がありました。 そのことから、個人の自由でそれをするのだから、あまり干渉しないでくれと言うこともあり、自分のやっていることは、家族には話せないと言うような思いもあったりして、何か以前になかった、家族への溝を感じたのも事実であります。 やがて不思議に通い続けるようになり、そして、ある転機を通して、私はクリスチャンになることを決心しました。決心して、家族の前で私は、宣言をしたのです。僕は洗礼を受ける。矢っ張りミイラ取りがミイラになってしまったと言われ、両親は、教会に行くことはしようがないけれども、その洗礼を何で受けるのかなあ。先祖の祟りと言うものがあったら困る。と言うような、そんな風なことを、特に母親は深刻に受け止めて言っていました。 そう言うことがあるのを、ある程度予想してたのですけれども、そう言うことがあって、益々溝を感じたのが忘れられないのであります。 一方、教会に行ったら、洗礼を受けて、クリスチャンになったら、伝道をしましょう、何よりも身近な家族、に伝道しましょう。家族は皆救われねばなりません。こうやられたんです。そしたら、当たり前のことなんですけれども、家族の伝道、嫌だと思いました。 一番抵抗を感じている家族に、伝道なんて。確かに聖書を読めば、そう言うことが書いてあるし、今使徒の働き16:31を毎週告白してもいるわけです。ですから、当然なことであるのですけれども、そう言うこととは別に、私自身の考えからするならば、したくない、と言う思いがとても強かった。ですから、自分自身の中を探って行った時に、矢っ張り、抵抗とか反抗とか色々なことがある中で、聖書が教えている大事なことなのだけど、それを意識的に避けていて、そして、自分で逃げ道を作っているのかなあ、と言うようなことも考えさせられたのです。 なぜかと言うのは、今日今読みました御言葉であります。そこに少し目を移して行きたいのであります。そのパウロはここで、次の様に言っているのであります。
ところが彼は異邦人に向かって伝道するに当たって、物凄いユダヤ人からの反発、迫害が起こって来て、そして、その迫害は尋常なことではなくして、彼は何度も何度も死に直面する。そう言う危機的なとっても、苦しいところを彼は通らざるを得ない中に、彼は追い込まれて行くのです。そのパウロにして見れば、まあ、同国人は、一番、彼に取って受け入れ難い、自分を迫害する、敵であると言うことであります。 彼に取って一番妨げて敵であるとしか思えないような、その同国人。しかも、自分は異邦人のために仕事が与えられて、と言うことでありますから、もう、彼がしなければならない、仕事とか任務からするならば、ユダヤ人はどうでもよい。関係ないと言って良い筈なのであります。 でも、そこにあるのは過去で、彼らのために神に願い求めて行くのは、彼らの救われることです。とこう言っている。ここは新共同訳を読みますと、「兄弟達、私は彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています。」と、そう言うふうに訳されているのであります。 しかも、この祈りと言うのは、形だけの祈りとか、言葉だけの祈りと言うのではなくして、まあ慟哭の祈り、涙の祈り、更にはいのちを掛けた祈りだ、とそう言う意味合いがここにあるところなのです。そう言う真剣な祈りをパウロは捧げている。 1章前の9章に少し目を移して見ますと同じ状況についてのパウロの気持がここに現されております。そこも、読んで見ますと9章の1〜3節です。
こう言っているわけなのです。まあ、先程の言葉と呼応するように、ここで彼は同国人の救いのために、「この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。」と、ここまでこう言っているのです。 皆さん、多くの方はご存知なのですけれども、このローマ書の9章から11章と言うのは、これはイスラエル民族が、神様によってどう言うふうに扱われるのか、神様はこれをどう見ておられるのか、と言うことについてパウロが、自分の心の中に教えられ、開かれたことを語っているところなのです。イスラエルの民と言うのは、神様に背いたけれども、そして、イエス様を十字架に掛けて殺してしまったような、そう言う民ではあります。 でも、このイスラエルの民は、それで神様から捨てられたり、それで裁かれたりするのでなくして、実はそこにも神様の憐れみ、神様の御計画、それは変わらずにあって、寧ろこのユダヤ人の背きやユダヤ人の罪を通して、その救いの祝福と言うのが異邦人に移されて、そして、異邦人の数が満ちる、異邦人全体に救いがもたらされるために、彼らは寧ろそうした、神への背きと言うものが、赦しの中にもあったのだ、と言うことを、このパウロはここで話を進めて行くわけです。 これは、とっても聖書理解の上で大事なこととなるわけです。パウロはそう言うふうにここで語るわけでありますけれども、それを語る時のパウロの心情がそこにはある。心情を込めて、思いを込めて、ここでパウロは語っているなあ、と私は改めて感じています。 即ちその神様の計画の中にイスラエルの民と言うのは、神様に背いて、そのことによって異邦人が救われるのだけれども、だからと言って、このイスラエルの民は自動的に機械的に、もう皆そのままで救われて行く、と言うような、そう言うことではないのだ。 イスラエルの民が救われる、憐れみを受けるのは、神様の約束の中にはあるのだけれども、でも、そこには真剣な取り組みが、真剣な祈りが、涙の祈りが伴っているのだと言うことなのです。 そして、パウロは、だからここでイスラエルは救われる。だから黙っていてもそうなるから、自分は自分の仕事をしているのだと、そう言うふうには決して言っていなくて、自分を迫害し、自分を殺そうとしている同国人ではあるんだけれども、その彼らの救いのために、私はむしろそれ故にのろわれて殺されるようなことがあっても、それによって彼らが救われるならば、私は喜んでそれをしよう、とこう言っている。そして、改めて私の心の願いは、涙の祈りで、同国人、ユダヤ人達が救われることだ、と言っている。 そして、私は更にそのところから自分の中にそれを黙想して、思わされたのでありますけれども、パウロの個人的な、もっと身近なことを考えた時に、パウロは自分の家族、親族の中で、救われていない人がまだいただろうなあ、と思ったのです。 改めてそう言うことを思って、パウロの家族はどうだったんだろうか、と思ったのです。見る限り、自分のお父さんが救われましたとか、兄弟が救われましたとか、と言うことはどこにも書いてない。だからと言って、救われていないと言うことではないと思うのですけれども、でも、明確に救われたと言う、そう言う裏付けもない。 そして、私はパウロは嘗ては真っ向からキリスト教を迫害した。そう言う立場から、180度生まれ変わって、キリストの弟子になって伝道したのですから、ミイラ捕りがミイラになったとか、そんな柄か、と言われるような、そんな軽い反対や迫害や、そんなものではなかった。命が狙われて、殺される羽目に何度も会っている。 そして、兄弟も親達も、おまえは何と言うことをしているのだ、とあるいは言われたかも知れない中にあってパウロの心は、彼らの救いのために、私はのろわれてもいいから、何としても、救われて欲しいのだと言う、真剣な涙の祈りが、あったと言うことであります。 私は改めて、そのことから、お互いの心の中に聞いて行きたい、とそう思います。今年は、ハーベスト・イヤーとして、収穫の年として、私たちにはビジョンが与えられました。標語として、御言葉が与えられました。 「主に贖われても土地は帰ってくる。」と言うことです。皆さん、これをどう聞くでしようか。どう受け止めているでしょうか。 これは教会の行事、誰かのやることだ。と言うことで、自分と分けているでしょうか。家族のことを思った時に、語れば何んだかんだと言われる。 だから、もう語るまい。言うまい。彼らは彼らだ。信教の自由だ。自分さえ救われていれば、それでいい。これは自分のことだ。と言うふうに、私自身が、そうずっと考えて来たりしたのですけれども。まあ、そうなりがちかと思いますが、改めて私は、このパウロの祈りを通して、パウロの姿勢を通して、そうではないと言うことを、改めて心に刻まれました。 もし、彼らがそのままで行ってしまったならば、滅びてしまう。彼らが救われなかったら、どうなって行くのかについて、自分が救われて見て、イエス・キリストの十字架を知って見て、十字架に掛かってまで、命を掛けてまで救おうとされた、このイエス様の愛、イエス様の贖いを知った時に、私たちは何よりも、彼らの、同胞の、家族、親族の救いのために、真剣に祈らなければならない。収穫は他でもない、先ず自分の家族の中から、自分の身近なところから起こって来る。 それを見ることを私はどんなに望んでいることだろうか。改めて心に迫られたことであります。リビング・バイブルでは、このところは「大きな悲しみ、痛みがあります。そのために、私の胸は張り裂けんばかりです。」とそう訳されています。パウロは胸が張り裂けんばかりの思いでもって、そう祈っている。改めて私は心の中に、本当に主が今日私たち1人1人に願っているのが何であるのかと言うことを、覚えさせられたことであります。 何時も礼拝の最後の時に、使徒の働き16章31節を言うわけでありますけれども、私自身の心の中に、その時に、未だ救われていない兄弟や、親族のことを、本当に思わされられます。 そして、更にそのために、名を挙げて祈ると言うことを、お互いにして行きたいなあと思わせられるんです。皆さん、大方の方は、この「とりなしの手帳」を持っておられると思うんですけれども、この中にも教会として、個人のリクエストとしての、家族の救いのことが書いてあります。 それも、祈らせて頂くのでありますけれども、更にその後に、皆さんは、皆さんの家族、親族、知人のためにも、是非名前を書いて、それも祈ることをお勧めしたいと思います。私も以前から、家族、親族、それから知人の名前を、ずっと挙げているのですけれども、改めて数えて見たら、家族、親族だけでも、40人ここにいます。友人も40〜50人ここにいます。 矢張り、もし私が祈らなければ、恐らくとりなし人はいないのではないだろうか。そう言う家族、親族がいると言うことを、そのために私たちはとりなすことが求められている。その祈りを私たちは、形だけの祈りではなくして、涙の祈りをして行く。その中から、救われる人が、次々と起こされるようにと願うのです。 教会のリストの中からも、祈っている中から、今少しずつ、帰されて来ている人達がおります。そう言う、帰されている人達を本当に感謝しながら、自分の家族、親族の中からも、そう言う人達が次々起こされるように祈って、取り組んで、今年の収穫、今年贖われた人々が帰る。大切な祝福の年として、お互いが確かな実を見ることが出来るように、取り組んで行きたいと、願って止まないのであります。
お祈りを致します。愛する天のお父さま。感謝します。 このようにしてこの年に、あなたは、この群全体に、そして、また1人1人にチャレンジを与えてくださっております。 どうぞ、主が臨んでくださって、お1人お1人を励まし力づけてください。 1人1人を通して、どうぞ、救われる人達が起こされて行き、あるいは又既に信仰を持っていながら、今教会から離れている人々が戻って来るようにして、この年をどうぞ大いなる祝福の年とならせてくだいますようにお願いを致します。 お1人お1人に主がお示しください。 その祈るべきこと、なすべきことを、あなたがお示しくださるようにお願いを致します 主に信頼いたします。 尊いイエスキリストの御名によってお祈り致します。 アーメン! |