| 2002年3月10日 主日礼拝式 “マタイ” 9章35〜38節 「“祈りによる収穫 A”」 “池田 博牧師” 宣教メッセージ |
| 今朝のメッセージのみ言葉をお読み致します。今朝は マタイの福音書9章35節から38節 です。新約聖書の15ページになります。 “マタイ”
はい。聖書は以上です。 1964年、私たちの教会の最初の人となりました森兄弟姉妹たちの家での家庭集会、これがこの本郷台キリスト教会のスタートであります。約2年して、ドイツから宣教師エッツェル先生方が遣わされて参りました。先生方は熱心に祈りをもってトラクトを配り、或いは特別集会を通して、宣教の業、そして福音の種を蒔いてくださったことでありました。 1969年、1月に私はまいりまして、家内と結婚して、本格的にここで宣教が私どもによって受け継がれたということであります。私もトラクトを配り、或いは又訪問をし、そして春と秋には特別伝道集会を恒例のようにやってまいりました。 私は朝早く、大体100枚多い時は200枚トラクトを持ちまして、バイクに乗って、ずーっとあちらこちらを回りました。1軒1軒きちんと表札を見て、声に出して名前を呼んで、祈ってポストに入れるというやり方でトラクト配布していました。 昼間は、又訪問伝道であります。ベルを鳴らして出てきた時にトラクトを渡しながら、あかしをしたり、時に個人伝道をするという、そんな仕方で訪問伝道をしていました。 5月と10月は伝道月間と言う感じであります。特別伝道集会、略して特伝と言っていました。この時は3000枚から5000枚のチラシを印刷して、教会員全員で地域に配りました。ポスターはいつも100枚ほど作りました。その台の板はベニヤ板を1枚300円で買ってきて、100枚造っていました。 このベニヤ板は安いものを買うせいもあって、壊れやすいのです。ですから費用もばかにならないのです。ある選挙のとき、国会議員の藤山愛一郎さんのポスターを見ましたら、台の板が素敵でしっかりしていました。「おー、これはいいなー。」と思い、早速選挙事務所に電話を入れました。「あの台の板、もし終わったら貰えますか。」と聞きましたら「どうぞ。」と言われました。 それで、選挙が終わった時に行きましたところ、裏山に山と積んでありました。車が無かったものですから借りまして、2回往復して何百枚も貰ってきました。それ以後の特伝はそれを使って不自由なく、特伝が終わる最後の時まで使わせてもらいました。藤山さん、ありがとうございました。そんな風にして特伝をしました。 特伝の時は、数ヶ月前からチラシを配り、祈りをし、一生懸命若い青年たち、今ここに来ておられましたN姉妹や、NAさんとか、まだ中学生でしたHさん等を中心に何人かで、一生懸命奉仕をしました。 いざ、特伝となると、金土日の夜にするわけですが、一生懸命汗を流してやりました。でも特伝に来る方々は多くても五人六人で、少ない時は一人二人で0でなくて良かったという風でありました。 一生懸命にやって、どうして人が集まらないのだろうかという時に、今考えてみますと「これじゃ無理かな。」と思ったのです。(一寸写真を出して下さい。)これが最初に教会がスタートした時の場所です。これが教会です。一見お風呂屋風ですので、通称お風呂屋教会と言っていました。前の左側に看板があります。端の方は欠けています。壊れかかっています。「いやー、将来この教会はつぶれるなー。」という風な印象を持つような教会です。 その当時は何も知りませんでしたが、今思ったら、教会を訪ねたらこんな教会だった、私だったら絶対行かない、そんなところでした。でも、「そんな教会に来てくれたなんて本当にすごいなー。」「すばらしいなー。」と思うようなことでありました。 当時十数人でありました。(次の写真をご覧下さい。)エッツェル先生が一生懸命本当に祈りをもって伝道して、救われた方々がこういうメンバーでありました。エッツェル先生のご家族が中心に居りますが、私があそこに居るのが判るでしょうか。別人のようでありますが。 十数人、しかもこの十数人は、今皆さん(週報に連載している)ダイヤモンドの光を読んで下さっていると思いますが、あの中に出てまいります。その中の数人の方々は、やがて去っていきます。私が散らしてしまったということであります。 一生懸命伝道しているつもり、でも心配りが足りなく、牧会することのまだ未熟な私は大切な大切な宝のような方々を散らしてしまうような、そんな者でしかなかった自分のことを本当に覚えた時に、やがて私はいろんな事を経験しながら、そして青年たちが与えられながら、熱心に汗をかいて頑張ってくれているその中で、でも私は自分が段段だんだん牧師として召されているのだろうかという事を経験していくのであります。 ある特伝の時、一人の青年が救われました。本当に明確に救われて、嬉しかったですね。その彼がだんだん導かれていって、洗礼を受ける決心をしていきます。その次の特伝の時には、一緒にポスターを貼ったり、チラシを配ったりする、本当によき片腕の働き手になってくれたのです。 やがて、来週洗礼を迎えるというある日に、電話がかかってまいりました。電話の向うで彼はこう言うのです。「先生。電話で大変失礼です。申し訳ないのですが、洗礼を受ける決心をしたのですが、洗礼を辞めさせていただきます。そして、いろいろ考えたのですが、教会に行くことも辞めさせていただきたいとおもいます。いろいろお世話になりました。ありがとうございました。」ガチャン。 大切な大切な、やっと洗礼までこぎつけた一人の青年でした。でもその彼がそのような形で、それ以後二度と会わない関係になってしまいました。私は自分が自分なりに一生懸命神様の召しを頂いて、仕事をしていて、新しい道、主に従う道そこで又学び、訓練を受けて、そこに遣わされて来た、命をかけてとそんな思い出やってきた。 しかし、いざそこに遣わされてやってきた時に、人々はやって来ても去り、導いてもまた散っていく。そんな中で私はもはや牧師として召されたつもりであったけれども、それは自分の思い過ごしであっただろうか、どこかに自己過信があっただろうか。 私はもはや資格がないと思って、ある礼拝の後に、皆さんの前に立って「今日限り牧師を辞めさせて頂きます。もう私の限界です。後は皆さんでやって下さい。」と言いました。皆さんは呆然とし、しばしの沈黙がありました。 ややあって、一人のおばあちゃん、それはH姉妹でありましたがこう言いました。「先生。先生はまだまだお若いのです。これからです。私達はついていきます。祈っていきます。ですから、先生、頑張ってください。よろしくお願いします。」そう言ってくださった。 それは私にとって、おばあちゃんの声である以上に主の声、主の励ましの声、「大丈夫だ。頑張りなさい。」という主の慰めと励ましの声でありました。私はそこで一つの区切りが出来ました。そして不思議に、そこから私は神様の力を頂いて、ちり紙交換をやる、どんな事でもやれるという何かいい意味での自分に吹っ切れたでしょうか、殻が破れたでしょうか、自分が変えられたでしょうか。そういう一つの転機がありました。 でも、こんな思い出もあります。1971年の夏のセイカイに出席しました。私は一人で出席しました。それは、家内は長男が生まれて1年半、そして次男がお腹の中にいて10月出産という時期の8月です。ですから、その年は私一人で出席しました。 その頃、各教会は集まると、ある時間を割いて教会紹介をしていました。牧師が立って「うちの教会員です。」ということで、皆さん5人とか10人とか、大きな教会は20人もいて、皆で拍手をするのです。 そして、「はい、池田先生。本郷台。まー、本郷福音キリスト教会といったのですが。」私は誰も紹介する人がいないのです。紹介する人がいないので私は賛美をしました。独唱したのです。1ヶ月前にここで久しぶりに歌わせていただいたあの賛美です。 「畑の中の細い道。ポロリと落ちた麦の種。いたずら烏が飛んで来て、ぱくりと食べて逃げました。」たった一粒。そんな私です。でも皆さん知って頂きたいのです。やがて「よく耕した黒い土。ポロリと落ちた麦の種。恵みと愛との陽を受けて、100倍麦が取れました。」いつか皆さんの前に100倍の実を連れてくることができるでしょう。 そう言って、爆笑のうちに、拍手の中でとても良い思い出になりました。何年か過ぎまして、今MSFで100人以上が1つの教会で集まれるようになってきたのです。そこに主の哀れみが有ったなーと思います。 主はひとつひとつをを決して無駄にはなさらないお方だということを本当に覚えます。 さて、今日のみことばに目を移したいのであります。35節から38節までお読みしましたが、35節をもう一度読んでみます。「それから、イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。」 イエス様は町々村村を巡り、福音を伝え、あらゆる病気患いを治されたということで、人々の体や障害を持ついろんな人々に惜しみなく手を差し伸べて、癒し開放の業をなされたということであります。 そして又、36節に目を移しますと「また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。」とあります。街角に立ったでしょうか。大勢の群集が行き来していたでしょうか。働いていたでしょうか。 そういう人々を見て、彼らは元気にしているかもしれない。一生懸命働いているかもしれない。でも、心を見たときに、その心は弱り果ていていまにも倒れそうになっている。その心の姿、その人の内側にある姿をイエス様はご覧になって、可愛そうに思われた。 これは、ただ単に第三者のように立って、可愛そうだというのではなくして、ご自分の痛みとして、ご自分の心の痛みとして受け止められて、腸がよじれるような思いでこれをご覧になったということであります。人の痛みを自分の痛みとしてご自分に受け止めておられるイエス様の姿がここにあります。 そして、イエス様は言われました。「そのとき、弟子たちに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。』」イエス様は「さー、皆さん。弟子達をご覧なさい。多くの人々は病気を持っている、傷んでいる、傷ついている。だからあなたが手を伸べるなら、彼らは直ぐにそこにやって来るでしょう。」 「表面上は、どんなに元気そうに見えるけれど、心は傷んでいる。だから優しく手を伸べるならば彼らはそこに集まってくるでしょう。その人々を助けなさい。」そう言われた。「収穫は多い。必ず出て行くなら、それが御手の中にしっかりと握ることが出来るようになっていくでしょう。だからそうしなさい。」と言われたのであります。 でも、38節に目を移してみますと「だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」とイエス様は結んでおられます。この言葉に目が留まりました。この言葉に私は心が引き付けられたのであります。 イエス様はここで弟子達に対して「さー、出て行ったならば、皆集まってくるから、助けが必要だから、出て行って、兎に角人を助けなさい。」イエス様はそうは言われなかった。そうではなくして「祈りなさい。収穫の主に祈りなさい。」と言われたのです。 「出て行ったら、人々は必ず集まってくるから、その集まってくる人々をしっかりあなたが護ってあげるなら、その人たちが又出て行くでしょう。そのようにして、あなたの働きが実を結んでいくでしょう。だから出て行きなさい。」と言われたのではない。「収穫の主に祈れ。」と言われました。 私は先程申上げましたように、トラクトを配ったり、訪問伝道をしたり、特別伝道集会で一生懸命皆で力を合わせて頑張ったのでありました。もし、そこで配られたチラシ一枚いちまいが、そして訪問した一人ひとりがコンタクトが取れて、導かれて救われていったとするならば教会はどんなに速やかに祝福されて、成長していったことだろうかと思うのです。 でも、現実は御ことばの様にはいかなかった。現実はここに言われている通りにはなっていかなかった。打てども響かず、配れども配れどもそれは唯紙ぺラとして捨てられていくしかない。それが現実でありました。 教会の中で、いかに「豊な命があります。あなた方の希望の光です。あなた方に命を与える福音です。」と言うのでありますが、でも人々はそこにある暗い雰囲気、古臭い建物、僅かしか集まっていない人々、先ずそういったものに目がいったでしょうか。 私はそういう状況の中で、どんなにか自分自身の行き詰まりを感じたことです。そして自分の何処かに持っていた過信するようなそんな思いが徹底的に砕かれた、そんな思いがいたします。そして、私は改めてこの御ことばを通して自分自身が探られたことでありました。 もし、私がする行動の一つひとつが、そこで実を結んで、人々が救われて、教会がどんどん大きく成長していったとするならば、私の心の何処かには、いや大部分には「私はやれる。私がやればこのように出来る。」というようにして、私が建てあげた教会、私が導いた人々、私との関係において、人はクリスチャンになっていく、そんな思いが私の心をきっと占めていったに違いない。イエス様は私の陰に隠れていたに違いない。 イエス様はここで弟子達に「出て行ったら必ず良い収穫がある。」という前に、「収穫の主に祈れ。」と言った時に、「あなた方が本当の意味でそこで収穫を得るためには、収穫の主に徹底して祈るというところからそれが始まる。」 私は自分がどんなに打っても響かない中に有って、すればするほどそこに自分の限界を感じて、もはや私はなす術を失って、主の前に自分自身の限界、何にも出来ない自分と真正面に対峙しなければいけない状況の中に有って、自分に涙する中から、「主よ。私は何も出来ません。私はする力も無い。私はもはや自分の限界をこの中に感じて立つ術を失いました。」と本当に主の前に祈らせられたことでありました。 でも、そこから主は「それでいい。いや、それで無ければならない。そこから、わたしの働き、主の働きが始まる。」と主はおっしゃって下さった。そう思えるのです。 やがて、一人また一人と救われる方が興されてきて、数十年経てきた今日、多くの皆さん方が導かれております。そして皆さん、「池田先生にお世話になって、私はクリスチャンになりました。」と言う人はひとりも聞いたことがありません。「主に出会いました。」「主です。」とおっしゃっています。それでいいんです。それでなきゃならないのです。 そのようにして、主の教会を主ご自身が御建て下さった。教会は主の教会です。そこでは弟子達が崇められてはならない。そこでは人が崇められてはならない。だから徹底して、何も出来ない自分に対峙して、なおそこで主に委ねる事の出来るその人を通して主はご自身の業をなしてくださる。「救いの業はわたしがすること。救いの業は聖霊の働きである。」 やがて、弟子達も聖霊降臨の中から、弟子達一人ひとりが、あの臆病の筆頭のペテロも大胆に語ることが出来たのは、それは聖霊の働き以外にない。そこから教会が大きく成長していきました。皆さんも、皆さんの置かれたその処で家族の救いを祈っているでしょうか、誰かに福音を伝えようとしているでしょうか。でも、あなたの力でそれが出来ないことをあなたが徹底的に知ることが出来た時に、そこから主は働いてくださる。 私たち一人の存在はどんなに神の前には虫けらに過ぎない、小さな小さな、なきに等しい者でしかないということを深く知ることが出来た時に、「わたしである。」と主は言ってくださって、私たちを支えて下さって、私たちを通して業をなしてくださる。それを思うのです。 イエス様はここで大胆にそう語ってくださったのでありますが、イエス様自身も自らそれを経験しておられるのを知ることが出来るのです。ヨハネの福音書の6章を開いて見たいのであります。6章の66節171ページになります。 “ヨハネ”
このところは6章の初めから見ていきますと判りますが、有名な5000人の給食、イエス様が2匹の魚と5つのパンで5000人を養ったという、あの素晴らしい奇蹟の出来事を行った時であります。人々は素晴らしい恵みを受けて、イエス様のところに集まってまいりました。イエス様を王としようとしたりいたしました。 イエス様はチャンスです。ですから伝道しました。イエス様は大事な福音を語ったのであります。そして、核心に触れて語っていったときに、人々は段段にその心が冷えていきます。そして60節を見ていきますとこうあります。 「そこで、弟子たちのうちの多くの者が、これを聞いて言った。『これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。』」こういう反応であります。そして、多くのものが去っていき、66節に「弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。」となっていったのであります。 そして、イエス様は12弟子に言いました。「まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう。」イエス様の心です。まさかのイエス様の心です。弟子達が去って行くかもしれない寂しさの中でイエス様はおもはず「あなたも去るのか。悲しいよ。」 多くの人々を癒し、解放し、そして魅了したイエス様であります。でもまた、そのイエス様が後半においてはこのようにして、多くの者が去っていき、やがてこの12弟子もイエスを見捨てて去っていくのです。たった一人になっていきます。全ての人から捨てられていきます。その上に、捕らえられて、裁判にかけられ、死刑の判決が出て、十字架に付けられて殺されていくのであります。 十字架上においてイエス様は祈られました。「父よ、彼らを赦してやってください。彼らを赦してやってください。」そのイエス様の祈りは自分の力ではない、神に託すしかないという神への信頼と委託する祈りでありました。魂が救われていく、それは人の力ではない。人の能力ではない。誰かの働きではない。これは神の働き。 改めて、こうして私たちはイエス様を通して、心に語られます。今日も私たちに主は語ってくださいます。そして、なお主は言われます。収穫は多いのです。いや、収穫が多くなければならない。何故ならば、全ての人が救われなければならない、滅びてはならないから。 だから、収穫をしなければならない。でもその収穫はあなたの経験や力量やそういうもので出来るものではない。本当に涙の祈りだ。徹底して自分自身が、何も出来ないということを知って、主の前に涙する中から、「さーわたしがする。」と言って下さって主が働いてくださる、そこであなたは本当の意味での、あなたの内で働いてくださる主を体験していくことが出来ます。 皆さん、私たち一人ひとりの人間の存在は神の目からみたら、どんなにちっぽけなもの、虫けらに過ぎないものか、あってなきようなもの、そんなものでしかない、そういう自分であることを徹底して知って、しかし、そんなものに目を留めてくださって、そんな者を「わたしの目には高価で貴い。」と言って下さるという神の価値観をしっかりと持ったときに、わたし達の存在の根源がどんなものであるか知っていくことが出来ます。 そして、わたし達は本当に小さいけれど、とるに足らない者でけれども、でも、こんな者のうちに主は価値ある者としてくださって、生きて、内からご自身の豊な命を与えて下さる。教会はそのようにしてイエス・キリストの体として立て上げられていく。今日もわたし達は、その主をしっかりと目に留めながら、その主を見上げながら主の御心に沿って歩んでいくことの出来るようにと願ってやまないのであります。 お祈りを致します。 主よ、どうか本当に主のみ手の力、み手の業がどんなに偉大であるかをも体験できるように顧み下さい。お願いします。感謝します。 尊いイエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン! |