| 2002年3月17日 昇天者記念礼拝 “ヘブル” 第12章1〜2節 「“信仰の創始者イエス”」 “池田 博牧師” 宣教メッセージ |
今朝のメッセージのみ言葉をお読みいたします。今朝は ヘブル人への手紙12章1、2節
です。新約聖書の404ページになります。
“ヘブル人への手紙” ハイ 聖書は以上です。 冬季オリンピックが終わりましたが、オリンピックや様々な競技で、大勢の観衆の前で走り抜いて、一等でテープを切るというのは素晴らしいものです。感動です。 私の人生では、たった1度、一等賞をとった記録があります。私は普通の徒競走では、背が高くてコンパスはあるのですが、だからイコール早いかというとそうでもないのです。 ところが小学5年生の時、計算競争というのがあって、少々自信がありましたので、よし負けないぞ、と思い頑張りまして、1等賞を取れたのです。大勢集まっている中でテープを切るというのは、本当に気持ちの良いものです。 私の人生の中で唯一の宝です。両親も喜んでくれて、その晩、赤飯こそ炊かなかったのですが、少々のご馳走が出て、心に残っていることです。普段は一生懸命かけても、最高で3等でした。それ以上とったことがない中で、たった1度の一等賞というのは、本当に嬉しくて刻まれております。 競争で1等になるというのは、誰にでも出来ることではないのです。天性があるというのでしょうか、生まれ持ったものがあるというのでしょうか。もちろん努力も必要だと思います。ですから競争で1等というのは、なかなか難しいことなのです。 今日のこのみ言葉の所では、私たちの信仰の歩みを1つの競争に、あるいは走るということに例えられているのが分かります。もう一度1節をお読みします。 “ヘブル” とあります。ここで著者は、私たちの信仰の歩み、クリスチャンになっての歩みというのは、トラックを走るランナーのようなものです、と言っています。 ランナーですから一生懸命走りましょうということですが、ここに「競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか。」とあります。一等賞を取りましょうとは、ここには書いてありません。2等以下はだめなのです、とは書いてありません。「走り続けよう」とあります。 これは口語訳や新共同訳を見ますと、「走り抜こうではありませんか。」と訳されています。「走り続け、そして走り抜く」、要するに、完走するということが大事であり、最高の賞であるということ、それがここで言いたいことです。 走ると言う時に、走り出したなら最後まで完走することが大事です。クリスチャン生活、信仰をもってクリスチャン生活をスタートしたならば、途中で止めてしまったり、棄権したり、後ろに戻ってしまったりすることがないように、前に向かってとにかく完走することが大事です。今日のところで著者が言いたいことはそういうことです。 「完走しましょう。クリスチャンとしての歩みを最後まで全うしましょう。そうでなければせっかく走り出した、せっかくスタートしたのですから、決勝点まで行かなくてはスタートした意味がありません。スタートしたからには決勝点までたどり着きましょう。それが大切です。」ということを言おうとしています。 今日は召天者記念礼拝です。そのことで静まっていた時に、神様は私にこのみ言葉を導いてくださいました。このみ言葉から、私たちの人生を合わせて考えてみますと、私たちには、それぞれ生まれて召天する、最後までの人生という長丁場、人生のトラックがあるということです。 それは信仰をもってクリスチャンとして全うする人もいるし、あるいはそうではなく終わる人もいます。今日の名簿の中にもその両方がおられるわけですが、いずれにしても人生があります。 その人生の長丁場を走る時に、神様が私たちに与えてくだった、この素晴らしい信仰の歩み、それを与えられて、それを頂いて、それを全うするということ、これが何としてでも大切であるということです。 この著者は、12章1節で、言うならば結論的な、まとめの言葉としてこう言っているのです。11章を見ますと、そこには信仰を持って歩むということが、どんなに素晴らしいことか、またクリスチャンであるということとそうでないこと、信仰を持って歩むこととそうでないこととの違い、そして信仰を持って歩むことがどんなに素晴らしいか、そのことが述べられております。そして結論としてこうであるということが言われているわけです。 11章の2人のことを取り上げてみます。1人はアブラハムという人です。8節以下にアブラハムについて書いてあります。 “へブル” こういう書き出しです。アブラハムは、神様に従うという人生を送った最初の人で、イスラエル民族の祖ですが、カルデヤのウルにいた時は普通の人でした。ノンクリスチャンでした。いろいろな神様を信じていたかもしれないが、真の神様、創造主なる神様は知らなかったのです。神様は特別にアブラハムに声をかけられました。救いのチャンスを与えられたのです。 そしてアブラハムは、そのチャンスが与えられた時、彼はそうでない人生でなく、神様に従う人生を選び取ったのです。選び取ってみようという一つの信仰の決断がありました。そして信仰の決断をした時に、神はアブラハムに、「さあ、あなたは信じたならば、私のこの声に従って、まずあなたの住んでいるところから出なさい。」こう言われたのです。 これは大変大きな人生の賭け、選択、重大な決断です。私たちはなかなかそうはできないものです。私たちには生活があると思うのですが、アブラハムは思い切って決断しました。信仰の決断というものはそういうものです。どこかで人生を選ぶ、どちらかを選ぶというのは大きな決断です。アブアハムはそれにかけました。 その結果、彼の人生は大きく変化します。信仰の道は平坦でなく、信仰の道はむしろ多くの困難を極めていくのです。カナンの地に行き、彼はそこでは旅人、寄留者のような生活そういう人生を余儀なくされていくのです。それは13節に書かれています。 “へブル” 以前よりもっと祝福された、以前よりもっと素晴らしい、この世的にももっともっと豊かな生活があるだろうかと、どこかで期待したかもしれませんが、現実はそうではなかったのです。そうでない時に、アブラハムはしばし立ち止まって、自分にとって信仰とは何であろうか、自分にとって神様に従ったという事はどういうことだったのだろうか、と考えたに違いありません。 こんなに厳しい現実があり、こんなに困難があって、そして試練がある。子を与えると言われたけれど、与えられず何十年も過ごさなければならない。本当に神は自分を良しとして導き出したのだろうか、神は愛なのであろうか、神は本当に生きているのであろうかと、いろいろな反問、疑問が彼の心の中に過ぎ去った、通り過ぎたと思います。 そういう中で、でも彼は、一つ一つの試練の中から、あるいは取り去られる中から、そして何もこの世的に彼を支えるものがなくなって行く中から、見えてきたもの、開かれてきたものがあったのです。それは天国でした。天的なものであったのです。霊的な祝福であったということであります。13節を読んでみます。 “へブル” アブラハムは逡巡しました。困難にぶつかり立ち止まって、故郷に帰ろうかということもあったでしょう。でも一度スタートしたのだから、歩みだしたのだから、やはり全うしよう、最後までどんなことがあっても全うしようと、いうことで彼は歩み続けたのです。 そして、歩み続けていく中で、彼に見えてきたものは、この地上的なものでなくして、地上的に何か豊かにされていくということでなくして、天的な霊的な天国が見えてきたのです。 そして天国が見えてきて、それがより素晴らしいということが分かってきた時に、彼にとって地上のものは、世的なものは、彼の前からやがてその価値というのは薄れていって、天的なものを得ることの無情の喜びの前に、地上で失う豊かな富は、もはや彼にとって価値のないものにすらなっていったのです。 このようにしてアブアハムという人は、その生涯を通して、信仰者の雛形、モデル、模範となったのです。それは「あなた方に対してもそうですよ。だから全うしましょう。」ということです。 もう一人モーセという人にも触れられています。11章24節以下を読んでみます。 “ヘブル” モーセはイスラエルの民、イスラエル人であったのですが、不思議な方法でパロ、エジプトの王様の娘の子として育てられていき、何としかも彼はやがて王位を継ぐ立場に置かれていきます。そして彼はエジプトの全ての学問を身に付け、帝王学を身に付けて、王となるすべてのものを備えたのです。 40才の時、ある1つの事件から、彼はその王位を捨てて荒野に逃げていき、全く違った人生へと余儀なくされていったのです。でもその時に彼はやがて知っていき、悟っていきます。 荒野の生活の中で、自分に与えられた最高の王位は失われたけれど、でもその中で、彼の心の中で見えてきたものは、「キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。」ということです。 本当の意味で荒野で神を知った時、神を知って神とともに歩み、神に従う人生は、自分のエジプトの王、当時最も栄えたエジプトの王として欲しいままにすることのできるその王位も宝も、今、私にとっては色あせて見えて、さらには意味のないものともなっている、そういうモーセの価値の転換があったのです。 そしてそれは、やがてエジプトの奴隷となっていたイスラエルの民200万を引き出すという大事な任務を果たしていくことになっていきます。彼は優れた指導者、信仰者として生涯を全うしていきます。 そのように信仰によって歩むことを決断した者に、神はその人その人にとって最もふさわしく、その人にとって最高の人生を歩ませてくださるように備えてくださるのです。 だからあなたは、自分の目の前で、こうしたらいいか、ああしたらいいか、どうしたらいいかと考えあぐねる中で、迷うことなく、信じて神に従いましょう、あなたの人生を神にこそゆだねましょう、神は責任をもってあなたを100%守り導いてくださいます、とそう言われているのです。もう一度12章1節に戻ります。 “へブル” 前半の所に目を留めてみます。「こういうわけで」とあります。今11章のことを話してきて、多くの信仰によって歩む人生がどんなに素晴らしいか、永遠的な天国を目指す人生がどんなに素晴らしいか、こういうわけで、だからこのように多くの証人たちがとあります。 ここでいう証人というのは、あなたがたの先輩たち、先祖たちのことです。あなた方と同じように信仰の生涯を全うしていった、その人たちが今雲のように私たちを取り巻いているのですよ、と言っているのです。 それはあたかも、あなたが今この地上で信仰というトラックを走っている、その走っているあなたのそのトラックを、その先輩方が観衆となってあなたを見守っている、むしろ励ましているかのようです。 私たちは、かつては困難な中にあっても、その信仰の歩みを全うすることが出来た、その喜びで今いっぱいです。だから、「さあ、あなたがたもがんばってほしい。全うしてほしい。最後まで、最後まで走り抜いて欲しい。さあがんばろう、一生懸命がんばろう。」と励ましているのです。彼らは単なる観衆ではなくして、彼らは励ます者です。だからあなたもその励ましを受けましょう。 家庭の中でたった1人クリスチャンかもしれません。職場の中でたった一人のクリスチャンかもしれません。あなたの回りに誰もクリスチャンがいないかもしれません。 信仰をもったことのゆえに、一人であり、孤独であり、闘いが大きいかもしれないけれど、あなたはしっかり神の前に立ってみてご覧なさい。先人たちが、先輩たちが、多くの人たちが雲のように何千何万、数え切れない程の人たちがいるんだと。彼らの声が聞こえてこないでしょうか。彼らの励ましが聞こえてこないでしょうか。「さあ、がんばろう、走り抜こう、そういう声を聞こう。」、そう言われているのです。 そして、この証人という言葉のもう1つの意味は、殉教者という意味でもあります。その証人の中には数多くの殉教者もいるということです。殉教する、それはこの地上の目で見るならば、残酷なそして敗北者でもあるかのように聞こえます。殺されてしまった、そんな人生の敗残者でもあるかのように見えます。 でも死を覚悟で信仰を守り通したと言うことの故に、彼らは天国において勝利者、天国において素晴らしい凱旋者なのです。命を落としても惜しくない程に、信仰の目が開かれた姿が、そこにあります。あなたが、例えどんな困難に直面しても、あるいは命を失うことがあるかもしれないが、でも大丈夫です。私もその一人の殉教の証人ですと、証人者の声が聞こえてきます。 いずれにしても信仰をもって歩む人生というのは、そうでない人生との間に計り知れない違いがあるということを、あなたもしっかり知って、全うしましょう。ただ一度の人生を神に信頼して歩みましょう、とそう励ましています。 そしてその先、今度はこういう風にも言われています。12章2節です。 “へブル” とあります。このところがもう一つ大事なところであると思います。信仰によって歩むということが、私たちの心の中に開かれてきた時に、そこにはそれなりの歩み方がある、それを神様がきちんと示してくださるということです。 分かりやすい例えで言えば、100メートル競争で、スタートラインにオーバーコートを着て立ったとしたらどうでしょうか。その人の勝負は決まります。誰も100メートル競争するのに、わざわざオーバーコートを着るなんてことはあり得ません。身軽になって走る、そうでなければ走り抜くこともできないし、競争に勝つこともできないからです。 逆にエベレストに登るということになった時にはどうでしょうか。重装備が必要です。酸素ボンベも必要でしょうか。しっかりと身にまとわなければ、最後まで頂上まで達することは出来ません。 あなたが信仰という道に歩み出したならば、その信仰をもって歩むという時に、今まで大切だと思っていたかも知れないものを、捨てなければならないかも知れません。いや必要がない、そういうものがあるでしょう。そして今度は逆に、そこでどうしても必要なものも、携えて持っていかなければならないでしょう。 クリスチャンになるということは、クリスチャンとしての様々な必要なものを備えていくことが大切です。そうすることによってその歩みが全うできるようになっていくからです。ここには「いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てなさい」とあります。 重荷とあるのですが、私たちの人生はいろいろな意味で重荷を背負っている、そう思います。一言で人生という重荷かとも思います。様々な重荷がありますね。 男性にすれば仕事、事業、それを全うするには、大変な大変な重荷がそこにあります。人間関係のいろいろな問題を抱えて、どうしていいか分からない、そういう重荷があるでしょう。あるいは予期しない事故や病に倒れて、どうしていいか分からない重荷を背負い込んでしまうでしょうか。にっちもさっちもいかないところに立ってしまうでしょうか。 そしてそれはもはや誰もどうすることもできない、誰に頼んでも、どこに行ってもどうにもならない、そうした重荷となって、身をがんじがらめにしてしまうことがあるでしょうか。 でもあなたが一度信仰の道を選び取って、信仰の歩みをスタートしたならば、全部それを捨てなさい、ということです。捨てるということは、神に委ねるということ、委ねられたら、主が全部それを取り去ってくださって、もはや重荷が重荷でなくなっていくのです。 主はそのように、私たちが主を知らない故にもっているものを取り去ってくださって、私たちを身軽にしてくださる方です。100メートル競走にオーバーコートを着る人がいないように、全部それを捨てた時に身軽になって歩めるのです。そのようにあなたの信仰の歩みを、主はあなたに対して責任をもって導いてくださるのです。 そして「罪を捨てて」とあります。あなたの心の中に様々な罪があるでしょうか。そういうものを一つ一つ悔い改めて捨てましょう。イエス・キリストはそのために十字架にかかってくださったのです。だから重荷を取り去って、心の罪を悔い改めて、そして信仰者としての歩みを踏み出しましょう。そこではトラックを走るにはどうしたらいいかをはっきりと示されていくのですから。 最後に2節です。私たちがクリスチャンになったということは、私たちの決断であり、私たちの一つの選びではありますが、実は、それをそうさせてくださったのは、イエス様です。だから決断して従ったその瞬間から、あなたの心の中に信仰という種をイエス様が蒔いてくださったのです。 信仰という大事な命をあなたに与えてくださった、だからその命の種を大切にしてください、育てなさい、最後まで全うしていきなさい、そうしたらイエス様は見事にそれを完成してくだささいます。 そのようにして、私たちの内に決断して従った信仰の歩みを、イエス・キリストは最後まで完成してくださるお方ですから、主に向かってまっすぐに歩んでいきましょう。 イエス様自身も十字架というあの苦しみを乗り越えられたのです。あなたの前に先立って全うしてくださいました。そのあなたを完成まで導いてくださるお方です。この地上で何を得るよりもまさってこの信仰を得た喜びを、やがてあなたは主の前ではっきりと知る時があるでしょう。永遠の目、開かれた目、天国への目が開かれて、あなたの人生を全うしましょう。 お祈りをいたします。 愛する天のお父様今日私たちは召天者記念礼拝をもたせて頂いております。あなたは信仰のモデルとしてアブラハムを選んでくださいました。そしてあなたはアブラハムに約束してくださいました。 “創世記” あなたの約束のみ言葉を感謝します。ここに集っておられるお一人一人の上にも豊かな顧みがありますように。尊い救い主イエスキリストのみ名によってお祈りを致します。 アーメン |