| 2002年3月31日 主日礼拝式 “ヨハネの福音書” 16章1〜8節 「“キリストの復活”」 “池田 博牧師” 宣教メッセージ |
今朝のメッセージのみ言葉をお読みいたします。今朝は マルコの福音書16章1節から8節 です。新約聖書の94ページになります。
“マルコ” ハイ 聖書は以上です。これはイースター、復活の出来事が記されているところです。今日はその復活を祝う、嬉しい喜ばしい日です。 このところお葬式が続きまして、2度行なわれました。このお葬式の度に私は思います。病気で苦しんだり、とても辛いところを通って、そして最後を迎える方々が多いのですが、でも亡くなられた後、棺(ひつぎ)の中のお顔を拝見すると、皆さん、とても穏やかなのです。閉じた目を開いて今にも目が覚めそうな、そんな感じもいたします。先ほどまでの息づかいが伝わってくる、そんな感じさえするのです。 しかし、その棺に、やがて花を一杯、埋もれるほど入れて、そして閉じられて、火葬場に持っていきます。そして火葬いたします。その後、私たちは、全く変わった、違った姿と対面をするのです。そこにあるのは、遺骨だけです。それが誰であったのか、全く分からない、骨だけです。そしてその骨を収集して、骨壺に入れ、やがて墓地に葬ります。 そうなった時に、どんなに親しかった、どんなに愛し合った、どんなに睦(むつ)まじい関係であったとしても、もはやその人との関係は完全に絶たれて、そして言うならば、過去の人、更には歴史の人となっていく、という現実があります。 愛し合う関係が深ければ深いほど、親しさが深ければ深いほど、死という現実を通して、そこに襲って来るかのような、その別れというものが、どんなに冷酷、非情なものであるか、そんなことも感じないではいられない、それが死です。 誰もが1人として例外なく必ず迎える死、だから「死に対する備えを」と言いますが、しかしどんなに備えようと思っていたとしても、いずれ死ということに直面する時に、もはやそこでは自らの心を御しがたい、押さえきれない、そして悲しみに暮れ、悲嘆にくれるという現実に、私たちは直面させられるのです。 死、それは生を完全に断ち切ってしまい、敢然として立ちはだかる壁、越えられない壁、知ることができない暗黒の世界、それが死です。葬儀の度に、そのことを思わされます。 この朝も、そうしたことが現実の方々も、ここにおられるかと思います。またいろいろな辛い出来事の中にあって、それが人ごとでない、自分のこととして、とても悲しく辛い中に身を置いている方々もおありでしょうか。 イエス・キリストの言葉に目をとめてみたいと思います。ヨハネによる福音書11章25節の言葉を、イエス・キリストが宣言されたと言いましょうか、とても大切な言葉ですが、ご一緒にそこを読んでみましょう。 “ヨハネ” イエス・キリストは、こう言われました。皆さん、人類の誰1人として、死を越えた命(いのち)、さらには死を支配する命といったものを、このような形で宣言し、あるいはそれを権威をもって語ることができた人はいません。イエス・キリストだけがそれを語りました。 常識的に言うならば、「わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」という言葉は、何かこう、戯言(たわごと)かのように聞こえる、もはや信じがたい言葉としてしか、私たちは受け止めきれないような言葉としてさえ聞こえてきます。 キリストは、これを単に、病気の人や困った人、悲しみの中にある人に、希望の言葉としてこれを語った、慰めの言葉として語ったということではないのです。 ヨハネ福音書の11章に書かれているこの一連の出来事を見てまいりますと、1人のラザロという人が、今まさに重い病気で死のうとしていた、そしてやがて死んでいき、しかも死んで、4日もたって、もう腐り始めているという、そういう現実がありました。 そういう出来事の流れの中で、これを語っておられるのです。しかもその先の43節を見ますと、このキリストは死んで4日もたったラザロの前に立って、「ラザロよ。出てきなさい。」とこう言っているのです。 マジックか、手品師のような、そのような言葉としてしか聞くことが出来ないような言葉を発しています。しかし、やがてその後に、死んでいた、腐りかけていたそのラザロという人が、44節を見ますと、「手と足を長い布で巻かれたままで出てきた。」とこうあります。 死んだ人がこうして生き返ってきているのです。キリストの言葉が、こうして権威ある現実として、私たちの前に提示されている、宣言されているということにおいて、このことはとても大切です。 聖書は不思議に、このよみがえったラザロがどういう生活をしたのか、どんな働きをしたのか、について、ほとんど触れていないのです。そして大事なことは、結果として誰がどうなったかということ以上に、そうではなくして、イエス・キリストが、一度、言葉を発した時に、聖書が私たちに言葉を発した時に、それがどれだけの権威と力をもって、私たちにそれが現実となるか、ということを聖書は語っているのです。 もしあなたがそれを信じるなら、あなたの内にそれが現実となって、あなたの人生を、あなたの永遠を変える、それが聖書の言葉の大切な意味合いです。 そして今日は、そのイエス・キリストご自身について、先ほどマルコの福音書16章を読みました。これは先ほど申し上げた通り、復活の出来事についてであります。 その復活の出来事の前に、15章の最後の場面、キリストが死にいたる最後の場面がそこに記されてあります。少し長いのですが、読ませていただきますので、目を追いながらお聞きいただきたいと思います。マルコ15章25節〜37節です。 “マルコ” これがイエス・キリストの最後の場面、死にいたる最後の場面です。これを改めて読んで見る時に、先ほどのあの、1人の死に行く人をよみがえらせたキリスト、「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」とそう宣言したキリスト、そのキリストがどこに行ってしまっただろうか、とも思えます。 権威あるお方がなぜこのような弱い姿、惨めな姿、何もできない姿の中に、身をゆだねきっているのか、何故ここに権威を、何故ここで力を現さないのか、何故悪しきものをはねつけて、制裁を加えて、そして彼らを裁かないのかと考えます。 キリストは成す術なく、彼らに自らの身をゆだねていき、そして「エロイ、エロイ、ラマサバクタニ」、「わが神、わが神、どうしてあなたはわたしをお見捨てになったのですか。」という叫びを発し、そして「息を引き取れられた。」とあります。とても考えられない矛盾であります。 でも事実です。歴史です。そしてその事実が、私たちに示しているものが何であるのか、私たちはそれをどう聞くのか、どう受けとめるのか、それが実は大切です。そしてそれがあなたの人生を、あなたの永遠を決定していきます。 イエスキリストの、この惨めと言っていい、この姿、最も弱い姿です。何もできない姿です。でもそれは実は私たちの姿、私の姿、イエス・キリストは、実は私たちの弱さを担ってくださった、私たちの罪を担ってくださった、身代わりになってくださったと、聖書は告げています。 ペテロ第1の手紙2章22節から24節にこう書かれています。 “ペテロ第一の手紙” 実はここに、キリストが何故あそこまで弱い姿に、惨めな姿になったかの意味が説明されているわけです。そして十字架につけている人々の姿は、実は私たちの罪、私の罪の姿なのです。もしあそこに私がいたなら、同じように叫んだでしょう。同じようにして、ののしったでしょう。でもそれは私たちです。 私たちはちょっとでも人から中傷されたら、黙っていません。そして私たちはどうしても自分を義としやすい、自己中心になりやすい者です。自分の非、自分の正当な理由に対しては、とことんそれを主張する、そして、そのようにして私たちは心の中に一杯罪をもってしまう者なのです。 人を裁き、怒りをもち、許せない気持ちで、愛の裏切りの中で、憎しみがいっぱい満ちている、心の内側をよく光に照らして見るならば、そこはもはや、自分の目を背けてしまうほどの、自分の心の姿がそこにあります。 キリストはそういう私たちを知っておられて、そういう私たちがどうなっていくかを知っておられて、そしてどうなっていくかを知っている故にこそ、「父よ。彼らを赦してやってください。私を罪に定めて、私の罪を裁いて、彼らを赦してください。彼らは滅びてはならないからです。だから私を滅ぼして、彼らをお救いください。」。これが十字架です。これが先ほどの、マルコの15章の姿です。 しかし、聖書は15章では終わっていません。16章に移っていきます。そして16章の1節に、 “マルコ” とこうあります。そして6節の言葉に目をとめてみます。 “マルコ” とこうあります。私たちは死んだら、もはや生き返るということはあり得ません。死んだらもう最後、永遠の別れ、それ以上ではありません。そういう私たちであります。 でもキリストはそうではなかったのです。とことん弱さの中に置かれて、十字架上で死にました。でも復活されたのです。 何故でしょうか。キリストはただ1人罪のないお方であったからです。そのようにして、罪がなかった故に、キリストは全ての人の罪を自らの身に負ってくださって、裁かれてくださったのです。 でも死の床から、永遠の滅びからよみがえることが出来て、そしてこのようにして復活の体を人々の前に示すことができました。ここに希望が、ここに永遠の希望が開かれたのであります。 十字架と復活、それはキリスト教の中心です。十字架と復活、それは福音の全てです。キリストは人類にこのようにして、十字架において身代わりになって死んでくださった、でも復活して希望をもたらしてくださった故に、「さあ、このわたしに、あなたの身をゆだねなさい。あなたの人生を、永遠をわたしにゆだねなさい。わたしは責任をもって保証をもって、あなたを永遠に贖(あがな)うことができるからです。」 その主の招きに、主の差し伸べた手に、私たちも身をゆだねて、このすばらしい救いに、このすばらしい希望に、もはや死の先を全く知り得ない私たちに、永遠の希望を与えてくださったイエス・キリストを喜び、このイエス・キリストを崇めたいのであります。 お祈りをいたします。 愛する天のお父様、あなたが今日備えてくださいました、ご復活の朝、私たちに開かれた、備えられたこのすばらしい恵みを、感謝いたします。 やがて、だれもが必ず通らなければならない死、でもあなたはその先に、命の希望を与えてくださいました。その先に永遠の命への道を開いてくださいました。感謝します。今日、どうぞ、お一人お一人の内にとどまってください。 「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」と言われた、その生きる希望を与えてください。お願いします。感謝します。イエスキリストの御名によってお祈りをいたします。アーメン。 |