| 2002年4月14日 主日礼拝式 “ヨハネの福音書” 8章12節 「“わたしは世の光です”」 “池田 博牧師” 宣教メッセージ |
| 今朝のメッセージのみ言葉をお読み致します。今朝は ヨハネの福音書8章12節 です。新約聖書の175ページになります。 “ヨハネ”
イエス・キリストは言われました。「わたしは、世の光です。」世という時に、それはどういうことを意味しているか、それは闇の世といっていいでしょうか、罪の世といっていいでしょうか。「世の中をウシと優しと思えども、飛び立ちかねつ、鳥にしあらねば。」これは万葉時代の歌人の歌です。 万葉時代といえば、花鳥風月、とても時代が豊で、自然が豊で、本当に平和な時代という印象を持ちます。そういう歌が多くあります。でも又こういう歌も残っているわけです。そして一歩踏み込んで見るならば、当時も生きることにどんなに苦しんでいたか、悩んでいたか、行き詰まっていたかを知ることができます。 イエス・キリストは世という時に、同じように、いつの時代でも世の中は辛い悲しい苦しい世である、苦の娑婆といいますが、仏教の世界でも同じですね。何故ならばこの世の中そして一人一人の人生は押し並べて言うならばそれは苦の世界であるということが言えるからだと思います。 でも、「その苦の娑婆といえるその世界にわたしは光として来ました」とイエス・キリストは言われます。そしてその先には「わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」とこうあります。 「確かに、闇の世界であり、罪の世界であり、滅びの世界であるかもしれないけれども、もしあなたがわたしに従って来るならば、あなたはもはや闇の世界、罪の世界、滅びの世界から、わたしによっていのちの光を持つ世界、いのちの光を持つ人生をあなたは生きることが出来るのです。」と言って下さっているのです。なんと素晴らしいことでしょうか。 このイエス・キリストがこの言葉をいつ話されたかといいますと、それはこの8章の初めのほうを見ますと判ります。ここは有名な実際にあったお話しですが、姦淫の現場で捕らえられた一人の女がキリストの下に連れてこられた。その罪ある女は姦淫の罪故に、石打ちの刑で殺されなければならない。これは旧約時代からの律法によって定められたことだったのです。 殺される者としてそこに連れてこられた一人の罪ある女であったわけです。その出来事の後に、このことばを語っているのであります。この罪ある女の人は姦淫の罪の現場を捕らえられたということで、火を見るよりも明らかに、そこに罪があって、それは裁かれなければならない運命にあったといえます。 でも、この女性にしてみるならば、ユダヤの定めにおいて罪は死に値するということを知っていた、姦淫は石打の刑であることを判りきるほど判っていたのです。でも彼女は闇の世界に生きていました。闇に支配されていました。ですから、判っている罪に彼女は支配されていたわけです。それをどうすることも出来ない中に置かれていたし、それが自分の生きる運命だと言う以外にないそこに置かれていた。 考えてみますと、姦淫の現場を捕らえられた。相手はどうした。男はどうしたんだ。いない。逃げたんだろうか。彼女の心のどこかでは「自分はこうして運悪く捕らえらて殺される運命にあって滅びなければならない運命にあって、なんと自分は割りの合わない辛い中に追い込まれているのだろうか。」と叫んでいたかもしれない。 でも、その叫びも届いてはいないし、記されてもいない。そでほど彼女にしてみれば雑草のような虫けらのような人生であった。それが今置かれている現状であったのです。でも、そんな女性、そんな自堕落な一人の人間、その彼女がキリストの前に連れてこられました。キリストの下に来たのであります。 そして、キリストの下に来た時にキリストはその彼女にどう向き合ったでしょうか。確かに罪は罪、。で、キリストは言いました。「先ず、あなた方に言うけれども、あなた方の中で罪の無い者がいるならば、この女に石を打ちなさい。石を投げなさい」そう言ったのであります。 これは千金の重みのあることばでありました。「罪の無い者が先ず石を投げなさい。」その言葉を聞いた一人ひとりが自分の良心がさされていきました。そしてさされた一人ひとりはその場を去っていきました。一人去り、二人去り、三人去りやがて皆去っていきました。そこに残されたのはイエス・キリストとその罪ある女でありました。 そしてイエス・キリストは罪ある女にこう言います。8章の10節に目を留めてみますとこうあります。 “ヨハネ”
「そこで、イエスは言われた。『わたしもあなたを罪に定めない。』」 その宣言したキリストはその罪を他でない自分に受けたのです。そして、キリストはこの後十字架にかけられていきます。そして人々の呪いを受けて、十字架に死んでいったのです。十字架の上でキリストは言われました。祈られました。「父よ、彼らを赦してやってください。彼らの罪を赦してやってください。あの女の罪を赦してやってください。わたしが身代わりになりますから、わたしがその罪を受けますから、わたしを裁いて彼女を赦してやってください。」 やがて十字架にかかることを知っていた、そこに向かっていたキリストは前もってその女に「わたしも罪に定めない。それはわたしだ。あなたの罪の身代わりになるからだ。」と言われたのです。 キリストはそのようにして、私たちに代わって罪を受けてくださいました。私たちの呪いを受けてくださいました。生きる何の意味も価値も無い、虫けら同然の自分の人生だと自分を傷つけ自分を呪い死んでいこうとするそんな私たち、でもキリストは愛してくださる。 キリストの目には一人ひとりがどんなに傷つこうが、どんな罪を犯そうが、どんな過去であろうが、どんな現在であろうが、私たちの存在そのものに目を留めてくださった時、キリストは「わたしの目には高価で貴い。」「あなたはわたしにとって大切な、最も大切な存在だ。」と言って下さる。 だから、キリストの下に来た時に、生きる意味を見出すことが出来るのです。生きる喜びを見出すことが出来るのです。罪ある女にそのように近づいてくださった主は今も私たち一人ひとりにその目を留め、手を差し延べて愛の言葉をかけてくださいます。 皆さん、今日ここにその主が又声をかけて下さっています。皆さんの心の中に心の傷痛手があるでしょうか。生きる意味が何なのか判らないそういう中に置かれている人がいるでしょうか。あるいは今はなくとも将来そうなるかもしれない。私の人生が何時どのように挫折し、行き詰まり、死を選ばなければならない、そんなものでもあるでしょうか。 この世、罪の世。苦の世界でありますが、でもその世にキリストは来てくださいました。「わたしは世の光です。闇に光をもって、それを駆逐する。追い出し、もはや光の支配の中にあって闇はそれに打ち勝つことは無い。」と1章の5節にはそう書いてあります。 闇を支配してくださるイエスキリスト、そのイエス・キリストに従う時に、もはや闇の中を歩むことなくいのちの光を持つのです。 お祈りを致します。 どうぞ、主よ。お一人おひとりの中にあなたが届いてください。今お祈りの途中でありますが、今日ご自分の心の中に、自分のこれまでの人生をやり直しをして、新しくキリストに従う、愛の御手に従っていきたい、そういう願いが起され、新しくやり直していきたい、イエス・キリストを主と仰いで従っていきたい、そういう方がおありでしょうか。 その方のために、特別お祈りをさせて頂きたいと思います。その意思表示を一寸お手を上げてお示しいただけるでしょうか。その方のために特別お祈りをしたいと思います。あなたの人生が新しくされます。 あなたの人生がキリストと共に歩む時に、キリストはあなたの人生を責任を持って導いてくださいます。その主を今日私の救い主として従っていく決心をして、他にございますでしょうか。今日ここに居られるお一人おひとりに主は望んでくださいます。お一人おひとりを愛してくださいます。感謝します。私たちの救い主イエス・キリストの尊い御名によってお祈り致します。アーメン! |