| 2002年4月21日 主日礼拝式 “ルカの福音書” 6章12〜16節 「祈りによる収穫B」 “池田 博牧師” 宣教メッセージ |
今朝のメッセージのみ言葉をお読みいたします。今朝は ルカの福音書6章12節から16節
です。新約聖書の109ページになります。
“ルカ”ハイ 聖書は以上です。 「苦しい時の神頼み」。そう言いますね。人間はなかなか祈ることをしなくて、よほど苦しくなってから、やっと神を呼ぶというところから、こういう言葉が言われているように思います。 一方、人間は祈る動物である、人間だけが祈ることができ、祈りを知っているということです。ですから、祈りを知っているという事は、素晴らしい事ではあるのですが、でも知っているようには、人間は祈っていないようです。 祈りの素晴らしさとか、さらには祈りの力ということになると、どこまでそれが身に付いているだろうかと思います。私も「祈りのセミナー」ということで、あちらこちらの教会や聖会に招かれていきます。そういうふうになった私自身が、不思議でならない面もあるのですが。 そこに行って、いつも私が申し上げるのは、「朝の15分はあなたを変えます。」ということです。このことが以外に皆さんの心に残っているようでありまして、次に会うと、「先生に言われたあの『朝の15分』をあれから実行し始めています。」とおっしゃいます。そうおっしゃるのは、以外に牧師先生が多いのです。 かなり以前ですが、アメリカのある雑誌に出ていた統計によりますと、アメリカの牧師の1日の平均の祈りの時間は、約10分だそうです。ほっとしたりして…(笑い)。 祈りが大事だと分かっていても、祈らなければならないと思っていても、現実になかなか祈れないのかな、と思います。 ある時、一人の信徒が、「私は毎日主の祈りを唱えることにしています。」とこう言いました。複雑な気持ちで聞きました。「1日、唱える祈り」。それでいいのだろうかと思ったりいたします。私たちの祈りは、祈っていないわけではないけれど、その祈りが形式化している、マンネリ化している、形だけのものになりがちなのかと思います。 先ほど「苦しい時の神頼み」という言葉を言いましたが、改めて、故事・ことわざ辞典を調べてみました。その項目にはこのように書いてありました。「普段は神仏を信じていないのに、困った時、苦しくなった時にだけ、神仏に手を合わせるという事から、この言葉がある」ということです。その先には「これは自分勝手な都合から神頼みするということへの戒めも含めたことわざです。」とありました。「なるほどそうなのかな。」と思いました。 でも皆さん、聖書を見ていきますと、聖書の中には神様が私たちを苦しい所に置かれる、あるいは追い込まれる、そういうことがあるのだ、ということが書いてあります。愛する者に鞭を当てる、懲らしめるということです。ヘブル人への手紙の12章に書いてあります。 “へブル” とあります。子として扱っているから、私生児でないから、だから、懲らしめ、鞭を当てられるのだと、いうことです。 私たちは考えてみれば、普通の生活が出来ている時、祈らなくても生活が出来ているという時、あえて祈るということはなかなかできない、しない者であると思います。ですから神様は、あえて苦しい所に置いて、そしてその中で神を求めることを教え、鞭を当てるなかで、神を呼び求めなければならない所に置いて、そして訓練するとこうあるのです。 皆さんはどうでしょうか。ご自分、お一人お一人、振り換えってみて、そういったことになるほどと、納得できることがおありになるのでは、と思います。 私自身も、祈れなかったし、祈らなかったし、祈りがあまり好きでない、そういう時代を長い間過ごしてきた者でもありました。それだけに、神様はそういう私にいろいろな機会を通して、訓練という試練を通してくださったと思います。そしてその試練を通して、少しづつ祈ることを身に付けさせてくださったと思います。 今日のみ言葉に目を留めてみたいのですが、12節にこうあります。 “ルカ” とこう書いてあります。なんとここでイエス様は夜を明かされる祈り、即ち徹夜の祈りをしたということです。皆さん、徹夜の祈りをしたことがある方…えー、手を挙げて…とは言いませんけれど…(笑い) 私の平和台の牧師室にいると、そこの3階に祈りの部屋がありますから、「時々、今晩一晩祈らせて頂きたいのですが。」という申し出があって、「どうぞ。」と申し上げます。そしてその方は夜を通して祈っているのです。 そういう方が出る時に、私はその方がどういうことで夜を明かさなければならないか、何かその真剣さを思い、その心を思い、背後で祈りを通して主がそこで出会ってくださるようにと、私も側面からの祈りをさせて頂くことがあります。 皆さんも、一度や二度、そういうところを通られたことがあったであろうか、と思います。本当にとことん行き詰まる、とことん辛い中に置かれた時に、祈るしかない、神の前に出るしかない、うめくしかない、そういう中から夜を徹して祈る、ということを経験するであろうと思います。 特に10月14日のあのゼロ回答があった日、私はその瞬間、目の前が真っ白になっただけでなくして、もはやもう食べ物がのどに通らなくなり、そして、夜を徹して祈るというよりも、眠れない夜を過ごし、ただうめくだけの主への訴えの祈りの時を持ったことでありました。 木曜日の日でした。翌々日の土曜日は役員会が臨時に召集されました。そして大事なこのことについて話し合ったことでありました。この時は朝(あした)から夕べ、朝から夕方までかかりました。議論百出でもありました。当然、いろいろな声がありました。 その中で、私はとてもとても重苦しい思いになりました。私は前日の13日朝に神様から、 “イザヤ” というみ言葉を与えられていたのですが、最終的には役員会でも、主が私自信にチャレンジしてくださったことに対して、応答していこうと一致しました。私自身の中に一条の光を見ました。 翌17日の日曜日には、「私がメッセージと共にその経過を話しをして、皆さんにアピールしましょう。それ以外にない。」ということになりました。 当然でした。それだけに私は、今度はまた土曜日の晩も、眠れない夜を過ごしました。まんじりもしない中で、夜明けを迎えたことでありました。本当に主の助けを頂かなくてはこの先どうにもならない、すでに7千万という手附金を払って、約束の7億を支払わなくてはならないという、金額的にも大変な危機的な状況でありますし、大冒険、めちゃくちゃな話でもあります。 でも信仰によって立ったということの中で、起こったことでありましたから、本当に後には引けない中で、でも一歩も前進できない中にあって、ひたすら主に願うしかなかったのでありました。そういう危機でした。そういうどん詰まりに追い込まれたことでありました。 私は端的なメッセージと共に、後半でそのことを訴えさせて頂きました。その中に主が働いてくださいました。そして、み言葉に主はご自身のみわざをもって応えてくださいました。そして多くの方々の涙の悔い改めがそこに伴っていたのでありました。「誰よりも、私こそが、銀行をあてにしていました。」という悔い改めが、あちらこちらから起こってまいりました。 その中で皆さんが、「銀行ではなく、主である、神こそ第一にしなければならない。」という信仰の決断が生まれてまいりました。そこから立ち上がったときに、また神様は何と不思議なことをしてくださったことでしょう。翌々日には今度は銀行が「借りてください。」と頭を下げて来るという、どんでん返しが、主にしかできない本当に驚くようなわざがそこになされていきました。 この窮地、このどん詰まりがあったからこそ、今振り返って見るならば、そこから先2ヶ月足らずで、全てを支払うことができるようなわざ、道が開かれたのかな、という風に思います。 確かに窮地でありますけれど、その窮地こそ、主がご自身の栄光を現してくださる、御自身しかできないわざを現してくださる、そういう時です。さあ、あなたはそれを信じられるか、祈ってゆだねることができるか、そう問われているという気がいたします。 イエス様は、ここで徹夜の祈りをなさいました。祈りながら夜を明かされました。イエス様にとっても、この祈りは決して容易なことではなかったであろう、ということは想像できます。それでは夜を徹して祈ったイエス様は、次に何をなさったのかといいますと、13節にあります。 “ルカ” イエス様が夜を徹して祈られた結果、なさったことは、12弟子の選びであったことがここに分かります。12人の弟子を選ぶということが、イエス様にとってどんなに大変なことであったか、ということがまず伝わってまいります。 でもまた、同時に言うならば、イエス様ともあろうお方です。ですから、そこまでしなくても、イエス様には神様の持っておられる権威があるし、力があるし、誰がふさわしいかを一番よく知っておられるのですから、何かこう青写真がきちんとできていて、これとこれとというふうにして、パッとそれを広げることが出来たのではないかな、と思うのです。 でもイエス様はそうしたのではなくして、夜を徹して真剣な祈りが成されて、そしてその祈りの上で12人の弟子をそこに選ばれたのです。それがどんなに深い意味をもっているのかと思います。 また同時に私は、イエス様も、イエス様に与えられているこの権威や力でそれをしたのではなくして、ただ神様お委ねをし、ご聖霊の働きにお委ねをし、いうならば、三位一体の主の働きとして、神の働きとしてそうなさった、ということを思いました。そのことをとても深く心に留めさせられたのであります。 皆さん、ここに選ばれた12人の弟子たちです。誰が見ても、「なるほどそうだ、世界を動かすのにふさわしい人たちが選ばれた。」と思ったとしたら、そうではないのです。ここに選ばれた12人は、「え?どうしてそんな人たちが…。」という人たちです。 漁師とか収税人とか、熱心党員とか、いろいろな職業の人たちがいました。いうならば、職業の基線なし、という感じです。当時の優れた学者とか、指導者とか、有能な人というところから、はるかに離れたその周辺の、またその周辺のような人たちが、ここに選ばれているのです。不思議な気もいたします。 でも皆さん、イエス様はそういう漁師に過ぎない、無学の只人に過ぎない人たちを選んで、そしてあのマタイの28章19節において弟子たちに命じられました。 “マタイ” と言われました。 同じ事がマルコ16章15節にもあります。 “マルコ” という大宣教命令がなされています。これは世界来、全ての人類に伝えられる、大切な大切なよきおとずれであり、それを弟子たちに託していくわけであります。 それにしては、そういう大事な大変な遠大な計画を、こういう人たちに託していいのだろうか、と思えるような経緯があるわけです。でもやがて、漁師に過ぎないペテロ、ヨハネ、彼らは聖徒ペテロ、聖徒ヨハネとなっていき、疑い深いトマスも聖トマスとなっていきます。ユダは残念ながらユダの裏切りとなっていくのですが、このこともまた別の機会に触れることが出来ると思いますが、そういう人をもあえて選ばれたイエス様でありました。そしてそこに託していかれるイエス様でした。 イエス様は私たち一人一人に目を留めてくださるという時に、あなたがこの世の中で、有能であるか、どれだけの知識があるか、経験があるか、地位があるか、そして財があるか、そういうことが計られているのではない、そういうことが問われているのではない、そういうことの上に何かがキリストのために役立つ、ということで計られているのではないのです。 一切そういうことによらないのです。そういう意味において、そこには何の基線もなければ、背景もなければ、「虫けらのヤコブ」ともありますが、そんな者でしかない者にも目を留めてくださるのです。そしてそこに祈りが積まれた時に、そこにイエス・キリストの命が注がれた時、その人は変えられていき、その人は用いられていくようになっていくのです。 主はそれゆえに、私たちをあえて様々な試練を通して、その中で神に信頼することができるか、否か、を問います。試され、訓練されて、そしてそこを乗り越えていった時に、そこにはあなたに全く新しい価値観と神の法則が生まれていって、神に用いられる器にもなっていくのです。神の栄光が現されることが、出来る者へと変えられていくのです。 あなたにもその可能性があります。あなたにも、あなたにも、みんなにもあります。誰にでもあります。平等に与えられています。全ての人に与えられているのです。イエス様のこの大事な選びの中に、そうしたメッセージが込められていると思います。 最近、ある方からお手紙を頂きました。その中にこういう証しがありました。大変心に留まり、時期にかなっていたかなと思いまして、一つの証しとして皆さんにもお分けしたいと思いました。 アメリカでのことです。テキサス州のある刑務所に服役している29才の青年のことです。彼は生い立ちがとてもすさんでいました。17才の時、たった1足のテニスシューズが欲しいばかりに、14才の少年を殺してしまいました。そして裁判で彼は終身刑になって、刑務所で服役したのです。 その殺されたという14才の少年は、ある家庭にたった1人与えられた、大切な大切な子供でした。両親はそのたった1人の子供が殺されてしまった、無惨にも殺されてしまったことのゆえに、どうしてこんな悲惨な辛い目に合わなければならないのかと、神の前にうめく日々が続きました。 でもそのうめく日々の中で、ある時ふと細い声が耳に聞こえてくるのを感じました。それは、「刑務所に服役しているその加害者を訪ねなさい。」という声だったのです。「とんでもない。とんでもない。どうしてそんなことができるだろうか。もしそんなことになれば何をしてしまうか分からない。そういうことは出来ません。出来ません。」と神の前にそう申し上げるのですが、でも繰り返し繰り返し、静かに祈る中に、その声が聞こえてくるのです。 ついに、この両親は、服役中のその加害者を訪ねていくのです。その時に、正直な気持ちを言うのです。「あなたは一人息子のいのちを奪ってしまった。あなたは私たち夫婦に深い悲しみだけを与えた。私たちの人生はもはや何の喜びもなくなってしまった。ただ神の前にうめいての祈りしかできない。しかしその祈りをしていた時に、『加害者を訪ねなさい。』という声を聞いた。『絶対にできない、嫌です。』と言っていたけれども、ついに、行かないではいられなくなって、今日訪ねてきた。」 訪ねられたその加害者はふてくされていて、聞こうともせず、ますます態度を硬化させていたということです。帰って祈ると、「また、訪ねなさい。また、行きなさい。」という声が聞こえてきました。そして、何度か訪ねていきます。やがてこの夫婦に、さらにその先の事が、神様によって告げられていきます。 そしてその告げられたことは、もはや、この夫婦は神様に従うしかない、そういう思いで訪ねてこう言いました。「私たち夫婦は神の前に祈り、何度も話し合い、そしてついに私たちは決心しました。あなたを私たちの養子に迎えたいのです。あなたが同意さえしてくれたならば、私たちは誕生日やクリスマスのプレゼントをいつも持ってきます。もし私たちが死ぬようなことになったなら、その財産は全部あなたに与えます。」 彼らは、そう告げたのです。そして、しみじみこういうことを話したというのです。「私たちにとって一番難しいことは、赦すことです。まして1人息子を殺した相手を赦すことなど、私たちの心に持ち合わせてはいません。 しかし、怒り、憎しみ、恨みだけを持つ自分たちの心は、もうそのままいけば、心身ボロボロになっていくだけです。このままではいけない、なんとかしなければと思いながら、しかしその先一歩も進めない中にあって、神に従うしかありません。」 やがてこの夫婦の中に、明確にイエス・キリストの十字架が植え付けられていったのです。 「父よ。彼らを赦してやってください。」イエスキリストの十字架の祈り、その中に込められているイエス・キリストの苦しみがどんなものであるか、そのことがこの夫婦に分かっていきました。そして心から、こんな者も、赦せない憎しみだけのこんな者も赦されている、その恵みを知った時に、この夫婦は加害者を養子にしよう、そして全部をあげよう、そのような決断へと導かれていったそうです。 やがてこの犯人は、このような夫婦の愛の奇跡に触れられて、変えられていき、素直に罪を認め、悔い改めて、主イエス・キリストを信じる者へと変えられていった、というのです。 私たちにとって、とっても辛いこと、どうしようもないこと、時にそこに立たせられます。でも、その所こそ、イエス・キリストがあなたに代わって、あなたに解決の道、祝福の道、勝利の道を開いてくださる門口となる、ということを教えられるのであります。 イエス様は取るに足りない弟子たちのために、徹夜の祈りをしました。それはどんなにか深い祈りだったでしょうか。そしてそれは、やがて十字架上のあの苦しみを通して、その祈りは本物になっていき、力ある結果を生みだしていく源泉となっていくのであります。 お互いの置かれたところで、辛い苦しい、あるいは許せない、自分自身を御すことのできない、そういうところに立っている、そういう中にある方がいるでしょうか。でも主はそのあなたに、必ず脱出の道を備えてくださいます。その主を見上げたいのであります。 主は私たちのどんな窮地の中からも、救い出しうる道を備えてくださいます。罪のどん底から、救い出してくださいます。そして私たちの不可能を、主は唯一の可能な道へと導いてくださるお方です。その主を見上げ、その主に信頼し、従う事が出来る者とならせて頂きたいのです。 お祈りをいたします。 「父よ。彼らをお赦しください。彼らは自分で何をしているのか分からないからです。」と祈られました。十字架において祈られました。弟子たちの選びにおいて、彼らは誰1人として、あなたの弟子になる有資格者ではありません。無学の只人、捨てられて当然、虫けらに過ぎないそんな者たち、でもあなたは彼らのために真剣に夜を徹して祈られました。 そこに道が、そこに光が、そこに乗り越える力が与えられていきました。主はその主は私たち一人一人にも目を留めてくださり、私たちにも道を開いてくださるお方、不可能を可能にしてくださる主です。その主を見上げていきます。その主に信頼します。どうぞ、今日、み前にあるお一人お一人に、主が臨んでください。イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン |