2002年6月2日 主日礼拝 
ルカ23:27〜38

「祈りによる収穫(6)」

池田 博師 宣教メッセージ

今日のメッセージの御言葉をお読みいたします。今朝は、ルカの福音書の23:27〜38をお開きださるようお願いいたします。新約聖書の153ページです。

ルカ
23:27 大ぜいの民衆やイエスのことを嘆き悲しむ女たちの群れが、イエスのあとについて行った。
23:28 しかしイエスは、女たちのほうに向いて、こう言われた。「エルサレムの娘たち。わたしのことで泣いてはいけない。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのことのために泣きなさい。
23:29 なぜなら人々が、『不妊の女、子を産んだことのない胎、飲ませたことのない乳房は、幸いだ。』と言う日が来るのですから。
23:30 そのとき、人々は山に向かって、『われわれの上に倒れかかってくれ。』と言い、丘に向かって、『われわれをおおってくれ。』と言い始めます。
23:31 彼らが生木にこのようなことをするのなら、枯れ木には、いったい、何が起こるでしょう。」
23:32 ほかにもふたりの犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために、引かれて行った。
23:33 「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。
23:34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。
23:35 民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」
23:36 兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出し、
23:37 「ユダヤ人の王なら、自分を救え。」と言った。
23:38 「これはユダヤ人の王。」と書いた札もイエスの頭上に掲げてあった。
はい、聖書は以上です。イエス様の祈りを見ております。祈りによる収穫と言うことであります。今日は最後でもありますが、6回になります。イエス様の祈りは権威があります。力があります。そして、又愛と憐れみに豊かに富んでおります。そのイエス様の1つ1つの祈り、その中でも、最も素晴らしい、そして、最も大事な祈り、それが、今日の所にあります。み言葉は、有名な所でありますけれども、23章の34節の所にあります。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」

この祈りですね。この祈りはイエス様の地上での、最後の祈り。もう1度今日は、この祈りに触れてみたいと思います。

「父よ。彼らをお赦しください。」実に短かい、そして、簡潔な祈りであります。でも、この祈りの中に実に豊かな内容があります。イエス様が彼らをお赦し下さい、とこう言われました。「彼らをお赦しください。」と彼らと、お赦し下さいの間に、何も挟まれていない。「彼らをお赦しください。」彼らの何々をお赦し下さい、何々だから赦して下さい、と言うそこに条件が付いていないと言うことであります。無条件で彼らを赦して下さい。何の例外もなく、彼らを赦して下さい。こうイエス様は祈られたのです。

この祈りの意味の深さ、そのことを、今日は考えて見たいと思います。まあ、私たちの祈り、私たちの赦し、を考えて見たいと思います。皆さん。私たちは人を無条件で赦すと言うことは、これは不可能ですね。果たして、出来るかなあ、と一寸思った人もいるかも知れません。けれども、不可能です。

私たちのは、どうしても、条件付きの赦しです。相手が謝ったら赦そう。相手が償いをしたら赦そうとかですよね。例えばある人との関係でもって、考えて見たら、自分側にも非があって、自分にも、反省すべき所、間違いがあったとしても、私たちは相手の非を許せない。

相対的に自分の非が大きくて、光っていれば、もう10の中9位の大きな非があって、相手の非は小さい非、相手の非は比較するならば小さい。だから、自分も確かに悪い、間違っている。でも、その小さな非をどうしても赦せない。私たちって、そう言う者かなあ、と思うんですよね。まあ、怪我をさせられたとか、事故に遭って被害者になった、と言うことを想定して見た時には、その怪我とか、その事故の費用。それを払うことは当然のこと。そして、更には精神的に受けた打撃。自分の仕事の打撃。将来の打撃。それはどんなに大きいか。そして、取れるだけ慰謝料を取らないと赦せない。私たちはそう言う者です。

私たちはそのようにして、赦すことの難しさがあると言うことに、こうして、立ち止まって考えて見た時、まして、イエス様の前に立って見た時に、イエス様との比較で考えて見た時に、私たちがどんなに赦せない者であるかが、よくよく明らかに分かると言うことですね。イエス様が無条件で「彼らをお赦しください。」とこう言っている。そして、皆さん。このイエス様が無条件で、「彼らをお赦しください。」とそう祈り、言葉を発している。その状況を考えて見たいのです。で皆さん。もう言うまでもない、これはイエス様が、多くの賛同者、支持者、あるいは又、このイエス様に信頼して、歩んでいるそう言う人達に囲まれている中で、こう言うことを言ったのではない。そうではないわけですね。

何と十字架上です。しかも、イエス様は、その十字架につけられる何の理由もないし、何1つ罪を持っていなかったし、犯していなかった。そのイエス様が不当な裁判に掛けられて、死刑の判決が下されて、そして、今処刑されようとして、40の鞭を打たれて、そして、釘付けにされて、頭から、手から、足から、血が流れて、肉体的にも、精神的にも、これ以上ないと言う、痛み、苦しみの絶頂の中に置かれている。しかも、その上、加えてここに、35節以下にありますが、

ルカ
23:35 民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」
23:36 兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出し、
23:37 「ユダヤ人の王なら、自分を救え。」と言った。
そのようにして、ありとあらゆる罵詈雑言を浴びせかけた。そう言うただ中です。その渦の中にあってイエス様は「父よ。彼らをお赦しください。無条件で、何の条件もつけないで、彼らをお赦しください。」お父さまよろしくお願いします。そう祈っておられる。ここにイエス様が全人類を赦す。

救いに導こうとしておられる祈りがまさに完成しようとしているのであります。更に私は思いました。この無条件の赦しの恵みの深さと申しましょうか、そのことを、どうして、そこまで、イエス様はそこまで赦せたのだろうか。どうして、そこまで祈れたのだろうか、と思いますけれども、でも、その恵みを又思わされたのですね。

皆さん。もし、ここでイエス様が条件付きで赦しをなさったとするならば、どうでしょうか。条件があって、ごくごく僅かだけれども、例外があって、救われない人も、この世界にはいるんだ、ともし言われたとしたら、皆さん。私たちは思いますね。いや、その例外の中に屹度私が入っているだろうな。そう言う思いに私たちは、なって行きがちですね。

更に極端に、この世界で、たった1人、例外があると、もしイエス様が言ったとしたならば、どうでしょうか、何十億の中のたった1人。でも何十億の中のたった1人と言う条件であったとしても、私たちは、もしそのような例外があるとするならば、それは、もしかしたら、自分かも知れない。たった1人の例外が私かも知れない。そう思ってしまうのが、これ又私達。

ですから、イエス様が無条件で、誰でも赦して下さる。その意味の深さを覚えるのであります。誰でもと言う中に初めて、この私もああ、含まれているんだなあ。この私を含めての全人類なのだなあ。それならば、ほっとする。それならば安心だ、そう思うのではないでしょうか。

「彼らをお赦しください。」イエス様が無条件の祈りをする中で、私たちは初めて、私たちの救いへの安堵感、そして、救いへの確信、救いへの自分自身をそこに向かわせようとする決断と行動が、初めて生まれてくる。ですから大切である。ですから、イエス様がここまでして下さった。と言う意味の深さを覚えます。そして、このことも覚えさせられます。もう1度34節に目を留めて見ます。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」こう言いました。「そして、彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。」とこう出てまいります。「彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」

私たちは実は誰もが、自分が何をしているのか、もっと言えば、自分が誰なのか、自分は本当にイエス様の福音に与る(あずかる)ような、そんな存在なのか。全く分からないんだ。イエス様はそう仰っていて、続いてその先に、もう1つ「彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。」とこう出てくるわけなんです。

この彼らと言うのは、誰でしょうか。これは、文脈から、兵隊達であると言うことが分かります。兵隊達、彼らは容赦なくキリストを十字架に釘付けにして、容赦なくドーンと、その穴に十字架を立てて、そして、1メートルか2メートルしかないその側に、打ち付けた釘跡から血が流れ、そして、あるいはさしたそのイバラの冠から、血が流れ、彼らの回りにはどれほど血が流れていたでしょうか。

その痛みと苦しみの、目の前にいるイエス様。血がダラダラと流れているその足元で、兵隊達は何をしていたか。イエスが着ていた縫い目のないその上着をくじ引きをして、それが誰の物になるか、とそう言っていた。愚かな馬鹿な何と言う兵隊達か。

でも良く考えて見た時に、この兵隊達はイエス様が目に入っていないのです。ましてや、この人が誰であるか、どんな人なのか。更にはこの人と私たちとが何の関係があるのか。この人は何でこんなことまでしているのか。「父よ。彼らをお赦しください。」と祈っているけれども、そんな言葉は、彼らには馬耳東風、何も彼らには留まっていない。愚か極まりない彼らの行動、彼らの心、彼らの状態でありますけれども、でももしかしたら、本当はあの兵隊の姿、それが私たちの姿。無関係な自分が誰だか分からない、私たちの姿がそうさせているであろうか。

そして、イエス様の赦しは、この兵隊達も例外ではないと言うことです。この兵隊達だけは例外だ。これはどうしようもない。これは滅びしかない。地獄に行くしかない、とは言ってはおられない。例外ではない。「父よ。彼らをお赦しください。あの兵隊達も赦して下さい。」あるいはイエス様の心の中には、あの兵隊達こそ、彼らこそ、赦してやって下さい。そんな熱い思いが、血が流れるよりも、熱いほとばしりがあったでしょうか。

皆さん。私たち1人1人に対するイエス様の、彼らを赦してやって下さい。池田博、月井博を赦してやって下さい。皆さん1人1人を赦してやって下さい、と言うその祈りは、ほとばしる血の流れる以上に、全身全霊から、ほとばしる血の汗が流れる程のとりなしの祈りである、と言うこと、それ以下ではない。イエス様の祈りの深さを改めて心に留めさせるのであります。

そして、最後に赦しと言う言葉についてであります。この赦しと言う言葉は、解放すると言う意味があると言うことであります。解放する、即ちそれは、彼らを縛っているものから解放する。そう言う意味があると言うことです。そのことを裏付ける3つのみ言葉を見たいと思います。先ず第1に、ローマ人への手紙の8章1〜2節です。

ローマ
8:1 こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。
8:2 なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。
とあります。ここにあるものは罪からの解放と言うことです。私たちは先程言いましたように、自分のたとえ大きな石があっても、相手の小さな石を赦せない。私たちはどうしても、条件付きです。裁いてしまいやすい者、そう言う私たちの罪があります。文字通りの罪があります。一杯の罪があります。でも、その罪、その原理から、私たちを縛るものから、私たちを解放して下さる。そう言う意味があると言うことであります。イエス様の赦しは、そう言う豊かな内容があると言うことであります。

そして、2番目。それは第2テモテ1章の10節であります。

第2テモテ
1:10 それが今、私たちの救い主キリスト・イエスの現われによって明らかにされたのです。キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました。
とこうあります。キリストは死を滅ぼし、とこうあります。即ち、赦しと言う中には、イエス様は私たちを死の側、死の縛りから解放します。死の恐れから解放します、と言う意味があると言うこと。素晴らしいことです。死でなく、いのち。そして、力、永遠のいのち、天国への道が開かれると言うことであります。

最後に、もう1カ所。ヘブル人への手紙の2章であります。14〜15節の所であります。

ヘブル
2:14 そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、
2:15 一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。
とあります。それは、悪魔と言う死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯、死の恐怖に繋がれ、奴隷となっている人々を解放して下さるためです、とあります。それは悪魔と言う死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖に繋がれて、奴隷となっている人々を解放して下さるためである、とあります。

私たちは悪の縄目に縛られる者です。この世の様々なものによって縛られる者です。でも、その一切から解放して下さる。皆さん。イエス様の十字架、それは私たちの罪からの解放、罪の律法からの解放、そして、死と言う誰も避けられない死からも解放し、いのちの希望を与えて下さる。私たちの見えない世の諸々の悪の霊の縛りから解放させる。ハレルヤ ! 主はそのようにして、私たちをあらゆる悩みから解放して下さいます。

「父よ。彼らをお赦しください。彼らを無条件で赦してやって下さい。」私は彼らを無条件の愛で、愛するからです。」ですから彼らは、私の愛の対象ですから、愛されなければならない人ですから、大切な人ですから、彼らを赦してやって下さい。この無条件の愛、今日私はもう1度心の中に深く留めたい。その無条件の愛を一杯頂いて、私たちも近い所から、身近な所から、あなたの隣人、あなたに赦せない人がいるでしょうか。あなたが心を縛っているものがあるでしょうか。あなたを閉じこめているものがあるでしょうか。

でも、その人達から主は解放して下さいます。赦して下さいます。そして、素晴らしい、いのちの福音によって、私たちを喜びに、希望に満たして下さいます。その主を見上げたいのであります。


お祈りを致します。
天のお父さま感謝致します。
「父よ。彼らをお赦しください。」
あなたは、この地上の最後において、あの十字架の苦しみと痛みの絶頂の中で、罵詈雑言が浴びせられるそのただ中で、あなたは、「父よ。彼らをお赦しください。何としても、赦して彼らを救って頂きたいのです。」とそう祈られました。
主よ感謝します。
私たちの希望があります。
私たちの、いのちの希望が与えられております。
感謝します。
どうぞ、今日御前にある、この希望、この喜びを豊かに与えて下さい。
尊いイエスキリストの御名によってお祈り致します。
アーメン!