2002年7月7日 主日礼拝 
ルカ15:11〜20

「父親は彼を見つけた」

池田 博師 宣教メッセージ

今日のメッセージのみ言葉をお読み致します。今朝はルカ15:25〜32をお開き下さるようにお願い致します。新約聖書の135ページです。

ルカ
15:25 ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえて来た。それで、
15:26 しもべのひとりを呼んで、これはいったい何事かと尋ねると、
15:27 しもべは言った。『弟さんがお帰りになったのです。無事な姿をお迎えしたというので、おとうさんが、肥えた子牛をほふらせなさったのです。』
15:28 すると、兄はおこって、家にはいろうともしなかった。それで、父が出て来て、いろいろなだめてみた。
15:29 しかし兄は父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、私はおとうさんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。
15:30 それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。』
15:31 父は彼に言った。『おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。
15:32 だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』」
はい、聖書は以上であります。先週に続きまして「放蕩息子」の話であります。

イエス様はこのたとえ話を何故か、先週のお話で終わらせていない。正確に言いますと24節「 この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。」そして彼らは祝宴を始めた。」これでThe end 終わりという字幕と言うのが出て良いのではないかと、そう思いませんか。

そして、その中に先週見ましたように、私たちは失われた人としての人間の姿、私たちの姿、罪人の姿、私たちの心の荒んだ姿が、そこに映し出される。そして、一部は、これは放蕩息子の姿以上に、父のお話、愛のある父のお話であると言うことであります。

ところがイエス様は、何故かそのお話を24節を以て終わらせないで、25節から又別の方向へ話しを展開して行くわけです。「ところで」と言う所でもっで何か第2幕に移って行く。そう言う展開であります。

しかも、その展開は、第1幕をより、盛り上げて行くと言うのか、より素晴らしいものにする力で話が展開するのかなあ、と思ったら、そうではない。何か思い掛けない方向へと言ったらいいでしょうか。全然違った形、何か水を差すかのような形で、そう言う形で話が移って行くわけであります。

で、この兄は25節を読んで見ますと、「15:25 ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえて来た。それで、15:26 しもべのひとりを呼んで、これはいったい何事かと尋ねると、15:27 しもべは言った。『弟さんがお帰りになったのです。無事な姿をお迎えしたというので、おとうさんが、肥えた子牛をほふらせなさったのです。』」

まあ、こう言う報告をしもべから聞いたわけです。その報告を聞いた時に、兄息子はどう反応したか。で、28節に「すると、兄はおこって、家にはいろうともしなかった。」

とこうあるんです。ここに、思い掛けない話の方向がずれてしまったと言ったらいいのでしょうかねえ。まあ、思わない方向に話が進んで行くわけですね。兄息子は、兎に角、血を分けた弟、たった2人しかいない兄弟、大切な弟息子が帰って来たんだ。だから、先ずは喜んでいいではないか。そうである筈だ。ところが兄はそうは、いかなかった。そう言う受け止め方はしていない。音楽がきこえ、踊りをしているその様子を見た時に、兄息子は、怒って家にはいろうともしない。イエス様はどうしてこう言う話に、もって行ったのだろうか。

何故こう言う兄を登場させるのだろうかなあと、思うんです。皆さんはここを何度も読まれたと思うし、ご自分でも考えたことがあるかと思いますが、どうでしょうか、この朝改めて、この兄の登場、そして、この兄の向き合い方、それをどう感じるか。私も改めてこの兄の立場と言うものを、まあ、立ち止まってと言いましょうか、置き換えて兄の気持になって見た時に、矢っ張り兄の気持が段々分かって来た。そして、兄の取った態度は、これは無理からぬこと、これは当然じゃないだろうかと、又思える気がした。兄は畑から帰って来た。日が暮れる迄、遅く迄、一生懸命働いた。汗水流して、1日の労働を一切出し切って帰って来た。所が帰って来たらドンチャン騒ぎの宴会が開かれているではないか。

しかも、そこには放蕩三昧をして、まったく身勝手のことをやって来た、弟息子が帰って来たと言うことで、父親が大盤振る舞いをしていると言うその姿をパッと見たならいや、これは兄ならずとも私たちは怒って家にはいらない、と言うのは分かるなあと、何故そのことを前もって知らせてくれなかったのか、もう少し迎えるのにも、迎え方があるのではないだろうか。

弟を迎えるのであるから、もう少し違った迎え方があるのではないだろうか。色々考えさせられる所かなあ、と思います。ですから、兄故の後ろめたい思いが心の中に移って行く、そして、分かる、と言うようなそんな思いになったことでもありました。29節に目を留めてみたいのです。しかし兄は父にこう言うんですね。『ご覧なさい。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。』」こう言う兄の言葉ですね。

この兄の言葉に改めて、この兄の人となり、といいましょうか、この兄の姿が浮き彫りにされて来る、と言う感じが致します。ご覧なさい。「長年の間、私はお父さんに仕え。」この仕えるという言葉も、これも、唯奉仕の仕えではなくして、奴隷として仕えた、と言う強い意味があると、言う言葉だそうです。ですから、徹底して奴隷の如く仕えて来た兄。「戒めを破ったことは一度もありません。」と言う程に、親に忠実に仕えて来た兄です。その兄です。ですから、その兄が感じるその心は、まあ、それであればもう当然だな、と思えるようなそう言う所であります。

でも、後半に少し目を留めてみたいのです。後半に、こう言うのですね。「その私、真面目一方に生きて来たその私には、友達と楽しめと言って、小山羊一匹くださったことがありません。」こう言う言い方をしているのです。この言い方に、とても、心留まり、引っかかり、立ち止まらせられますね。

この表現の中に、先ず直感的に感じることは、この兄の中には、言うならば、親の愛情に包まれている、と言う、そう言う雰囲気は伝わりませんね。一杯一杯愛情が注がれている。そう言う中での兄の言葉とは思えない。そこには、父との間に大切な、親子の愛の絆と言うものが、ないとは言えないかもしれないけれども、しっかりと結ばれているとは思えない。むしろ、そうでない故の不安が、何か吹き出ているような、そう言うふうに感じる所であります。で、改めてイエス様は何故そう言う兄を登場させたのか。そう言う兄の姿に方向転換させて行ったのか。皆さん。ここには、1つには先ず、イエス様はその兄の姿の中に、当時のパリサイ人を想定していた。それが言われる所であります。それを感じる所です。

そして、私たちに当てはめて見るならば、皆さん大変大事な所ですね。私に当てはめた時に、私を兄とした時に、私たちも兄のように真面目に生きて来た。兄のように正しい生き方をして来た。でそれ自体は大切であって、それ自体は本来あることでありましょう。

でも、同時に、その真面目さとか、正しさと言う時に、その真面目さか正しさが持っている、その枠と言いましょうか、物差しと言いましょうか、その計り。どうしても、それで人を見、社会を見、現象を計ると言うことになりがち。ですから、今度は30節に目を移して見ます。「それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。」とこう言いますよね。当然だ。当たり前だ。何となく分かってしまうような、でも、同時に、兄の真面目さとか、正しさと言うもので見たときに、そこには、「遊女に溺れてあなたの身代を食いつぶした」

と言うそう言う表現で作ってしまって、その弟息子が帰って来たとか、その弟息子が本来どう言う人間である筈である、と言うことには目を留めようとしないで、したこと、やってしまったこと、外れたこと、当てはまらないこと、それ故に、そこには、その人自身を最早受け付けないで、更には裁き、断罪しまっている。この兄の姿。イエス様が敢えてここに兄を登場させて、その兄を通して、もう1つ私たちに語ろうとしていることの深い意味を感じないではいられないわけであります。

そして、皆さん。この兄の姿、それはクリスチャンの姿。この兄の姿、牧師の姿。そう思うのです。兄は父と共にいました。父の側にいました。即ち神様の側にいる存在です。改めて、その兄の何が問題なのか。そこをもう1度掘り下げたいのでありますけれども、先ず第1のこと、それは弟に対することですが。それは今迄既に触れて来たことでもありますけれども、要するに、弟に対して行動そのものを受け入れていない。やったことを受け入れていない。やったことを裁いていると言う。そこにあって、そして、それが結果的に弟自身を閉め出している。私たちもしばしば人を見ると言う時に、何か表面を見て、第1印象で、その人を全部見てしまう。

新聞に、この前、「日本選手はWカップで大活躍したのですけれども、でも頂けない。髪を真っ赤に染めて、鶏のとさかみたいでね、あんなの受け入れられない。何だあれは、あの若者は、そう言うふうにして、日本選手はWカップで大活躍したのですけれども、でも赤い髪の故に受け付けない。」でも、それって笑ってやり過ごせないのかなあ。とねえ、私たちもしばしば、その人の取ったたった1つの行動や、たった1つの言葉や、そして、髪の形や色や服装や、そう言う表面、そして、中味も全部もそれであるかのようにしてしまって、その人を受け付けなくなってしまう。

それは自分は真面目に生きている、あるいは真面目に生きようとしている。正しいことは何であるか、をしっかり心の中に入っているこそ、本当は実はもっと大事な、その人の本質が何であることへの、私のそう言う視点を持てなくなってしまう、私たちの姿を、この兄の中にイエス様はきちんと指摘しょうとしておられる。ですから、兄は側にいながら、共にいながら、でも、弟息子が、父から離れて、神から離れて、遠い所に行ってしまった。そして、失われてしまった。それと同じように、側にいながら、神を知りながら、神を仰ぎながら、でも、離れていた。でも、私には何1つしてくれなかったではないか、と言って、実は失われたもう1人の放蕩息子に過ぎなかった。

そして、しばしば私たちはそう言うものになってしまい易いものであることを、思わせられるわけであります。この兄はもう1つ大きな問題をここに提示します。それは父への態度です。父に取った態度であります。

ここに父が弟息子を一方的に迎え入れている。それ自体が、気に入らないと言えば、感情的なことですが、でも、聞いた所によれば、弟息子は、「15:19 もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』」と言ったと言うではないですか。それは、当然です。弟息子は少なくとも息子などと呼ばれる資格はないのだから、雇い人の1人として、そこにおいて、そして、やったことの報い、それをきちっと、ここでお仕置きをして、同じことを2度と繰り返すことのないように、徹底すべきだ。絶対赦すべきではない。それなのに、何故甘いのか、何でそのまままるごと受け入れてしまうのか。考えられない。父への兄の目です。父を裁く目です。父を糾弾する目です。でも、皆さん。それもよく考えると分かってしまう。

そこまで、成り下がってしまった弟をやっぱり、厳しくしないではならないだろうなあ、とそう思うのであります。ですから、なにか、こう兄の心が九分九厘、何かそこに共鳴してしまう自分がそこにいるかなあ。これは父の物語、兄の物語であると言う、視点を置き換えて見る時に、そこに見えて来るものがあります。

まず28節の後半の所です。「すると、兄はおこって、家にはいろうともしなかった。

それで、父が出て来て、いろいろなだめてみた。」「父が出て来て、いろいろなだめてみた。」とこうあるのです。「兄はおこって、家にはいろうともしなかった。」その兄の心を父はよくよく知ったでありましょうし、知り尽くしたのでありましょう。その兄を入らないのだから、もういい。ほっときなさい。さめたら、入るだろう。彼は彼だ。父はそう言わなかった。そう言わないで出ていって訪ねている。これは全くあの弟息子が帰って来るのをじっと見ていて、そして、見えた時に、こちらから、走り寄った、それと同じ眼差し、同じ愛の行動。

ここに父の兄への愛のほとばしりを見ます。そして、更に大切なことを言います。それは31節「 父は彼に言った。『おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。』父はこう言いました。兄は父の態度に殆ど愛を感じられないで、「私には友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。」と言っているこの兄。でも父は言いました。「私のものはぜんぶお前のものだ。」と。そこには、どれだけの愛と憐れみが注がれていたことでありましょうか。

でも、私たちが、自分の正しさや、自分の物差し、自分のあるいは経験や性格まででしょうか。私たちはこう言うものだと言ってしまった時に、そのこう言うものだと言う物差しで、神様すら測ってしまって、そして、神様は私に小山羊一匹すらくれなかったではないか。

色んな話を聞く時に、私は心の中でひがんでしまう。何でわたしにはこんなこと。どうして私には恵みはないのでしょう。神様は私を見放しているのでしょうか。どこかにこんな呟きを持ってしまう私たち。でも主は言われます。「私のものはぜんぶお前のものだ。」と。神様、今日も、この心、この愛、御子を惜しまず与えて下さった神様です。御子を十字架迄つけて下さった神様です。

どうして、それ以外の全てのものを神様が与えて下さらない筈があるでしょうか。あなたの必要に助けを下さらない筈があるでしょうか。溢れるばかりの恵みを与えて下さらない筈があるでしょうか。主の愛はこの兄の中にどんなに注がれているか。そして、今日私たちの中に同じように注がれていることを、深く心に留めて、主に感謝することのできるものに変えて頂きたいのであります。


お祈りを致します。
愛する天のお父さま、感謝いたします。
今日もう1度私たちはイエス様のお話の中に、大切なもう1つの真理を語って下さいました。
放蕩息子の姿が自分の姿であると共に、兄息子の姿が又自分の姿。
そして、それは心の深い所にあって、自分の中でしっかりと生き続けている姿。イエス様はそれを見て下さって、そこにも、変わらない同じ愛が注がれていることを共に見ました。
主よどうぞ1人1人の中に届いて下さい。
尊いイエスキリストの御名によってお祈り致します。
アーメン!