2002年7月14日 主日礼拝式
“Tヨハネ” 4章19節

「“いのち、希望”」

“木島 正敏師” 宣教メッセージ

おはようございます。今ありましたように、今日は”いのち、希望”という題でメッセージをさせて頂きます。と言いますのは、毎月第2日曜日には特別の礼拝を用意しておりますが、この月、特にS.Fさん親子とK.Mさんにあかしをお願いした時に、登喜子先生と、この3人には、本当に共通するものが有るなという印象を受けました。

それは、この3人ともいのちと死という大問題にかっても、今も直面し、そこでイエス・キリストに出会って、その大きな問題を信仰によって乗り越えた方々だからです。今日、皆さんがご自分の目で確かめ、肌で感じておられるように、この3人から喜びが溢れております。神様はこの大きな問題を乗り越える力をもって、私たちに祝福を下さる方です。

登喜子先生の体験を記した印刷物がありますが、皆さんお受け取りになっているでしょうか。まだの方は是非受付にありますので受け取ってお帰り下さい。特に悲しい事ですが、今のこの満ち足りている時代に、そうであるはずなのに、私はモンゴルから帰ってきて、この満ち足りた日本で人々があえいでいるなと感じます。

それは、生きている意味が判らない、この生かされているいのちが重荷である、そういう意味合いのうめきがよく耳に達するのです。老いも若きも、なんで生きていなければいけないのか、生きる意味が判らない、そういう辛い暗いうめきをよく耳にいたします。

何を隠そう、私自身がイエス・キリストに出会う前に、そのような袋小路に落ちいっていました。「もう、辛い。」「何故頑張らなければならないのか。」「何故意味もない人生を切り開くために、自分が努力しなければならないのか。」その暗闇に落ちいって最も辛く暗い一瞬がありましたが、まさにその日に私の傍に居た友人がイエス・キリストを信じて喜んで帰ってきました。

そして、彼の顔に輝いている光を見たときに、私は「いや、違うものがある。」この死からいのちへと移っていく力を感じて、私はいのちへと導かれていきました。30年前のことです。

今日はこの救い主を信じて、生きる力、生きる意味を見出して、輝いていった人々の一人を通して顕れた神様の業を見てみたいと思います。ここに一冊の本があります。[死の谷を過ぎて・クワイ河収容所]というタイトルの本です。この3月に私たちの教会にイギリスから旧日本軍の戦争捕虜になっておられた人々が来られて、まさにこの場所で私たちは一緒に和解礼拝という心温まる礼拝をしました。

この本を書かれたアーネスト・ゴートンという人も、その日本軍の捕虜の一人でした。ここには来られませんでしたが。彼は1916年スコットランドに生まれました。大学生の時に第2次世界大戦が始まって、志願をして陸軍に入りました。それ以前に軍歴があったために、大尉に任命されて、陸軍大尉として東南アジアに派遣されました。

シンガポール陥落の時に脱出に失敗して日本軍の捕虜となって、あのクワイ河マーチの映画で有名になったクワイ河沿いのジャングルの中に点在する捕虜収容所に送られ、地獄の泰緬鉄道の建設現場で強制労働に追い立てられました。

乏しい食料で飢餓線上にいつもありましたが、飢餓と重労働の日々の中で、なんとマラリア、脚気そして熱帯性潰瘍、ジフテリア、赤痢5つの大きな病気にいっぺんに見舞われて衰弱しきって、死の家と捕虜達が恐れ呼んでいた小屋に送られる事になりました。

死の家といっても、それはジャングルを切り開いた収容所竹の薮を更に切り開いて、そこに建てられた掘っ立て小屋です。そこは、どんなに鞭を叩いても強制労働に動員出来ない、日本兵が無駄と思った人々を置いておく所、そして死んでいった人々をそのまま荷物のように積み重ねて置くその場所なのです。

彼はもう労働する事も出来ず、食べ物を与えると外の捕虜達の食料がその分へってしまうという事で、そこに運ばれていって、放置された。そういう、ぎりぎりのところに居りました。湿った熱帯の地面に横たわって、ただ死を待っていました。その待っている間も、一日におよそ20の死体が丸太のようにそこに運び込んでこられる。そんな場所でした。

麻袋に入れられた幾つもの死体が傍にあり、死臭を放つ。その場所で彼はじわじわとやって来る死に、もう戦う気力もなく、その場所で何日も何日もただ一人で横たわっていたのです。これは日本軍が引き起こした、一人の人、また捕虜たちになした残虐な行為の結果です。絶望の淵にこの人は居りました。

しかし、その暗闇に素晴らしい奇蹟が起こっていた。どうしてこんな事がありえるのかという、ぎりぎりの死の淵にありながら、そこから小さな光が差し込んで、素晴らしい業が始まっていきました。その光は著者ゴードンを立たせたばかりではない。やがて、収容所全体を生き返らせて、そこにいた全ての捕虜達の人生を180度転換させていった。そういう、驚くべきことが起こっていきます。

その奇蹟はたった一人の弱弱しい青年の奉仕から始まっていきました。この青年自身も病に侵されて重労働から開放され、軽い作業が与えられ、あまった時間をゴードンの介抱のために用いるようになりました。同じ捕虜でしたが、或る日この死の家にあったゴードンを訪ねていきました。その場所があまりにもひどいので、2〜3人の仲間と一緒に一寸場所を数メートル動かして、自分達で竹を切ってきて、彼のためにベッドを作ってやりました。

その体を洗い、熱帯性潰瘍の治療を始めていきます。毎日手に入る限りの僅かな食料を持ってきて、彼にあてがい、傷の手当てを来る日も来る日も続けておりました。今からお読みするのはその二人の係わり合いの中からゴードンの心の中に興った大きな変化を記した部分です。


ある晩、彼と私とは巡回収容所に居る事が如何に恐るべき人生の浪費かという事を考え合っていた。私は丁度その時、彼をテストしてみようと思った。彼は私の熱帯性潰瘍に新しく薬をつけてくれていた。「ダスティー、君は知っているかい。毎日20人以上がここでは死んでいって、ほとんどが未だ若いのだ。」と私が言った。

彼との議論がやりやすいように私は腰を引き上げて背を起した。「そういう訳だから、ここの状況のように希望のない立場に立たされた者にとって、ここはどんな意味も全く存在しないという事が益々はっきりしてくる。そうではないか。いいかい、事実を検討すると生き続けていくということに意味を認めるのは実に困難にならないか。」

ダスティーはそれまでついていた膝をつと伸ばして立ち上がった。たらいを邪魔にならないところに動かすと、私を見詰めた。その目には悲しげな驚きの色があった。「私にはあなたの言われる事が良く判りませんが、生きている事には意味がたくさんあるように思います。」

ダスティーは今まで落ち着きを失った事はなかった。だが彼とて、私同様いろいろな事に懐疑を持っているに違いない。そう私は思えた。私のテストは続く。更に議論を厳しく進めてみた。

「簡単な事だ。私の言う事はただ我々の生きている問題を検討すれば1つのことにしか行き着かないということだけだ。我々人間は地上に存在し、自然の作用によって死ぬ運命に定められているという事を認めること、そこにしか行き着かない。皆誰でも直面しなければならないのがその定めではないのかな。」

[直面しなければならない事はそれだけでは有りません。必ず、それよりももっと有ります。」そう穏やかに答えながらダスティーは手にしたぼろきれを自ら出して絞った。「どうしたって、人生にはそれ以上のものが有りますよ。」

私は更にこう言った。「私たちは愛とか真実とか美、それに遥かな目標などを夢見るが、それは慰めのためだ。自分自身の気晴らしのためなんだ。存在の苦痛を鈍らせるためのものだ。事実、私たちに出来る事は夢見る事ぐらいのものだ。実際、愛とか真実とかは波に浮かぶ泡みたいなものに過ぎない。」

私は自分の論法に熱を入れて、ぐいぐいと攻撃をしだした。「宗教とはなんだ。芸術とはなんだ。たかが蓄音機のレコード盤のようなものではないか。世界中の人間の苦悶の叫びを消すためにかけるレコードの音ではないか。そりゃー勿論、人間の感覚を麻痺させるには役立ってはくれる。しかしそれなら、なにも宗教とか芸術でなくても良い。麻薬だってそれくらいの事はしてくれるさ。」

ダスティーは途方に暮れたような顔をしていた。「いえ、違います。私はそんなことは信じられません。」と彼が答えた。語調を強めていた。「私たち人間が生まれたということには、偶然だけで、外に理由が何もないと私は考えません。神が私たち人間をご存知です。神は雀一羽ずつを、私たちの髪の毛一本いっぽんを知っておられるのです。私たちのために、神は目的をもっておられるのです。」

私は彼の顔をまじまじと見ていました。「君はそう信じているのかい。」と私が言った。「勿論です。」と彼には確信があった。「それなら尋ねるが、どうして神がなにもしないんだ。どうして沈黙したままなのだ。天国とかいう、有りもしない処にいて、大きな白い雲の玉座に鎮座ましましているだけで、どうしてなにもしないんだ。」

ダスティーはしばらく考えていた。それからこう言った。「きっと何か、今もきっと何かなさっているのです。でも今なさっておられることの全部が私たちには見えないのです。きっと視界が限られていて、良く見えないんです。『私たちは今鏡にぼんやり映るものを見ています。』とあるとおりです。でも、いつかははっきり見えて、判るようになるだろうと思います。

いのちは死よりも強いと信じて、生き続けていかなければ、希望を持ちつづけなければいけません。神だけがいのちを与える事が出来るのです。人間はそれを受け入れなければならない。それに毎日新しくうけているのです。」彼は口篭もった。記憶の中からふと消えてしまったことば、或いは考えを探し出そうとしているようであった。

(ちょっと飛ばしていきますが)翌日ダスティーが戻ってきて満面に喜びの色を浮かべてこう言った。「やっと見つけました。」「見つけたって何を。」と私が尋ねた。「捜していた聖書の文句です。ゆうべ、私たちが話していた事が要約されているような個所です。ここです。さー、お読みしましょう。 彼は持ってきた聖書の新約聖書のあたりを開いた。それはヨハネの手紙であった。彼は声をあげてヨハネ 第Tの手紙 4章18節 からを朗読した。

“T ヨハネ”
4:18 愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。
4:19 私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。
4:20 神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。
4:21 神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。

私は寝台に仰向けになったまま、読まれたことばについて考えていた。それらのことばには真実の力があった。ダスティーと仲間のリッチの二人がそれを実証して見せてくれていた。生まれてから初めてのことだった。初めて私は解ったと思った。ダスティー、リッチの二人、確かに信仰が彼らの人格の上に特別な影響を与え、特別な品位を与えていた。

彼らの個性を通じて、彼らの行動が、彼ら以上に大きな力がある存在を顕しだしていた。人生とは全く無限に複雑である。そして、それがために、何処までも素晴らしいものである。それを私は未だ理解していなかった。今、私のそれまでの思いが如何に限界のあるものであったかということが解りだしていた。

勿論、確かにこの世には憎しみもある。しかし愛もあるのだ。死がある。だが同時にいのちもある。神は私たちを捨ててはいなかった。ここには愛がある。神は私たちと共にいる。愛の結びつきの中で、神の蔵にふさわしい人生を生きようと私たちに呼びかけている神が確かに存在しているのである。私はクワイ河流域の死の収容所の中に神が生きて、自ら働いて、奇蹟を起しつつあるのをこの目に感じていた。死の陰にいた魂が神の愛に出会って、いのちを見出しました。


ゴードンは次第に強められていって、収容所の中では、神を礼拝する群れが興りました。収容所の裏の竹薮を切り開いて、そこを礼拝場所として、人々が集うようになりました。更にありあわせの材料を用いて切断された足のために義足を作ったり、死の家に放って置かれている病人を介抱して、傷を洗って助け合う、そのような働きが収容所中に広がっていきました。

皆、神様の愛に触れられて、変えられていきました。彼は生き長らえ、戦後イギリスに戻り、それからアメリカに渡って、後にはプリンストン大学で学生達のための牧師になります。この奇蹟をどう説明できるでしょうか。彼は愛を見出しました。その愛に彼は生かされました。そして聖書はその人を活かす愛の原点、出発点を指し示しておりました。

神が先ず私たちを愛して下さって、更にその愛がどのような愛か聖書はこう説きあかしています。神はそのひとり子を世につかわし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。ここに神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のためになだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

神様の愛はイエス・キリストを通して具体的に顕されました。十字架に付けられた御子イエス・キリスト、この方が神から離れ、その結果罪と絶望に陥っている私の罪とその絶望をご自身十字架に担ってくださったのです。この愛に目が開かれる一瞬、これを見逃していただきたくないのです。この愛に心が震える時、そこが転機です。そして、この愛に期待を自分を賭けていくときに、とことん、何処までも私は愛されている、その事が判ります。

神の愛を受けた者にとって、この人生は意味のない出来事はひとつもない。そこには深い神の愛の配慮が判ってくる。今日その促しを皆さんは受けておられるのではないでしょうか。


お祈りを致します。
私たちが神を愛したのではなく、神が私を愛し、私たちの罪のためになだめの供え物として、この御子を遣わされた。これが愛、ここに愛があるのです。

全ての原点に示されているのは呪いではない、空ではない、悪ではない。全ての出発点に御子によって顕された神の愛がある。主よ、私の目を開いて下さい。真っ直ぐにこれを受け止めることが出来るように、心の目を開いて下さい。心に幾重にも幾重にもかかっている覆いを開いて下さい。

進みだして、そしてこの愛に触れることが出来ますように。あなたに呼ばわります。応えてください。

尊いイエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン!