2002年7月21日 主日礼拝式
“ルカの福音書” 15章1〜7節

「“ひとりを捜す主”」

“池田博” 宣教メッセージ

今朝のメッセージのみ言葉をお読み致します。今朝は ルカの福音書15章1節から7節 です。新約聖書の133ページになります。

“ルカ”
15:1 さて、取税人、罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとして、みもとに近寄って来た。
15:2 すると、パリサイ人、律法学者たちは、つぶやいてこう言った。
「この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。」
15:3 そこでイエスは、彼らにこのようなたとえを話された。
15:4 「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。
15:5 見つけたら、大喜びでその羊をかついで、
15:6 帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。
15:7 あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。

聖書は以上です。イエス様は例え話の達人、エキスパート、名人でもあると言えると思います。これまで2回は放蕩息子の話をみました。放蕩息子の話と一緒に、イエス様は、この同じ章の中に3つの例え話をなさっています。

その最初のお話が、この「失われた羊」、「一匹の羊」の話です。ここは有名ですから、いろいろな先生がよくここから語られます。今日はまた、少し違った角度から見てみたいと思います。まず最初に1節、2節に目を留めてみます。

“ルカ”
15:1 さて、取税人、罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとして、みもとに近寄って来た。
15:2 すると、パリサイ人。律法学者たちは、つぶやいてこう言った。
「この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。」

とあります。イエス様のもとに話を聞こうとして集まって来た人たちは、どういう人たちかというと、「取税人、罪人たち」とあります。即ち、当時の最もみんなから相手にされない、はじきだされた人々が集まってきたとあります。イエス様のもとにこういう人が集まってきたのです。不思議な気がします。

集まって来た人を見た時に、今度はその近くに律法学者、パリサイ人がいました。すると、彼らは、つぶやいて、「この人は、罪人たちを受け入れて食事まで一緒にする。」とこう言うのです。この短い言葉の中に、パリサイ人、律法学者と言われる人たちの、考え方、人柄がよく分かると思います。

当時、指導者層と言われる人たち、人々から立派な人たちと言われている人たち、でもその立派な人たちが、何と取税人、罪人たちに対して、「罪人たちを受け入れて、食事まで一緒にしている」と、こういう言い方をしているわけです。

そこには軽蔑のまなざしがあり、見下しているわけです。ともすると高潔な人にありがちかと思います。そうでない人たちに対して、鼻からそれを受け入れない、認めないという姿勢は、私たちもありがちであると思います。

その様子を見ていたイエス様が、パリサイ人に一喝してもいいのではないかと思わないでもないのですが、そうはなさらないのです。見下しているパリサイ人に対して、イエス様はここでは目を留めてはおられないのです。

イエス様の目は、ここでは、取税人、罪人たちに向けられているのです。イエス様のもとに寄ってきた人たちに、目を留めているわけです。そこに1点、集中していると思います。そして話し出されたのは、4節以下のお話です。4節だけ見てみます。

“ルカ”
15:4 あなたがたのうちに羊を持っている人がいて、そのうちの1匹をなくしたら、その人は99匹を野原に残して、いなくなった1匹を見つけるまで捜して歩かないでしょうか。

こういう語り出しです。イエス様の例えのお話、大事なことがそこに言われていると思います。イエス様はここで、羊という動物を登場させています。イスラエルにとって羊というのはとても大切な動物だということです。

イスラエルに行ってみても分かります。一般的に私たちは、オーストラリアやニュージーランドという大きな国で、何千、何万頭という羊を、シェパードが守り導くことを想像しますが、イスラエルではそうではないのです。

私も何度かイスラエルに行ったのですが、羊は本当に少ないのです。1人の羊飼いが導いている羊は何十頭、百頭以上の羊を導いているのを、私は見たことがありません。それはイスラエルという国が、一部は肥沃ですが、殆どは荒れ地ですから、牧草がそんなにないのです。そのために、わずかな牧草で養える羊は限られているということです。

ですから羊がどんなに大事かということであります。また、イスラエルと羊というのは自分たちを指していて、イスラエルの民そのものが神の羊、という風に言われています。その羊を例に出しているわけです。

百匹の中のその1匹がいなくなったということです。これをどのように見るかということですが、今日の週報のワンポイントの箇所に私はこういう風に書きました。ちょっと読んでみます。タイトルは「ひとりを捜す主」と致しました。

「百匹の中の1匹、しかも勝手に逃げ出した1匹、役に立たない、いなくなっても損にならない一匹、そういう時、私たちはどうしても1匹の値打ちは100分の1以下、ないに等しい価値しかないとします。しかしキリストはそんな1匹を必死に捜すのです。」

このように書かせて頂きました。これはドライな目、シビアーな目で見たことでもありますが、イエス様が1匹の羊を見る目と、私たちが失われた1匹の羊というものを判断する目のその違い、その差を、黙想する中で教えられました。4節の半ば頃までを見てみますと、

“ルカ”
15:4 あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの1匹をなくしたら、その人は…

と続いていきます。百匹の内の1匹がいなくなったという設定であります。イエス様はその1匹に目を留めているわけです。そのイエス様の目の留め方が大事かなと教えられます。

ここに、百匹いる中から、一杯いる中から1匹いなくなったという時に、その1匹は、「やっぱりあれだ。あの羊だ。いつもチョコチョコしていて、いつもわがままで、自分勝手に行動しているあれだ。」とそう思いがちです。だから、「まあ、いなくなったっていいか。」と判断してしまいやすいと思います。

そして、そういう目というのは、実は私たちの置かれている環境、私たちの置かれている教会の中でもあるのではないでしょうか?100人の会員がいるとしますと、その中で1人の人が離れたでしょうか?失われたでしょうか?そしてその方が、或いは何かに失敗したでしょうか?行き詰まったでしょうか?あるいは罪を犯してしまったでしょうか?そうなった時、私たちはどうそれを見るかです。

「ああ、あの人はいずれ何かやるんじゃないかなと、そう思ってましたよ。やっぱりそうでした。前々から薄々そう感じないでもなかったんですが、やはりそうでしたか。」そのような反応をどこかで私たちはしないでしょうか?

「え!まさか!どうして?どうしてそんなことがあるの?」と驚きの目をもって、そしてその瞬間からその失われた人への私たちの目は厳しく、私たちの目は裁きやすく、私たちの目は切り捨てやすいのではないでしょうか?

イエス様はここで、「百匹持っている人がいて、そのうちの1匹をなくしたら」と、こう言っています。あるいはこの1匹は、先に触れたように、チョコマカしていて、我ままで、心配ばかりかけいてと、そういう1匹であったかもしれないのですが、でもイエス様はそういう形容をしていないのです。「元々だめな羊であったが」「どうしようもない羊だったが」という風なことをイエス様は、そのいなくなった羊には形容していないのです。

百匹の内の1匹、それは百匹と同等の1匹、何ら変わらない1匹、大切な1匹、みんな大切で、そしてその1匹も大切な、同じ様にいなくなってはならない大切な1匹。イエス様の目はそういう目です。イエス様は公平で、公正で、一人一人を大切にしておられるのです。

でも私たちはどこかで、その人がいなくなったりすると、「ああ、やっぱりね、あの人は。」。声には出さなくても、心のどこかで、私たちはそういう差別や裁き、見下しや身限りをしてしまいやすいのではないでしょうか?

私は黙想していく中に、その内の1匹をなくしたらという、イエス様が込めておられる思いの深さを感じたのでありました。そして自分に光を当ててみた時に、私自身の中にそうした裁きの思いはないだろうかと、深く探られたことでありました。

今年は大切な年、贖われた者たちが帰ってくる年です。そしてこれまで贖われながら離れている兄弟姉妹たちが、100人近くいることを改めて知りました。その人たちに対して何とか手をさし延べたく、「私たちは取り組みをさせて頂きましょう。」と名前を挙げさせて頂きました。皆さんはどのように受け止めでしょうか?一生懸命、この人のため、あの人のためと、目を留めて下さったと思います。

「この人がどこの誰だか全く分かりません。だから私は祈る必要を感じません。」という人は1人もいなかったのです。みんなが、「分からないけれども、何十年も前にここに来て救われた人だった。大切なこの群の1人だったのですね。失われてはならない1人だったのですね。ですから祈ります。心に留めます。何かをしたいです。」そのようにして目を留めていて下さるのです。そのことが素晴らしいと、主はそれを喜んでくださるのです。

そしてイエス様のもう一つの目を思うのであります。イエス様は、「その人は99匹を野原に残して、いなくなった1匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。」こう言っています。

イエス様の眼差しは捜し出すことです。でも、ともすると、私たちは、ある人が失われていった時に、ある人が問題を持った時に、「何故あの人はあのような問題を起こしたのでしょうか?」「何故あのようなことになったのでしょうか?」「何故あのような罪を犯してしまったんでしょうか?」とそのような探りや調査をしてしまいやすい心がどこかにあるのではないかと思います。

もちろんイエス様が、その人がどのようにしてそうなったかを知っていないはずがありませんし、一部始終全てを知っておられます。そしてまた、失敗すること、罪を犯すことがどうでもいいことではないということでは決してないと、イエス様は私たち以上によく知っておられるのです。

でもイエス様の心は、イエス様の本心はどこにあるのかと言うならば、犯したその罪の結果をどうこうするのではなくして、失われたものへの愛情です。捜し出さないではいられない愛情なのです。イエス様は1匹を見つけるまでは捜し歩かないでしょうか?そうです。「あちこち回ってみたけれど、いなかった、しょうがない、あきらめよう。」では決してないのです。

イエス様の、この羊飼いの聖画があります。崖の下の方で、もう泣く声も消えゆるような傷ついた羊を、崖の上から谷底にいるのを上から見下ろして、そしてイエス様は傷だらけになりながら、その谷を降りて行くその姿が絵になっています。

「見つけるまでは捜し出さないではいない。」イエス様の心はまずそこにあるのです。私は自分自身のことも探られております。本当に自分自身が果たしてそのような目をもっているだろうかと、探られました。

そして更に、そこから私は、私自身も失われた時に、失われていた中に、訪ねられた1人だったのかと思わされました。皆さん方もどうでしょうか?今日ここに救いを頂いて、恵みを頂いている皆さんが、「来るべくして来て、救われるべくして救われ、こうなるべくして今ここになっている。」とそうハッキリと言える人は果たしているだろうか、と思います。

皆さん、私たち一人一人が、ここにいること自体が不思議です。そして、「イエス様に尋ねられていた。イエス様が誰かを通して私を訪ねて下さった。」そう思えるのではないでしょうか?

私は高校生の時、ある日の夕方、学校から薄暗くなる頃に帰ってきました。駅を降りて改札口を出たそのすぐ前に、私の中学時代の友人がいるではありませんか。彼と出会いました。そして、彼は教会の特別伝道集会のポスターを持っていたのです。

その彼との一瞬の出会いが、私の人生を変えました。それはほんの数秒です。数秒のすれ違いで会わなかったならば、私の人生はどうなったでしょうか。大きく変わっていただろうなと思います。

そして神さまは、その数秒の出会いによって、その友人を通して、私を訪ねて下さって、私を見出すべく、その瞬間を与えてくださったのだと、そう思わずにはいられなかったのです。私は見出された、そんな小さな存在です。でもその小さな存在にどれ程の大きな神様の愛が注がれたのであろうかと思います。

皆様方、一人一人もそうです。誰かが教会からの案内を頂き、様々なきっかけを通してそのチャンスが与えられたではないでしょうか?それは神様があなたを愛し、愛し、訪ね、訪ねてくださった、大切な出会いの恵みであったということを覚えるのです。

そして傷ついた羊のことを思った時に、先週私はとっても大事な出会いをさせて頂いたことを思い出します。そのことを少しお分かちしたいと思います。

木曜日のことです。オルテガさん親子と、私はお会いして1時間以上お話をしました。どうしてもそういう時間をとらないではいられない思いが与えられたからでした

オレテガさんは、以前1994年〜99年までの5年間、日本に滞在しておられたことがありました。でも実はその5年間の日本滞在が、オルテガさんにとって大変な辛い辛い5年間であったということを、それとなく聞いてはおりました。

でも深い所は話そうともしておられませんでしたし、聞く必要もないとも思っておりましたが、ところが私は先週朝のデボーションの時に、このように主からの細い声をきいたのです。

「あなたはオルテガさんの深い心の傷、その痛みを分かちあいなさい。」そう言う声を聞きました。そして私は聞くべきではない、話したくはない、それをあえて聞く必要はない、そういう思いであったのですが、でも主の迫りを感じました。

ですから木曜日にあまりかしこまらず、ちょっと水を向けてみた時に、息子さんを通してお父さんが、「はい分かりました。」と2つ返事だったのです。

私はびっくりしました。そして「ここでは話せません。」ということで別の静かな場所に行き、そこで1時間余りの話をしました。そして私は、このオルテガさんが日本において通ってきたことを、聞いたのでした。最初は淡々と話しておられ、でもだんだん目頭が熱くなるのが分かりました。やがて大粒の涙がぽたぽたとたれているのが分かりました。

日本にいるアルゼンチンの宣教師の先生が、日本のスポーツ伝道のために誰か来てもらえないかということで、アルゼンチンにあるスポーツ選手の伝道団というところにオファーをしたのです。

オレテガさんはその要請があることを聞いた時に、既にあるチームの監督に来てほしいとの要請があったのですが、でも祈りました。祈った時に、自分は素晴らしい救いを頂いていて、その素晴らしい救いを日本に行って伝えられるならば、そこに応答してみようと、祈りの中で決断したそうです。

そして94年に日本に来られました。来てみて、ある方とそこでお会いして、ビジョンについての話を聞いたのです。とにかく日本語も全く分からないので、「自分は5年間神様のために、そしてスポーツのために一生懸命やります。」と応答して、そして始めようとしたのです。

ところが、話を具体的にビジネスとして進めていった時に分かってきたことは、その方たちのビジョンというのは、サッカースクールを開設して、400人以上集めて、そしてそれを町の人々に知って頂こうというものであったようです。そしてビジネスとしても充分採算が取れるようにしていきたいというビジョンがあったようでした。

オルテガさんのビジョンは、とにかくスポーツはもちろん大切であるけれども、生活のためにも必要であるけれども、何よりもそのことを通して教会に子供たちが導かれるように、子供たちがそこで救いを頂くことができるように、神様のためにこれをするというビジョンが明確にあったということです。

その微妙なずれが、やがてどんどんこじれていってしまい、ついにはここでは話せないような大変な問題にまでなっていってしまったようです。そして5年後にオルテガさんはついに帰国を余儀なくされていったようです。

その傷の深さは、帰ってからも、今も、その時のストレスの故に、体に変調を来してしまったほどです。それだけでなくして霊的な痛みの故に、教会に行くことすらできなくなってしまったほどであったのです。

ところが、今年の6月、そんなずっと深い傷をいやしがたく持ち続けていたある日のこと、町の中で、1人の牧師さんと出会ったということです。その牧師さんはオルテガさんに向かって、第1列王19章を語ってくれたそうです。エリヤがホレブの山に行った時に、そこで主はエリヤに、

“第1列王”
19:15 「さあ、ダマスコの荒野に帰って行け。」

と語ります。その所を通して、「オルテガさん、あなたは日本に帰って行きなさい。日本にであなたのやり残していることがあります。だから帰って行きなさい。」そういう声を聞いたというのです。

もはや2度と日本に足を向けたくないと思っていたけれど、主の声に聞き従おうと、そう決心したそうです。でも、ふとパスポートを見てみると、後2日で切れると言うことが分かりました。

「もうこれは不可能だから主は止めておられるかな?でもやるだけのことをやってみよう。」と自分の町から1600キロも離れているブエノスアイレスに行って、大使館を訪ねました。そうしたら、不思議も不思議、たった2日間でパスポートが降りてしまったのだそうです。

「ああ、これは神さまのゴーサインだ。」と裸一貫で取るものもとりあえず、飛行機に乗って日本にやってきたとのことです。

そして日本の成田に着いて、以前から関係をもっていた、厚木にいる宣教師の先生に電話をしました。その先生もビックリしました。先生がふと思ったのは、池田恵賜師のことです。その先生は神奈川県でゴール2002の働きをしていて、そのニュースレターを毎回受け取っていたのでした。そしてこの先生はこのオルテガさんのことを恵賜師に電話をかけてきたのでした。

その方を通して、成田からここにやってきたのは、6月19日の午後5時頃だったでしょうか。私もお会いしました。でも私も何も知りませんでした。その日はちょうどゴール2002の大きな働きが終わって、感謝会、反省会を平和台チャペルで行ないました。それが終わったその直後の出来事でした。そしてオルテガさんの話しです。

傷を負っていて、痛んでいて、もはや2度と日本に来たくないと思っていた自分、教会にも行けなくなってしまっていた自分、体も普通でない自分でした。でも日本に来て、この教会に来た途端、「ああ、ここは主の臨在の場所、ここは主の愛が満ちている所だ。ここは主の宮だと感じました。その時の感動は私にとって忘れられないです。」

そう語るオルテガさんの目からは、大粒の涙がポタポタと落ちていました。そこには臨在に触れた、愛にあふれた、迎え入れられた事への感謝が溢れていました。

私は、イエス様の前から、一匹の羊、失われた羊のことを、ふと思いました。大切な大切な1人の魂、イエス様はその失われた魂を見つけだしてくださったのです。牧師を通して見つけ出してくださったのです。そして何と遠い、アルゼンチンから日本に送ってくださって、日本の神奈川県、日本の本郷台キリスト教会に見つけ出して送ってくださったのです。何という神様の素晴らしい業でしょうか。

イエス様はここに信頼してくださったでしょうか?そして今、オルテガさんは、本当にこれから、日本にサッカーを通して伝道が出来る道が確かなのかを確認するべく、今は磐田という静岡県の地に行っております。最善の道はどこなのであろうか、主が示して下さるところに留まりたい、そして主に仕えていきたいと、そうおっしゃっています。

主は不思議です。そして真実なお方です。お互いも主から見出された者、そして私たちもまた兄弟姉妹たちを訪ねる者、そして訪ねて魂を負いたいと熱心に労する者へと変えられているこの教会に、主は何と不思議な形で魂を送ってくださったのであろうかと思います。

昨日は素晴らしいロン・ケノリーのコンサートがありました。終わって、受付のところにいたら、2人の青年がじっと神奈川新聞のオルテガさんの記事を見ているのです。「エー?ウッソー!、どうして?どうして本郷台なの?」と驚いたような声を上げているのです。

私は正直オルテガさんが誰であるのか、19日まで全く知りませんでした。オルテガさんがどれ程の人か知らなかったのです。でも知る人は知っているのです。「エー?ウッソー!どうして?どうして?」という程にです。

主は私たちに、大切な大切な、しばらく失われた主の魂を託そうとしているのであるのでしょうか?もう一度、主の前に聞いて主に応答していきたいものです。私たち自身が失われた者、どこに行ってしまうか分からなかった者、そういう者です。見出された者、1人として、決して私は失われることはないと言える人はいないのです。主を心から崇めたいのです。


お祈りを致します。

天のお父様、今日このようして、あなたがまた、ここに目を留めてくださって感謝します。一人一人に目を留めてくださって感謝します。

1人としてあなたの前から失われたままで終わる者はないのです。私たちは訪ねられ、捜し出され、そしてついには見つけだされる、そういう者であることを覚えます。

ですから私たちも訪ねる者、少しでも喜んで訪ねる者とさせてください。お一人お一人に目を留めて下さい。

尊いイエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン!