| 2002年7月28日 主日礼拝式 “マルコの福音書” 10章46〜52節 「“特別メッセージ”」 “J.A.オルテガ氏” 宣教メッセージ |
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今日の特別なゲスト、オルテガ選手親子をご紹介いたします。 また、サッカーの監督の資格としては最高のS級ライセンスも持たれていて、いろんな所で引っ張られるのですが、敢えて神様の方を選んで、1994年から5年間日本に来られました。日本の特に青少年にサッカーを通していのちと希望を伝えるために来られました。 5年間の奉仕をしてから、アルゼンチンに戻られたのですが、このたび、再び神様に語られまして「日本に行って再び仕えなさい。」という使命が与えられ、神様の声に聞き従って、日本に来てくださいました。 オルテガ選手を通して神様がなされたみ業、また語っておられることを、今日分かち合っていただく事になっています。それでは聖書の個所をお読み致します。今朝は
マルコの福音書10章46節から52節 です。新約聖書の81ページになります。
それでは、今からのオルテガ選手のメッセージのためにお祈りをしたいと思います。 又どうぞ、オルテガ選手にあなたが託しておられるメッセージを今日、この場所で余すところなく語ることが出来ますように。主よ、あなたの聖霊の油注ぎをオルテガ選手の上に豊にお与え下さいますようお願いいたします。主よ、これからの時をあなたのみ手に委ねます。共にいて、お語り下さい。イエス様のお名前によってみ前にお祈りいたします。アーメン! それでは、オルテガ選手をお迎えしたいと思います。通訳は息子のグストフさんがしてくださいます。 皆さん、こんにちは。今日はすごく人が多いので一寸照れています。自分は今この立場にたっていますが、牧師でも宣教師でもなく、ただ元プロのサッカー選手です。最初に少し自分の生きてきた経歴をおあかししたいと思います。 自分はクリスチャンの家庭に育てられ、親もクリスチャンでした。おじいちゃんもおばあちゃんも皆クリスチャンでした。小さい頃からプロのサッカー選手になる夢を強く持っていました。自分にはサッカーが全てでした。 16歳になって悩みが出てきました。サッカーを続けるか勉強するかということです。でも、自分の心の中ではプロサッカー選手になりたいという気持が強かったのです。そのために毎日お祈りをしていました。でも、神様の返事が来ませんでした。お母さんに悩みを伝えましたところ、お母さんはこう言いました。「自分がサッカーを一番にしているから、神様からの返事が来ないのだ。神様を一番にしないと、返事は来ないよ。」と ですから、お母さんから言われた事は「神様を一番にして、サッカーを二番にして、その後信仰をもって祈れば自分の夢は叶えられる」と。その日神様に自分が考えていた事が違っていたのを赦してくれるように祈って、それからは神様を一番にして、神様が導いてくれるよう頼みました。 それで、神様のお陰で17歳になってプロになりました。自分がプロのサッカー選手になっただけではなく、代表選手にもなりました。プロの選手になって、それからの夢は代表選手になる事です。自分が1000人くらいの中から25名の代表選手に入れました。 自分はプロになってから、サッカーのプロの選手は別世界に住んでいるような感じで、普通の人とは全然違う生活をしますし、自分の力で何でも出来ると思い込んでいます。別に人に頼らなくても自力で何でも出来ると思っています。でも、それは大間違いで、中身は空っぽです。 本当に難しいところで神様はお話しをし始めました。サッカーに関係している方に神様の話しをするのは本当に難しいです。神様の話しをし始めると、仲間やプロの選手達によく笑われました。自分は本当に苦しんで、「力を下さい。」と神様に祈りました。もっと話しつづけたいのだけれども、笑われるのは嫌だから。 或る日、別のサッカーのプロ選手であって、自分の悩みを伝えて、あちらからも返事してくれた事は「イエス様がこの地上に来られた時に、笑われて、殴られて、唾もかけられて、十字架にかけられました。あなたも普通の人間ですから笑われるのは当たり前だ。」と言われました。その言葉を聞いて、そこから自分のいのちが変わりました。 それからは本当に信仰をもって話しをし始めました。自分の力ではなにも出来ないのは判っていたのですが、自分は神様の事を伝えるだけで、後は神様に任せればいい。神様は一人ひとりの心の中で働きをする。 本当に、自分が神様の子、王の子であることをとっても誇りに思っています。 今まで聖書を読んできて、最もインパクトの強かったところは、先程読みましたバルテマイの話しです。エリコの道に座っていた盲人バルテマイが近くでイエス様と弟子達と大勢の人たちと歩いていた。サッカーの場合、スタジアムに大勢の人がいるというのは2,3万人ぐらいですが、このときも、多分同じぐらいの多くの人が渡っていたのではと思います。 バルテマエはイエス様がそこを通っているのを知って、叫び始めました。「ダビデの子、私を哀れんでください。」近くに居る人には「黙れ。黙れ」と言われますが自分は逆に大きな声で叫んだ。ここに書いてあるように、イエス様が止まってバルテマエを呼んだ。バルテマエは呼ばれた時に、立ち上がって自分の上着をとって、投げ捨ててイエス様の元に行きます。 イエス様は「自分に何をして欲しいのか。」と訊きました。バルテマエは言いました。「自分は見えるようになりたい。」と。その時に神様が病気を治された。これを読んで一番大切なところは、バルテマエがイエス様が通っているのが判って、それが最後のチャンスだというのが判って、大きな声で叫び始めました。 それ以上のチャンスはもう2度とないと判って叫び始めました。近くに居る人に「黙れ.黙れ。」と言われても、自分のチャンスは見逃せないと思って、大きな声で叫びました。イエス様に呼ばれた時に自分の上着を脱ぎ捨てたと書いてあります。昔は上着を着ていることは病気があることを示すしるしでした。 だから、多分上着を着ている人には普通の人は近寄りませんでした。すごく大切なところです。彼は呼ばれた時に上着を脱ぎ捨てたのです。神様は病気を治してくれる事を信仰をもって信じていたから、彼は2度と病人ではないと信じて上着をとりました。 聖書に書いてありますが、バルテマエに神様は病気を治すだけではなく、救われたとあります。体だけではなく、心も治しました。 私たちの中にもチャンスを見逃している人たちが一杯居ると思います。ですから僕たちにとって最後のチャンスは相手に話す事かも知れない。だから自分の家族や子ども友だちに自分が救われていると話すのが怖いかもしれない。クリスチャンでない人たちは多分神様を知る最後のチャンスかもしれない。 別の話しですが、或る父親が病院で死にそうで家族と共に居ました。父親は奥さんに最後の一言で「又会いましょう。」と言いました。傍にいた子どもにも「又合いましょう。」と言いました。最後の子どもには「さよなら。」と言いました。最後の子は驚いて「どうしてお母さんと兄弟には『又会いましょう。』と言って、自分には『さよなら。』と言うのかと父親に聞きました。 父親の返事は、泣きながら「僕たちは神様に救われたから、又天国で会える。でも、君は神様を受け入れていないから、もう2度と会えない。」と言いました。そして、お父さんは死にました。自分が想像するに、その子の悲しみはすごく大きかったと思います。その時に心や頭で色んな事を考えたと思います。 でも、又チャンスがあることもすごく楽しみです。イエス様が十字架にかけられているときに、隣に悪人が2人いました。一人の悪人がキリストに「自分が本当に神様の子であるならば、十字架から降りて、私たちを助ろ。」と言いました。 もう一人の悪人は「そう言うな。ここに居る人は全く罪のない人間で、本当に神様の子である。」といい、イエス様に向かって「天国に行く時に、僕のことを忘れないで下さい。」と言いました。イエス様は死ぬ前に、悪人に「今日又天国で会いましょう。明日とか来年とかでなく、今日また会いましょう。」と言って、イエス様は死にました。 悪人も、罪の多い人間も最後のチャンスが有りました。最後に、私たちは家族も子どもも居ますし友人も居ると思います。その人たちはイエス様を信じていない方も多いと思います。すごく寂しい話しですが、神様に救われていない人とは天国で会えないのです。 時々、私たちクリスチャンは神様を怖がる時があります。例えば習慣で受け入れてもらえないだろうとか。でも、神様は多分バルテモアのように、最後のチャンスを与えようとしています。クリスチャンでない人たちにはたぶん最後のチャンスかもしれません。その人たちも多分心の中ではバルテモアのように「イエス様、哀れんでください。」と叫んでいるかもしれません。 一杯問題があって、頼れる方がいないと悩んでいるかもしれません。神様が自分の心に入って欲しいと願っているかもしれません。今、宗教の話しはしていません。今話をしているのは神様と個人との関係の話しです。 皆さん一人ひとりに神様は傍に来るようにと待っています。私たちの神様は愛の神です。私たちが自分の心の中に神様を受け入れたときに、私たちのいのちが変わります。今自分たちが抱えている問題や悩みを神様の下に預ければいい。神様が力を与え、導いてくれます。 お祈りを致します。 |