| 2002年8月4日 主日礼拝 詩編36:5〜10 「恵みの愛のプレゼント」 月井 博牧師 宣教メッセージ |
| 今日のメッセージの御言葉をお読みいたします。今朝は詩篇36:5-10をお開きくださるようにお願いいたします。旧約聖書の861ページです。
詩編
【この詩篇に描かれた神さまのご性質】 新聞や雑誌、ホームページなどのいたるところで、「今日のあなたの運勢」といって星占いが載っています。クリスチャンは星占いをしません。ヨーロッパでは、よく、あなたの星座は何ですかと聞かれます。そのとき家内はいつもこう答えていました。私の星座は「恵みの星」です。私のこれまでの人生を一言で、総括するなら「恵みあふれる人生」また、現在の生活を一言でいうなら「恵みあふれる生活」ということができます。自分はこんなに恵まれてしまっていいのだろうかと思うのです。 私たちクリスチャンの人生や生活には、神さまからのとても豊かな恵みが注がれています。神さまの恵みをしって、恵の中に考え、恵みの中に歩むことこそ、クリスチャン生活の秘けつです。 この詩篇の記者も神さまの恵みに圧倒されていました。彼は神さまのご性質に心を留めて絵画的な表現をしています。神さまの恵みは天にある、天にまで届いている。神さまのまこと・真実さ・そのご誠実さは雲にまで及ぶと。でもここでいう雲はその辺をプカプカ浮かんでる雲や雨雲ではありません。山々よりもはるかに高いところにできる成層雲のようなものです。そして神さまの正しさはヒマラヤの山々のようにそびえ立っている。その神さまのさばきの道はとても深くて、深い海のようであるといいいます。 【際立つ恵みの卓越性】 あなたは人や獣を栄えさせてくださいます。主よ。 まずこの詩篇の記者は私たちに与えられているいのちの生物学的な側面に目を留めています。 「あなたは人や獣を栄えさせてくださいます。主よ。」と言っています。 私たちは「大自然の恵み」という表現をよく用います。大自然の恵みとは、私たちがこの世界に生を受けた、その生を維持していくのに必要なすべての物が大自然を通して与えられるということです。「大地の恵み」とは私たちの生命維持活動に必要なもの、特に食べ物が大地を通して与えられることを言います。「恵みの雨」とも言います。作物を実らせるために必要なものは太陽と雨です。その光も雨も天から無尽蔵に与えられているわけです。 私たちは、生きていくために勉強したり働いたリ、さまざまな社会活動を行います。野生の動物たちは自分の食糧を求めて与えられた本能によって行動します。しかし人間や動物が為す、生きていくためのこれらの行動は、この大自然の恵み、一方的に与えられた、生きていくための環境から離れて、あり得ないのです。私たちは自分の力でこの与えられている中で、精一体やっているように錯覚していますが、私たちが生きて、この生命活動を続けていられるのは、実は、神さまの圧倒的な恵みによるのです。 ですから、詩篇の記者は続けます。 神よ。あなたの恵みは、なんと尊いことでしょう。 この神様の恵みの大きさをしったら、そしてこのように素晴らしい恵みを豊かに注いでくださっている神さまがおられることをしったら、私たちはこの方に自分の身を預けたい、ゆだねたいと思わないでしょうか。でも実際のところ、私たちは出来ないんですね。そういう神さまを信じられないのです。信頼できないのです。なぜでしょうか。 【目に見えない、恵み豊かな方を信じることができない私たちの現実】 どういうわけか、私たちは目に見えないものに信頼することが、私たちの性質として、できないのです。神さまに信頼できない、この目に見えない、でも確かな方に信頼することができないということが、私たち人類の最大の不幸です。 ・目に見えるものに対するこだわり 目に見えない確かな方を信頼することができないので、必然的に私たちは、地位や学歴やお金などの目に見えるものに頼るようになります。学歴や地位やお金、これらはそれ自体は悪いものではないのですが、これらに私たち人間が、あまりにこだわるがゆえにいろいろな問題が生じます。これらに対するこだわりは、何と多くの人と人との間に亀裂を生みだすことでしょうか。不正を生み出し、犯罪を生み出してきました。 クリスチャンとして歩んでいる人でも、この問題を抱えています。ついつい、この目に見えるものに信頼する、生活や人生になじんできてしまったので、なかなかその生活パターンを変えることができないのです。けれどもその場合、なかなか神さまが備えてくださっている恵みを体験することができません。 ・自分に対するこだわり また、この、目に見えない方を信頼することができないがゆえに、自分しか信ずることができない、自分にこだわる生き方を生きているのではないでしょうか。もしあなたが、かたくなな自分・変われない自分に気がついたとすれば、あなたが変われないのは、この方をあなたは知らないからです。 自分も確かに多く、傷つけられてきましたけれども、私たちもまた多くの人々を傷つけてきたのではないでしょうか。神様の前に、それらは殺人罪にあたります。 ・目に見えない方を見ていないがゆえに、私たちの動機は不純です。 高い山々のようにそびえる神さまの正しさ、その正義に比べて、私たちが主張する正しさや弁解はボロ切れのようなものではないでしょうか。そびえ立つ山々のように正しい神さまの義によって私たちがさばかれたら、私たちは果たしてそれに耐えうるでしょうか。私たちの神さまは私たちの動機を読み取られる方です。私たちは醜い動機でかたまった行動をしたりしてる時が多いのではないでしょうか。 そのような、偽らない、裸の自分を見せつけられるときに、私たちは、できれば穴があったら入りたい、そのような気持ちになるのではないでしょうか。できることなら、こんな自分から逃げたいとあなたは思ったことはありませんか。でもあなたが逃げ込んでいい、避難するべき場所があるのです。 【神の御翼】 神さまは私たち人類のために翼を用意してくださいました。 「人の子らは御翼の陰に身を避けます。」 今日は、この御翼の陰に自分の身を隠した一人ののおばあちゃんについて触れたいと思います。 本田行恵さんです。 本田のおばあちゃんは大阪に住んでいました。あるとき、路傍で伝道していた教会の人々に会い、そこで話された聖書の御言葉、「すべて重荷を負おて、苦労しているものは、私のもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。」が心に強く響き、教会に足を運ぶようにななりました。やがてイエスさまを心に受け入れ、、昭和2年4月に洗礼を受けました。姉妹の、主を信じ受け入れる以前の心は弱く、くじけがちでわがままで、いつも思い患いに満ち、家庭を暗くしていました。 自分の良心に責められているあなた、自分の過去に責められているあなた、人間関係で傷ついているあなた、家族から責められているあなた、あなたが逃げ込む場所は、ここしかありません。十字架です。イエスさまは十字架においてあなたが受けている一切の責めを受けてくださいました。 イスラエルの神殿の中、神さまがご臨在されるところには、ケルビムという、天使の大きな翼が覆っていました。その場所は恵みの座とも呼ばれていました。 十字架こそ、神様が私たちのために用意してくださった隠れ場であり、御翼です。 十字架に身を隠し、十字架で心を洗われた本田のおばあちゃんには平安が与えられ、おばあちゃんはすべての悩みを神さまにゆだねて、希望を持って毎日生活するようになりました。 この御翼の陰に身を避ける人々に与えられている神さまの約束はどんなものでしょうか。 おばあちゃんがクリスチャンになってから家庭も大変明るくなり、ご主人も喜んでくれました。救われてからのおばあちゃんの願いは家族も救われることでした。「家族のものを救いください。」と恩寵を感謝しつつ祈りました。まもなくご主人が救われ、お姉さん2人妹さん1人がキリストの奇しい御業により、信じて、救いに入りました。 【更に注がれる恵み】 彼らはあなたの家の豊かさを心ゆくまで飲むでしょう。あなたの楽しみの流れを、あなたは彼らに飲ませなさいます。 おばあちゃんのご主人はその後、米国人の院長を助けてキリスト教主義の聖バルナパ病院を創設しました。産婦人科病院ですが、日本の婦人が1人でも多く聖書に接し、キリストの救いにあずかっていただき、聖い信仰生活により、正しい育児の知恵を授かって、良い母になるようにとの祈りを込めて、創立されたものです。神様はをこの病院の事業を祝福してくださり、日ましに栄えて入院室はいつも満員でした。 やがて選任の牧師も来られて、病院の礼拝堂では毎日職員や患者が共に聖書を学び祈る集会が開かれていきました。市民の方々からはキリスト教の病院、愛の病院と呼ばれて、喜ばれ10年あまりの労苦に主が報いてくださり、主を賛美する声が日々病院から流れ出ておりました。 では、私たちはこの恵みをどのようにして、自分のものとして受け取ることができるのでしょうか。ある人は、こんなに恵まれていいんだろうかと思うほど恵みを受けます。でもある人は、自分が恵みをそんなに受けているようには感じることができません。そこでおすすめします。この目に見えない方を目に見えるようにして生きること、あたかも目に見えるがごとくに生きること、つまり信じることが、霊的な恵みを体験して生きる鍵です。つまり信仰がカギです。 救いはみんなに提供されている。一方的に無償で提供されています。それは家内が考えていた通りです。でも、その恵みが本当に恵みとなって家内に働くためには、信仰によってその救いが自分のためのものであったと家内が受け取る必要がありました。 信仰が必要なのは、このように、神さまの救いを受け取る時だけではありません。神さまの恵みも同じです。私たちはつい労働に対する報酬という考え方が身についてしまっているので、神さまに恵まれるために何かをしようという考え方に戻ってしまいます。しかし恵みはやはり一方的に与えられます。私たちに必要なのは、この見えない方を見えるようにして生きる信仰です。 いのちの泉はあなたにあり、私たちは、あなたの光のうちに光を見るからです。 注いでください。あなたの恵みを、あなたを知る者に。あなたの義を、心の直ぐな人に。 この十字架の陰にいのちの泉がわきました。 実は、私たちは、霊的ないのちの側面においては、死んだものであったと聖書は言っています。 この目に見えない、しかし生きておられるまことの神さまとのつながり・信頼関係が無いからです。 確かに私たちの生物的な側面のいのちは大自然の恵みや大地の恵みによって支えられるのですが、実は、神さまは、私たちが生きるためにもっと必要なものを、やはり、恵みによって、用意していてくださいました。というのは私たちは、生物学的ないのちを生き長らえるだけでは生きていけないのです。人はパンのみに生きるにあらず、とあるとおりです。では私たちは何によって生きるのでしょうか。神の口から出る、ひとつひとつの言葉によるとあります。 私たちが与えられたいのちを生き生きと充実して生きるために必要なのは楽しみであり、喜びであり、希望です。また愛です。 この「生きがい」とか「生きる喜び」とか言う霊的な側面のいのちのためにも、とても大きな備えを、まことの神さまは私たちのためにしてくださったのです。そして、今もしてくださっているのです。 |