| 2002年8月18日 主日礼拝式 “ルカ” 15章8〜10節 「“失われた銀貨”」 “池田博牧師” 宣教メッセージ |
| 今朝のメッセージのみ言葉をお読み致します。今朝は ルカの福音書15章8節から10節
です。新約聖書の134ページになります。 “ルカ”
聖書は以上であります。 今日もこうして、私たちの造り主、イエス・キリストを礼拝できること、天地万物をお造りくださいました神様を礼拝出来ること、そしてまたここに聖霊が豊かに臨んでいて、この礼拝が備えられていることを、心から喜び、感謝したいのであります。 今日は、今読みました聖書の所からご一緒に、主が私たちに与えて下さる恵みを、また真理の言葉から何が私たち一人一人に語られるのかを、期待をもって見て参りたいと思います。 このルカによる福音書15章は、例え話の章と言われているところです。大きく3つの例え話がありますが、今日のこの話はその中の真ん中です。2番目です。 最初の話は100匹の羊を持っている人の話、そして後の話は有名な放蕩息子の話です。その真ん中が、今読みました銀貨を1枚なくした女の人の話であります。どちらかというと、真ん中のお話は、ポツンと埋もれているかのような、そんな感じがするところでもあります。 この話は、女の人が銀貨10枚を持っているということです。でもその銀貨は、単位が下に書いてありますが、「ドラクマ」、こういうお金の単位ということです。これはどういう単位かと言いますと、当時の1日の労賃、1日の働いたお金が大体このくらいであろうという単位のことです。 それはイコール、今日の日本の1日の日給といいましょうか、手当とは少し違うかなと思います。もっともっと低い、多分日本で言えば500円銀貨1枚、そんな単位であろうかと思います。 この女の人が銀貨を10枚持っていたということです。それはとても大切な10枚であったであろうかと思われます。本によると、結婚の時か何かに、親から大切な贈り物として贈られたであろうか、だから紐に通したりして大切に持っていたものかもしれないということです。ですからこの女の人は貧しい人であろうと想像ができます。 その1枚をなくしてしまったその時に、この女の人はどうしたかといいますと、8節をもう一度見てみます。そのなくした1枚を捜すため、「あかりをつけ、家を掃いて、見つけるまで念入りに捜さないでしょうか。」とあります。 イスラエルの国はあまり窓が大きくないので、暗いのです。ですからあかりをつけて、もう家中を隅から隅まで掃いて捜したということです。「見つけるまでは捜し続けた。そしてついに、ついに見つけました。」というお話であります。 ですからそのことから、まず心に留まることは、この女の人は、1枚の銀貨だけれども、それをとっても大切にしているということが、よく伝わってくるのです。 9節を見ますと、今度は更に、少し「オヤッ?」と思うようなことが出て参ります。「見つけたら、友だちや近所の女たちを呼び集めて、『なくした銀貨を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』というでしょう。」と、こうあるのです。 見つけたことは嬉しいわけですが、でもこの女の人はそれに留まらないで、近所中にふれ回って、「皆さん、なくした銀貨1枚が見つかりました。嬉しいです。皆さん、家に来てください。」そんなふうにして、近所中の人を呼び集めたというのです。 呼び集めて、「皆さん、喜んで下さい。なくした銀貨が見つかりました。喜んで下さい。」でも、集まった人たちはシラッとしたかなと思うのです。 先ほど言いましたように、500銀貨1枚です。日本では、たかがといっては言い過ぎかも知れませんが、安くはないけれども、でも500円です。 なくなって見つかったことは嬉しいけれど、でも近所にふれ回るほどのことではないと思えるようなことです。でもこの女の人は黙っていられなくて、ふれ回って、喜んでくださいとやっているわけなのです。 そんなところから、以外な事を言う人たちがいます。「これは、イエス様の例え話にしては、少し云わんとしていることが、あまりよく分からない。意図が伝わらない。何をイエス様は伝えたいのだろうか?」と、やや斜めに見て、そう言う人がいるのです。 前後の羊の話しはよく分かるし、放蕩息子の話は更によく分かるけれども、「この失われた銀貨の話はちょっとどうだろうか?」というわけなのです。 でも果たしてそうでしょうか?イエス様が例え話をなさる時に、あまり意味のないことをおっしゃるでしょうか?そんなはずがありません。イエス様がお話をするその話には、いつも深い意味があり、深い意図がなくして話をなさるということは、あり得ないということであります。 であるとするならば、ここからイエス様は私たちに何を伝えようとしているのか?、何をくみ取ることができるのか?、むしろそこに目を留めてみたいと思うのです。 私も改めてここを読みまして、いくつかのことを気付かされました。まず第1に気が付いたことは、当たり前のことですが、銀貨それは「物」であることです。 羊は生き物です。動物です。羊は谷底に落ちたでしょうか?藪の中に埋もれてしまったでしょうか?でもそこで羊は鳴きます。叫びます。そしてそのかすかな声を聞いて、羊を見つけることができます。 もう一つの「放蕩息子」、この人は遠く家から離れて他国に行ってしまいましたが、でもやがて金銭を使い果たした時に、我に返って、自ら悔い改めて戻ってくる、というストーリーであります。 しかし皆さん、銀貨がひとたび失われた時、その持っている人の手から離れて落ちて失くってしまった時に、それは道ばたでしょうか?どこかに落ちたでしょうか?一度落ちたなら、失われたなら、それはどんなに高価な金貨であったとしても、それはもはやそこに一緒に転がっている石ころと変わりがない、言うならば何の価値もなくなってしまった状態です。 銀貨というのは、人の手の中にしっかりと握られていて、人がそれを活用して始めて銀貨としての意味、価値があるということです。ですから、失われたら、もはや役立たずの物でしかない、ということが言えます。 分かりやすく考えてみたいのですが、皆さんが500円銀貨1枚を失くしたとします。皆さんならどうするでしょうか?何がなんでも、何日かけても、必ず捜し出すと、そこまで熱心に真剣に捜すでしょうか? もう少し現実味を帯びた話になりますが、皆さんはお財布を持っていますね?財布の中にいろいろ入っています。500円銀貨も入っています。100銀貨、50円銀貨、10銅貨も入っています。5円も1円も入っています。 皆さんの財布の中に、500円銀貨は何枚、100銀貨は何枚、50円銀貨は何枚、10円銅貨は何枚入っていますと、きちんと分かっていますか?そこまでは分かっている人は、あまりいないですよね。 万札や、千円札が何枚か、そこまでは分かります。万札何枚入っているか分からない…中にはあんまり厚くて数え切れない、そういう人もいるのかもしれませんが(笑い) 普通は、お札は分かるにしても、銀貨はどうでしょうか?私は500円銀貨はあまり持たないですが、仮に10枚入っていたとするならば、それがどこかで1枚なくなったとしても、9枚になってしまったとしても、おそらく気付かないで終わってしまうと思います。 私にとって、500円銀貨というのは、なくしたら捜す以前に、あるいはなくしても分からない、そんな程度のものかなと思ったり致します。 皆さんはどうでしょうか?この女の人は10枚持っていた銀貨、それを大切に大切にしていて、それをなくしたときに、何としても捜そうというその真剣さ、熱心さがあります。そしてその女の人の真剣さと熱心さを通して、イエス様はここで、この例え話の中で何をおっしゃりたいのでしょうか? イエス様は、まさしくその女の人が「わたしだ。」とおっしゃるのです。イエス様は、女の人を通して、イエス様ご自身が失われた銀貨を見つける様子を現わしています。 そして、失われた銀貨とは何でしょうか?それは私たち一人一人です。イエス様にとって、私たち一人一人が大切な大切な存在であるということです。 仮に失われたならば、1人ぐらいいなくなってもどうでもいい、というのではなくして、あくまでも、どこまでも、真剣に捜しださないではいられない、イエス様はそういうお方だということを、ここでおっしゃっているのです。 「天から押し曲げて降りて来られた。」という言葉が、ふと今朝も心に留まりました。「そうだ。イエス様は神様であられたけれども、天からこの地上に降りてこられたんだ。」 天、それは諸々の天の天、この宇宙の上におられる神様です。宇宙といえばその大きさはどれくらいでしょうか?宇宙、それは200億光年の広さがあるということです。そして200億光年の広さというのは、もはや私たちの頭で考えられる範囲をはるかに越えた広さです。 そして、その宇宙には何千億個の星、いや小宇宙、銀河系宇宙のようなものが、何千億個あり、そして銀貨系には、そこにまた何千億個の星があります。この中で地球のような星、即ち惑星、これは光を放っていませんから、存在は見えないはずです。小さな小さな、もう小さすぎて目にも入らないような、そんな小さな地球です。 そしてその地球の上に60億の人が住んでいます。その60億の人の中の、私は、アジアの日本の神奈川県の横浜市の栄区の公田町の415番地の7に住んでいます。ちゃんと住所はあるのですが、しかし天から見降ろした時には、ピンポイントと言いますが、あまりにも小さすぎて、数にもならないそんな存在でしかない、そんな小さな私という存在です。 でもイエス様はそれを見てくださり、それを決して見逃しなさらないで、そして天から降りて来てくださり、訪ねて来てくださる、ということであります。探し出すこととは、そのようにして私たちひとりひとりを訪ねてくださるのです。 ここにおられる私たち一人一人がそのようにして、既に訪ねられて、既に発見されて、ここに今あるということであります。そのことを見る時に、主が私たちを見つけ出してくださるとは、何と素晴らしいことだろうかと、考えないではいられないのです。 そのことを思った時に、クリスマスに洗礼を受け、その証しが心に残っている1人の兄弟の証しを思い起こしました。その兄弟の証しが、何か今日のところにフィットすると思いました。 この兄弟は神様の前に1度教会に行ったのだけれど、失われた存在になってしまい、再び主に見出されて、救いを頂いて、洗礼の恵みを頂いた、という素晴らしい証しです。それを皆さんに読んでみたいと思います。 「私がキリスト教に始めて触れたのは高校時代です。キリスト教系の高校に入学したため、聖書を贈られました。当時はそれなりに聖書を読んだり教会に通ったりしたのですが、卒業後はずっと教会からも聖書からも離れていました。 そんな私でしたが、特に結婚してからは、自分は無力で罪深く、愛の乏しい男だ、ということを思い知らされる場面がいろいろありました。そんな時に聖書の放蕩息子の話を思い出しました。神様はこんな無力で愛に乏しい自分が帰って来ることを待っていて下さると思うと、申し訳ない気持ちになりました。 ですが、私にはすでに妻があります。そして私が神様を信じて救われても、それは私1人の救いでしかない、妻が救われないのに、私が1人で救われても意味がないと考えていたのです。そう考えるとなかなか教会に通い始めることが出来ませんでした。 そんなある日、妻から「教会に行ってみない?」と言われました。驚きました。それが昨年の9月のことです。私は神様のお導きであることを確信しつつ、本郷台キリスト教会の礼拝に出席することにしました。礼拝の終わりに、牧師の「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも、あなたの家族も救われます。」という言葉を聞いた時、私の心は喜びで一杯になりました。 私が主イエスを信じれば、私だけでなく、私の家族まで救われるということが、私の心を一気に軽くしてくれました。その時点で、すでに私は受洗を決心しました。やがて神様の導きにより、私の妻も洗礼を受けることになりました。妻が洗礼を受けると言った時の驚きと感動は、生涯忘れることは出来ません。」 そして奥様の証しも大変感動です。 「 私は幼い頃から、ずっと円満な人間関係を望んでいました。こう思うのも、家庭環境に問題があったからなのかもしれません。毎日過ごす中で、一番嫌いな時間は平日の夜と日曜日でした。というのは私が小学6年生の時までいた実の父親が、たびたび不機嫌になることが多く、母と些細なことで喧嘩ばかりしていたからです。 そんな日々がすぐる中、母は姉と私に教会に行くようにと勧めてくれました。そこで教えてくれたものは、『人間の心には、白い心、赤い心、黄色い心、黒い心があるのです。』というものでした。 私は黒い心の罪には絶対にならないと思っていましたが、守れませんでした。円満な人間関係を築こうとする度に、いろいろな壁にぶち当たり、悩んでこらえきれなく、『相手が悪いんだ。』と言って、人を裁いていました。 そして、たった1人の友達も、私から背を向けるようになっていきました。そんなことが重なると教会にも行けなくなり、背を向けていってしまったのです。 私はそれから社会人になり、また追い打ちをかけるような寂しい人間関係を見てきましたが、しかしそんな私も主イエス様の救いの恵み預かることが出来、すばらしい結婚にまで導かれたことを感謝するものです。」という証しであります。 神様が心の深い所でうめいているそのうめきに、行き悩んでいるその悩みに、目を留めてくださって、そして声をかけてくださって、教会に導いてくださいました。主は一人一人にそのように今日も目を留めて、今日も手を差し伸べてくださっている、そのことを覚えるのです。 そしてもう一度戻りますけれども、15章9節と10節をもう一度読んでみますと、 “ルカ”
ここに1つ目立つのは、「喜んで下さい」「喜びがわき起こるのです。」というふうに、喜びという言葉が繰り返されていることです。失われた物が見出されるということが、どんなに喜びに満ちあふれることなのか、ということがここに言われています。この女の人にとって、どんなにそれが大きな喜びかが、よく伝わって参ります。 そして先ほどの9節の所ですが、皆さんに集まって頂いて、「失われた銀貨が見つかりましたよ。」と伝えたということですが、でも伝えただけでなくして、私が想像するに、この女性はたぶん集まった方々に大盤振る舞いをしたのだろうかと、そう思いました そしてその大盤振る舞いに使われたお金は、仮になくなった500円の、何十倍、或いは何百倍かもしれません。何千円、何万円も使って大盤振る舞いをして、「皆さん、喜んでください。とにかく失くなった1枚の銀貨が見つかったから、私、嬉しいんです。ですから皆さん、食べて下さい、飲んでください。」とそう言ったでしょうか? それは計算するならば、何十倍かの損失なのかも知れません。でもそれは損失ではなくして、この女性にとって失われた1枚の銀貨は決して500円ではなくして、その500円は、何万円にも価するような、高い高い値打ちのあるものだということです。ですから喜んでくださいと、大盤振る舞いをしたのであろうと思われます。 同じように、イエス様は私たちを探し出して見つけてくださった時には、私たちは、私自身は、取るに足りない人間だとそう思うかも知れません。私自身は、心の中に傷のある者かもしれないけれども、でもイエス様はその私たちを、そのあなたを大切で大切で、かけがいのない1人なのですよと、そう言って下さっているのです。 そして大盤振る舞いをしてまで、もてなしてくださるのです。私が持っている値打ちをはるかに越える豊かな豊かなものをもって、私たちに振る舞ってくださるのです。 そして更に10節を見るならば、「ひとりの罪人が悔い改めるのなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」とあるのです。天の御使いの間でも喜びがわき起こるのです。すなわちそれは天的なものにもつながっていく、やがて天国に行くところにまでつながるものであるということです。 地上での大盤振る舞いは1度で終わるかも知れないけれど、でもイエス様は天にまでそれをつなげてくださり、天国に行くその時まで、あなたの喜びは満ちあふれる希望となって、あなたを満たし続けてくださるんですよ、とおっしゃっておられます。 イエス様が私たちを見出して下さって、私たちに振る舞ってくださるその振る舞いは、そのようにしてその地上からやがて天に、天国にまでつながるものです。主はそのように豊かに私たちをあしらおうとしていてくださるのです。 1枚の銀貨にすぎない私たち、しかしその1枚の銀貨、それにイエス様が目を留めてくださる時に、その中にどれ程の豊かな価値を見出してくださるのでしょか?「わたしの目にあなたは高価で尊い」と言ってくださる、そのようにして私たちに無限の価値を与えて下さる主の目です。 その主が今日も私たちに目を留めて下さって、私たちを発見しようとしてくださる、訪ねてくださるのです。その主にお出会いして、共に主の恵みを頂きたいのであります。 お祈りを致します。 天のお父様 今日、このようにして、あなたがここに臨んでいてくださっていることを覚えて、まことに感謝を致します。 主よ、あなたが、一人一人に今日も訪ねてくださり、今日も私たちにみ声をかけてくださり、そして私たちをあなたが何よりも、すばらしい喜びの対象としてくださる、そのあなたのご愛を感謝します。お1人お1人に、どうぞ主が豊かに臨んでください。 尊いイエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン! |