| 2002年8月25日 主日礼拝式 “ヨハネ” 1章5節 「“暗闇に輝く光”」 “池田 恵賜師” 宣教メッセージ |
| 感謝します。このようにして、共に私たちの救い主イエス・キリストを今日も礼拝できる恵みを覚えて感謝します。みことばに目を留めていきたいと思います。今朝は
ヨハネの福音書1章5節 からです。新約聖書の157ページになります。 “ヨハネ”
私たちは人生の中で多くの暗闇といえる時期を過ごすのではないかと思います。先日、私は不登校の講演会に行ってきました。昨年から続けている働きですが、今後教会でそのような取り組みを成していけたら良いなと思っています。 そこで、このような情報誌を貰いました。元不登校生による不登校生の為の情報誌ということで、今は学校に行けているが克っては学校に行けなかったという子供たちが、未だ学校に行けずに苦しんでいる人達の為に、自分たちが通ってきたところを書いている情報誌です。 その中に、このように書いている女の子がいます。一寸読みたいと思います。 えーっと、私は現在高校2年生の16歳です。今は普通(のつもり)に学校に行っていますが、中学時代は学校に行っていませんでした。わーっ、言っちゃった。中1の7月ぐらいから高校に入るまで全然行ってなかった。理由は何だろう。友だちとうまくいかなかったというのか。今考えたら軽いいじめだったのかもな。 まーそれは良いとして、学校に行かなくなって最初の頃は、どんどん落ちていった。唯ひたすら辛かったな。詰まんなかったし、自分の生活から学校がなくなって、本当に何もなくなった気がした。無!ッて感じ。学校休むようになってから1年くらいはずっとそんなだったかなー。 浮いたり沈んだり、でも、2〜3年生くらいになると、さすがに「こんなの嫌だ。」となって外に出るようになったんだ。中学には結局行かなかったんだけれどさ。そんでね、充電もしたいし高校に行くかなーってなって、今に至るんだけれど、やっぱり今も昔みたいに何処までも落ちそうになる事があるんだ。 何か良く判んなくなって、ワーってなる。きっかけは有るんだか無いんだか判らないくらいの小さなことだけれど、それが何処までも大きくなって、真っ暗になるんだ。どうしたらいいんだろうなー。最近そんなんが多くて、なんだかなーって感じです。 夜は怖いね。自分が判らなくなる。突然だけど、言葉って大切なんだね。今とてもそう思う。小さい事で良いから、伝えて欲しいんだ。生きている事が怖くなる事がある。何で生まれてきたんだろう。皆死んじゃうのに。生まれた瞬間から死に向かうのに。 永遠に続くものはあるのだろうか。愛。愛は思う人や思われる人が消えてしまっても、変わらないでいてくれるのかな。今はそう思っていたい。きっと誰でも怖い。何も判らないから。それからも続くかもしれない。救いがあるかもしれない。でも、もしも本当に全て無くなるとしたら、そう考えると、いてもたってもいられなくなる。すごく怖い。でもどうにもならない。 生きているものにはどうしようもない。ふとそんな考えが頭の中を一杯にする。何故生まれてきたんだろうなー。ねー、神様。消えてしまっても、会いたい人には又会えるのかなー。たとえ触れることが出来ないにしても、会いたいと願えばいつか願いは叶うのかなー。 形の有るものはいつか壊れてしまうけれど、形の無いものなら壊れはしないのかなー。答えは欲しいけれど、判ってしまったら生きるという意味がなくなってしまうようで怖い。考えても進まないから、とりあえず捜してみよう。 このように書いています。今彼女は高校2年生で、高校に戻っています。又、この前に元不登校生達によるシンポジウムが開かれました。その中で、全て元不登校生たちによって、企画されて、1時間ばかりシンポジウムがありました。色んなインタビュー形式で進んで行く中で、或る一人の元不登校生の男の子がこんな事を言いました。 「今振り返ってみると、僕が不登校から立ち直れたのは、僕が不登校になった時の親父の一言です。親父は僕にこう言った。『この世の中の誰がお前を見捨てても、お前を認めなくても、私は絶対にお前を見捨てない。』そう声をかけられた時『何を言ってんだ、親父。』と思いました。 でも、それから何年も不登校になって、引きこもって、自分の価値が全く無いような、そんな思いに駆られた時に、何度もその言葉に救われた。そして、私はその言葉で立ち直る事が出来た。」それを聞いていたシンポジウムを企画した司会者が本当に感動して涙を流さんばかりに「良い話しをありがとう。」と言ってました。 私たちは、色んな事で傷つき悩みます。今不登校生が全国に13万人以上居ると言われています。心の優しい子ほど悩んでしまうのかなー、傷ついてしまうのかなーと思います。しかし、誰しも人間ならば、心に傷を持っていたり、過去に犯してしまった失敗や過ちに苦しんだりするのではないでしょうか。 あの時、こうしてなければよかったなー。あの失敗が無ければ、今もっと楽な気持でいれたのになー。特に子育てをしているお父さんお母さんは、あの時あの一言さえ言わなければ、あの時にこうしておけば、そんな過去の失敗、過ちに捕らわれてしまうのではないでしょうか。 私たちにはそのように隠しておきたい、消し去ってしまいたい過去があります。心の中に光を当てられたくない暗闇があります。それに蓋をしておければいい。忘れ去ってしまえればいい。でも、時にそれが私たちの心を占めていって、私たちの心を縛ってしまうのではないでしょうか。 又、問題が大きければ大きいほど、過ちが大きければ大きいほど、それが私たちの人生に大きい陰を落としていく。今日の聖書の個所は「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」私たちが心の中に持っている暗闇を持ちつづけるならば、それは私たちの人生を縛り、私たちの長所も良さも縛っていって、やがては全てを縛ってしまう。 私たちは何としてもこの暗闇から開放される術を知らなくてはいけないのではないでしょうか。 私も牧師の息子として育って、さまざまな暗闇があったなーと思います。皆さんの中で学生時代にクラスにクリスチャンの友だちが居たという人はどれくらい居ますか。手を上げてみてください。あー、居ますねー。じゃー、その中で私のクラスの中に牧師の子どもが居たという人は手を上げてみていただけますか。あー、何人かいますねー。嬉しいですねー。 私は小学校で唯一牧師の息子でした。その事を知られるのが嫌でした。何か、牧師というと日曜日しか働いていないようなイメージがありまして、「お前の父ちゃん、月曜日から何やってんの。遊べていいねー。」というようなことを言われて喧嘩になった事もあるのですが。 クラスが変わるたんびに、「ねー、池田君のお父さん牧師なんだって。」とくるわけです。もー、毎年毎年同じ事を聞かれて嫌でした。自分から言っていないのに何で知っているんだろうと思いました。そしたら、後で判ったのですが、クラスが変わると親の懇談会があります。私の家の場合必ず父親が行くのです。父親が行ってそこで「私は牧師でして、・・・」と言うそうです。 それを聞いた親は家に帰って「ねー、ねー、あなたのクラスの池田君て居るでしょう。お父さん牧師らしいわよ。」もう次の日から人だかりが出きるわけです。そんな感じで、特異な子供時代だったかなーと思うんです。日本人の牧師に対するイメージ、牧師の子どもに対するイメージはすごくいいんですね。 良い事をして当たり前、「やっぱり、牧師の息子さんだから。」と言われるのです。それで、小学校時代はいい子を演じなければいけないと思って居ました。でも、やがて中学校にあがっていくと、段々とそれだけでは済まなくなってくるのです。自分の本音とか弱さとかが出てくる。今までは誤魔化して周りの期待、親の期待に沿うように生活する事が出来たかもしれない。 でも、段々とそう出来なくなってきた。高校受験を控えたあたりから、過去からたまってきた物が出てきていました。先ずこんな形で表れました。お金に対して弱かったですね。お金を親の財布の中から盗んではゲームセンターに行ったりして遊んでいました。 又、当時私は返済なしの長期無断借用と呼んでいましたが、お店から一寸物を持ってくるということをしていました。俗に言う万引きという行為です。周りの人たちは「いい子だ。いい子だ。」と見ている。でも、それを演じきれなくなった時に、一番苦しむのは子どもなのかなーと思います。 賭け事もしましたし、人を傷つけるという事も平気で行うようになっていきました。部屋の中には親のお金を盗んで買ったものやお店からそのまま無断借用してきた物で満ちていました。とても中学生の買えるようなものでない。あるとき見かねて父がそれを問い質しに来ました。でも、私はその場限りの嘘をついて誤魔化しました。 それでも私は日曜日には教会に行っていました。教会に行くと「私たちは罪人です。」というメッセージがありました。でも、そんな話しを右から左に流しながら、どんどんと自由な生活を送っていました。当時の私を振り返ってみると、とても辛かった事があります。それは聖書を読むことでした。 聖書というのは私たちの罪を真正面から取り扱ってきます。もし、聖書に罪に対する解決の道が示されていなかったらこんなに読みたくない、こんなに厳しい書物は無いわけです。私たち一人ひとりの心のひだひだにある、忘れかけているような罪までも思い起こされるから。でも、幸いにして聖書には罪を示すと同時に罪からの解決の道があった。 そしてもう1つ、「罪を持ちつづけると、あなたの人生はどんどん縛られて自由でなくなって行きますよ。」というメッセージがあった。罪を犯しつづけていた頃の私は決して自由ではありませんでした。確かに、人や、先生、学校からは縛られずに生きていたかもしれません。でも、ほかの色んな事に縛られていました。 ゲームはゲームセンターに行って、人からお金を盗ってまでやろおうとする。親の金を盗んでもやろうとする。友達の期待や目に沿おうとして一層悪い事をする。自分自身のプライドに縛られていました。その当時の私は、何よりも光の下に出て行くことが怖かった。何か1つばれそうになると、その事を隠すために嘘という壁を作ってそれを隠そうとしていた。 そんな私が或る時「ミスった。」と思ったのですが、お店を出るときに呼び止められました。そのまま振り切って逃げる事も出来たのですが、何故か逃げませんでした。盗んだものを返して、親が呼ばれました。父親がやって来ました。そして父親が頭を下げている姿を見て、その時に初めて「アー、自分はなんて罪深いのだろう。」そのように思いました。 又、誤っている姿を見て「これが聖書の言っている神様の愛なのかもしれない。」そのように思いました。自分の罪と神様の愛との間の中で「こんなに汚い自分が神に赦されるんだろうか。」汚い自分自信の内側を嫌というほど見せられました。それまで隠してきた罪という罪がその時に明らかに私の心の中に甦ってきました。 こんな汚い自分は生きていても仕方が無い。そのようにも思いました。何処にも出口の無いような暗闇でした。しかし、イエス様は「そんなどん底にいて、何処にも光が無い、私より不幸な人間は誰も居ない。」そのように思った私の更に下に降りてきて下さって、私に光を当ててくださった。 イエス様はその時に一つのみことばを以って私を救ってくださった。それはマタイの9章(2節)にありますが「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」私はこんな汚い自分はいない。誰からも愛されない。誰からも救いを受けることは出来ない。そのように思っていた私に「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」とイエス様は語ってくれたのです。 この時初めて「あー、私のこの罪がイエス様を十字架につけたんだ。」十字架のメッセージは何度も聞いていた。神様があなたを愛していますということも何度も聞いていた。でも、私のこの内側にあるこの汚いどうしようもない部分をイエス様は担ってくださって十字架にかかって下さった。だからイエス様は私に向かって「あなたの罪は赦された。」「あなたの罪は私が負ったから、あなたはもう安心していいんだよ。」そのように語ることが出来たのです。 イエス様は神の子としてこの地上に来てくださいました。この地上で、30歳の時から3年半かけて弟子達を訓練されました。しかし、イエス様が訓練した弟子達はイエス様を裏切ってイエス様を十字架につけました。イエス様が十字架につけられた時に、外の弟子達はイエス様を見捨てて、逃げていってしまいました。 イエス様は唯一人になって孤独を味わわれて、その中でなおも、私たち全人類の罪と向かい合ってくださった。私は自分自身の内側、自分自身の罪を自分の醜さというのを見ることは出来ないと思います。自分が今までに傷つけた人たち、自分が今まで考えてきた醜い考え、それらをもし、神様が残らず見せられたとしたら、私はとても耐える事が出来ない。 でも、イエス様は一人の人の罪ではない、全人類の罪をその時にご覧になって、それと真正面に向き合ってくださった。そして、その罪を背負って神からの裁きを受けた。聖書にはっきりと「罪からくる報酬は死です。」と書かれてある。これは霊的な死を意味しています。永遠に存在される神と引き離されて、裁かれるという裁きを表しています。 罪を持っている私たちは神様から裁きを受けて神から永遠に引き離されなければならなかった。でもその罪をイエス・キリストが身代わりとなって背負ってくれて、神から引き離されるという裁きをイエス様がその身に受けてくださった。この永遠なる方から引き離されるという裁きの意味を一番良く知っておられたのはイエス様でした。 ですから、イエス様は天の神に向かって「神様、出来ますならどうかこの杯を私から取り除けて下さい。」と祈らずにはおれなかったほどの裁きです。しかし、イエス様は十字架に架かって神からの裁き受けて下さった。 イエス様は先ずローマの兵たちによって39度の鞭を受けます。鞭の先には動物の骨や石ころが埋め込んでいて、もし40回打つならば、打った相手は死んでしまうから40に1つ足りない39回で止めておきなさいとローマの人たちが法律で定めるほどにきつい刑です。一回鞭が振り下ろされる度にイエス様のその罪の無い背中が赤くはれ上がり、皮膚が裂け、肉が飛び出し、血が飛び出していった。 イエス様は39回の鞭を私たちを救うために受けてくださった。そして、それだけでは無く、周りにいる人々からのけ者にされ、馬鹿にされ、唾を吐きかけられた。その頭には棘の冠が被せられ、頭から血が流れる中、背中が裂けるような痛みの中、イエス様は自らが架かる十字架を背負わされゴルゴダの丘へと向かいました。 ゴルゴダの丘に着き、十字架の上に寝かせられ、両手と両足に太い釘を打ち付けられた。打ち付けるたびにイエス様の叫び声がゴルゴダの丘に響く。やがてローマの兵はイエス様が打ちつけられた十字架を用意してあった穴に立てようとします。十字架がその穴にストンと落ちた時に、イエス様の全体重が両手と両足に差された釘にかかります。 ものすごい痛みです。皆さん、十字架によってどのように人が死ぬかご存知ですか。十字架はこの世に存在する中で最も残酷な刑の方法だと言われています。両手と両足に釘を打たれて、垂れ下がった状態になって、架けられた人は生きるためには呼吸をしなければいけない。しかし、息をする為には懸垂のように自分の体を持ち上げなければ息をする事が出来ない。 両手両足からはどんどん血が流れていく。体力が奪われていく。そしてその最後には自分で自分が呼吸する事を放棄して死ななければいけない。そのような苦しい惨い刑です。イエス様の両手両足に全体重がかけられ、痛みの只中にある中にあってイエス様を十字架につけた人々、イエス様を裏切った人々を前にして、イエス様は祈られました。 「父よ、彼らを赦したまえ。父よ、池田恵賜を赦したまえ。彼は何をしているのか判らないのです。」イエス様は自分を十字架につけた罪人を前にしてそのようにして祈って下さった。イエス様ご自身は何一つ悪い事をしていませんでした。罪の無い神の一人子でした。でも、この私を、罪という暗闇に縛られてがんじがらめになっている私を救うためにイエス様は十字架にかかって下さった。 そして、その痛みの中で「父よ、彼らを赦したまえ。池田恵賜を赦したまえ。」神様の前にとりなしてくださった。「わたしがあなたからの罰をこのようにして受けますから、わたしが身代わりとなるから、どうか彼を救って下さい。どうか彼に裁きを与えないで下さい。」そのように祈って下さった。 私はこのイエス様の愛に出会ったときに、このイエス様の十字架に出会ったときに、新しく作り変えられました。そして、多くの暗闇がありましたけれど、その暗闇から解き放たれました。もし、神様が清いだけの神様であったとしたら、私にとってこの神と出合った事は不幸な事でした。この清い神様の前に、罪を赦す事の出来ない神様の前に、自分の罪を示され、自分の失敗を悔やんで一生を過ごさなければならないからです。 でも、この清い神様は愛なる神様でもありました。この、神様の愛はアガペの愛です。価値なき者に与えられる愛です。私がどんな人間であったとしても、どんな失敗をしたとしても、どんな過去を持っていたとしても神様の愛から漏れる人は一人もいない。 そして、その神の愛はイエス様の十字架のうちに全うされます。キリストは2000年前に私たち全ての罪を背負い、十字架に架かってくださいました。ですから、神はこのキリストにおいて私たちを赦す事ができるのです。もう何も、私たちを縛るものはありません。 あなたはキリストにあって新しい人生を歩む事ができるのです。あなたが、もし自分の罪に気付き、自分の弱さに嘆く時に、是非知って頂きたいと思います。神様があなたの直ぐ傍にいるということを。聖書は言っています。「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」 今、神様の前に共にお祈りをしたいと思います。夫々その場でご起立いただいて、神様の愛に応えて祈りの時を持ちたいと思います。どうぞ、目を閉じて頂いて神様の前に出たいと思います。 今、あなたがどんなに大きな人生の壁にぶっつかっていたとしても、出口なんか何処にも無いような迷路に迷い込んでいるとしても、誰一人として助けてくれる人がいなく、一人で暗闇をさまよっているような人生であったとしても、又、私はこんなに大きな罪を犯してしまったと過去の失敗や罪に縛られていたとしても、大丈夫です。 キリストがあなたの為に、あなたに新しい人生を与えるために、死んで甦ってくださいました。このキリストによって、私たちは暗闇から開放された人生を歩む事が出来るのです。私たちは暗闇の中を彷徨っていましたが、それは決して私たちを自由にはしません。 或る人は光の中に来る事に恐れを覚えるかも知れません。そうです、光の中に来るには勇気が要ります。しかし、光の中にあるのは赦しと愛です。光の中には、又自由があります。過去の失敗に縛られず、自分の弱さに捕らわれず、あなたの内にある本当の良さを生かすことの出来る人生がそこにはあるのです。 今、この光の下に一歩踏み出したいと思います。しばらくの間、夫々お祈りしましょう。 愛する主よ感謝致します。あなたが私たち一人ひとりにアガペの愛を、価値なき者に与える愛を与えてくださっている事を感謝致します。今私たちが心を開くならば、あなたは直ぐにでも私たちの心に入ってきてくださって、私たちを縛っていた過去の罪から私たちを解き放ってくださいます。 私たちがどうしようもないと諦めていた自分自信の弱さからあなたは解き放ってくださいます。どうか今みまえで祈った一人一人に応えてください。そして、新しい人生を歩む事ができるように。「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」とあります。どうかみことばが真実である事を、みことばには力があることを私たち一人ひとりが体験する事が出来ますように導いて下さい。 今この中に、苦しみの中にある人がいるでしょうか。悲しみに沈んでいる人がいるでしょうか。あなたからの力を必要としている人がいるでしょうか。過去の失敗に縛られて悩んでいる人がいるでしょうか。今光を当ててください。そして、あなたの光の内にある赦しと愛と自由を与えて下さいますようお願い致します。 感謝いたします。あなたのみ手にお委ねしてイエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン! |