| 2002年9月1日 主日礼拝 使徒16:29〜34 収穫のために何をするのか1「期待する」 池田 博師 宣教メッセージ |
| 今日のメッセージのみ言葉をお読み致します。今朝は使徒16:29〜34をお開き下さるようにお願い致します。新約聖書の240ページです。
使徒
はい、聖書は以上であります。今日は9月ですね。暦の上では秋、それは収穫のシーズンであります。今年「収穫の年」と言うことで私たちたちはビジョンを掲げております。「贖われたものが帰ってくる」と言うこの御言葉に基づいて、この1年を取り組んで来ておるわけわけでありますが、今日から何回かにわたって「収穫のために何をするのか」と言うことでご一緒に考え、祈り取り組んで行きたいと思っております。 今日はその第1回として、今読みました御言葉です。そして、今でもなく、今そうだ、この言葉だと言うことでありますが。31節、この31節の御言葉、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と、この所に目を留めて見たいと思います。 まあ皆さんも、ただ知っているたげではなくして、毎日みんなで一緒に祈り、続けておられると思いますけれども、この御言葉を今礼拝毎に祝祷の祈りの中で祝福の祈りとして、主の前に祈っているわけであります。これは多分全国でも、本郷台キリスト教会だけかなと思ったりしているのですけれども、十数年前に1人の姉妹からの熱心な訴えがなされ、そして、祈祷部として提案がなされて、そして役員会で承認されて、でそれを取り入れることになったわけであります。 そして、この御言葉を通して、その祈りを通して、文字通り、家族が救われました。クリスチャンホームになりました。そう言う家庭が次々と起こされております。感謝です。そして、様々な形での、祝福がこの御言葉を通して与えられております。つい先々週もある兄弟姉妹の洗礼の証しを披露しましたけれども、この教会に来て初めての礼拝で、家族が救われると言うその祈りを聞いた時に、ああそれなんだ、と言う兄弟姉妹の中に、1つの確信が与えられた。そして、やがて、夫婦揃って洗礼を受けることができた。 そう言う恵みが身近にあるわけであります。そう言うことでこの御言葉は約束をもたらすことが、色んな形で起こっていることを感謝したいと思います。 今年の標語が「贖われたものが帰ってくる」と言うことで取り組んでいることでありますけれども、その取り組んでいる第1のことは、既に救われた、贖われた中でも、主の前から離れている方々がいる。これ迄も、祈っていなかったわけではないですけれども、私も改めて昨年の暮れに拾い出して見た時に、何と百名近くいることに、本当に驚きました。驚きと言うよりも、本当に何をしていたんだろうかと思いました。 素晴らしい救いを頂いているにもかかわらず、1人1人には色々事情があって、あるいは、問題があって、そうならざるをえない状況があるわけであります。けれでも、その痛んでいる魂に対して、どれほど私たちは真剣に、主の前に取りなしているだろうか。そして、更に、一度救われたのだから、もう一度、主の前に立ち帰るようにと、熱心に祈りつつ、また祈ったように行動をしているだろうかと思った時に、誰よりも、この者自身が、本当に怠っている、祈っているけれども祈り以上に何も、自分の中では、行動になっていない。そのことに、深く反省もさせられたことでありました。 今年はそのことに1つ焦点を合わせて、「先ず贖われたものが帰ってくるように」と言うことで、これまでも、皆さん個人個人がこの人のために、それこそ、古い方々は名前だけで会ったこともない。そう言う方々も含めて皆さんに、祈っているわけです。あるいは、また祈祷部がお助けをして、手紙を作り、様々な形で支援をし、励ましながらこれを進めていくと言う風に来ているわけであります。 今も第2段、第3段として、お手紙を書いて、9月第2主日、まあ来週になるわけですけれども、そのためにも、登喜子師の証し、あるいは先程のボブ・ウィーランドのチラシ等を入れてお送りしたいと願っております。10月には、これに大事な位置づけをしながら、そう言う方々だけでなくして、あそこにリストとして挙げられた名前が多くあるわけですが、その方々の「住所」も頂くと、チラシ等を用意して、そして、それをお手紙として送って、近々、皆さんにもお渡したいと願っております。 具体的にそうした働きを通して、今年神様から迫られたその迫りを私たちも一生懸命応答して行きたい。1人でも多くの人が教会に帰って来るように、取り組んで行きたいなぁ。皆さん病に倒れたり、傷を負ったり、また教会に来られない事情になった時に、背後で祈られると言うことが、どんなに大きな支え励まし力づけになるか、それを私は思うんです。 私は、「自分が今救われて祝福されているからそれでいい。」と言うことでなくして、本当に同じ心をもって痛んでる人に手を差し延べることへの心を私たちは大切にして行きたい、と私はそう思うのです。 そして、今日からの面はもう1つの面です。それは主は、これから救って下さると約束している方だった。その方々が救われるように取り組んで行くと言うことです。救って下さると約束して下さっているお方への私たちのその取り組み。そのみ言葉の代表が、このみ言葉です。 「あなたが救われたら、あなたが信じたら、あなたの家族も救われ、信じます」で、まだ救われていない家族があるわけです。もう家族が救われたから、もうすることはない。そう言うことはないんです。家族が救われたら、親族があるわけで、そう言うことも含めて考えたいと思います。まだ救われてない家族に対して、この言葉は、もう救われます、私の目には救っているのだと、そう仰っているわけです。だから、既にその約束の中で救われていますから、その救われている魂にあなたは仕えなさい。主の元に連れて来る約束を果たすこと。それは、さあ皆さんに掛かっているのです。そして、期待されているのです。そこに目を留めたいと思います。このみ言葉を私たちは括弧の中、何時もこうして祈っているのです。 今日はその背景を見て見たいと思います。そのことで論議したのであります。この言葉が語られた背景を見て見ますと、何かとっても普通でない状況の中で、これか゛語られていると言うことが分かります。直接的にこの言葉が語られたのは、牢の番人、看守に対して、パウロとシラスが語った言葉です。 牢の番人、看守。牢に入れられる人達、いずれ何をするか分からない、そう言う罪人たち。犯罪者であります。そう言う人達を扱う看守ですから、どんなにか、仕事の上でも緊張が、走っているだろう。精神的に張りつめて仕事をしている仕事かなぁと思います。 看守はそう言う仕事をしながら、それまで恐らく一度も福音に接したことがなかっただろうとそう思います。その看守が福音に接していく経緯があるわけですが、今少し端折りまして、29節から読みましたが、それより前に目を留めて行きますと、パウロとシラスがピリピの町で熱心に伝道してました。 御覧のように看守が救われた時に、その占い師を通して金儲けをしている者たちが、それが出来なくなってしまうので、それで牢にぶち込んでしまう、と言うそんな異常事態が起きたわけです。 ところが、その真夜中に大地震が起った。その大地震の結果、牢の扉が全部開いてしまう。しかも鎖が解けてしまって、そこにいた囚人達がみんな逃げ出すことが出来るようになってしまった。 そう言う異常事態、看守がはっと気が付いたら、もう当然囚人達はみんな何処かに行ってしまっただろうか。吃驚仰天してしまったわけです。そして、彼はその仕事の厳しさからと思うんですけれども、大地震と言う異常事態の中で起こったこと。だから赦されていい筈。と思うんだけれども、彼はそう思わなかった。 もう、それは死刑以外にないであろう、と思って、それならば、自害しょう。まさにそれをしようとした時に、パウロとシラスに止められたと言う、そう言う経緯があります。 この看守が我に返ってみたら、驚いたことに、当然逃げて、蜘蛛の子を散らして逃げた筈の囚人達が、誰1人逃げていないで、何とそこにいるでした。そして何故そうなったのか。彼も経緯を看守として、見ておりましたから、分かりました。囚人を指揮していたのはパウロとシラスであったのです。 まあ何か嵐が吹き荒れた1日であったと思います。何がどうなったのか、誰も分からないような、重大事、不思議なことがあって、今ここに来ているわけであります。その中でパウロとシラスは、本当に主に信頼していましたから、本当にその心は平安であったと思います。 でも、平安であったと思いますけれども、そのパウロとシラスにしても、私は改めて考えて見た時に、この少し前の16章の9節に、彼らは本当はアジアで伝道していたことがわかります。そこで、一生懸命にあちらこちらと、迫害を受けながら伝道していた時に、ある晩突然「ある夜、パウロは幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が彼の前に立って、『マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください』と懇願するのであった」と言うその声を聞いた。そして、聖霊がそのように導いて行ったので、このパウロと一行は、道を変更して、伝道計画を変更して、そして、海を渡って、マケドニヤに渡って行った。そしてピリピの町に行ったと言うことであります。 そして、そのピリピの町に行って伝道していたら、何とそこで捕らえられてしまった。牢にぶち込まれることになった。むち打たれることになってしまった。マケドニヤの叫びを聞いて来たのだけれども、だけれども、そこに起こっていることは、「助けて下さい」と言うその声が、果たして誰なのか、そこではもう、群衆がいて、「話して下さい、私たちに救いを示して下さい」と言うような大観衆がいるような、そんな印象を持つような、経緯があったわけです。 現実は決してそうではなかったわけであります。そして、捕らえられてしまうと言う異常事態の中にあって、パウロとシラス自身は、ああこれはどう言うことだろうかとか、心に半信半疑が起こっても、まあ当然かなぁ、と思い、しかもむち打たれました。ここに服がはがされて、何回打たれたか書いてないですが、肉が裂け、血が流れて、そして、囚人に対するむち打ちですから、薬も何も付けない、手当も何もない中で、そのまま、牢にぶち込まれてしまって、しかも動けない足かせをはめられてしまった、と言うことであります。 ふと私は自分に置き換えて、こんなことになったら、どうしただろうかと思いました。私の口からは、神様に楯突いたのではなかろうか。「何と言うことですか!来なさいと言うから来たのではないですか!この事態は何ですか!」神様に楯突かなくても、弱り切ってしまって、信仰も何もない。どうでもいい。と言う自暴自棄になってしまっただろうか。いずれにしても、私は自分に置き換えて、考えることが出来ないことでした。 囚人達や看守達も大いに驚いたけれども、パウロとシラスの立場に立ったとするならば、私は驚きが頂点に達したと思います。異常事態の中にあって、考えられない事態の中にあって、マケドニアの叫びがあって来た。マケドニアの叫びは誰なのか。誰が助けて欲しいのか。何処に福音を語らなければならないのか。体がどうなろうと、状況がどうなろうと、彼らは唯1つ主の声を聞いた。しなければならないことを聞き従う姿勢を彼らは決して崩していない。主に期待していることを止めない彼らの姿を見るのであります。 そして、そのことは、牢の中での彼らの行動の中に現れているかなぁと思います。使徒の働きの16章の25節。 「真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ讃美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた」 24節からみますと、「この命令を受けた看守は2人を牢の奥に入れ、足に足かせを掛けた」「真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ讃美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた」とあるわけであります。 彼らは肉が裂け、血が流れている、足かせを掛けられて、どうしょうもない中にあって、でも彼らの心は縛られていなかった。彼らの霊は閉じこめられていなかったです。監獄の中にあっても主を讃美していた。主が彼らをここに遣わされた御目的は何があるんでしょうかと言う期待の中で彼らは讃美していた。お祈りをしていた。 まあ状況から、普通なら、何でこんなことになった、と言うのが当然です。ですから、周りの囚人達は、この人間達は何だろう。肉が裂け、血が流れているんだけれども、不当にここに閉じこめられた様だが、それを呟くどころか、不平不満もいわない。 いやそれどころか、讃美を歌っている。これは何だろう。そのような奇異な状況に、この人達は変人かなぁ。そのように最初は見ていたかも知れません。でも、その囚人達が、彼らの讃美と彼らの祈りと、あるいは彼らの証しがあったでしょう。その1つ1つは彼らに段々と心に浸みいるように届いて行ったのでした。 そこには聖霊が働いた。彼らの心は既に捕らえられていた。そして、次に起こったこと、それは、主の深い配剤のなかで起こった大地震です。それ以外に考えられない大地震です。 そして、牢が全部壊れてしまって、扉が開いてしまって、鎖が解けてしまうと言う異常事態がありました。でも、たとえそれがおきても、囚人たちは、最早、心が捕らえられていました。このパウロとシラスをもっと聞きたい、もっと側にいたい。その思いで彼らの心がすっかり捕らわれていました。 そして、その光景を見ていたのが、看守であります。その看守のことが29,30節でありますけれども、「看守はあかりを取り、駆け込んで来て、パウロとシラスとの前に震えながらひれ伏した。 そして、ふたりを外に連れ出して“先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか”と言った」 看守にして見れば、パウロとシラスは囚人です。でもその看守がパウロとシラスに対して、「先生方」とこう言っている。そこに如何に、この看守の心が既に聖霊に捕らえられていたか、囚人達の変化と共に、彼の変化がここに明らかであります。 そして、さらに驚くのは、その先に「救われるためには、何をしなければなりませんか。」と言っている。一度も福音を聞いたことのない、福音が何であるかも知らない、その看守がこのようにして、瞬時に聖霊によって捕らえられている。そして、その看守に対して2人は『主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます』とこう言っている。 で、この言葉でありますけれども、まず何故「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたは救われます」と言わなかったんだろう。何故ならば、ここに家族はいないのです。そこには看守しかいないのに、どうして家族のことを言っているのだろうか。そう思いました。 信仰はあなたが主を受け入れるか否かの決断ですね。ですからあなたはどうして信じないかと問うのが当然ですね。でも、ここでは家族も救われると言っている。そして、もう1つ心に留まるのは、2人とあります。パウロが言ったのではない。シラスだけが言ったのでもない。2人口を揃えて「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」 こう言っているのです。 前以て、暫く前に今度口を開いたら、きちんと口を合わせようね、暗唱聖句みたいに言ったか。そうでもないと言えない言葉をここで言っているわけです。 と言うことは、この2人パウロとシラスは常々何時も呼びかける時、さぁ「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもは救われます。そしてあなたの家族も救われます」 これがもうこの2人が語る言葉なんだなぁ。勧める言葉だなぁ。とこう思うわけです。 ピリピの2章14節以下にルディヤのことが出てきます。ルディヤが心開いた時にルディヤだけなんですけれども、ルディヤの家族も洗礼を受けると言うことが、その次の15節を見れば分かります。このようにしてルディヤとその家族が洗礼を受けている。こうして見る時に、ああ約束はこの世に与えられているんだなぁ、と言うことを思います。 その約束の素晴らしさは今度は行動に現されるのかなぁ、と思いました。で32節に「 そして、彼とその家の者全部に主の言葉を語った」とあります。だから洗礼を受ける時に、その誰かが救われたら、もう信じるか信じないか関係なく、キリストが誰か分からなくてもいいから、兎に角洗礼を受けなさい。そう言う事ではないと言うことが分かります。 でも1人だけでない、あなたが救われるのは、家族の祝福なんだ。と言うことが如何に浸透しているかなぁと思いますね。皆さんが少し考えた時に、誰か家族の中の1人がよいことがあったら、みんな家族で喜びます。褒美を貰いました。表彰されました。みんなの喜びですね。それが当然です。嬉しいことがあれば、みんなそうです。同じように、主イエスを信じた時の素晴らしい祝福、家族の誰かがそれを頂いたならば、それは家族のみんなの当然の祝福。 でも、何故か日本では、特に、と言ったらいいのでしょうか。何となく信仰と言うのが、マイナス・イメージで考えられる。ですから、どこかで、信仰は弱い者がする。あるいは信仰を公にすれば、仲間外れにされてしまう。そんな思いを持っており、日本には古来から仏教があるから、余り公にすると、物議を醸し出すと言うことでもって、一寸引いてしまっているようですね。自分自身のことを考えると、いや私も信じたけれども、何時まで信じていられると言われると分からない。と言うこともあるだろうか。 それら全てはサタンのわなです。サタンの巧妙さです。私はもっとこの救いを喜んで家族に伝えたい。家族が救われるんですよ。ご褒美を貰おうが、それはそれで嬉しい。みんなで喜んでも、それは一時の喜びでしかないのです。しかし「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」 この素晴らしい祝福は、この地上でなくして、永遠のものであって、天国まで続くと言う素晴らしい祝福ですね。私たちはもっともっと最高の喜びを持つべきではないでしょうか。そして、その喜びは単に私の感情ではなくして、み言葉に基づいているのですね。 ヤコブ書の1章の21節、そこを開いて頂きたい。「みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。」 私たちの救い手は、一時的なものではないし、感情的なものではないし、み言葉によって、神の言葉によって、聖書の約束の中で与えられることなんです。皆さんそこの素晴らしい祝福、ヤコブ書の素晴らしい約束。皆さんの家族は、必ず与えられるのであります。
お祈りを致します。 天のお父さま、今日このようにして、あなたが備えて下さいました恵みの時を感謝いたします。 1人1人の道にあなたが、なお届いて下さって、約束のそのみ言葉の成就を心から願いつつ、期待しつつ、歩む者として下さるようにお願い致します。 主に期待し感謝し、み名によってお祈り致します。 アーメン |