| 2002年9月8日 主日礼拝式 “ルカの福音書” 8章43〜48節 「“決断から開かれる新しい世界”」 “池田 登喜子師” 宣教メッセージ |
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今日のメッセージ題は”決断から開かれる新しい世界”となっています。 日本人は中立が好きだ。中立を知性的、理性的と尊敬する。事象、中立も結局1つの見方が出来るという事に過ぎない。日本人の中立思考の中で最も始末の悪いものが思想的、宗教的中立である。神の存在は信じるが特定の宗教に偏りたくないとか、クリスチャンだが他の全ての宗教も対等に認めるという立場。 ところが、この考え方自体が立派な偏った宗教観である。真理は中立にあるのではない。実際聖書は中立を赦さない。神かサタンか、天国か地獄か、いのちか死か、その中間は無い。中立思考とは「自分は問題に拘わりたくない、泥をかぶりたくない」という意思表現にほかならない。日本人の中立思考は現実逃避、責任回避の手段なのではなかろうか。自分のいのちの問題に中立なんて赦されるはずが無い。 ここまで読みまして、私は考えさせられました。もっと私たちは神様の前に一人真剣に立つ瞬間すなはち決断の時を重んじる者でありたいと考えさせられました。誰かを気にする、何かを気にする。自分がこういう風に決断して歩みだすと、このことが起こる、あの事はどうなるだろうか。 そういうことが、いつも私たちに付きまといますが、でも、神様の前に一人で真剣に立つ瞬間が有っていいなーと思います。それは決断の時だと思うのです。そして、その事を本当に信じる者でありたいなと思いました。曖昧で躊躇する心、この心をいつまでも持ち続けてはならないということをつくづく感じさせられました。 決断といったって、「誰に何を決断するのか」という事が起こってくると思います。けれども、主イエス様に信じ従う決心が私たちの生活に新しい世界を開く事実を私自身も体験しています。今S兄弟もそのようにおあかし下さいました。 そういうことを考えてみる時に、イエス様に信じ従う決断と申しましても、そのイエス・キリストとはどういうお方なのでしょうか。私とどのような拘わりをもって下さるお方なのでしょうか。私とイエス・キリストと関係があるのだろうか。 さて、そのイエス様がどのようなお方であるのかをご一緒に見たいと思います。聖書をお開き下さい。今朝は ルカの福音書8章43節から48節 です。新約聖書の117ページになります。
このルカの福音書は56節まである、とっても長い章です。でも、興味深く思ったことですが、この長い章の22節以降から最後の56節までに4つの奇蹟の話しが続いて出てまいります。しかもその4つのことは、そのどれをとっても私たちの人生に非常に大きな力を持つことなんです。 先ず22節以降初めに出てくるのが自然の力ということです。次に出てくるのが悪霊、そして次に死、私たち人類に必ずやって来る死の問題です。最後に病気です。この自然の力、悪霊、死、病気という4つのテーマを次々とルカはここに取り上げています。 自然の力は時に脅威すら感じさせる驚くべきものです。そういう事を考える時に、私はいつも思い出すことがあります。それは、しばらく前のことになりますがあの普賢岳の噴火、その時に、確か24名だかの犠牲者が出ました。 忘れられないのは、島原の市長さんが髭もそらないで、ヘルメットをかぶって、汚れた顔をして、いつも駆けずり回っていて、インタビューを受けた時に、疲れた顔で、煙の出ている普賢岳を見詰めながらこう言われた言葉が今も心に焼き付いています。「自然の大きな力の前に人は何も出来ない。人間の小ささを身にしみて感じています。」 人間のどんな知恵も努力も、この自然の力の前にはどうする事も出来ない。でもその自然の猛威の嵐の中で、いまにも沈みそうな小船に乗った弟子達がいました。波をかぶり、舟はどんどん水が増してきます。彼らは死の危険を感じ始めました。そこにはもう人の力は及ばないのです。 そういう自然の力の前で、言い知れない恐怖におじまどう弟子達がそこにおりました。主イエス様はまさにその時、そのところに拘わりを持ってくださいました。心が騒いで不安と恐怖の荒波におじまどう弟子達をかばって、湖に向かって申されました。「静まれ。黙れ。」命じなさったその時に、凪になった。 「一体この方はどなただろう。風も海も従わせるとは。」おじまどっていた弟子達が静かになった湖を見詰めているその眼が浮かびます。主イエス様とはどういうお方でしょうか。主イエス様は自然界をも支配したもう、その御権威を弟子達は身をもって体験したのです。 ところで、私たちの人生の海の嵐、これは私たちの生活の中でも起きる事です。この夏でしたが、一人のご婦人の方と話す事ができました。或る晩、自分を呼ぶ夫の声に目を覚ました。実はその御主人は「明日は早いぞ。6時に家を出なければならない。朝食、早いけど頼むぞ。」と言って、たくさんのプランを奥さんに話しをして、スケジュールを話して休んだそうです。 ところが、その夜中に、ご主人の呼び声に目を覚ました。「トイレに行こうと思って目が覚めたけれども、手が動かない。足が動かなくなっている。足も手も動かないんだよ。」「まさか。そんなことが急に起こるはずが無い。」抱き起こしてあげようとするんですがどうにも動かない。突然のことです。寝ている間のことです。 急いで震える手で救急車を呼びました。行ってみたら、何万人に一人という難病である事が判って、ずーっと入院になってしまいました。人に話してもどうすることも出来ない事、人生の中に起こってくる嵐、私たちはそれを何処にもっていくでしょうか。もっていき場所をお持ちでしょうか。 この方は、戸惑いと不安の心を抱いて教会の門を訪ねました。叩きました。そして、そこで祈ってもらいました。今この中にも、静に心を省みて「今まさに私はその中にいます。」という方がおいでかも知れません。小さい波かもしれない。大きな波かもしれない。あなたがもし願われるならば、主イエス様はそのあなたの嵐の中に拘わりを持ってくださいます。 「私たちを助けて下さい。」弟子たちはイエス様の名を呼びました。その嵐の中で、もし、あなたが助けられる事を主イエス様ご自身のみ名を呼び、この方に助けていただこうと決心なさるならば、あなたの所に主は来てくださいます。そうして、最も最善な方法で「静まれ。黙れ。」とおっしゃって下さいます。 主イエス様はこのようなお方です。そして、26節からを見ますと、今度は悪霊に憑かれた男の人についてルカは書き記しています。自分の体を傷つけています。彼の体は傷だらけでした。人を寄せ付けない、人も寄り付かない。ついに鎖に繋がれて、彼は墓場を住まいとして、しかも日夜わめいていたとあります。 考えてみてください。本当にみじめな人生ですよね。なんて孤独な人生であろう。そこに私の身を一寸でも置いて考えると、そう思います。悪霊の支配の中で心と体の自由を奪われている状態です。そして、喚き人生の只中にいるその人のところにイエス様は来られたのです。 その男を孤独にしてしまっている根源に触れられました。それに対して「この人から出て行け。」この人の人生を孤独にし、狂わせている根源をイエス様は根こそぎにして下さった。主イエス様はその男を束縛から開放し、癒しを与えて、祝福の人生へとお移しになったのです。 イエス様はあなたや私にとってもそういうお方です。何処かで私たちはポイントが狂ってしまって、願い通りにならない人生、思った通りにならない時があります。ポイントが狂ってしまって、自分が願っていない生活がずーっと長く続く時に疲れ果ててしまいます。 そんな時に良く起こることは、自分の心をぴたっと閉ざしてしまう。そして、自分自身を傷つけてしまうのです。そして、喚くより仕方の無い人生だと諦めてしまうのです。心に自由がなくなり、鎖に繋がれたかのような不自由な精神生活、そこに囚われやすくなってしまいます。 喚き人生の惨めさはそこにあります。しかし、私にも、そしてあなたにも実はとても良い人生、祝福の人生の設計を持っておられる方がおられるという事を思い出して頂きたいと思います。いや、心に留めていただきたいと思います。それを受け取って欲しいと愛の手を伸べておられるのが主イエス・キリストです。 イエス様はあなたに良い人生を、イエス様は私に祝福の人生を設計しておられ、それを持っておられます。主よ、その人生の祝福を私に下さい。主はそれを与えようと待っておられるお方です。 40節からを見ますと、そこにはヤイロという方の12歳のお嬢さんが亡くなるという出来事が起こっています。死の問題です。死がやってきたら、人間はどんなに偉そうな事をいっていても、どんな良い事を考えていても、或いは、その人にどんな権力があっても、どうする事も出来ないのです。 よく人は死の問題を解決しようとします。「死ななくていい道は無いか。」「長生きの道は無いか。」人は死からのがれたいとどんなに一生懸命に逃げても、逃げ切れず、ついに捕まってしまう。これが私たち人間なのです。いつか捕まってしまう。そこで人間は悩みます。それに向かって、その事を考えて人間は悩みます。そして絶望します。ただ泣くより外に無い。 ヤイロの娘が死んだ時にも、イエス様が行った時にはもうそこでは大勢の人たちが集まって、ただ泣き悲しんでいたと52節に出てまいります。そう記されています。主イエス様はその死の問題の只中に来られました。そして「恐れないでいなさい。ただ信じなさい。」こう言える権威をもたれた方は主イエス・キリスト以外におられないのです。 「恐れないでいなさい。」死の前にお立ちになって恐れないなさい、皆死を恐れるのです。しかし、「恐れないでいなさい。ただ信じなさい。」一体どうして下さるというのでしょう。何がイエス様と私たちの死との間に出来るというのでしょうか。しかし、イエス様はそうおっしゃって、娘の死に勝利を与えられました。 ここで一寸死ぬ事について、もう少し入りたいと思うのです。皆さん、死は終わりではないのです。「私は信じます。」聖書はそういっています。死は終わりではないのです。死は永遠の始まりなのです。私たちの肉体を脱ぎ捨てて、霊の世界に生きていく。天の御國に生きていく。永遠の始まりなのです。 イエス様はその全ての人々が罪を犯したために、その罪を御自分が身代わりとなって、十字架の上で死なれました。罪を持った魂は天国へ入れないのです。しかし、イエス様は甦られたのです。そして、永遠の死から私たちを救い出だされるお方なのです。 私たちはいつかこの世から取り去られて、何処かで永遠を過ごす時が来ます。100%全ての人がそうです。私は一体何処で永遠を過ごすのでしょうか。あなたは何処でその永遠をお過ごしになられるのでしょうか。神と永遠を過ごしなされるのか、離れて過ごすのか。 選ぶのは私です。選ぶのはあなた自身です。神は私たちに絶対に超えられない、又神ご自身が尊重なさる自由意志を与えておられて、無理やりに私たちを何が何でも引っ張るお方ではない。選ぶのはあなたです。でも、主イエス様はその永遠の御国、天の御国に入ることの出来るように、その道をお開きになられて、それを選び取る事を待っておられるお方です。 イエス様は自然も、悪霊も死も支配される方として来られたただ一人のお方です。先ほどお読みしました43節から、病気のこの女に目を留めるときに、皆さん、12年とあるでしょう。12年の間、何と長い、何と辛い患いでしょう。長すぎますよね。例えば今年生まれた赤ちゃんが12才になるまで病床に縛られているという状況です。病気であるという状況です。 その女の人は12年間も病気に縛られて、不自由でした。外のところには痛みがあったとあります。私も長年間病気で苦しんだんですが、「それから更に5年。」と思ったときに身震いしました。薬も効かないんです。この女はもはやどうしてもらっても治る事は無かったのです。そして、この女は何でも試してみました。何でもやってみました。しかし駄目でした。 絶望状態です。そして、44節でイエスに近づいているのですが、この43節と44節の行間に、実はこの女の心を読み取る事が出来ます。何故なら、この行間に女の人の1つの決断があるのです。この女はイエス様に触れているのですが、実は、こういう病気の者はユダヤの国では穢れたものとして、外に出てはいけない、人に触れたらそのものはみんな穢れるとされていました。 ですから、人に触れてはならなかったのです。律法はその事を命じていたし、勿論この女はそのことを承知していました。でも、自分でどうする事も出来ない、もはや、人から見放されている状態、自分の人生がこれで終わるような状況の中で、「主イエス様。この方に近づきたい。この方に近づこう。近づかせていただこう。」という決断が43節と44節の行間にあるのです。 そしてついに、この女はイエス様のところに「イエスのうしろに近寄って、イエスの着物のふさにさわった。」とあります。一つの決断をして、行動に踏み出したのです。この女にとって状況も環境も赦されない中で、一つの決断がその人の救いに繋がっていきます。「後ろから近寄って、」こう見ますと、小さい行動、小さい信仰なわけです。しかし、決断して一歩踏み出すという事がとっても大事な事です。 「あなたの信仰があなたを救ったのです。」ということはルカの18章にも出てきます。そこにはエリコのバルテマエという盲人が出てきます。この盲人のバルテマエは主イエスだと聞いた時に、「自分の人生をこの方に賭けよう。」という一つの決断がなされていましたから、真正面からイエス様にぶっつかって行くのです。真正面からイエス様に近づいて、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」と叫ぶのです。 真正面から、私の人生にこのイエス・キリストに拘わっていただこうという決心をして近づいていきます。「わたしに何をしてほしいのか。」とイエス様は立ち止まられます。その時に「主よ。目が見えるようになることです。」と願います。そうすると、イエス様はおっしゃいました。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを直したのです。」このようにおっしゃいました。 しかし、この女は正面からではない。この女の決断は小さく表されています。「イエスのうしろに近寄って、イエスの着物のふさにさわった。」目立たない小さな信仰の決断と行動、しかし、主イエス様からこの女の人は決断は力を引き出しているのが判ります。 それは46節をご覧下さい。「しかし、イエスは、『だれかが、わたしにさわったのです。わたしから力が出て行くのを感じたのだから。』と言われた。」皆さん、もしあなたの小さい決断、主イエス・キリストへの決断をなさる第1歩のときに、あなたの信仰がどんなに小さくとも、主イエス様はご自身から力の出て行くのを感じ、私たちの信仰の決断はイエス様から力を引き出すのです。 この女の小さな信仰の決断と、一歩を踏み出した行動に主イエス様は48節でこうおっしゃっています。「『娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して行きなさい。』」外の個所では「達者でいなさい。」こういう風にイエス様はおっしゃっておられます。 イエス様ご自身の尊い御名、イエス様はそのように私たちと深い拘わりを持ってくださっているお方です。私もイエス様ご自身に対して一つの決断の時を持ちました。病床に釘付けされていたその時でした。「もう、自殺だ。」と祖母が決心し、それが行われる寸前です。牧師が私を訪ねてくれました。一冊の聖書を置いていきました。寝たっきりで身動きできない私の傍に来てお祈りをなさって、新約聖書を置いていってくださいました。 その新約聖書をランプの光で読んでいったその時に、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ 11:28)イエス・キリストのこのみ言葉に私が接したその時に、私の中にこういう決死の決断の中でこういう1つの祈りが出ました。 「イエス様。疲れています。休ませてください。」それから私には全く新しい世界が開かれて今日に到っています。もう、来週は切断の為に病院に入院するという時に、私の養父であった神山牧師は、或る一つの集会を知って、「この子を連れて、その集会に出よう。」と決断されました。切断されるはずの足はその時瞬時に癒されました。そして今ここに到っているわけです。 神様に対する信仰によって生きる決断をし、その決断に踏み出すその時に、そこに新しい世界が開かれます。中川先生はこうおっしゃっています。「私は3回決断しなければいけない時があった。最初の決断の時、私の主イエス様との拘わりの決断を、私は先延ばしにしたかった。しかし、決断しない事も一つの決断であることを思い、イエス様に従う決断をする事を選び取りました。 そして、そこから新しい世界が開かれて参りました。自分の人生にイエス様が先に立っておられる。色んな節々でその事を表してくださっている。その節目節目でそれははっきり表れている。時に癒しが与えられ、開放が与えられ、許しが与えられ、道を開き、私を生かしておられる。これが主が共に歩まれる新しい世界。そして平安がいつも最善の世界。私はこのことに感謝しています。」このことをつい最近読ませていただきました。 このお方にお従いして一度も失望した事はない。私も又40年間そうです。一つの後悔といえば、「あー、何故もっと早くイエス・キリストを信じてなかったんだろうか。」ということだけです。 皆さん、本当にこのイエス・キリストを信じ選び取って頂きたいと思います。そこにあなたの新しい世界を主が用意して待っておられます。主を訪ねよ。遅くならない間に。 お祈りを致します。 天のお父様。感謝します。私たちに自由意志を与えて、従う事も拒む事も、信じることもそうでないことも、選び取るのは私たち自身に委ねられている事を覚えるほどに、あなたはそれ程大きなお方。無理やり、どうしてもということでない愛の関係を私たちに求めておられます。 愛は自発的なものです。どうぞ、自ら良い計画を備えて、私たち一人ひとりをよき人生へと導こうとしておられる、良いものを備えて待っておられるあなたご自身の私への道を主イエス様あなたを選び取らせてください。どうぞ、主よ、私たちの人生に、私の人生に、私の家族に、私の職場に、活けるあなたご自身のいのちが流れるように、ご自身と共なる人生を歩ませ、今日私の人生の中にあなたがお入りいただくことを願わせてください。 尊いイエス・キリストの御名を通してお祈り致します。アーメン! |