2002年9月15日 献堂祈念礼拝式
“使徒の働き” 18章9〜11節

「“ついに丘の上に建つ”」

“池田博先生” 宣教メッセージ

今朝のメッセージのみ言葉をお読み致します。今朝は 使徒の働き18章9節から11節 です。新約聖書の243ページになります。

“使徒”
18:9 ある夜、主は幻によってパウロに、
「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。
18:10 わたしがあなたとともにいるのだ。
だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。
この町には、わたしの民がたくさんいるから。」と言われた。
18:11 そこでパウロは、1年半ここに腰を据えて、彼らの間で神のことばを教え続けた。

平和台チャペルを献堂して25年になります。正確には1977年9月11日です。この日が献堂の日でありました。やがて、9月11日は忘れ難い日となっていきました。

その当時の教会員は、どれだけこの日を待ち望んで祈って、また献げものをし、取り組んできたかを思います。そこにいた全員は、本当にすべてが輝いて見えたことでしょう。その日の記念誌がありますが、それぞれの思い思いが記されていて、改めて読んで感動したり、思いを新たにさせて頂いています。

それまで私たちの教会が使っていたのは、通称「お風呂屋教会」と呼ばれていました。その建物ももう今は無くなりましたが、戦前に蚕を飼っていた農家の、その蚕小屋だったということです。その家を戦後、ある方が今のところに移して、そして大きな建物なので4件に区切って、アパートのようにして貸していたということです。

教会はその真中の所を借りて使っていました。大きな建物ですから、外から見ると何となくお風呂屋という印象なのです。ですから、通称「お風呂屋教会」と言ったりしました。

そんな建物ですから、古くて電球がボンとあって、電球をつけなければ昼間でも真っ暗という場所でもありました。そういうところから100人も入る素晴らしい会堂に移るのですから、これは素晴らしいことです。本当に当時の私たちにとっては感動ひとしおであったことでした。

さかのぼれば、私がそこに赴任したのは1969年でした。エッツェル先生方が開拓してから、3年ほどたった時に私たちが赴任しました。十数人の会員でありました。そして3年ほど過ぎて、ミッションから大きな援助を受けたのです。その大きな援助をもって土地を購入する事が出来ました。

実際土地を購入する時には、いろいろ捜しました。最終的に朝日不動産の分譲地を購入する事になりました。2月21日の売り出しでした。その前週の木曜日にチラシが入って、わずか4日間で全部を決めなければいけないという短期間しかなかったのです。

教会は普通はそう簡単に結論を出せないわけですが、でも決断しなければならない状況がありました。そしていろいろなところを捜してみて、「ここだ。」という一つの確信がありましたので、急遽それを買う決断をしたのでした。

やはり振り返れば無理もあったと思います。土地は買えたのですが、でもその急な行動にどうしてもついていけないという方も起きて、そして中心的に動いてくださっていた方々4、5名が教会を去っていくということになりました。

また、土地は与えられたのですが、「その土地にいつ教会が建つのだろうか?」、「これがいつ変えられていくのだろうか?」というのはとても不安なことでもありました。焦りの気持ちも正直なくはなかったのです。

確かにやがて会堂が建っていくのですが、十数人の中から大事な人が去ることによって、私自身、傷となりました。ですから行き詰まりを感じました。「私自身が牧師として召されていたのだろうか?本当なのだろうか?」と、とことん追いつめられた中から、何回かお話もしているように、ある日に牧師辞任、ということにも展開していったのです。

そのような時、神様は本田さんのお婆ちゃんを通して、祈ってくださり、支えてくださったということから、私は自分自身に、一つの脱皮の時を迎えました。変えられました。そして具体的に、「さあ、これから私自身が捨て石になって行動することだ。仕えることだ。」というところから、ちり紙交換を始めたのです。

ちり紙交換は1973年7月2日から始めました。その時に恵賜師は1歳半、兄の聖献は3才半でした。この子供たちをトラックに乗せながら一緒にし、その中でもいろいろな経験をさせて頂きました。

毎日1トンから多い時で2トン位の新聞を山盛りに積みます。積んでは降ろして、積んでは降ろして、とやっているわけですから、大体の人は腰を痛めるのですが、腰も痛めずに守られたことも感謝なことでした。

同時に、信徒の皆様方が本当に一生懸命仕えてくださいました。ある時、高田のおじいちゃんがその土地に、約2メートルほどの十字架を立ててくれました。これは本当に教会員にとって大きな励みになりました。

そこに行って十字架を見ますと、「ああそうだ。ここに会堂が建つんだ。」ということで、祈ってくれる人が多く起こりました。おじいちゃんは80才を過ぎていたのですが、自ら手を汗して、草取りをしたり、お手伝いをしたりして、頂いたアルバイト料をそのまま持ってきて献金と言って、献げてくれました。

ある日、1人の中学生が汗を流しながらやって参りました。「先生、これ献金です。」と言うのです。「ああそう、これあなたのお小遣いなの?」と聞くと、「いや、違う。朝バス代としてもらったものを使わず、大船から歩いてきて、それを献金する。」そう言って、バス代を献金したのです。

私はそれを受け取った時、涙が出ました。感動しました。中学生たちが、また小学生たちが、こうして本当に一生懸命献げてくれて、そしてまた祈ってくれてたのです。

当時、朝6時から早天祈祷会をしていました。ある元旦の朝、4、5人の中学生がやって参りました。赤ら顔でした。「早天に来たの?。」と言うと、「うん、もう教会の土地で祈ってきた。」こう言うのです。

感動しました。皆さん、元旦です。真っ暗です。でもその真っ暗な時に、既に教会の土地に行って祈って来たという、そういう中学生がいたのです。

皆さん、あの平和台の土地のために、おじいちゃん、また若い中学生たち、若者たち、どれだけの方の祈りが積まれていたことでしょうか?そして、歩いてきては献げてくれたこともありました。アイスクリームを食べたかったけれども食べずに、献金として献げてくれたこともありました。1円玉、5円玉それをビンに入れてもってきて献げてくれました。

そうしたレプタの献げもの、そうしたひとつひとつが神様の手に握られて、用いられたのです。私はそういうものがひとつひとつ積み上げられて、あの会堂ができていったと思います。

「なんとなく重い空気だったのですが、いつ建つのだろうか?」という空気だったのですが、やがて少しずづつ雲間が晴れてきました。ある時、野外礼拝を致しました。これも本当によい思い出です。少しずつ気運が高まっていき、みんなの中に期待感が溢れてきたという時期でもありました。

そして更に今度は、1977年2月についに起工式となっていきます。2月に起工式をして、やがて8月に建ち上がるわけですが、半年間の工事が進められていき、やがて会堂が出来ていったのです。その会堂は、今のシオン館もシャローム館も最初はありませんでしたが、でもこの会堂が建ったことは、本当に感動でありました。

会堂が建つにあたって、一つの壁が起こりました。3000万円という予算でしたが、100人の会堂、100人の日曜学校の部屋を計画していました。教会学校の大切さを、最初から主から教えられていましたから、それがみんなのビジョンでもありました。そして牧師館も建てる計画です。この3つを、この予算で建てようとしたのです。

計画が進むにつれて、どうしてもこの予算では牧師館は建てない、ということが分かってまいりました。ある方は、全体を縮小しても、牧師館を建てようと言いました。

でも私は100人入る会堂が大きすぎることはないと思いました。この地域7万人の1%にあたる700人の人口に対して、これは大きすぎることはなく、そんなはずはないとして、それを縮小することは主の前にできなかったのです。

そして牧師館を建てることは2次計画にし、その代わりに地下の3分の1を区切って牧師館ということにしました。ですから仮の牧師館であったのです。トイレもなければお風呂もないということでした。トイレは教会のものを使わせて頂きました。お風呂はドライエリヤが1メートルあった中に、風呂桶を1つおいてお風呂場といたしました。

その牧師館は、今のコイノニアからドアを開けますと、全部見渡せる広さです。玄関、応接間、台所と、一歩歩けば次の間に行くという、便利な造りでした。(笑)台所も元々は教会の台所として作ったので、兼用なわけです。日曜日、木曜日は当然、少しお茶を飲むといえば、この台所を使ったわけです。

コンクリートをベタ打ちした上に、畳を置きました。すると、2年ぐらいしたら、畳が腐ってきました。そして、絨毯に変えました。医者に、このまま住み続けると、体が壊れると言われましたが、でも神様は守ってくださり、85年まで8年間、住み続けることができました。

当初は30人くらいでしたから、まあまあでしたが、だんだん人数が増えて、50人、60人、70人となっていった時に、もうそれは牧師館であるような、ないような状況になっていき、多くの人の出入りの中で、感謝と共に大変な状況も出てきたということであります。

信徒のなかには、「2次計画では、早く牧師館を」という声がありましたが、でも8年間かかることとなりました。やがて、次にシャローム館と牧師館が建てられ、現在は一戸建ての家へ移っています。

そうした中から私たちが思わせられたことは、今の困難、あるいは問題、あるいは先送りされたことは、そのすべてひとつひとつはビジョンのステップである、すべてはビジョンのステップであると、そう思います。そういう姿勢であったわけです。

ですから、今がどう困難であっても、どんなに見えない、どうなるのだろうか?、という状況であったとしても、必ず次に神様は道を開いて下さる、必ず光は与えられてくるというビジョンの中にありました。

それは子供たちとの話題でもそうでありました。ひとつひとつ神様はあえて困難なところを通して、あえて問題を通して、私たちにビジョン、光、希望を持つことへの大事な訓練をしてくださいます。希望をもつことに対して、私たちの心を錬り育んでくださった、ひとつひとつが決して無駄でなかったことを思います。

近くに小長谷橋というのがあります。恵賜師が2才位の時のことです。ちり紙交換をして、1日の働きを終えて、私たちはトラックのところで納める新聞の整理をしていたのですが、その時にハッと見たら、恵賜師がその欄干から落ちるのが見えました。落ちていく瞬間を見ました。下には大きな岩がありました。「あっ!もう、これで終わりか!」、一瞬そう思いました。私は飛び込んでいきました。

でも神様は守ってくださったのです。大きな石が二つある間に、ビニールがぐちゃぐちゃになってつまっていて、その中にストンと落ちていたのです。神様の永遠のみ腕がそこにあったのです。10センチずれていたならば、頭から落ちた彼の頭が岩に当たって死んでいただろうかと思います。

でも、無傷で守られたのです。そして元気な子に成長し、やがて主に召されて、献身していく働きへと、主は守ってくださったのです。あらゆる危険から、あらゆる災いから主は守って下さったのです。

皆さんの人生においても、行き詰まりがあるでしょうか?問題があるでしょうか?でも主を見上げて下さい。主はあなたに必ず、希望をあたえてくださいます。エレミヤ書の29章11節のみ言葉をお読み致します。旧約聖書の1189ページです。

“エレミヤ”
29:11 わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。
―主の御告げ。−それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。

信じ、信頼し、従う者に、神様は必ず真実をもって応えてくださる主です。皆さん、抜け道のないトンネルはありません。朝の来ない夜はありません。春の来ない冬はありません。凍てつくような、どんなに凍りつくような試練、困難があったとしても、必ず神は私たちに光を与えて下さるのです。主は必ず希望を与えて下さいます。その主を見上げたいのであります。

25年を振り返りますと、本当に主は素晴らしいことをして下さいました。あの林と森から、やがて今日の状況が訪れるとは、誰も想像しませんでした。でも、10数人の群れから、今ではダイヤモンド・チャペルが与えられ、300人以上の人を加えて下さいました。

「この町にわたしの民が多くいる。」というみ言葉があります。そして多くいるという時に、「あの平和台の会堂が小さすぎることがあっても大きすぎることはない。必ず最低でも1%のクリスチャンが起こされることを信じます。」という告白をしていました。そのビジョンはやがて第2期、第3期の計画となり、そしてこのダイヤモンドチャペルの建設にもつながっていったのです。

今、あなたの人生に、先が見えないと思われている方がいるでしょうか?主は、必ず、この教会にしてくださったこと以上のことを、あなたの人生にきっとなしてくださいます。将来と希望を与えてくださる、その主を見上げたいのであります。


お祈りを致します。

主よ、あなたは、常に平安を与えてくださるお方。失望を希望に変えてくださるお方。私たちに将来を約束してくださるお方。主よ、感謝します。この朝、あなたが臨んでくださって、解決と勝利をもたらしてください。お願いをいたします。

尊いイエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン!