| 2002年9月22日 主日礼拝式 “使徒の働き” 1章12〜14節 「“収穫の為に何をするのかA『祈る』”」 “池田 博牧師” 宣教メッセージ |
| 今朝のメッセージのみ言葉をお読み致します。今朝は 使徒の働き1章12節から14節
です。新約聖書の208ページになります。 “使徒”
はい、聖書は以上です。特に14節のみことばが今日の中心であります。「弟子達が心を合わせて祈りに専念した。」とあります。 少し私のことをお話ししたいのであります。大分前の話しですが、或る時、一人の信仰の友が居まして、彼が「池田さん、祈って欲しい。」ということでありました。母教会でありますが会堂でお祈りをいたしました。色んな悩みを聞きまして祈ったのであります。お祈りをして最後に、締めくくりをするわけですが、私はその締めくくりでこう言う風にお祈りをしたのです。 「主よ、いつも豊なお食事を感謝致します。」こういう締めくくりの祈りをした。自分でその言葉が口から出たのを知って驚きました。そして、その友だちに弁解がましく「いやー、よっぽどお腹が空いていたみたい。ごめんなさい。」と言ったわけです。でも、私の心では良く判っていました。 そう、私の言葉に出して祈る、決った祈りは食事の時だけだった。ですから、声に出して祈ったらば、食事の祈りが締めくくりとして出てきた。という事です。恥ずかしかったですね。忘れないですね。時々甦ってきます。今回も祈りのことで静まっておりました時に又甦ってきました。 でも、いつ甦ってきても、私はこれまで一度も公にしたことがなかった。今日は本邦初公開で、皆さんに恥を偲んで、恥を曝して申上げた事であります。正直なことを申上げますと、そういう人が一人二人現れていいかなー、そしたなら、「私も同じような失敗をしたんですよ。」と心から同情して、慰めが出来るのですが。残念ながらそれから何十年、ただの一人もそんな人は現れていない。 いやー、私ほど愚かな失敗をする人は二人といないんだなとほっとするような、恥ずかしいような、そこまで私の祈りというのは食事の時しか祈れていない、そんなものでしかなかったということをその時いやというほど心に刻まれているわけです。 イエス様は色んなことを通して、繰り返して、祈りの大事さを、或いは恥ずかしい思いをしながら、失敗をしながら、行き詰まりを通して教えてくださる。そして、ただ一つ「さー、あなたにとって大事なのは祈りですよ。」これを教えようとしておられる。そういう風に思うのであります。 さて、今日のところでありますが、イエス様の弟子達に対してイエス様がこの地上を去って、彼らをこの地上に残していくにあたって、色んな事で気がかりであった。彼らは何もかも出来ていない。ないないずくしで、どこから手をつけてよいか判らない、そんな弟子達であったわけであります。 その弟子達に対して、イエス様が何に目を留められたのか。それが今日のこの処にある訳ですが、イエス様の思惑通り、計画通りに14節で彼らは祈りに追い込まれて、祈りに専念するという道筋に行って、彼らはそこから変えられていく訳であります。 その足跡をもう少し見ていきますときに、イエス様は祈りの大切さを教えられました。また、一緒に祈りました。そういう風にして、繰り返し繰り返ししていたわけでありますが、でも、やっぱり本当に身につくのは、窮地に立つ、追い込まれる、にっちもさっちもいかないところにいって初めてそこから吐き出すように、うめくように祈る、そこで初めて祈りが身になっていく。アー、そうだなーと思います。 ここでイエス様は、ご自身が昇天なさるにあたって、一つひとつその段階がここに有ります。先ず1章の4節5節を見ますと復活の後、このように言います。「彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。『エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。』」イエス様はこう約束されました。 弟子達は「そうですか。」といったのですが、聖霊のバプテスマ、それが何であるのか、どういう経験なのか判ってなかった。ですから、言葉だけが彼らの心の中に残ったということです。そして、今度は9節を見ますと「こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。」とあります。 弟子達の頭の中では言葉として多少の事は判ったにしても、そこだけであって、それ以上は判らないし、まして彼らの見ている前でたちまち天にあげられてしまった。そんなことはきちんと予告されていなかった。ただ、ヨハネの福音書16章の7節を見ますと、そこにイエス様はこう言う風におっしゃっておられる。 「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。」こう言われている。 これも判るような、判らないような話しですよね。「私が去ることが益だ。どうしてか。私が去ったならあなた方に助け主が来るからだ。」と言っているわけです。助け主とは聖霊だということですが、聖霊なるものがどういうお方なのかも彼らは定かでない中で、説明はあるのだけれど心から納得できる状況でない中にあって、イエス様は昇天されてしまった。 ですから、いざ昇天の場面になった時に、弟子達は本当にショックを受けた。その前に十字架と復活の事が預言されていました。それも彼らはどうしても判らなかった。でも、いざそうなった時に、弟子達は復活の主に出会う中で、ようやく「アー、復活されてこうして私たちの傍にいてくださるんだ。もう一度新しく来て下さったんだ。」ということで納得して、「これから一緒にいて下さる。もうだいじょうぶだ。」と安心したのもつかの間で、今度は天に登っていかれたのですから。これはこれは、又彼らにとってどんなにか不安であったかなーと思います。 イエス様は、でも、その一つひとつがご計画の中にあったし、彼らが窮地に立つ事こそがイエス様の狙いであって、その窮地にあって彼らが本当に真剣に祈るということを覚えていった時に、そこから道が開かれていくというシナリオがあるわけです。 でも、一寸これを私たちの立場に置き換えてみた時に、弟子達が立った危機的状況は本当に右か左か、立つか倒れるか、どうなってしまうか判らない大変な状況であったわけです。肝心な指導者がいなくなってしまった。しかも天に帰ってしまうという異常な出来事の中で彼らはそこに取り残された。 しかも、懇切丁寧な説明もなされていない。外の助け主が誰なのかも判らない。彼らはほっといたならばあるいは議論百出して、分裂してちりじりばらばらになってしまったかも知れないし、あるいはガリラヤに一旦帰ったのだけれども、もう一度帰っていって、「やっぱり漁師以外にない。」というようになったかもしれない。 或いは又、徒党集団になって、なにか新しい事を彼ら自身で始めるようになったかもしれない。兎に角、どうなっていくのか判らない危機を彼らは迎えたということであります。しばしば私たちもそうした危機を迎えるが、その時どうするか、どういう道を選ぶのか、何処に行くのか、どういう決断をするのか、それがあなたの人生を、更にあなたの永遠を決定していく。 イエス様はご自身の中にきちんとシナリオが有って、そのシナリオのように弟子達を導く霊の権威を持っておられましたから、ここで14節に移っていくわけであります。そして、その事は又私たち一人ひとりに対しての、あなたの人生の将来に対して、あなたが今立っている危機に対しても、弟子達にあったように、あなたにも同じような祈りの専念がなされていくならば、祈りに打ち込まれていくならば、そこから必ず道は開かれていくのです。 とっても大切な事をここで教えようとしている。でも、言うに易く行うには難し。私はクリスチャンになって何年も何年も経っていて、あんなことでした。その後も何度も同じような失敗を繰り返している。しかも牧師になってもそうでした。 これも何度も話している事ですが、私はどうしても朝の祈りが出来ない者でした。今は「朝の15分があなたを変えます。」と偉そうな事を言っていますが、「あなたはどうなんですか。」と言われたら、「いやー。」と後ろに退かなければいけない。 どうしてかといえば、私は毎朝主の前に出て祈る前に、どうしても新聞を読まなければ落ち着かなかった。しかも新聞はスポーツ欄で巨人がどうなったか、川上の打撃の成績はどうか、これをしっかり納得しないと駄目でした。そこから先に行かない。 愛する家内はそれを良く知っていて「あなた、新聞を読む前に、する事があるんじゃないですか。」と優しく、でもチクリと重々しく語ってくれた。それが一つのきっかけになって、朝祈りから始まるという事が少しずつ切り替えられていきました。 危機といえば危機でありましたが、あるとき次男恵賜が2歳になるかならないかの時、家の前の道路で遊んでいました。気がついたら「ぎゃー。」と叫ぶんですね。私は家から飛んで行ったら、隣の家に錆びた鉄条網があって、そこに転んで鉄条網の針でほっぺたを引っかいてしまって、肉がちぎれてしまっていました。 私はその悲鳴と血が流れている状態を見て「それ、和田医院だ。」と言って、和田医院に直行したわけです。治療が終わって、家に帰ってきて、ほっと一息ついたときに思い出しました。「あー、祈ってなかった。」抱きかかえて「主よ。癒してください。あなたが癒す事が先ず大事です。」と何故祈れなかったのか。何故祈る事が最初に私の頭の中に来なかったのか。何故そういう行動が私の中に来なかったのか。本当に深い反省、悔い改めがその時なされた。 そんな風にして、本当に失敗の多い者なのです。私は又理系、工学部の出身ということもあって、そこにも神様は探りを入れてくださいました。ちり紙交換をしていました。で偶々今日の週報のダイヤモンドの光に出てくるのですが、毎日家族4人で仕事をしていました。 その日も、もう夕方、一杯新聞が与えられて、「毎度おなじみちり紙交換、賛美歌でおなじみの。」とやって、一軒の家が新聞を一杯出してくださって、整理して積み終わって、あたりも暗くなった。会社に納めなくてはと、おもむろに車のエンジンをかけようとキーを廻したのですが「カラカラ、カラカラ。」というだけでエンジンがかからない。 何回もやっていたら「カチャ。」うんともすんともいわなくなってしまった。荷物は一杯です。あたりは暗いです。会社には早く行かなくてはいけない。心はあせりだしました。「どうしたんだろう。何が起こったんだろう。」元内燃機関専門でしたので、「これはバッテリーかなー。油が切れたかなー。ガス欠か。ピストンリングがいかれたのか。エンジンオイルかな、ファンベルトが切れたかな。」ああでもないこうでもないと数分間頭の中で駆け巡っていました。 そうしましたら、隣に乗っていました長男聖献が私のその慌てた状況をじっと見ていてこう言いました。「お父さん、祈りだよ。」でも私も祈りを全然忘れたわけではないし、朝もちゃんと祈って出発した。祈って出発したのに、何でこんなときに故障が、どうせ故障するなら明るいうちに故障しないで、と心の内に次々と乱れていました。 でも、聖献の一言大きかったですね。「そうか。じゃ聖献、祈って。」とこう言いました。聖献はこう祈ってくれました。「イエス様。エンジンがかかりません。イエス様。エンジンをかけてください。イエス様。アーメン。」こう祈ったのです。私も「アーメン。」唱和しました。そして、もう一度キーを廻しました。「ブルン、ブルルン。」かかったじゃありませんか。「えっ、どうして、どうなってるの。」 頭の中がいつも自分の理性や自分の考えで支配されているそんな私を打ちのめし、打ち砕いてどんな時でも祈りだ。私の中にはやはり、「ことはエンジンだ。ことは機械だ。これは祈りの問題ではない。機械だ。エンジンだ。」とやっている、そんな私の理性を打ち砕いて下さいました。 そして、私の心の中に神様はそういう窮地、そういう問題の中で一つひとつ具体的に教えてくださいました。皆さん、皆さんも祈りがどんなに素晴らしいか、祈りがどんなに力あるものなのか、祈りを通して人生がどのように変えられていき、問題が解決し、あなたの人生が開かれていき、病が癒されて、奇蹟がなされて、そして、主は生きておられ、私たちの生活の中に、私たちの人生の中に、どんなどん詰まり、いき詰まりの中にあっても、その中から道が開かれていくという事を主は教えるために、この弟子達も窮地に追い込んだ。 そして、あなたの人生にも、そういう処に追い込んで、祈るしかないという中から「主よお許しください。不信仰な私をお赦しください。そして私の祈りに耳を傾けてください。」そう祈る事を通して主はあなたに確かな応えを与えて下さる。 弟子達のこの祈りに専念するという1つの経験は、その時専念したという事で終わるのではなく、そこから彼らは肌で祈る事の大切さを身に付けていきました。そして、事あるごとに祈る事が身についていったときに、3章、4章5章とどんなにか弟子たちを通して祈りを通して業がなされていきました。 あなたの人生にも、私の人生にもその事は同じようにして、約束されている。弟子達に主がご計画くださった事はまた私たち一人ひとりに対してもそれをしようとしておられるんだという事を心に留めたいのです。 先日も、一昨日半徹夜祈祷会を致しました。今年2回目でした。例年は1回ですが今年は2回して、本当に祈りを必要としている事を感じていました。それ故にそれを行いました。2つの事がありました。1つはここにこのダイヤモンドチャペルが与えられたのは1999年12月22日でありました。 その時に7億3千万から4千万という信じられないような数字が全部びた一文狂い無く支払う事が出来て、この場所が与えられた事でありました。そこにあった素晴らしい奇蹟の恵み、でもその時から判っていました。やがて3年が来た時に、もう一度次ぎの大きな山場、高いハードルがある。 そして、具体的に計算した時に、今年はあの時に何億という献金、立替金、色んな形で皆さんの協力によって乗り越えられた奇蹟の業でありましたけれど、その上で今年は、また9000万という返済があるという大きな山を迎えたことでありました。 これも、お願いしますじゃない。祈り以外に無いという事で、祈ってまいりましたし、具体的に主の前に半徹夜して祈ろうという事でありました。4月に祈って、9月に2回目を祈ったわけですが、その時に返済委員によって渡された資料がありました。 それを見て私は驚きました。なんと既に9000万の今年の必要に対して、献金で約4600万、更に立替金、立替金の返済の延期、それらを全部併せますと、私たちが今年これから必要な金額は1000万円であるという事を知りました。 皆さん、なんと言うことでありましょうか。あの高いハードル、あの高い山を既にもう富士山で言えば9合目まで登りつめることが出来たという事でありました。本当に神様の恵みの大きさを感じたのであります。でも、その時にも1人の兄弟が証しをしてくれました。 兄弟は家を建てて、10年近くなって、色んなペンキ屋さんがやって来て、「もうこの家が長持ちするためにはペンキの塗り替えが必要ですよ。」「どれくらい掛かるのですか。」と聞いたら約150万だと言われたそうです。「150万。今教会に大きな必要があるときにそんなには出せない。」でも家が傷んでいく。それならば自分で塗ってみようか。 図書館に行ってペンキの塗り方を勉強し、ペンキ屋さんと仲良しになって、いろいろ教えてもらって、まず塀を塗るところから始まって、ついに1年近く掛かったでしょうか、ペンキをついに塗りきってしまった。そして150万という示された金額の中で自分が塗る事により掛かった費用を除き全部それを献金にした。 そういう犠牲の奉げ物があった。いや、喜びのたとえようも無かった。「もしそれがただ自分の儲けの為にやるんだったらきっと途中で諦めたでしょう。でも、それが主の為になるんだと思ったとき私はどんな危険も嬉しくてたまりませんでした。」とニコニコ顔で証しをしてくれました。 主をあがめました。そういう風にして、本当に1人の人、しかしそれは主にある素晴らしい証しを秘めた、主をあがめる証しでありました。 もう一つの大事な目標、それは今年「贖われた者は帰ってくる。」イザヤ35:10のこの大事な御ことばでありました。既に洗礼を受けて離れている者が帰ってくること、又既に主によって救われているけれども、未だ帰られていない者たちもそこに帰ってくること、これを目標にして祈りました。 特に、洗礼を受けても離れている人たちのことが大きな痛みとなっていて、具体的に名前を挙げて祈った事でもありました。その中でも配られたのでありますが、今年この9月までに祈った中から具体的に、こうして今日も来ておられます方も何人かいますが、6名の方が帰ってこられて本当に素晴らしい事でありました。 1度だけでもという人は13名程与えられました。感謝でした。でももっともっと多くの方たちがいる事も覚えた事であります。その中の一人、ある姉妹の証しがありました。姉妹は自分の子どもが主から離れている、主から離れているだけでなく、とっても危険な中に飛び込みつつある現状を見たときに、母としての涙の祈りがありました。 そして、礼拝の後の恵みの御座に出てきて、訴えていました。腹の底から絞れるような声で「何としても主によって返して頂きたいのです。」という訴えがありました。そして心を合わせて何度も何度も祈りました。皆さん、主はその祈りに応えてくださった。その祈りは神の手を動かした。 しかも、その動かし方がスケールが大きかった。なんと地球の反対側、アルゼンチンの奥の方から一人のサッカー選手が「あなたは日本に行かなければならない。」という一人の牧師の言葉を聞いてやって来た。日本の何処に行くか判らないでやって来た。そして導かれたのがこの本郷台の教会であった。 約50日間滞在する中でこの選手を通して、その母の涙の祈りが応えられました。見事に主に立ち返ったのです。私たちは全く予期しません。そして、私たちには考えられない出来事であります。でも、あなたが祈った時に主はその祈りをしっかり聞いて下さいます。細大漏らさず、どんな心の祈りでも聞いてくださる。 そして、もう一つ大事な事、幼子のように信頼する事です。信頼する者に主は応えてくださる。疑うことなくとありますが、私は本当に疑い深かったから何十年もかかってやっとここまでしか来なかった。でも、幼子のように素直に信じられる人はさいわい。その時に神は地球の反対側からでも人を興して送ってくださって、お祈りに応えてくださる。 今日、今、ここで、皆さんが主の前に祈る時、主はそれに応えてくださる。あの弟子達、箸にも棒にも掛からない弟子達、どこから手をつけていいか判らなかった弟子達、でも、祈りに専念するところから始まった。 その祈りはやがて素晴らしい聖霊の下ってくる事をさせ、更に彼らが祈っていた時に奇蹟の業がなされていき、3000人が一度に救われるという出来事が起こり、それが5000人、1万人となり、更にヨーロッパに伝わっていき、世界に伝わっていき、日本に伝わっていき、そして私たちの間に伝わってきました。 あなたにそれが伝わってきているのです。そしてあなたがその主の前にあなたの心を注ぎ出す時にそのあなたの祈りはあなたを変えます。あなたを生かします。あなたの将来を、あなたの永遠を変えて祝福してくださるのです。主はそういうお方です。祈りは私たちを変えます。 祈りはあなたの人生を変えます。そして祈りはこの地域を変えていきます。そのようにして、主は私たちを勝ち取り、私たちを通してご自身が生きておられるお方であることを示そうとしておられます。その主を見上げ、その主に信頼し従っていきたいのであります。 お祈りを致します。 でも、あなたは弟子達に教え、私たちにも教えてくださって「祈りなさい。求めなさい。主は応えるからだ。」と教えてくださいました。主よ、感謝します。「求めなさい。そうすれば与えられます。」「探しなさい。そうすれば見つかります。」「門を叩きなさい。そうすれば開かれます。」「誰でも求める者は与えられ、捜すものを見出し、門を叩く者は開かれる。」と言われました。 主よ、感謝します。今日お一人ひとりにその主が臨んでくださり、その主のみ手でお一人おひとりを導いて下さい。 私たちの救い主イエス・キリストの尊い御名によってお祈り致します。アーメン! |