2002年9月29日 主日礼拝式
“ルカの福音書” 24章44〜47節

「“救い主は苦しみを受け、よみがえる”」

“月井博先生” 宣教メッセージ

今朝のメッセージのみ言葉をお読み致します。今朝は ルカの福音書24章44節から48節 です。新約聖書の156ページになります。

“ルカ”
     
24:44 さて、そこでイエスは言われた。
「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。
わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」
24:45 そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、
24:46 こう言われた。
「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、
24:47 その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。
24:48 あなたがたは、これらのことの証人です。

来たキリスト教会のある新聞の書籍の批評欄に、祭壇の真上に自分たちの教祖の刑死の姿を2000年間もさらして教えは理解に苦しむというような内容のことが述べられていました。

その十字架の像そのものを拝むかどうかは別として、確かに、十字架はこの世の知恵に照らしてみれば愚かに見えるかもしれません。しかし、信じる私たちには神の力です。そして神さまはこの世のすべての人がこの神の力を体験することを望んでおられます。

“コリントT”
1:18 十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。

ではこの神の力は私たちにどのように働くのでしょうか?

私が約23年前にイギリスで聖書の学びを終えて日本に帰ってきた時、本郷台キリスト教会において1人の姉妹が救われていました。彼女は獣医の資格を持っていて大学の研究所から、そこで働いてほしいとの要請もありましたが、姉妹は自分の受けたその救いを大切に受け止めて、私たちが教会の名前で始めようとしていた学習塾の働きに加わってくれました。

学習塾は、主には、私と木島先生と難波先生の3人で授業をしていったのですが、難波先生は教会の働きにふさわしい塾の先生を勤めてくれました。

ある時、教会でオープンドアーズという宣教団体を招いて説明を受けたところ、文化大革命の後の中国で素晴らしい覚醒の業が起こっているということをききました。その時の報告に刺激されて、難波先生は1度中国を訪れてみる決心をしました。そこから始まって、やがて難波先生は塾の働きを離れて、この働きに専心するようになりました。

難波民子宣教師を通して私たちの教会に与えられている祝福は大きいものがあります。このところは毎回、今度は日本に帰ってくることはできないのではないかという思いを抱きつつ送り出しています。

中国に行くようになってから、4、5年の間は私たちの教会員は誰もその働きに加わることはしませんでした。しかし毎回、皆で心から祈り、その祈りによってサポートしました。そして神さまが不思議な方法で答えて下さった、その報告を毎回聞くのでした。

しかしそのようにして何度か中国に入っている内に、腸閉塞という病いを引きずるようになってしまいました。実際のところ毎回、これが最後になるのではないか?という思いを抱きつつ、彼女を中国に送り出してきました。

しかし神様がこの難波師を苦しみの下を通らせたことによって、私たちはこの働きに対して真剣にされ、同じ質の献身が求められていることを感じ取ってきたのです。姉妹の働きを通して、私たちの霊性は大いに引き上げられました。一方で姉妹は、いまも常に大きな痛みと戦いつつ歩んでいます。

この難波宣教師の生きざまは、この世の基準からみればとても愚かな生き方のように見えます。しかしこの姉妹の生きざまは多くの人々の人生を豊かにし、希望の中に歩む人生と造り替えてくれました。この難波師の人生には困難と苦しみが覆っていのですが、しかし同時に多くの人々を豊かにしてきました。とても不思議な人生ですね。

多くの人々は自分の人生をなんとかしよう、自分で豊かな人生を生きようと思いながら、質的に貧しい人生を生きています。しかし姉妹の人生は違うのです。自分の人生をなんとかしようとしていません。豊かな人生を生きようとしていません。でも多くの人々を豊かに富ませているのです。

この違いはどこから来るのでしょうか?姉妹は神さまが与えくださった霊のいのちを豊かに生きているのです。ですから人々を豊かにしていくのです。あなたも、ただ生きるだけのいのちではなく、神のいのち、霊のいのちを生きてみませんか。

第2コリント4章12節に、このようにあります。

“コリントU”
4:12 こうして死は私たちの内に働き、いのちはあなた方の内に働くのです。

そうです、難波宣教師の内に、この世の「死」が働き、私たちの内に「いのち」が働くのです。

“創世紀”
1:27 神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。
神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。

神が人間を造られた時、神様は人間を特別な存在として造ってくださいました。上の節によれば、神は人間をご自身の形に、神のかたちに似せて造られたとあります。神のかたちに似せて造られたとはどういうことでしょうか?それは愛にあふれた存在として造られた。又は愛に生きる存在として作られたということです。

なぜなら神は愛だからです。動物にも本能的な母性愛というものはあります。しかし他の動物のために自分の身を犠牲にする、犠牲の愛と云うものはありません。

神のかたちに創造された人間、これが本来の人間性でした。「神が愛である。」ことを考えると、人間性の本来の本質は愛にあるということができます。私たちも、本来は私たちが愛し合って生きるべき存在なのだということを知ってはいます。

しかし現実にはその愛はすぐに競争心や嫉妬心や憎しみに変わっていってしまっています。それは私たちが愛の源である神さまを離れて生きているからです。

しかし、人間が神さまに背を向けて自分勝手な道を歩み始まったとき、本来の「神のかたち」に似せて造られた人間性というものは失われてしまいました。なぜなら人間が愛の源、いのちの源である神さまから離れて生きる時、たとえ神のかたちに作られたという、その片鱗はあっても、本物の愛の供給は無くなってしまったからです。

私たちの内側に愛がないので、または私たちの回りの人たちに愛が欠けているので、私たちが生きていく生活の現場、私たちが生きている人生は荒野のようです。またある意味で私たちの心は牢獄です。人と付き合っていくのに不自由さがあります。

この私たちの心をオアシスのように造り替えてくださる方がいるとすれば、その方こそ救い主です。

神さまはこの愛に生かされるいのちこそ、私たちに必要なものなのだと知っておられました。神さまは、私たちに、愛あるいのち、愛ある人生を与えるために、神御自身から、神のもとから去った人間に対して、自らその愛を余すところなくに豊かに注いでくださいました。どのようにしてでしょうか?

“ルカ”
     
24:45 そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、
24:46 こう言われた。
「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、
24:47 その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。

キリストがこの世に来られる2,000年も前に、神さまはアブラハムに語られました。「あなたによって地球上のすべての民族は祝福される。」と。又、そのアブラハムの子孫であるイスラエル民族に、神さまは、私たちの心の思いや心の傾向、してきた悪いことが赦さるための方法を教えました。儀式によって教えました。

これらのアブラハムへの祝福の約束も、さまざまな儀式の教えもすべてキリストについて、それらを通して、キリストにある救いについて、私たちに伝えるために語り継がれてきていたのです。

難波宣教師を通してそうであったように、霊的ないのちは次のように働きます。霊的ないのちを持った人に死が働くと、すると、そのような霊的ないのちを持っていない人にいのちが働きます。

ですから救い主である方はあなたのために命を捨てなければなりませんでした。それはあなたが、この方の死は、あなたがいのちを得るためであったことを覚えて、この方の持っていた霊のいのちをいただくためです。

私たちの心は砂漠です。潤いのあるオアシスはあまりありません。硬い岩石があちこちにごろごろしています。またある意味において私たちの心は牢獄です。不平や不満や憤りがたくさんたまっているけれども、それらをどこに吐き出していいのか分からないのです。

ですから私たちの心が待ち望む救い主とは、このような方です。私たちの砂漠のような心をオアシスに変えてくださる方、又牢獄の中に閉じ込められてしまったような閉塞感のある私たちの心を自由に開放してくださる方、そんな方こそは私たちの心の救い主です。そうではないでしょうか?

イエスキリストこそ、この私たちの心を自由にしてくださる方としてこの世に来られました。イエスさまはその宣教の初めにこのように語られて宣教を開始されました。…

“ルカ”
4:18 わたしの上に主の御霊がおられる。
主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。
主はわたしを遣わされた。
捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。
しいたげられている人々を自由にし、
4:19 主の恵みの年を告げ知らせるために。

神さまの人類に対する、そしてあなたに対しての目的は、あなたをキリストにあって新しく創造することです。

“へブル”
2:10 神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。

この世界で最高の、犠牲的な愛を、神ご自身が私たちに対して実践してくださいました。イエスさまはあなたに天からのいのち、霊的ないのちを与えるために、その尊い命を死に渡されました。これが十字架なのです。

この世界で私たちが生きていく上において大切なものほど無代価で与えられます。空気にしてもそうですし、親の愛にしてもそうです。それはそのものに価値がないからでなくて、あまりにも必要なものなので無代価で提供されるのです。

それは、この天からのいのち、霊のいのちにおいてもそうです。この、天からのいのち、霊のいのちがあまりにも人間にとって必要なもの、大切なものであったので、神さまは無代価で提供しようとされたのです。でもそのために払われた犠牲はとても大きかったのです。

アブラハムに与えられた祝福の約束を神は、このように実現しようとしされました。キリストが十字架で死んでくださったのは、私たちが霊のいのちに生きるようになるためです。まさしく私たちを祝福してくださるためだったのです。

神さまはこのいのちをすべての人に体験してほしいと願っておられます。それは私たちがとても不自由な生活をしているからです。この霊のいのちがないがゆえに私たちはお互いを傷つけ合って生きているのです。

霊的ないのちとは神さまとの生きたつながり、関係のことです。あなたはそのような霊的ないのちを持っておられるでしょうか?それともあなたは神さまを教理の上でだけ知っていないでしょうか?理屈の上だけで考えていないでしょうか?

もしあなたがこのまことの生ける神さまとのつながりをこの地上の生活において持っておられないなら、あなたは永遠においても持つことができません。

何事においてもそうですが、何かを生み出そうとする時には必然的に苦しみが伴います。愛は痛みを伴います。愛には犠牲が伴うのです。シュバイツアーの生きざまを見てください。マザーテレサの生きざまを見てください。

愛のあるいのち、愛のある人生、愛のある生きざま、これこそが神さまが私たちに用意して下さったいのちなのです。愛さえあなたに溢れたら、あなたの人生は、あなたの生きざまは砂漠がオアシスに変えられ、牢獄からの解放が与えられのです。

神はレビ記という書物の中に、この救い主を神の小羊として描写されました。また、神は預言者イザヤにこの来るべき方がどのような方かを描写されました。

“イザヤ”
53:3 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。
人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。
53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。
だが、私たちは思った。
彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。
彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

「救い主は苦しみを受け、よみがえる。」救い主は私たちのために苦しみ、死を体験して、よみがえらなければならなかったのです。それは私たちが、この最高の愛、神さまの徹底した愛を体験するためです。

この方に死が働き、私たちに神のいのちが働くようになるのです。神は、人類のために、この来るべき方を私たちに用意してくださいました。神はエゼキエルを通してこう語られました。

“エゼキエル”
36:26 あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。
わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。

どうぞ、この方をあなたの心に救い主として迎え入れ、あなたの心を愛の花園に、そしてオアシスに変えてください。


お祈りを致します。

このようにふさわしくない者、いやしい者、神であるご自身が死んでくださって、愛であることを示してくださいました。何ということでしょうか。

主のあなたの中に、生かしてください。成長させてください。あなたに喜んでさらに仕えさせてください。主がさらに多くの人々に与えられていったのです。

ともすれば、私たちは自分の力でやってしまします。自分の力で担ってしまいます。しかし、そのそこに働きません。主よ、どうぞ、私たちのうちに働き、豊かにしてくださいますように。

尊いイエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン!