| 2002年10月6日 主日礼拝 使徒13:1〜3 収穫のために何をするのか3「断食と祈り」 池田 博師 宣教メッセージ |
| 今日のメッセージのみ言葉をお読み致します。今朝は使徒13:1〜3をお開き下さるようにお願い致します。新約聖書の232ページです。
使徒
はい、聖書はい、聖書は以上であります。私たちの人生における危機は、チャンスであると言う言葉があります。私たちの人生には様々な意味での危機が訪れると思うんです。生きることへの行き詰まりとか、仕事上の行き詰まりとか、健康であったのが、突然医者の方から、病気があると言う宣告を受ける。 また、夫婦の危機とか、親子の関係の危機。色んな意味の危機を私たちは迎えるかなぁ。それは避けられないことであろうと思います。誰しも願わない、でも避けられないのが、そうしたクライシス、危機であると思います。 しかし、私たちは願わないし避けたいし、あって欲しくないわけでありますけれども、でも、神様の目から見た時に、その危機が実は神様のチャンスである。あるいは恵みの門口にもなる。そして、神様は私たちに危機をプラスに、マイナスをプラスに、闇夜を光りに変えて下さる。それが、神様であるとと言うことでありますね。 まあ、色んな意味の危機を皆さん方も通ったこともあるし、現にその中にあって、どうしていいか分からない。暗中模索、行き詰まっている、何とかしたい。そう言う方もあるかなぁと思います。 私もそう言う危機を何度も何度も通りました。でも今振り返って見て、何が感謝か、何が恵みかと言う時に、おしなべて危機を通ったことが、むしろ、本当に恵みであった。それが神様と考えています。それが、不思議と言えば不思議ですけれども、それは神様が矢っ張りそれをして下さったんだなぁと思います。 神様は私たちに善を以て善をなされる、と詩篇の中にもあります。そしてまた、先程言いましたように、神様は常に私たちに良きことを計って下さる方なんだと言うことです。たとえ、私たちが自ら招いた危機、あるいは罪の結果があったとしても、でも神様はそれを良きに変えて下さる。素晴らしいですね。 最近私は何とカーナビを使うようになりまして、とても重宝しています。昨日も首都福音を往復しました。今まで全然通ったことのない道を、ちゃんと最低の時間で行きも帰りも行け、本当に素晴らしい。 使って見て素晴らしいなぁと思ったのは、敢えて間違った道を行っても、このカーナビさん、「間違えました戻って下さい」とは絶対言わないのですね。優しい声でリルートを始めます。もう一度そこから全部新しくやり直して瞬時に、新しい道を導いてくれるのです。 私の失敗を、駄目です、もう終わりです、なんて言われたら、もうどうしようもないです。終わりです、駄目です、と言わなくて、リルートします。と言います。そこから、新しい道が開かれて行く。素晴らしいなぁ。 私たちの人生は本当に失敗する者です、そして、罪を犯してしまう者ですけれども、でも、そこから、私たちを新しく立ち上がらせて下さる。そこから、私たちの予期しない祝福の道も開かれて来る。これって、素晴らしいと思いますね。 さて、今日のみ言葉の背景でありますけれども、ここに、アンテオケと言う教会が出てまいります。このアンテオケと言う教会は、これから後、当時の初代教会の中心の教会、でまた、宣教の拠点となる大事な教会であります。 このアンテオケ教会が後になって、どんなに大事な教会であるかが分かるのでありますけれども、当時の弟子達は全くそう言う事は予期していなかった。そして、計画の中には全くなかった。 その一寸手前の11:19〜21を見て見ますと、 使徒
とこうあるわけです。19節の最初の部分、ステパノのことから起こった迫害によって散らされた。こう言う書き出しであります。もう少し遡って8章を見ますと、ステパノが何と素晴らしい神様の器、であったわけでありますけれども。彼は殉教者、今、私たちは教会の最初の殉教者、とっても私たちは素晴らしい人として評価するわけでありますけれども。 でも、その当時ステパノは素晴らしい優れた平信徒として、弟子達の間に教会の間に、彼は素晴らしい人として評価するわけでありますが、でも、その評判のステパノ、その彼が殺されてしまった。これって教会にとって、これ以上ないショックな出来事であったと思います。 みんなから期待されて、素晴らしい器でもって、そして、その人が熱心に伝道していたら、ユダヤ人の反発をかって、とんでもない、と言って捕らえられて、そして、石打ちの刑に、一方的に処せられて、そして、あっと言う間に殺されてしまった。あっと言う間の出来事。教会のショックはそれはそれは大きいてすね。 私が講壇に立っていたら、ぞろぞろと誰かがやって来て、そして、庭に連れて行かれて、いきなり石で殺されてしまいました。皆さんどうでしょう。何人かの人は泣いてくれる、と思いますが。そう言うショッキングなことですね。そのステパノの迫害があった。 そこで牧師が殺されただけでなくして、8章の最初を見ますとサウロはステパノを殺すことに賛成していた。その日エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒達以外は、みなユダヤとサマリヤの諸地方に散らされた。とこうあるわけですね。牧師が殺されただけでなく、みんな信徒は散らされてしまったと言うことであります。 それはそれは大変な騒ぎになって行ったと思うんですね。何故こんなことになったのか。信徒の心は本当に混乱してしまったと思います。 でも、この将来のクリスチャン達は、このようにして混乱をしたでしょうし、何故そうなったんだろうかと、答の未だ見えない中にあって、家財道具も持てないで、着の着のままで、僅かな持ち物だけで散らされてしまった。と言うことであります。 ところが、先程の所に戻って、11:19を見ますと、 使徒
とあるんですね。ですから、とんでもない遠い所迄、逃げて行ったのであります。でも、彼らは何をしたかと言うと、み言葉を伝えているのです。彼らは散らされた先々で、主を伝えている。これはとっても不思議なことだと思いますね。 そんなことって出来るだろうか、考えられない。私も見ますと、大半の人がそうで、いや、違うなぁ、初代教会は違うんだと、こう思ったりしたのですけれども。 も少し考えて見た時に、そんなには違わなかったんじゃなかったなぁ。多くの人達は、どうしてどうしてとこう、右往左往し、意気消沈し、この行く道を見失ってしまった。と言う人がとっても多かったのだろうと思います。でも、その中から何人かの者達が、熱心に真剣に主を讃えている、そう言う人達がいたんだなぁ。それが多くの人達を励ましたんだろうかなぁ。そんなふうに思いました。 20節にこう言うふうにあります。 使徒
とこうあります。ここに、幾人かいて、とこうあるわけですね。幾人か、なのですね。大勢ではないですね。殆どの人ではなくして、幾人か、なんですね。でも、今こうして、振り返って、歴史の中に位置づけられて、読んで行く時に、散らされた中の多くの人々は、本当にどうしていいか分からない中にあって、でも数人の輪が、その中にあって、彼らの心の中にあって、受けた迫害以上に、頂いた恵みの大きさ、彼らに与えられた主イエスのいのち、復活の希望、それがどんなに素晴らしいか、彼らは迫害の中にあっても、何を失っても、得た恵みの大きさの前に、彼らは主を讃えずにはいられなかった。 私たちは地上のものは失われました。目に見えるものは失われました。でも、私には優秀なものが与えられているのです。いのちが与えられています。イエス様のいのちを与えられています。復活のいのちが与えられています。そして、それは私にとって希望です。何者にも変えられない希望です。何を失っても得難い、素晴らしい恵みです。とそう語った。 その時に多くの人々の心を動かし、多くの人々に光りが与えられた。彼らも人生の様々の危機を経験して来た。いろんな行き詰まりを彼らは通って来た。ですから、こんな危険の中にあって、災いの中にあって、なお喜べる、それを感謝できる。 それって素晴らしいなぁ、それって欲しい。その僅かな人々の心を動かしていたものは、やがて、多くの人々の心を動かして行き、そこに1つの教会が生み出されて行く原動力になったと言うことであります。 アンテオケ、そこはシリヤの首都です。アンテオケ、そこは世界三大都市の1つ。ローマ、アレキサンドリアに次いで、大きな都市であって、祝福された都市であった。でも、そこは当然ですが、シリア、異教の地、偶像の地であるわけであります。彼らの計画の中にそこ迄行って伝道するとか、そこに教会を立てようと言う意志は、弟子達の計画の中に全くなかったことでありました。 でも、不思議ですね、その中で、散らされて、散らされていった人々の幾人かが、伝道した中で、やがて、その幾人かが、数十人になり、あるいは、数百人になり、そこに、アンテオケと言う教会が誕生して行きました。そして、誕生間もないアンテオケの教会が、エルサレムの教会を支援するような、そう言う教会にもなって行きました。 私たちの人生の計画、皆さん、誰しもが持っていると思います。人生の計画、自分はこうなりたい、ああなりたい、と皆ビジョンを持っていても、それはしばしばとん挫しやすいし、思うようにならないし、思い掛けない事態の中で、にっちもさっちも行かなくなってしまう、と言うことがあると思いますね。 でも、その危機の中で私たちの心が、もし、自分の過去や、自分の知識や、自分の経験に頼るのでなくして、その危機の中で神様に頼ること、神様に信頼すること、神様に全幅の信頼をもってゆだねたときに、あなたの人生はそこから新しく開かれていく、あなたの人生は必ずや変えられて行く。 しかも、この地上の人生が変えられるだけでなくして、永遠の希望が私たちに与えられて行く。これは素晴らしいですね。主にある兄弟姉妹達はそのようにして、このアンテオケの地に小さな教会を生み出して行きました。やがて、そこには、家庭集会のようなものですかね。10人か、そこらの集まりだったかなぁと思いますね。でも、更にそこに多くの人達が加えられて行って、家の教会が、40〜50人となって、もう入れきれなくなったでしょうか。 そのニュース、噂が、電話もない、テレビもない時代です。もう、それがエルサレム迄伝わって行きました。伝搬した知らせの中で、弟子達はそこに指導者を派遣しようと言うことになりました。先程の22節以下にそのことが書かれております。「この知らせがエルサレムにある教会に聞こえたので、彼らはバルナバをアンテオケに派遣した。彼はそこに到着した時に神の恵みを見て喜び、皆が心を堅く保って常に主にとどまっているようにと励ました。」とこうあるわけです。 こうして、バルナバが遣わされて行きました。かれは、慰めの子、ですね。本当に牧会者でありました。そして、指導者がそこに遣わされたと言うことでもって、彼らは本当に喜んだわけであります。 そう、このアンテオケの教会が一寸抜けましたけれども、あの信徒の集まりであったわけです。幾人かのクリスチャン達とあるわけですからね。そして、その熱心な信徒達が伝道した中で、誕生した信徒中心の集まりであったわけですね。 ですから、そこに指導者として、バルナバが遣わされたわけであります。そして、指導者がやってまいりました。バルナバは素晴らしい弟子を育てる人でありました。パートナーをしっかり育て、用いる人でありました。そうだ、この時、あのサウロをここに連れて来て、そして、彼を用いたらいいだろうかなぁ、と言うことでもって、その先見ますと24節に書いてありますが、バルナバの言葉。そして、25節に、 使徒
とこうあるわけです。バルナバは、ここで改めてサウロをここに連れて来て、そして、彼を中心としてアンテオケ教会が確立して行くわけであります。ところが、読みました13章によりますと、そのバルナバとサウロと言う指導者、彼らが来て教会が安定し、これから、このアンテオケ教会が、どのようにして、更に拡大し、そして、そこから、どう言う伝道計画がなされるであろうか、と言う期待の中でいるわけでありますけれども、2節を見ますと、「彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が、バルナバとサウロを私のために聖別して、私が召した任務につかせなさい。」とこうあるわけなんです。 彼らにとって、これは、青天の霹靂ですね。やっと、これからと言う時に、何と聖霊は神様は、その2人を送り出しなさい。こう言われたわけであります。彼らは本当に驚きながら、どうしたらいいのだろう。と言う思いも一杯あったのだろうと思います。でも、3節に、 使徒
断食と祈りをした。と言う、ここがとても大事な所かなぁ、と思います。 役員会を開いたり、みんなで話し合って、総会を開いて、どうしょうか、と言う時には、私たちは、どうしても、それは色んな声になるわけです。人の声になるわけです。ああしたらいい、こうしたらいい、いやこうですああです、と色んな議論百出、そして、ともすれば、船頭多くして舟山に登る、ことになってしまい易い所であります。 ですから、彼らは、勿論そう言う話しを無視したわけではありません。でも、断食と祈りをした。ここは何が大事か、優先順位、何を最優先しなければならないか。それは祈りだ。しかも、こんな大事なことですから、ゆうゆうと御飯を食べながら、10分位祈っていたなら、これは駄目だ。しっかりと、食を絶って、食べたいものも食べないで、それだけ、渇いているのです。真剣なのです。と主の前に出て祈っていく中に、皆さん、何が聞こえて来るでしょうか。そこにこそ、細き主の声が聞こえて来る。 私たちはお互いに肉の思いで考えて、この教会はどうして出来たんだ。とか色んなことをそこで話し合って行くならば、細い主の声は、私たちは、やり過ごしてしまいますね。ですから、断食と祈りです。鎮まって、私の神であることを知りなさい。止めなさい、あなたの考えは一旦そこで停止しなさい。そして、神の声を聞きなさい。危機はそこからチャンスに変えられて行くのです。 大切な所ですね。皆さん。私たちの人生にも、そう言うことがあります。教会においてもそうです。皆さん。私は明日アルゼンチンに −誰も予期しなかったのですけれど、どうしてですか、と思う方も何人かいるかも知れませんけど− 6月19日、皆さん。この日、サッカー・フエスティバル、Wカップで湧きに湧いていた。教会も湧きに湧いていた。忙しさの中で右往左往していました。 色んな人達がその間寄ってまいりましたね。シーホースが来た。アンバサダーか来た。そして、ボランティアー・チームがやって来たり、平塚からアルジェアかモロッコだか、誰が来るから、その人も泊めて下さい。と言ってくるわけです。いいえ、この忙しいのに、でも、来たらしょうがない。でも、それは花だったのですけれどもね。 そして、19日になったら、オルテガさん、大昔プロでそんな選手がいた。サッカーフアンなら誰でも知っていると言う選手だったのです。そのオルテガ選手と言うのが来る。それを、恵賜師が受けて、それを是非迎えたいと言う。ええ、又、忙しい上に、もう1つ忙しさが加わる。それっていいんだろか。それってすべきことだろうか、そんな思いもよぎりました。でも、彼は迎えたい、とこう言うんです。で皆さんに無理をして、迎えて頂きました。そして、19日の夕方、私は初めてお会いしました。 やがて、このオルテガ選手が50日間滞在することになり、そして、今や、オルテガ・サッカー・チームを立ち上げて行き、この人を通して、主がこの群にせられようとしていることは、少しずつ少しずつ見えて来た。「贖われたものは帰ってくる。」このビジョンであった。 ポイントは何と、神様は地球の反対側から、1人の器を起こして送って下さって、「ガゾー」をしようとしておられるんだ。私たちには、色んなことが一杯あって、その上にもう1つと言う時に、捨てたくなります。 どうしてですか、と言いたくなります。でも、そこで細い声を聞き分けて行くことが、あなたの心の中で判断することの大事さがあります。危機の中で、行き詰まりの中で、あなたが主の声をどれだけ聞きますか。聞き分けることが大事です。断食と祈りでもって、真剣に主の前に出ることです。その時、あなたは主の細き声を聞くことが出来ます。そして、それを聞き取って、そこに一歩足を踏み入れて行くならば、そこから、道が開かれて行きます。 忙しいのに、どうして、そんなことが出来ますか、と退けたならば、祝福はそこで消えて行きます。私たちにとっての大事な大事な選択は父の中にあって、如何に聞き分けて、決断して従うかどうかに掛かっていると言うことであります。 アンテオケの教会が、こんなことがあって、たまりますか。絶対に2人は留まるべきです、と言って、なお縄に括ってでもこの2人を止めたならば、後の世界のキリスト教は、生まれなかった。 でも断食と祈りの結果、私達にとっては、どんなに大きな損失かも知れない。危機的な状況であるかも知れない。でも、その細い声を聞き、その細い声をしっかりと受け止めて送り出しました。 やがて、アンテオケ教会は世界の教会になって行く、大事な拠点になって行きます。祝福の始まり、それは私たちの危機を如何にチャンスに変えて行くかの決断に掛かっている。祈りに掛かっている。選択に掛かっている。私たちの人生をそのように変えて行きたいのであります。主は必ずそれを予期して下さることを信じるのであります。
お祈りを致します。 愛する天のお父さま。今日もこのようにして、備えて下さいました恵みの時に感謝いたします。 主が先だって下さって1つ1つに、主の祭典がなされますようお願い致します。 尊いイエスキリストの御名によってお祈り致します。 アーメン |