| 2002年10月13日 主日礼拝式 “ヨハネの福音書” 4章3〜15節 「“その水を私にください”」 “木島 正敏師” 宣教メッセージ |
| 今朝のメッセージのみ言葉をお読み致します。今朝は ヨハネの福音書4章3節から15節 です。新約聖書の163ページになります。 “ヨハネ”
以上です。一言お祈りさせてください。 神よ。み言葉をもって、私たちを導いてくださる主よ。心の目を開き、耳を開いて下さい。どうぞ、期待をもって、あなたの語りかけを待っているあなたの羊たちに、子供たちに、主よ、あなたが語ってください。イエス様のお名前によってお祈りします。 小学3年生ぐらいの時の思い出なんですが、夏の暑い日盛りの頃でした。畑仕事を手伝った後、母と家に帰ってくつろいでいました。すると、開け放した玄関から「ごめんください。」と言う声が聞こえてきました。行ってみると一人の男の人が立っておりました。「済みませんがお水を一杯頂けませんでしょうか。」と言いました。 とても疲れきった様子でした。母が慌てて裏の井戸に行って、冷たい水を汲んできて、それをコップに注いでお盆で差し出しました。すると、その人は「ありがとうございます。」と言って、その水を受け取り、実に美味そうに飲み干しました。 そして「はー。」とため息をついて「ありがとうございました。この家に神様の祝福がありますように。」と言って何かお祈りを始めた。「アーメン。」と言って、そして出て行きました。私とは母はキリスト教のキの字も知らないで、あっけにとられて見送りました。 田舎の事ですから、山伏が来たり、薬売りが来たり、又カンジンと言っていましたが物乞いが来たり、いろいろな人が来ましたが、この方のことは子供心にも深く心に残りました。 ズーっと後になって、このイエス・キリストを信じる信仰を自分が得て、今幸せに暮らしていますが、「あー、この祝福はあの時の、あの方の祈りなんだな。」そう思います。あの時母もいましたが、その母も今キリストを信じて幸せに日々暮らしています。 さて、先ほどのピアノ曲本当に素晴らしく、また朗読もありました。この物語、ある一人の女性のことが紹介されておりましたが、この女性はサマリアと言う地方に住んでいました。このサマリアは北の方にガリラヤ、南の方にユダヤと言う地方がありまして、その中に上下をはさまれるような形であります。 ユダヤ人たちはこのサマリア地方を避けて行き来をしていました。ところがイエス様はこの旅の時には、敢えてこのサマリアを通る道を選ばれたということが判ります。この理由は何だったかは後に判りますが、この一人の女性の魂の問題に触れるためでありました。 人々は普通、この泉に涼しい朝又は夕方に来て水汲みをするのですが、そこで女性達は何処の国でも変わらないのですが井戸端会議を行います。私は家族とともにモンゴルの大草原に住む遊牧民と1週間ほど過ごした事があります。 この大草原の何処に人がいるのかと思えるのですが、泉にいるとぽつんぽつんと人が来て、水を汲んでいき、動物が来て水を飲んで去って行く。泉は出会いの場所であります。しかしこの女性はどうでしょうか、暑い夏の日盛りに水汲みにやってきました。町の人々と顔を合わすのが辛く、顔を合わすのを避けて生きている。日陰の生活が窺がえます。 この孤独な女性は確かに人生に疲れておりました。この女性にイエス様は「わたしに水を飲ませてください。」と声をかけられました。単にこの女性と会話を始めるために、このように語られたのではなくて、イエス様は本当に疲れて、喉が渇いて、しかも汲む器を持っていなかった。 水の少ない地方ではとっても水を大事にするのです。私も大草原の小さな泉でこれがどんなに大切な泉か、25キロ四方の中でちょろちょろと流れるこの泉だけが頼りという人々の泉に対する思いは想像を越えるものだと思いました。 或る日、その井戸に手にもっていたハンカチを浸して首を拭いたのですが、すぐに、遥かむこうにいた遊牧民が馬で駆けて来て「止めろ。」と言いました。彼らは手を漬ける事さえしない。「器で水は汲むものだ。」と言ったのです。 イエス様は汲む器を持っておられませんでした。喉が渇いて、誰か器を持ってきてくれる者、その時この女性はここに来ました。これがこの女性にとって結果的には良かった。イエス様のやり方はそのようでありました。全く不思議ですけれど、人は自分よりも弱く貧しい人に心を開くのです。そして自分より弱い人から助を受ける事が多いのです。 この女性は町の人々からまともな付き合いをして貰えるほどの人ではなかった。いつも彼女に向けられる目は軽蔑の眼、非難する眼、「もっときちんとしたら。」と冷たく語りかける眼、そうでした。この女性がどんな失敗をしたのか、多分男性問題で一度失敗をした。その時から彼女はそのような眼に取り囲まれるようになりました。 受け入れてくれる相手は無いか、そのような人に何度も身を任せては傷つき、そして又傷つき、そういう目に曝されて、もっと落ちていった。女性はそのような隣人達の目を恐れて、避けて、隠れるようにして暮らしていた。そういう女性でした。 しかし、彼女がこの井戸のところに来た時に、そこに居た旅人はどう見ても疲れ、弱り果てている人でした。傷ついた魂には特有の敏感さがあります。この人は恐れる人か、この人は大丈夫か。この女性はイエスを見て、逃げる必要が無い。彼女はくびきをかえして逃げていく事をしませんでした。 私たちクリスチャンは神様の愛に溢れております。そして、どうにかして人の役に立ちたい、お助けしたい、そういう良い動機に満ちています。しかし、時には立ち止まって、イエス様がどのような方であるか、どのようにして人の心に触れてくださる方であるか学ぶ時が必要なように思います。 良い動機が、良い心がけが人の役に立つとは限らない。過ちを犯しやすいのは、何か相手よりも立派な生き方をしている、良いことを知っている、何かしてあげられるだけの力が自分にあるという無意識の自負心です。 本当に人の心に届くには、時には敢えて、イエス様がそうであられたように、どうにもならない、人からの助を必要とするような弱い、恥に満ちた立場に立つ覚悟も必要です。イエス様はこうして、唾をかけられ、鞭打たれ、十字架にまで恥の道を歩んで下さった。私たちクリスチャンは時にイエス様のそういう側面を知る必要があるかなと思います。 しかし、イエス様は弱いだけではなかった。この女性との会話が始まりました。そして、一度この女性の心と触れ合った時に、イエス様は御自分が与えようとしているいのちの水について語っておられます。この14節にそのことばが有ります。 「しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」この言葉は深い真理が含まれています。それだけにむつかしい言葉です。 今読んで、これをすーと判る人はほとんど居ない。そのような言葉であります。しかし、この時のこの女性には何の解説も要りませんでした。何故なら、彼女はたったひとつの事だけに耳を止めたからです。それは、こうです。 「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがない。」もう、その言葉だけで彼女は十分でした。そんな水があるなら欲しい。なんと単純で幼稚で率直なことでしょうか。彼女はこう言いました。「先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」 女性はとっても正直でした。それは幼く稚拙な理解であったかもしれないけど、でも、見逃す事の出来ない大切な真理がここにあります。この女性は人を避けて、恥を偲んで、人目を気にしながら、それでも毎日水を汲みに来なければならない。その生活がどれほど惨めで、辛いものであるか、その苦しみを味わいながら生きていたのです。 もう、これをしなくていいなら、その水を下さい。イエスに彼女はねだったのです。求めたのです。自分がどれほどの方の前に立って、このことを言っているのか彼女は理解はしていなかった。でも、彼女はこの約束された方に願った。 祈りとは何でしょう。祈りとは願いですけれど、神が働かれるのに何の支障も無い程に心が神に向かって開いている、その心のことをいうのです。後にイエス様は弟子たちに祈りについて教え、約束されました。「あなた方が私の名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。」 祈りは応えられる前にその心が無ければいけません。わたしの名によって求める心が無ければなりません。しかし、イエス様は「その心に応えて何でもそれをしましょう。」とおっしゃってくださいました。 又もうひとつ、イエス様はおっしゃいました。「あなたがたは今まで何にもわたしの名によって求めた事はありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。あなたは今まで祈ると言う事について知らなかった。けれども、今は求めてご覧なさい。受けます。あなたの喜びは満ち満ちます。」これがイエス様の約束です。 このサマリアの女、彼女は勿論この約束を直接聞いた訳ではありません。でも、結果的にイエス様はこの女性の願いに、ご自身の約束の通りに応えてくださいました。そして、思い願った以上の事がこの女性に起こりました。結果は彼女の思いを遥かに超えたものでありました。 イエス様は、この物語の先を見れば判りますが、彼女の罪の原因にまで触れてくださいましたが、しかしそれを解決されてくださいました。彼女が生かされている理由、救い主についてまで教えてくださいました。そして、彼女は発見したのです。 自分が願っているこの方が魂の救い主、人生の救い主である事を彼女は理解して、その心の中にわくわくする喜びが起こりました。そして、彼女は「来て見て下さい。」町の人々に向かって伝える、もはや黙っておれないほどの喜びを彼女は持ったのです。 こうして、彼女の身には閉ざしていた3つの壁があったのですが、その3つの壁が取り払われました。彼女は魂の救い主、魂の牧者である神との壁を打ち破ってもらいました。又、自分自身どうしても受け止めきれない自分の境遇、自分の辛い日々、この受け止められない状況を乗り越えられました。その壁を打ち破っていただきました。 そして又、彼女はもはや隠れている必要がありませんでした。打ち解けない、あの厳しい眼を向ける町の人人と、隣人たちと、いつのまにかその壁を乗り越えておりました。 「求めなさい。そうすれば与えられます。」今日私たちは特にこのみ言葉をもって神様からの語りかけを受けたかのようです。私の心は神の祝福の力が自由自在に働いてくださるように開かれているだろうか。それだけが問題です。 「わたしのうちに、あなたの願いは何ですか。わたしに何をして欲しいのですか。」主が語りかけられたらあなたは「これです。そうです。私はあなたの助が必要です。」そう言える心が与えられているなら、それは決して逃してはいけない心です。祈りの心です。神様の祝福が今まさに注がれようとしている心です。 お祈りをしましょう。 「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠へのいのちへの水がわき出ます。」あなたが心の扉を開いて下さる。今良い業が私の心、私の人生に始まろうとしています。大切な神様の祝福の足音が聞こえます。 主よ。どうぞあなたのいざないに私が応じる事が出来ますように。どうぞ、そのままお聞き下さい。聖書の詩篇(119:169〜)を朗読いたします。主のことばを選び取った一人の人の祈りです。 「私の叫びが御前に近づきますように。主よ。みことばの通りに私に悟りを与えて下さい。私の切なる願いが御前に届きますように。みことばの通りに私を救い出してください。私の唇に賛美が沸き溢れるようにしてください。あなたが私に身の危険を教えてくださるから私の舌はあなたのみことばを歌うようにしてください。あなたの教えはことごとく正しいからあなたのみ手が私の助となりますように。私はあなたの戒めを選びました。」 アーメン! |