2002年10月27日 主日礼拝式
“伝道者の書” 11章1〜6節

「“収穫のために何をするのかD
『種をまけ』”」

“池田 博牧師” 宣教メッセージ

今朝のメッセージのみ言葉をお読み致します。今朝は 伝道者の書11章1節から6節 です。旧約聖書の1022ページになります。

“伝道者”
11:1 あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見いだそう。
11:2 あなたの受ける分を七人か八人に分けておけ。地上でどんなわざわいが起こるかあなたは知らないのだから。
11:3 雲が雨で満ちると、それは地上に降り注ぐ。木が南風や北風で倒されると、その木は倒れた場所にそのままにある。
11:4 風を警戒している人は種を蒔かない。雲を見ている者は刈り入れをしない。
11:5 あなたは妊婦の胎内の骨々のことと同様、風の道がどのようなものかを知らない。そのように、あなたはいっさいを行なわれる神のみわざを知らない。
11:6 朝のうちにあなたの種を蒔け。夕方も手を放してはいけない。あなたは、あれか、これか、どこで成功するのか、知らないからだ。二つとも同じようにうまくいくかもわからない。

はい、聖書は以上です。今日は「種を蒔け」という事でありますが、このみことばが教えられている「種を蒔く」ということを通して、ご一緒に見てまいりたいと思います。

皆さんも、今日こうして教会に来ている、或いは洗礼を受けてクリスチャンになっているという事の背景には、何処かで誰かによって種を蒔かれている、祈られている、そのようにして今あることを、先ず心に留めていただきたいと思います。

先ず、私の事を少しお話ししたいと思います。
私も実は、私がその時は知っていたけれども、やがて忘れている、でもその時に確かに「そこで種が蒔かれていたんだ。」という事が後になって思い出されてまいりました。

「アー。神様はそんな種にも目を留めてくださって、芽を出させてくださったんだ。」とも覚えます。私の高校時代、高校1年生か2年生の頃でした。私は神田の古本屋に行くのが好きでした。毎週のように日曜日にはそこに行って、貧しかった事もあって、新刊を買えないので古本を良く買っておりました。

ある日曜日に、本を買って、神田を歩いておりました。ふと銀行の前を通った時、そこに1団の5,6人ぐらいの人が集まっているのがありました。何か惹かれてその集まりの中に入っていきました。それで判ったのは、それはキリスト教の人たちの集まりで、後になってそれはいわいる路傍伝道であったと判ったのですが、その時は良く判らなくて、でも、何か惹きつけられて、そこにずーっと立っていました。

終わりまで居ましたら、司会者のような人がお祈りをされた、私の為に祈ってくれたのです。私はそれがとても心に残ったのです。終わった後で、「どちらからここに来ていますか。」「私は葛飾の方に住んでいます。」「そうですか。じゃー近くの何処かの教会に是非いらしてください。」とそんな事でありました。

後で考えたら、5,6人居たんだけれど、みんなサクラで、私一人がそこにいたんだと思いました。でも、私はそれをすっかり忘れていたんです。クリスチャンになって大分経ってからそれを思い出しました。

それから、もうひとつ、高校生の後半で修学旅行をしました。当時は一寸贅沢といえば贅沢ですが、東京から北九州をズーっと回りました。でも大変でした。東京駅から何と別府まで27時間鈍行で行きました。しかも、今は修学旅行専用車などがありますが、当時は一般の客と一緒になっていました。

でもさすがに、夜中に走っている時に、一般乗客の居ない中で、あるところに一寸した1塊の人がいました。集まっているのが同級生ですから、何だろうと思って近づいて見ますと、その真中に、男子校にもかかわらず一人の女性がいて、その女性の話しを皆聞いているのです。

聞いていて判ったのは、その人がクリスチャンだという事で、あかしをして、伝道していたのです。私も加わって、終わりごろになったら、その女性が「皆の名前を一寸教えてくれる。」と言うのです。皆が名前を言うと一生懸命メモをしているのです。池田博とメモをしてくれて、そしてこう言いました。

「皆さんのこれからの人生、いろんな事があるでしょう。いろんな出会いがあるでしょう。でも、神様との出会い、それを私は願っています。」と言いました。話しはそこまでなんですが、でも、私はそれも忘れていました。やがてクリスチャンになって大分経ってから、私はその事を思い出したのです。

そして、私が教会に行くきっかけというのも、とても何か必然的な導きで教会に行ったというのではなくて、或る日夕方遅く学校から帰って、京成高砂駅を降りて、ふっと歩き出したら、中学の時の友人とばったりと出合ったのです。彼が何か手に持っているので「君、何を持っているんだ。」と聞いたら「教会のポスターだ。」と言うのです。

「えー、お前が教会に行っているのか。」とおもわずそう言いました。彼は教会に行くような人種ではなく、一寸外れている悪ガキだったのです。「えー、お前が教会にか。」それって何か私に新鮮に「そうか、お前が教会に行っているんじゃ、俺も行ってみようかなー。」という感じで、それがきっかけで私は教会に行く事になりました。

そして熱しやすく冷めやすい私だったのですが、でも、何故かズーっと続いていき、救われていき、クリスチャンになって、やがてはこうして牧師にまで導かれ、そして私は本当に幸せな人生を今送れている。そう思っています。

振り返ってみた時に、あの神田の銀行の前で祈ってくれた、そこで本当に小さな種が私の中に入ったでしょうか。そして、汽車の中で名前を書いてくれて、その人が何処の誰か全く判らない、千載一遇、たった1度の出会いでしかなかった。でもきっとその人は、敢えて「名前を教えて。」という程の人ですから、きっと祈っていてくれたなー。祈りを通して私の中にやはり種を蒔かれたかなー。

それが本当に、ひょんなきっかけを通して私が主に出会うことになっていって、小さな種がやがてその人の人生を大きく変えていく種になっていく。素晴らしい。そう思います。

それで、今日のみことばでありますが、1節に目を留めたいのです。「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見いだそう。」とあります。6節には「朝のうちにあなたの種を蒔け。」ということがある訳ですが、何故か最初のところは「種を蒔け。」ではなく「パンを水の上に投げよ。」と言われています。

ここに、私は感じるところがありました。パン、それは私たちにとって、無くてならない物です。今はパンに飽きているという時代で、日本人にとってはあまり実感が無いともいえるのですが、でも、大事である事には変わらない。私の体、生命を維持する上でパンは無くてはならない物、文字通りいのちのパンといえるかと思います。

その大事な大事なパンを水の上に投げるとは。そんな馬鹿な。何故そんな無駄なことをするのかという感じですよね。聖書は何故敢えてパンを水の上に投げなさいと言ったんだろうか。これはどういう意味かと注解書を改めて読んでみましたら、一寸違うんですよね。

このパンというのは魚の餌だというのです。魚の餌を水の上に投げたら魚が集まってくる。それを網で掬い取ったら大漁になりますよと格言をいっているというのです。更に面白いのは、これは貿易の話しをしているのだともいっています。

パンというのは貿易の輸出する商品だというのです。水の上とは舟に乗っけて、商品を他国に持っていったら、お金が儲かる、そういうことをいっているというのです。エー、と思ったりもしのですが、いろんな説明があるもんだなーと思いました。

でも、みことばが1つ1つ私たちのいのちの糧ということを思う時に、私は私にとって大切ないのちのパンは、時に、あたかもとっても無駄でもあるかのように、何故そんな事をする必要があるのかなーと、いやー、そんな事をする必要は全く無いと、無駄だ、無益だと思えることがあるかもしれない。

神田の一団もたぶんある教会の青年達が路傍伝道したんだなーと思います。日曜日皆楽しく遊んでいるではないか。自分達のしたい事をしているではないか。でも、彼ら5,6人の青年達はそういう自分達の楽しみ、自分達のしたいことをするのではなく、主の為に、福音の為にささやかな働きをした。

そこに私はすーっと吸い込まれていったのです。そして祈られた。その祈りがやがて私が主に捕らえられていく大切なきっかけになっている。彼らはそんな事を知る由も無いし、彼らは月に1度ぐらいそんな事をしたでしょうか。やってもやっても具体的に教会に繋がってくる人は居ない。やる意味が何処にあるだろうか。時間の浪費ではないだろうか。

そんな話しがそこに出ても不思議ではないと思われるようなこと、まさに水の上にパンを投げるような働きでもあるかのように思えるのです。でも、そのたった一つがやがてこうして実を結ぶという時に、神様の視点と言うのは違う、神様の目というのは違う。

ですから、この後3節以下に「雲が雨で満ちると、それは地上に降り注ぐ。」とあります。当たり前の事を言っているように思えるのですが、でも皆さん、地上に雨一滴が落ちてくるということは自然現象からすれば当たり前の事でありますが、でも、同時にここにいわれようとしていることは「じゃー、あなた方は自分の力で雨を降らせようとして、雨を降らせる事が出来ますか。一滴の雨を降らせる事が出来ますか。」出来ませんね。

自然の偉大な法則の前に、人間の力はどんなに微々たるものか。「木が南風や北風で倒されると、その木は倒れた場所にそのままにある。」当たり前の事を言っているのですが天をつくような大木が倒れるなど信じられない、でも一度暴風が吹き荒れるならば、たちまちにして天をつく大木も一瞬に倒れてしまう。

自然の猛威の前に人間は以下に弱い存在であるのか。で、4節5節もそのような事で自然とか神の存在の前にいかに人間の存在が小さいか。ですから、あなたがたはそういう中にあって、人間が如何に小さいか良くわきまえながら、あなた自身を神様に委ねる事を知りなさい、神様の法則に自分の人生を託しなさい。

そうすることであなたの人生は神様によって必ず祝福されていきます。このことをここで言おうとしている。もう少しこのことを別の側面からもう一つ別の事を教えられています。詩篇の1篇を開いて頂きたいのです。832ページです。

“詩篇”
1:1 幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。
1:2 まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。
1:3 その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。

150篇の詩篇の出だしの大切な1節であります。「幸いなことよ。」と書きだされています。人間の幸い、人間が生きていく幸い、それは何処から来るのか、どうしたらそうなれるのかということでありますが、それはここに消極的な面から「悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。」とあります。

このことは何を言おうとしているかといいますと、悪者という言い方をしていますが、悪者とはとんでもない犯罪人といった意味合いを、私たちは直ぐに想像するのでありますが、ここで言おうとしていることはそうではなくして、人間が本来神様によって造られたにもかかわらず、それを無視してしまって、小ざかしい人間の知恵であたかも何でもできるかのように思う事をここでは悪者といっています。

罪人とあります。この罪というは聖書は的外れという意味があるということであります。的外れな生き方をしている、本来人間は神によって造られたから、神に向かって生きる、神の元にあって生きるんだ、それが本来的な人間のあり方、でもそうでなくして、的を外れて神様に向かわないで、別な物に向かい、更に己を神とするような、心根の欲望、己の考えを神とする、そういう生き方を罪とすると聖書はいっている。

そこにも人間中心がある訳ですが、さらに「あざける者」とありますが、しばしば「神がなんだ。」と昂ぶって、聖なること霊的なことに対して実にそれを馬鹿にする、人間はしばしばそのように驕り昂ぶりやすい者であります。

そういう風にして、私たちは神様によって造られたにもかかわらず、神を神としない中に立ってしまい易い。でも、そこには決して人間としての幸せを見出す事は出来ません。幸せを見出すのは神様の前に神様のみ言葉をしっかりと頂いて、神に従う生き方をするその人だということであります。

それは、先ほどの伝道者の書からするならば、私の内に神様の種を頂く、み言葉という種を頂く、み言葉の恵みという種を頂く。そしてそれを己が人生の中心にいつも置いて、主を見上げて歩んでいく、その人は幸いです。その人に神様は常に豊な祝福を与えて下さいます。

3節に、「その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」素晴らしいですね。この人生、この世界の人生、しばしば私たちはそれを苦の娑婆と言ったりして、本当にいやな事、辛い事、闇の世界、罪の世界と思うわけであります。

現実、それは否定しがたい事でもあるわけであります。この詩篇の記者にして、そういう現実を決して知らないと言う事ではない。でも、神様がこの世界を造って、神様が人類を造って、神様が人に人生を備えてくださった、この根本基本においては、神様は「祝福あれ。」と言われる、神様は幸せを備えてくださっているんだと。

さー、要はあなたはその神様とどれだけ深く繋がっていますか。その神様に向かって生きようとしていますか。状況や環境や起こってくる問題にかき回され、振り回され、支配される事無くして、その中からしっかりと神様を見上げて、神様のみ言葉という種を頂いていく時にあなたの人生は幸いな事よと言える人生を神様は歩ませてくださる。神様が必ずそういう世界をあなたにもたらしてくださる。それを信じる事のできる人は幸いです。

先週もお話ししましたオルテガさんの事でありますが、オルテガさんはクリスチャン4代目であると申上げました。その4代目の一番最初のヒーおばあちゃんのことを申上げました。一寸写真を見てください。

恵賜先生の右隣にいるのがおばあちゃん、そして恵賜師の左上がお母さんです。このおばあちゃんは92歳ですが、本当に元気溌剌ですが、このおばあちゃんの更にお母さんが初代のクリスチャンです。

ヒーおばあちゃんは、若い時に部落で一人のクリスチャンに出会った。そのクリスチャンを通してみ言葉の種がヒーおばあちゃんの心の中に蒔かれて、その蒔かれた種が芽を出していった。そしたらば、このヒーおばあちゃんは本当に熱心なクリスチャンになっていったようであります。

そして、ご自分の家、1DK、居間と台所しかないという小さな貧しい家だった、でも、その居間を全部開放して、礼拝を始め、人々がそこに集まってきた。その娘であるこのおばあちゃんに聞いてみました。「おばあちゃん。お母さんがそんな風にして狭い家に大勢やって来て、嫌だったんじゃないですか。来て貰いたくなかったんじゃないですか。」

そしたら「いや、いや、いや。もう嬉しかったんだ。」と言うのです。「母と二人で一生懸命お祈りをして伝道したんだ。母は自分で自分のあかしをトラクトとして作って、それを皆に配って、伝道して歩いた。」と言うのです。

ですから、このおばあちゃんも本当に筋金入りの信仰を持っています。そして、もう一段筋金入りが、このお母さんです。このお母さんは本当に元気溌剌で、唯一つ覚えた日本語で「先生。先生。」と言って、歌を歌おうというのです。私は何度歌ってもすぐ忘れてしまうのですが「もう1回。もう1回。」と、その歌詞を私に覚えさせるのです。

教会で歓迎してそしてお別れのときに歌う歌なんだそうです。何度も何度も歌わせて、最後は飛行場迄行って別れようとする時に、「もう一度。」と言って一緒に歌いました。本当に熱心なお母さんです。

その御主人が左隣ですが、このご主人はお付き合いしている頃は未信者だったそうですが、おばあちゃんから熱心に伝道され、最初は嫌われたんだそうですが、やがて救われて熱心になっていきました。このお父さんはサッカーのゴールキーパーをしていた。自分の子供を信仰に導き、優れたサッカー選手になるようにと熱心な祈りを積んだそうです。

生まれる前から、有名な選手のTシャツを寝床に置いておいて、「この選手のようになるんだ。」とビジョンをもって祈ったんだそうです。やがてその通りに、オルテガ選手が世界の選手になりました。そのオルテガ選手を通して祝福されていくのです。本当に豊に祝福されていきました。

家族もそうですし、親族もそうですし、いろんな問題はあるけれども、本当にそこから、いろんな祝福がオルテガ一家に開かれている事をみるのです。まさに「、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」

4代前のおばあちゃんの内に蒔かれた種が4代後にこれほどの祝福となって実を結んでいる。素晴らしい事ですね。あなたが蒔く1つの種、既にあなたの内に誰かを通して蒔かれた種が今それを更に蒔いていく時に、あなたの家族に祝福が、あなたの子孫に祝福が、あなたの周りに祝福が及んでいきます。

これは約束です。み言葉の約束です。神様の約束です。それを信じる事のできる人は幸いです。今日私たちもう一度新しくそのみ言葉に信頼して、今自分がこうしてクリスチャンになれた幸いを感謝し、又あなたもいのちのパンを惜しみなく水の上に投げる事ができる、新しい天の価値観、法則、主に従う生き方をする事が出来たなら、どんなに幸いでしょうか。

祝福を願ってやみません。


お祈りを致します。
愛する天のお父様。感謝を致します。本当に私たちはこの地上を見るならば、この地上だけを全てとするならば、そこには唯苦だけがあって、光も楽しみも何も見出す事は出来ません。でも、あなたはその最初においてその創造において私たちを幸せにする事をあなたは定めてくれました。

全てを良しとされました。見てそれを麗しいとされました。主よ、感謝します。その約束を信じ、その約束に従う事のできる人は幸いです。今日もう一度私たちはそのみ言葉に目を留め、その神様に信頼する事のできる幸いを与えられている事を覚えて真に感謝します。

お一人お一人に主が臨んでくださって豊な祝福をお与え下さい。今光が見えない、問題だらけの中にある人がいるでしょうか。主よ、どうぞあなたのみ言葉に信頼させてください。そして、どうぞ、決して悪者のはかりごとに歩むことなく、罪人の道に立つ事が無く、あざけるものの座に決してつかないようにして、あなたのみ声、あなたのみ言葉、あなたに信頼していく者とさせてください。

尊いイエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン!