2002年11月3日 主日礼拝 
ガラテヤ6:2

収穫のために何をするのか6「重荷を負う」

池田 博師 宣教メッセージ

今日のメッセージのみ言葉をお読み致します。今朝はガラテヤ書の6: 2をお開き下さるようにお願い致します。新約聖書の339ページです。

ガラテア書
6:2 互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい

ガラテア人への手紙ですね。大切な言葉でありますので、ご一緒に読んでみたいと思います。互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。収穫のために何をするか、と言うことでずっと読んでおりますけれども、静まっていた時、導かれたみ言葉でありますが、今日は互いの重荷を負い合うということを皆さんと御一緒に考えてみたいなぁ、と思っております。

大切なことがここに言われているかなぁと思います。重荷を負い合う、私たちは人生でさまざまな重荷、辛いこと、悲しいことを通るわけですが、それを本当に一人ではどうしょうもない、そう言う時に直面します。そんな時に分かち合える、祈り合える、そして本当に担って頂けると言うのは、とっても嬉しい感謝なことだと言う風に思います。

でも皆さんいざ具体的にそのことが自分に振り掛かったら、あるいは自分にその必要があったら、あるいはそうすべきだろうか、と言う風になっていった時に、なかなか私たちは、はい、と言って、そう言う重荷を担ってあげる、共に痛んであげることにならないなぁ、とこう思います。私自身がそう言う者だと寄っかかっています。

この春頃でありましたけれども、港の見えるクリスマス、がありまして、そこにPBAの方々が来られた中の一人に、浜牧師と言う方がおられて、この方が一寸時間を頂きたい、と言うことで話をされました。

それは、私は三鷹教会の牧師だけれども、私の仕えている牧師さんで、いま広島教会で牧会をしておられる加藤望牧師が、肝硬変が極度に進んで、助かる見込みはない。唯一助かる道は、アメリカに行って、肝移植をするしかない。そう言う状況になっている。そこで、皆さんに祈って頂いて、又、協力も頂きたい。アメリカで肝移植をすると言うのは、進んではいるけど、お金も掛かる。牧師でもあるので、蓄えもないので、皆さんに祈って捧げて頂きたい。どうしても、5千万は必要です。こう言われたのであります。

本当に大変だなぁ、祈りを要するなぁと、また、本当に多くの協力を要するなぁ、とそれを聞きながら思いました。

終わってから、浜牧師がわたしの所に来まして、「先生は、ホーリーネス出身です。多分、加藤牧師をご存知ですよねぇ」とこう言うのです。「成る程知っておりまして、分かりました」と申し上げたら、「先生よろしくお願い致します。百枚でも、二百枚でも、このアピール文がありますから、是非持って行って頂きたい」と言われたのです。で、私は一応、二百枚頂いたのですけれども、正直私の心は重く感じたのです。その重く感じた思いを、私はその集会が終わって帰りながら、私の中で考えさせられたのです。

まず、私は重く感じたと言う半分は、何か自分のこととして、なかなか受け止めきれないなぁ、と言うことです。反対に、もし私の家族にそう言う人がいたならば、あるいは身内にそう言う人がいたならば、どうだろうか、と思ったならば、これは違う、と言う思いにもなりました。

そんなことを思っていたら、何故か、イエス様の話。よきサマリヤ人の話が、すうっと私の中に入って来まして、いや重く感じたと言うのは、あの半殺しになっている、傷ついた人を脇に見ながら、反対側を通り過ぎていった祭司、そしてレビ人の姿だなぁと、凄く私は刺されたのです。

そして、更に考えて行く中に、私は何故自分がこう重く感じたか? 一つには教会に持ち帰って、皆さんにアピールする、と言う時に、「今年、教会は、会堂返済の3年目と言うことで、9千万と言う大きな課題を抱えている、そう言う中に、又、5千万の献金のアピール。これは大変だなぁ」と思いました。ですから、何かこう二百枚も頂いたのですけれど、ううんどうしようか、と言うそんな思いも働いておりました。主は更に心を探るんですよね。そして、さらに探って行った時に、私が突き当たったのは、自分自身のことでした。

自分自身が矢っ張り難しいと考えているからだなぁと言う思いが、そこに光りの中に照らされたのです。私も会堂返済のために、何とかしないといけない、と言う思いから、年金を積み立てている銀行預金や簡易保険から考えました。私は最初は簡易保険から、その中から捧げようと郵便局へ行ったら。いやいや解約しなくて大丈夫です。あの保険から借りられます。郵便局が勧めてくれたのです。では、その手続きをしましょう、と言ってね、その金利は何%ですか、と聞くと5.7%です。で素っ頓狂な声を出したのですよ。預けたら0.02%しか付かないと言うのに、これは暴利だ、高利貸しだ。もう郵政大臣に言わないといけないね。郵便局でそんな話をして、郵便局側で、すみません、と頭を下げていたのですけれどもね。

でも借りるしかなくて、借りたのですけど。そんな風にして、私としては、もうぎりぎりだし、私としては、やってやる。結局、私自身捧げないで、皆さん捧げて下さい。それは言えない。その自分自身と言う所で、ぶち当たってしまったのです。そして、私の重いと言う思いの原点はそこだ。そして、主はそこを探って下さったのです。

そして、主は不思議なことをして下さいました。帰りまして、家内にそのことを話しましたら、「あの望さん」、と言うのです。家内は、その三鷹教会で奉仕をしていました。その頃、望くんは4〜5才だった。その望くんがこうして大変な事態になったならば、それは放っておけない。捧げましょう。とこう言われたのです。おお、とこう思いまして、一つ自分の中で吹っ切れて来たのです。

更に、日曜日にこれを教会に持って来たのですが、西田姉が先生、私もそう思っていたのです。そして、聞いたら、「その加藤望先生の奥様は西田兄弟姉妹の母教会の青年時代のとっても、親しい方だった」と言うのです。そして、「少し難聴の気もあったりして、でも、そういうこともあって、手話の勉強もしたりして、あのビー・グラハムの手話の通訳もした」と言う、そう言う人だということを知った時に、「その加藤先生のことなので、私も皆さんに是非お願いしたい、とそう思っていたのです」 とこう言われたのです。

そのことも大きかったですね。ああ、こうして、わたしの中に重いと思っていることに対して、神様は一つ一つその石を取り除いて下さって、喜んで献げること、これが主が求めておられるんだなぁ、と言うことが分かってまいりました。そして、私は更に自分なりの、借り入れをしながら献げ、また教会を通しても献げさせて頂きました。

そして、皆さん素晴らしいニュースですね。これがあのクリスチャン新聞に出ていた記事ですが、「加藤望牧師、肝臓移植成功、募金が約8千万集まった。」ハレルヤ! 私は感動にうち振るえたのですよ。春に、零からスタートしたことが、こうして遂にアメリカで肝臓移植成功し、募金も5千万を超えて8千万が与えられた。でこの中を見て行きますと、一年間色々変化もあるかも知れないので、その変化を見ながら、もしその必要がなくなったならば、次の必要な人に残りを全部捧げたい、と書いてありました。

ああ、神様のなさる業は素晴らしいなぁ、で私はほんの一部でしたけれども、献げることが出来た恵みに、純真に嬉しく思いました。もしあそこで私が退けていたならば、重いと言うことの故に、他に必要がある、教会にはもっと必要がある、自分もやっと生きて来た。それ故、私の中から閉め出していたならば、私はこのニュースから感動はなかったと思います。

主はそのようにして、一つ一つ探って下さる。そして、改めて心にこもること、本当に私たちの思いを祈り合いなさい。と主は言われる。その思いを祈り合うことの大切さを改めて教えられたことであります。で、今日のみ言葉にもう一度目を留めたいのであります。

ガラテア書
6:2 互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい

こうあります。そして、分かり易いリビング・バイブルを読みますと、こう言う風にここは訳されています。「相手の悩みを共に背負い、そのようにして、キリスト様の聖霊に従いなさい。」 相手の悩みを共に背負い、とこうあります。何か、こう更に実感がこもっていて、そして、私たちの姿勢といいましょうか、どうしたら良いのかと言うことについて、とても大切なこととして、訳されているなぁ、と思いました。相手の悩みを背負う、と言う、頭で分かりながら、しかし、現実いざとなった時に、私たちはなかなかそこに自分が立てない。見て見ぬふりをしてしまい、無関係を装ってしまい、自分は出来ないと言う中にあって、きっと誰かがやってくれる、と言う風にして、自分の中で切ってしまう。そう成りがちだなぁ、と思わされました。

昨日も「賜物のリスト」というアンケートを取ったりしました。それに応答した人もいると思いますが、賜物のアンケートをやって見ることもいいなぁ、自分はどう言う傾向があるのか、どこに隠れた賜物があるのか、発見するのもいいかなぁ、と思いました。その中に色んな賜物があるのですけれども、まあ、慈善の賜物と言いましょうか、ここで言う悩みを背負うことに特に賜物として与えられている人。私たちの教会にも、T姉妹とか、F姉妹とか、おお、優れているなぁ、とこう言う人がおります。

それはそれとして素晴らしいのですが、でも私は同時にこうして賜物の発見と言う中にあって、どう言いましょうか、危険と言いましょうか、更には落とし穴もあるのかなぁ、と思わないのでもないのです。私には人に同情して、人を助けたり、人の悩みを背負ったりする賜物はないから、だから私はそれをしないでも、もし賜物として結論を出したりすると、私は一寸違うと思います。

勿論、特殊な賜物と言うのでしょうか、今日もこの讃美リーダーとして立って下さっていますが、私が讃美リーダーとして立ったとしたら、皆さん震えちゃってどうしようもない。と思いますし。ピアノを弾かしたら、確かに、音は出るけど、メロディーは滅茶苦茶ですよね。ですから、楽器とか、歌を歌うとか、あるいはこの説教も矢っ張り、一つの神様が特別な頭に乗せて与えられるから、癒しの賜物とか奇蹟の賜物とか、まあそう言った特殊の賜物を神様が与えられていると言うことがあるのですが。

でも、言うならば、慈善、重荷を負い合うと言うことはそうではない。6章の1〜2節を一寸見てみたいのですけど、ここにこう言う風にあります。

ガラテア書
6:1 兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。
6:2 互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい

とこうあります。ここをリビング・バイブルで読みますと「愛する皆さん、一人のクリスチャンが、何か過ちを犯した場合、神様を敬っているあなた方は、優しく謙遜な気持でその人を助け、正しい道に立ち帰らせてやりなさい」「同時に今度は自分が悪の道に落ち込むかも知れない、と心を引き締めなさい。相手の悩みを共に背負いそのようにしてキリスト様の命令に従いなさい」 こうすぅーと入って来ますよね。

まず、最初の呼びかけですよ。「愛する皆さん」、とあるわけですよね。こちらに「兄弟たちよ」とありますね。姉妹は抜けているかなぁてね、そう言うことではなくて、これは教会の兄弟姉妹達、教会員である皆さん。教会に集っている皆さん。と言うことであります。で特別な賜物がある人達への勧めではなくして、皆さん。わたしたち全員、クリスチャンであると言うことは、即ち、ここにあるクリスチャンは、ここにある勧めを大切なこととして、それぞれが聞いて行くと言うことが大切ですよ、とあるわけなのです。

過ちに落ち入ったなら、とあるのですけれども、そう言う所から入っているのですけれども、皆さん。私たちはしばしば過ち、失敗、あるいは弱さの中で行き詰まったりするのでありますね。もう少し現代的に言うならば、急にリストラになってしまったとか、急に病に倒れてしまった、あるいは人間関係がうまくいかなくなって、にっちもさっちも行かない。また、トラブルに巻き込まれてしまった、色んな意味で私たちは言うならば過ちという中に置かれてしまう状況がある。

そう言う時に、もうわたしには関係ない、見て見ぬ振りと言うことではなくして、愛を持って受け止めましょう。柔和な心でお互いに、時に励まし、時に諭しながら、お互い戒め合うことがとっても大切でしょう。それが教会員のお互いの間の大切な関係であるのではないでしょうかと言うことですね。

皆さん。改めて言いますが、教会では兄弟姉妹と言うわけですね。兄弟姉妹、これは、キリスト教ではそう呼ぶようになっているから、そう呼んでいるんだと言うことではない。これはイエス様がマタイの福音書の12章でも言っておられるんですけど。家族の者が訪ねて来た時に、「わたしの母とは誰ですか。わたしの兄弟とは誰ですか」とね。「身内の者ではない。天の父のみ心を行なうその人が、私の兄弟であり、私の姉妹です」とこうイエス様は言われたのですね。

即ち、ここでイエス様は、肉親の兄弟関係、あるいは、もっと助け合ったり利害関係があったりの、そう言う関係とは別に、霊的に神様の子供とされる、あるいは神様の体である、イエス様は教会につながると言うことは、即ち肉親がそこで当然助け合う、お互いが支え合うと言うことにおける、兄弟姉妹ですよ。

ですから、ここで過ちを犯してしまった場合は、それを率直に受け止めて、そして、励まし合いながら、戒め合って行くことはとっても大切です。そして、2節にあるように、相手が悩み、それが本当に大変な大きな問題、重荷となった時には、更に一歩進んで、本当に真から、この自分のこととして受け止めて行く心、行動がどんなに大切でしょうかと言うことですね。

私は教会を見ていて、そう言う本当に深いつながりが兄弟姉妹たちにあることを知っております。ファミリー、これは正に実践の場であって、ファミリーのお互いの痛みを担って、本当に夜遅く訪ねたり、あるいは入院したと言えば、病院に付き添ったり、時にそこに泊まったりしながら、助け合っている、重荷を分かち合っている、支え合っている姿を私は一杯見させて頂いております。

麗しい、本当に麗しいなぁ、兄弟姉妹の姿がそこに生れているなあ、そう言う風に思います。そして、皆さん。今年は離れている兄弟姉妹達、身近な人だけでない、本当に離れていて、教会に来れない兄弟姉妹達。何故来れないのだろうか。何があるのだろうか。どんな重荷があるのだろうか。どんな悩みの中にあるのだろうか。その心を私たちはもっと深く求めて行く、それが大事だろうなぁ、とそう思わされているのです。

これはキリストの律法だ、とこうあるわけなんですけれども、キリストの御命令に従いましょう、と勧められているわけですが、何よりもイエス様は、あの良きサマリヤ人の例えもそうですけれども、祭司でもなければレビ人でもない、あのサマリヤ人、それがキリストであるわけですね。

そして、また、キリストは99匹の正しい人、助けを必要としている人を野に置いておいて、一匹の羊を尋ねる。それがイエス様。そして、イエス様は、また、「健康な人には医者はいりません。要るのは病人です。私がこの世に来たのは正しい人を招くためではありません。弱っている人、傷ついている人、そう言う人を招くためにこの世に来たのです。」そのようにも仰っている。

今日お互い一人一人もう一度重荷を負い合うことの出来る者として、あなたはそれをどれだけ出来るだろうか。自分に問いながらもう一度主の前に聞いて行きたいのであります。


お祈りをいたします。
愛する天のお父さま。今日このように備えて下さいました、この礼拝の時を感謝します。
一人一人に主が問い掛けておられ、一人一人に宝を天に積むことへと招いて頂いています。
私たちはどれだけ犠牲をもって主に献げることが出来たか、それだけが天国における私たちの宝であることを教えられます。
どうぞ主よ。私たち一人一人の心の中に光りを与えて下さい。
どうしても私たちは、自分のことを先行し易い者でありますから、光りを入れて下さい。
そして、本当に主の心を心とする者へと、一歩でも進めさせて下さい。
尊いイエスキリストの御名によってお祈り致します。
アーメン