2002年11月10日 主日礼拝式
“ヨハネ” 2章1〜11節

「“あふれる喜び”」

“月井 博師” 宣教メッセージ

今から少し聖書を開いてお読みしますが、今からの聖書のお話し、イエス様がこの地上に居られた時に、そしてその最後の時に、弟子たちに天国に帰る前にこのように言われました。「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」こう言われたのです。

ですから、信じる者たちと共に居てくださるイエス様が、このようにして信じるものが多く集められたこの場所に居てくださるという事を覚えてこのみ言葉を読みたいと思います。

今朝のメッセージのみ言葉をお読み致します。今朝は ヨハネの福音書2章1節から11節 です。新約聖書の159ページになります。


“ヨハネ”
2:1 それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、そこにイエスの母がいた。
2:2 イエスも、また弟子たちも、その婚礼に招かれた。
2:3 ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません。」と言った。
2:4 すると、イエスは母に言われた。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」
2:5 母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」
2:6 さて、そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、それぞれ八十リットルから百二十リットル入りの石の水がめが六つ置いてあった。
2:7 イエスは彼らに言われた。「水がめに水を満たしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。
2:8 イエスは彼らに言われた。「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。
2:9 宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか、知らなかったので、・・しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた。・・彼は、花婿を呼んで、
2:10 言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」
2:11 イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行ない、ご自分の栄光を現わされた。それで、弟子たちはイエスを信じた。

はい、聖書はそこまでです。場面は結婚式です。結婚式というのは喜びに溢れている場面です。どうもこの結婚式の新郎と新婦のどちらかはイエス様やマリヤの家族と繋がりがあった、親戚関係にあったlのようです。というのは、結婚式の裏方にマリヤがなっていて、一生懸命に働いていた様子が想像できます。

花婿花嫁のどちらに近かったのかなというと、どうも花婿じゃ無いかなという感じがします。それは先ほど読んだ個所の9節から10節にかけてを読んでみますと、「彼は花婿を呼んで言った。『だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。』」とあります。

花婿を呼んで言ったということですので、どうもこの時代のこの地方の習慣は、結婚式において葡萄酒を用意するのは花婿の役割だったということが出来ます。そういう結婚式の裏方としてイエス様のお母さんのマリヤが食卓の準備、葡萄酒の準備をしていた。準備をしていたというか、婚礼は既にどんどん進んでいって、恐らく飲み食いの時間になっていたんだと思います。

恐らく、予想を越えた人々が集まっていたのかもしれません。全然葡萄酒が足りなくなってしまったのです。それで、イエス様のお母さんマリヤがイエス様に向かって「葡萄酒が有りません。」と言ったわけです。

でも、このところの会話を読んでみると、なんとなく変な会話だなという感じがしますよね。「すると、イエスは母に言われた。『あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。』」また5節のほうの答えを見ると「あの方」という言い方をしています。マリヤとイエス様は親子のはずなんですが、でもここのところでは、どうもそういう関係ではない。

私たちは皆クリスマスの物語を知っています。イエス様は母マリヤから、処女マリヤから生まれました。聖霊によってお生まれになりました。今賛美した通りです。ですから、その時から母マリヤはこの方がとても特別な方である事を知っていました。

そして成長されたイエス様に対して、このときはとても困った状況だったので、お母さんはお願いをしたのです。で、恐らくこれ以前に、あまりイエス様は奇蹟をなさった事は無かっただろうと思います。というのは先ほど読んだ11節に「イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行ない、ご自分の栄光を現わされた。」とあります。

イエス様はこの地上に居られる時にたくさんの奇蹟をなされましたが、でもその奇蹟をなされる時には、必ず意味と目的がありました。ですからむやみやたらに起さなかった。でも、このお母さんがイエス様にそういう信仰があるのはここで見て取る事が出来ます。

「葡萄酒がありません。」そして一度断られます。断られても、5節によれば、「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」と言っていますから。でも、何でこんな冷たい断わり方をしたのかなーと思います。

4節で「すると、イエスは母に言われた。『あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。』」「親子の関係だからといって、私は今から何かをするんでは無いんですよ。」とあたかも言おうとしているかのようです。

イエス様がこの地上で奇蹟をなされた時に何回か、悩んでいる人、困っている人がイエス様のところに来て、多くの場合、その場で即座に癒されたり、み業に触れたりするわけですが、何度かはイエス様はそのお願い、祈りの課題を断わられる時もありました。

ここは多分そんな時の一つかと思います。あたかも断ったかのようです。でも、イエス様はそのようにして一度「聞いてあげるのは難しいよ。」と言いながら、その相手の信仰を試されたということがありました。ここもそんな時かなと思います。

「女の方。わたしの時はまだ来ていません。」先ほど言いましたように、イエス様が奇蹟を起された時は必ず何等かの意味と目的がありました。ですから、その時になされるわけで、「まだ時が来ていません。」ということは「私が奇蹟を起す時ではないんですよ。」あたかも、断られたかのようです。

でも、マリヤはなおも信仰でくいさがりました。そして「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」恐らく、後でイエス様はマリヤに言われたかもしれませんし、思われたかもしれません。この状況は結婚式においてはとても大変な状況です。葡萄酒を用意するのは花婿の役目なのですが、それが真っ盛りの最中に切れてしまった。

ですから花婿は大失態を演じるところだった。「でも、そのような状況を作ったのはマリヤ、あなたの信仰だよ。」と言う風にイエス様は言われたか思われたか。ですからこのとき既に、イエス様はマリヤの信仰の対象でした。

先ほどのK姉妹のお話しの中で興味深いことがいくつかございましたが、モスクワに行く前も行ってからも、K姉妹はクリスチャンでした。でもモスクワに行く前と行った後ではいろんな変化が起きています。その変化の一つ、それは先ずK姉妹の心の中に、モスクワに行く前は壁があった。帰ってきたときにはその壁がなくなっていた。

「人に対して、又自分の内側にもそのような壁を作って守っていました。」と言っておられましたから、人間関係においてある種の壁がありました。でも、それ以上に神様と壁があったかなとも思います。その壁がモスクワに行って壊されて、帰って来た。

この11節で、「イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行ない、ご自分の栄光を現わされた。」とあります。ですからこの奇蹟はしるしだったわけです。しるしということは先ほど話しましたが、この奇蹟にはとても意味がある、又目的がある、教えようとしていることがあるということです。

この奇蹟の意味の2つの側面を今朝は見てみたいと思います。1つは、イエス・キリストという方が真の花婿だということです。と言いますのは、この物語の中で、こういう状況の中で、花婿が葡萄酒を用意する立場であったわけですが、偶々人間的な結婚式の状況であったわけですが、でも、そこで葡萄酒が切れました。

そして、本物の、もっと良い、最上級の葡萄酒を提供されたのはイエス様。結婚式というのは一番喜びの溢れる時です。何故そんなに喜びに溢れるか、それは、私たちがそれまで一人で生活してきた者同士が、自分の人生のパートナーを見出して、そこから二人で協力して、連携して、一つになって生きていく。そこには大きな喜びがあるのです。

K姉妹はモスクワに行くまで、神様と全く壁なしの付き合いではなかった。モスクワに行ってからその壁が壊されて、神様とある意味で一つになる事が出来ました。ですから、神様はそのままK姉妹の人生のパートナーになった。

でも、こんな事を言ったらK姉妹のご主人に怒られてしまいます。「俺こそ人生のパートナーだ。」と思っているし行動している訳ですから。そういう意味ではなくして、あくまで夫婦の中の一方がイエス様を心に迎え入れて、一緒に歩むようになった時に、K姉妹ご夫妻のパートナーと神様がなってくださった。ということです。

また、家族の中の一人がこの方を信じると、その家族のパートナーと神様ご自身がなってくださるということです。ですから、神様ご自身が実は私たちの人生のパートナーなんですよという事をこの奇蹟を通して教えてくださっています。

もう一つの側面はイエス様が水を葡萄酒に変えて下さったと言う事です。K姉妹がモスクワに行く前、その時も神様を信じていました。信仰も持っていました。一生懸命クリスチャンらしく振舞おうとし、恐らく聖書も読んで、キリスト教の学びもしておられたと思います。

でも、そのK姉妹の内側にどこまで溢れる喜びがあったかな。モスクワから帰って来たK姉妹には喜びが溢れていました。今も接してみると良く判りますが、今も溢れています。そのきっかけは何処にあったんでしょうか。

先ほどの話しの中で、TさんとかSさんの話しも伺いました。Tさんという方はお父さんとの確執があって、許せないと言う思いで一杯だったそうです。Sさんはとても人当たりのよい方でしたが、でも何処かで無理をしておられた。それを感じ取る事ができる方だった。

でも、この方々はそういう自分の持っている問題、困難をありのままに交わりの中でお話しして、イエス様が死んでくださったのは、そういう人を赦せない自分、傷つけてしまう自分の為に死んでくださったのだということが実感になったのです。

その時から、この方々は喜びが溢れて、その顔には「この輝きは一体何なんだろう。」というような輝きが溢れていきました。K姉妹自身ももう判っていたのです。自分は無理して一生懸命輝こうとしていたけれども、でも、そういう風にしては輝けない。

それで、モスクワに行く前はクリスチャンだったんだけれど、その時は「私は罪人です。外の人と同じように悪い罪人です。」と言って済ませていた自分。そういう風に言っているときには、あまり自分の内側にあるもの、自分の弱さ、困難というものはオープンにしないで、風呂敷包に包んだままで、神様に「はい、私は罪人です。」と言って差し出していたわけです。

でも、そういうTさんやSさんの輝いていく様を見て、「もう、私は振りをしてはいられない。」と思ったのです。やはり、「これが欲しい。」と思ったわけです。それで、人間的に言えばとても恥ずかしい事だと思いますが、そういう自分の醜い面、汚い面また傷もその時見える範囲で兎に角開いたんだと思います。

その「私は罪人です。」と言って済ませていた風呂敷包を開いて、神様の前に「赦してください。イエス様はこのために死んでくださったことをありがとうございます。」そういう祈りをされました。そのところで、恥ずかしいどころか、喜びが湧き上がってきた。そこから今日のK姉妹の輝きがあります。

イエス様は十字架で私たちの為に苦しまれ、血を流されて、死なれましたが、その目的の為にこの地上に来られたのです。ミケランジェロが描いた最後の晩餐という絵がありますが、あの十字架につけられる前の夜、弟子達を集めて、イエス様は次のように言われました。

「夕食の後、杯をも同じようにして言われました。『この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。』」(1コリ 11:25)

ご自身が血を流すということは判っていました。そして、その事によって私たち一人ひとりの救い主になる。でも、その血を流して、十字架で苦しまれる、その事を覚えておきたかったのです。その事を覚えるためにここの節によれば葡萄酒を飲みなさいと言われました。

カソリック教会に行くとよくありますが、十字架に釘付けにされたイエス様の像があります。「わたしを覚えるために、わたしが苦しんでいる像を作って、わたしを思い出しなさい。」とは言われなかった。そうではなくて、「わたしを覚えるためにこのようにしなさい、葡萄酒を飲みなさい。」そして葡萄酒を提供しておられる。

このイエス様が十字架で釘打たれて、血を流されて、この上ないほど苦しまれた。その苦しみは、実は、私たちの喜びのためだったのです。ですから、ご自身が苦しんでいる姿を見せるのではなくして、喜びの象徴である葡萄酒を飲むように、そして葡萄酒を飲むたびに、「わたしがあなたの為に苦しんだ事を覚えなさい。」といわれたわけです。

ですから、この結婚式の場で水を葡萄酒に変えられたイエス様は、ここにあるように最上級の葡萄酒なのですが、最上の喜びを私たちに今提供してくださっています。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」

神様は喜びの人生を、あなたの人生の歩みが進んでいけば行くほど、取っておかれるのです。私たちは違いますね。人間は先にぱーっと喜んで後からしょぼしょぼしょぼ。結婚生活もやはりそんな部分がありますね。ぱーっと派手な盛大な結婚式をして皆でわーっと喜んで、それから何年かすると離婚しちゃったりとか。

始めにぱーっと楽しんで、ですから人生も終わりに来ると寂しい、辛い。でも神様が用意してくださっている人生は違うのです。神様が用意してくださっている人生は人生が進めば進むほど、終わりに近づけば近づくほど喜びが溢れていくのです。

そういう人生を皆さんの為に用意しておられます。K姉妹がモスクワに行く前はK姉妹にとって、その信仰は喜びも少しはあった。少しは熱心もあった。けれども、そんなに味は無かった。人生はこの方にその包を開けて素直に差し出すと、この方が苦しまれた意味が判ります。

そして、そこから与えられる人生はとても味のある人生です。美味しい人生です。水はとても大切です。水が無かったら生きていけないのです。私たちは生きていかなければいけない。でも、生きていかなければいけないだけの人生では何とつまらない事でしょうか。もったいない事でしょうか。

でも、私たちのこの人生を葡萄酒に変えてくださる。水ぐらいならいいんですが、苦々しい水を飲みながら生きている人生も有ると思います。こういう方の人生を喜びに溢れる人生、喜びに溢れるいのちに変えてくださいます。

これが「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ 28:20)と言われ、今この場所にご臨在してくださっているイエス様が皆さんに提供しておられるものです。この葡萄酒を飲むと天に登るような気分になるときもあります。

先ほど言いましたように、神様が共に居てくださいます。神様が共に居て下さることを知り、神様が自分の人生を導いていてくださる事を知り、それ以上に神様が自分を用いてくださる、こういう事を知ったら、体験したら、もう天にも上るような気持になります。

是非、このイエス様が提供しておられる葡萄酒を飲む者になって下さい。これが象徴的にカトリックの教会に行くとミサとして行われている事です。また、プロテスタントの教会では聖餐式と言ってパンと葡萄酒を頂きます。

これは象徴的なことです。でも、実際にこのことがあなたの人生におこります。是非このイエス様が皆さんに提供してくださっている葡萄酒にあずかる者になって頂きたいと思います。


お祈りをさせて頂きます。
愛する主よ。あなたが素晴らしいいのちを、人生を一人一人の為に用意してくださっていることを覚えてありがとうございます。どうぞ、この祝福がお一人お一人のものとなりますように。

尊いイエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン!