2002年11月17日 ビジョン礼拝
“エペソ人への手紙” 4章11〜16節

「“主はあなたを期待する”」

“池田博牧師” 宣教メッセージ

今朝のメッセージのみ言葉をお読み致します。今朝は エペソの福音書4章11節から16節 です。新約聖書の345ページになります。

“エペソ”
4:11 こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。
4:12 それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、
4:13 ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。
4:14 それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、
4:15 むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。
4:16 キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。

今日は、今も説明がありましたように、ビジョン礼拝です。手元の冊子にも説明が書かれています。この一年間もそれぞれの方々が奉仕に携わっていただいたと思いますが、まだ、新しい方や、自分が何に適しているのか分からない方、あるいはまた、時間的になかなか余裕がない方とか、色々な理由でまだ携わっておられない方もおられると思います。

来年はぜひそういう方々も、積極的に時間を作っていただきたいです。また、自分が何に向いているかについて分からない方も、先程の「賜物の発見」等をやってみてください。そして、仕えていただきたい、携わっていただきたい、と思います。

その中できっと皆さんは、自分もこういう風にして人のために役立つ、主のために奉仕ができる、その喜びを発見していただけると思うのです。とても大切なことです。そういう意味で、今日は大事な時であります。

私も、今日のために静まった時、今日はそういう意味でとても大切な時であると思いました。皆様一人一人が本当に主に出会うことができる、み言葉によって自分がこれから先どのように主に仕えていくか、きちっと聞けるようにしないといけません。緊張した思いで過ごしました。

そしてそのことを考えている時に、私自身、「あなた自身はどうなのか?」ということを主から問われたような気が致しました。「あなたが今こうしてここにいるということは、何かこう、いつしか当然であるかのような、そのような思いがしていないか?」と問われたのです。

「ここに来て30数年になり、もう何かここで一生を終えるかというような、そんな思いもどこかにあって、当たり前のように思っていないか?」ということです。私は、ふと振返ってみて、「そうではない。」と思いました。

まず、私が本郷台の地に来ることになったのは、1968年の10月24日と25日の一日違いの出来事であったわけです。その一日の違いは、私が家内の母教会である沖縄に行くか、また開拓伝道のこの地に行くかという、その瀬戸際とでも言いますか、分水嶺に立ったことでありました。その時私は祈りの中で、主の前に細い声を聞き、そこに決断すべきことが迫られて、そしてこちらに導かれたことでありました。

そのことは私にとって、私の生涯、人生を大きく変えていき、そしてまたみ声に従うということの大切さを、改めて感じたわけであります。でもそれは今日までずっとあり続けたことで、そして絶えずそのことはきちっと吟味されないといけない、ということを思いました。

またもう一つは、ここに私が遣わされる時、私自身の中に、主の声としてこういう思いが与えられました。「そこに行くからには、あなたはしっかりと腰を据えて、そして骨を埋める覚悟で、そういうつもりでそこに行きなさい。腰掛的に、辛いから止めるなど、そんなことになってはならない。」という主からの迫りをいただきました。

でもまた同時に、「もし私が行けと言ったならば、明日あなたはそこから立って私に従えるか?」。そういう声も聞いたことでありました。

いずれにしても、主のみ心のままに主に仕えるということの大切さを、私は再確認したことでもありました。そして私は、ここにある主の教会に置かれるということに対して、絶えず吟味させられている、ということを、もう一度再確認したことでありました。

このことは、私たち一人一人、皆さんも今ここにこうして今日共に礼拝しているわけですが、それは決して偶然ではなく、偶然に今日ここにいるというのではない、ということです。その認識がとても重要だと思います。

そしてまた、「私たちの教会」という言い方も時にしますが、でも今日お互いにここにあるのは、私たちの教会である以上に、本郷台にある「主の教会」に、私たちは導かれてここにいる、という認識をきちんとしておきたいと思うのです。今ここにある教会、それは本郷台にある「主の教会」であるということです。

皆様はいろいろな経緯でここに来られたと思います。転勤でここに移って来られたり、家を建てられて移って来られたり、結婚して移って来られたり、あるいはずっと以前からここに住んでおられたり、教会ができる以前からここにおられたり、いろいろなケースの方々がおられると思います。

各人がいろいろな経緯があってここに導かれているわけですが、ある方々は、「そのために本当に祈って決断してここに決めたのです。」という方もあるでしょう。あるいはある方は、もう摂理的にここに前もって導かれて、そして当然のように教会はここであったという、そういう方もあると思うのです。

いずれにしても、今ここに出席しているお一人お一人は、主の摂理の導き、主が良しとしてここに置かれたのです。そういう中で、ここにお互いが本郷台にある主の教会のメンバーとしてここに主に期待されて、そして主に使命と賜物とを与えられて、このところで主の働きに携わっている、ということを心に留めたいと思うのです。

まずエペソ4章16節のみ言葉に目を留めたいのです。ここに、

“エペソ”
4:16 キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、

と書いてあります。最初に「キリストによって、からだ全体は」という表現がなされてあります。

この「からだ」という表現ですが、エペソ人への手紙を見ていきますと、この「からだ」というのが何であるか?ということが、大切なこととして教えられております。しばらく前の1章23節に目を留めていただきたいのですが、そこにこういう風に書いてあります。

“エペソ”
1:23 教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

とこうあります。「教会はキリストのからだ」、これは、驚くべき表現、驚くべき言葉、とっても素晴らしい言葉であると思います。いかがでしょうか?「教会はキリストのからだである。」というのです。

実際教会というものが運用されていくときには、先週も総会がありましたが、その総会において新しい年度のしもべ、役員が選出され、幹事が選出され、そしてまたそこで議事がなされて、来年度の計画や予算が承認されたわけであります。

そして教会には、今ここでは「牧会者チーム5人」がいて、そして「しもべ」がいて、「しもべ会」があって、そして皆さんの意見も吸い上げながら「しもべ会」で議事がなされて、そこで決定されて、教会が運営なされ、またそこで活動が様々となされているのです。実際はそのようになされているのであります。

ですから教会は人の集まりであり、人が考えて人がその議事をして、そして活動がなされるという、そういう目に見えるところがあるわけです。でも聖書は、「そうでありつつ、その原点において、教会はキリストのからだを構成する大切な面ですよ。」と教えているのです。

先程の4章16節にもう一度目を留めてみますが、その先にこうありますね。

“エペソ”
4:16 キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。

と書いてあります。「からだ」はキリストのからだであるということが、まず大切なこととして言われているのです。

でも今度は「からだ」ということを見たとき、「からだ」は様々な器官によって成り立っているのです。多くの器官によって成り立っているのです。そしてしかもその器官はそれぞれが違った機能を持っているのです。違った働きをする器官によって一つのからだが構成されています。

そのように、「教会というものも、いろいろな器官という様々な働き、特色があって、それらが一つとなって結び合わされて、しっかりと組み合わされて成り立っていくんですよ。」と教えられているわけなのです。

これはとっても大切なことだと思います。人の集まりであり、人の活動であり、いろいろなことがそこで成されていきますが、でもそれはしっかりあなたがたの心に刻んでおくべきなのです。それは、一つのイエス・キリストにつながるからだによって構成されていて、それが成り立っているということなのです。

「からだ」と言う時に、いろいろな器官があるわけですが、例えば手があります。手の働きをする、手の働きが得意といいましょうか、『手が賜物』という人がいると思います。

手先が器用で、裁縫をしてみたり、あるいはまた手を使って人を助けてみたり、介護をしてあげたり、そういうこともあるでしょう。あるいは字が上手で、文章を書くこともできるという賜物もあると思います。

「手を使ってのいろいろな奉仕」があります。ですから、お料理を作る「給食ミニストリー」、手先が「器用・裁縫ミニストリー」というように、そこに様々なミニストリーも生まれてくるわけです。

また、私はあまり手は器用でないが、「足を使うことなら喜んで何でもできる」という人がいて、「使い走りができます」、「買い物ができます」、「人の送迎はできます」、あるいは「足を繁く使ってトラクト配布もできます、訪問ができます」というようにです。『足の働き』を通して、どのようにでも私はそこで主に仕えることができますという方もいると思います。それもとても大事な働きであります。

ある人は『耳の働きをする』、すなわち、「人の話をじっくり聞くことができます」、「ゆっくり聞くことができます」、「悩み相談に応じられます」、という人たちもいます。

ある人は人の話は1分以上聞けない、1分以上聞いているとイライラしてくるという人も中にはいますね。聞くよりも喋りたくてしょうがなくて、もう終わるのを待つや否や3倍も喋ってしまって、何のための耳なのか分からない、ということがあるわけです。

ですから本当に、『聞く賜物』の人は、しっかりよく聞いて、そして受け止めてあげて、時に励ましを与えてあげて、そしてまた祈ってあげる、というとても大事な働きです。

私はあまりそういう賜物はなかったのですが、訓練されました。なんと一日20時間近く一人の話を聞くという、信じられないような訓練も受けました。でもその人はそういう中からやがて救われていき、忠実に主に仕えるしもべに変えられていきました。訓練ということもあるのですが、聞くこともとっても大事ですね。

『口の働き』、即ち、口の使命を持っている人もいます。単なるお喋りではなくして、「証しをすることにおいて、本当に主をしっかり証しできる」という人がいます。そしてまた人に対して、「個人伝道をして、必ず魂をとらえることができる」という人がいますね。そういう言葉、『口を用いる賜物』の人があります。

また、『目の賜物』を持っている人もいます。それは、観察して、洞察して、正しい判断ができていくということです。「良いか、悪いか?」、「善か、そうでないか?」、「これはみ心であるのか、そうでないのか?」、そういうことをきちんと判断できて、アドバイスができる、というそうした『目の賜物』が与えられている方もいます。

皆さん、その他色々な賜物が与えられていて、それぞれがそれぞれの与えられているものを生かしていくときに、からだ全体がバランスがとれて、一つのからだとしての機能が真っ当されていくのです。

そして手は、「あなたは手でないからからだについていない。」と決して言ってはなりません。「足は手でないから、手に対して教会の機能をしていない」ということではありません。各人がそれぞれの与えられた賜物をしっかりと担っていく中で、「キリストのからだ」なる教会が建てあげられていく、とそういう風に教えられております。

そしてまた、今度はそういう働きをする時に、お互いは初めから、足にしろ、手にしろ、目にしろ口にしろ、完璧ではないわけです。それぞれが不完全です。それぞれがいろいろなステップを通っていくわけであります。

ですから、外から見たときに「あんな人でも」みたいに見えることもあったり、「ああいうことをしていいんでしょうか?」、「ああいうことを言ったりしているんですが・・・」というようなこともありうるのです。

皆さん、お互い全員が完成品ではないのです。完璧な人は一人もいないのです。全員がプロセスにあって、でも一つ一つそこから成長していくという過程の中にあるということも、とっても大切だと思うのです。そのようにして主はご自身の教会を建てあげようとしておられる、ということなのです。

それは4章11節以下に書かれていますが、そこに行く前に、もう一つ大事な点がこのエペソ人への手紙の中に書かれてありますので、そこに目を留めておきます。1章3節以下に目を留めていただきたいのです。そこを少し読んで見ます。

“エペソ”
1:3 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。
神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。
1:4 すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。
1:5 神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。
1:6 それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。
1:7 私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。
これは神の豊かな恵みによることです。

こうあるのです。ここにはまず、神様が私たち一人一人の存在に対して如何に目を留めてくださっているか、ということが言われているわけです。

私たち人間誰しも、「自分の存在の根源と言ったらいいでしょうか?」、「本質と言ったらいいでしょうか?」、誰もが、「自分という存在は何なんだろう?」、「人間って何だろう?」、「存在の根源は何だろう?」、「生きる目的は何だろう?」と悩むところであり、またそれに対する定かな、確かな答えを持っていないものであります。

ですから、私たちは思い悩み、自分勝手な目標を持ったり、したい放題のことをしてみたりしてしまいやすいものであるわけです。「私はどこから来てどこに行くのか?」、それは神様が私たちに定めてくださったことであったのです。まず3節に、

“エペソ”
1:3 神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。

とあります。神様は一人一人をもう既に天において、ということは永遠の計画の中で、私たち一人一人の存在をあらかじめ定めて、そしてもう祝福してくださったのですと、完了形においてこのことが宣言されているのです。なんと素晴らしいことでしょうか!

私という存在については、私が1937年8月19日に生まれて、そして今日あるというはるか以前に、神様は永遠の先に、キリストのうちに、ここに選んでくださったとあります。選ばれて、神様のご計画の中に置かれているということであります。なんと素晴らしいことでしょうか!

そしてさらにその先を見ますと、4節には

“エペソ”
1:4 キリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。

とあります。「御前で聖く、傷のない者」とあります。「本当に自分は何と傷だらけで失敗だらけな、何と自己中心的な、もう自分で自分が嫌やでたまらない。自分はなんでこんな人間としてこの世に存在しているのか?私は自分自身を呪いたくなる。」しばしば、私たちはそのように自己嫌悪に陥りやすい、そのような者であります。

でもそんな私たち、そういうふうにしか言えないと思っているそんな私に対して、「神様はもう既に、御前で聖く傷のない者にしようとされたんですよ。」と言ってくださっているのです。

そして少し先の7節を見ますと、

“エペソ”
1:7 私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。
これは神の豊かな恵みによることです。

とあります。私たちがなぜ自暴自棄にもなって、自分自身の存在を呪いたくなるのでしょうか?それは私たち一人一人が神から離れて、罪の中に埋没して、埋もれていて、そのことに翻弄(ほんろう)されていて、罪の奴隷になっているからなのです。

でも神様は、罪のない御子イエス・キリストを私たちの身代わりに犠牲にしてくださって、その血によって私たちをあがなってくださった、赦してくださった、愛してくださったのです。これは神の豊かな恵みによるのです。

自分を呪いたくなる、そんな自分です。でもそういう自分を愛してくださるお方がいて、そういう自分を救ってくださるお方がいて、ご自分のために私たちの名を読んでくださるのです。名を付けて、名をもって読んでくださるのです。そして更には、

“イザヤ”
43:4 わたしの目にあなたは高価で尊い。

とまで言ってくださるのです。

皆さん、私たちは、誰かにそのようにしっかりと受け止められること、信頼されること、愛されることは嬉しいことですね。それは私たちにとってどんなに根底から支えられ、力づけられ、希望が与えられていくことでありましょうか。まず神様はあなたがた一人一人をそのようにして、偶然ではなくして、永遠の先から計画を持っていてくださるのです。

時が来て、あなたのその誕生の時に、この地上、この世界に生まれさせてくださって、そしてその生涯は、あなたが神様に目を留めて歩むならば、そこにどんなに素晴らしい人生が待っているか、それを必ず知ることができるでありましょう。

そのようにして私たちの人生を祝福してくださろうとして、私たちを名をもって呼んでくださる、一人一人に意味をもってそこに置いてくださっているということを、こうして私たちは聖書を通して神の深い計画を知ることになるのであります。

4章11節以下を最後に見たいと思いますが、ここにこういう風にあります。

“エペソ”
4:11 キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。

とあるわけです。ここには大事な名称が掲げられておりますが、使徒とか、預言者とか、伝道者とか、牧師とか、教師と書いてあります。これはもう少し広く考えれば、一人一人に使命と賜物を与えてくださっている、ということになります。

神様は一人一人に使命と賜物を与えてくださっているのです。「私は何が賜物か分からない。何をしたらいいのか分からない。」とそう言ってしまいます。自分は分からないのですが、でも神様は「そうでないよ。」と言ってくださるのです。

それは自分をよく吟味していった時に、また発見する努力をしてみた時に、あるいは奉仕に実際携わってみた時に、そこから見えてきて、そこから明らかにされてくる、とあるのです。

さらに12節を見ますとこういう風にあります。

“エペソ”
4:12 それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり…

とこう書いてあります。ここにある「整える」という言葉がまた一つ大切な言葉なのです。

これは医学用語だというのです。原文からとれる意味は、骨折した手や足を固定したり、あるいははずれた関節を元にはめたりするときに用いる用語、あるいはまた壊れたものを繕うとか、あるいは霊的な健康な体にする、という意味合いで使われる言葉だということです。それが「整える」ということなのです。

私たちは本当に、最初から完成品ではない、本当に失敗だらけの者です。ですからやっても失敗して人の迷惑になってしまうというようなこともあるし、自分で良いと思っていることが人にはちっともそう映ってなかったり、いろいろなことがあるわけです。でも、そういう一つ一つ、一回一回を通して、私たちはそこで整えられていく、そこで訓練をされていく、ということなのです。

さらにその先を見ていきますと、12、13節には

“エペソ”
4:12 それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、    
4:13 ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。

とこうあるのです。これもとっても大事なことです。

私たちは実に足りない者、できない者ですけれども、私たちは自分の努力だけでなくして、自分の頑張りだけでなくして、あるいは何度やっても駄目だからもうお払い箱だというのではなくして、そういうことを通して実はあなたの内側をしっかりと整えてくださるイエス様がいるということです。

ですから、そのイエス様がその訓練の中で整えてくださって、成長させてくださるのです。そのようにして私たち一人一人は、より完成に向かって、キリストの身たけにまで達するように歩んでいけるのです。

皆さん、目標があるということは素晴らしいことです。そして私たちはまた、期待されていることは本当に私たちのやりがいでもあるわけなのです。そして一人として例外なしに、神様は私たちをそのような目的をもって導いてくださっている、ということであります。

教会はいろいろな機能を持っています。いろいろな働きが必要です。そしてそれぞれが自分の持ち場、立場をしっかりとつかんでいき、そこで本当に喜んで仕えていく時に、それはからだ全体の喜びであり、からだ全体がそこで成長していく、ということであります。

教会はそのようにして建てあげられていきます。本郷台にある主の教会は、皆さんの一人一人の奉仕によって成り立っていくのです。今、3百数十人ですが、「これではまだまだ足りない。3千人は必要です。」と主はおっしゃっています。ですから、皆さんの家族も必要です。皆さんの友人も必要です。あなたが重荷を持っているオイコスの人たちも必要です。

そしてここに更に加えられて働きがもっともっと広がっていく必要があります。今私たちも知らないところで、あるいは知っていてもまだ教会に来れていない人々の中に出ていって、彼らのために手を差し伸べ、彼らのためにとりなしをし、また彼らもここに加えられて、そしてメンバーの一人になって、この地域全体が本当に主の祝福の地域となっていくように、私たちは励んでいけるようにと願ってやまないのであります。


お祈りを致します。

天のお父様、このようにして主が備えてくださいました、今日のこのビジョン礼拝に感謝をいたします。お一人お一人に主が臨んでくださいますように、お一人お一人のうちになおあなたが語りかけてくださいますように、切にお願いをいたします。主よ、感謝します。

尊いイエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン!