| 2002年11月24日 主日礼拝式 “ピリピ” 3章17〜21節 「“収穫のために何をするのかF “池田 博牧師” 宣教メッセージ |
| 今朝のメッセージのみ言葉をお読み致します。今朝は ピリピ人への手紙3章17節から21節
です。新約聖書の354ページになります。 “ピリピ”
はい、聖書は以上です。今年は「贖われた者は帰ってくる。」ということで、ずっと見てきていますが、収穫のために何をするのかということで、今日はその最後、7回目として『天国を目指せ』ということであります。 天国、イエス様の再臨のことを今日はご一緒に見てみたいなと思っております。最初に今日はマラソンの由来について一寸触れてみたいと思います。陸上の花形マラソン、オリンピックにおいても最高の栄誉はマラソンにあって、メインエベントになっているかなという風に思います。 そのマラソンが何時どのようにして始まったかその由来について触れてみたいと思います。紀元前490年、当時のギリシャでその時代を支配していたのはペルシャ帝国でした。このペルシャがギリシャに攻め込んできた時に、ギリシャとの戦争がおこりました。 圧倒的な力を持っていたペルシャでありましたが、でも、ギリシャ軍はそれに対抗してペルシャ軍を撃破したということでありました。その場所がギリシャのマラトンという場所であったわけですが、その戦勝の様子を知った一人の青年フィリピデスがその戦勝の知らせをいちはやくアテネに知らせようと一目散にマラトンからアテネに走ったということです。 そして、アテネに着きました。アテネの人々に『わが軍勝利せり。』と言って、人々は熱狂的な喜びに浸ったわけですが、次の瞬間このフィリピデスは倒れて息が絶えました。彼はそれほどの命を賭けた知らせを持ち来たったわけであります。 後にマラトンからアテネまで走った距離をマラソン競技という形で言い伝えられ、それが今日でもマラソン競技として行われているということであります。そのマラトンとアテネとの距離が約40kmであります。正確には42.195kmでありますが、何故そのような端数が出るかということも、その辺のところから来ているようであります。 このフィリピデスが戦勝の知らせをアテネに持ち行ったわけですが、私たち凡人からすればそこまでしなくても良かったのかな、もう少し普通に走っても良かったのかと、或いは歩いても良かったかと思ってしまうところかなと思います。でもフィリピデスは真剣に走った。 どうしてでしょうか。「何としてもこの良い知らせを、素晴らしい戦勝の知らせを一刻も早く伝えたい。」それが、そこまで命がけの走破になったわけであります。でも「良い知らせを何としてもしらせたい。」という熱意は素晴らしいものです。それが今日まで歴史を超えて残っているというのも何か大きな意味があるのかなと思います。 さて、今日のみことばに目を移したいのでありますが、3章の20節のみことばであります。「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。」 私たちの国籍は天にあります。アーメン。素晴らしい。「国籍が天にある。」今日はじめての方にとってみれば何の事だろうかと思うかもしれません。そして、クリスチャンにとっても「信じないわけではないけれど、何としてもそれを伝えないでは居られない。」というほどにはなっていないというのが、多くのクリスチャンの実感であるのかなーと思ったりもします。 でも、聖書を見てまいりますと、この天国の知らせ、イエス・キリストの再臨と天国の知らせ、これこそ聖書の最大の良い知らせで、その事のために、聖書が割いているスペースは何と多い事でしょうか。そして、すなはち、その事はどんなに大事なメッセージなのか、素晴らしいメッセージであり、大事なメッセージであるのかということであります。 このピリピ人への手紙を書いたのはパウロというキリストの弟子、クリスチャンの一人であります。この人を通して少し見ていきたいと思います。彼の内側にイエス・キリストが約束してくださった天国への望みが彼の心をどれほど変えていったかということです。 そこに到る経緯を見てまいりますと、先ずパウロはイエス・キリストに出会いました。復活のイエス・キリストに出会いました。その時にパウロの心にはっきりと見せられてきたのはイエス・キリストの十字架であったわけです。 十字架です。パウロはその十字架を自分に突きつけられたとき、十字架と自己対峙した時に彼はそれまで全く考えもしなかった自分の裸の姿、自分の罪の姿、自分がどれほど罪深いものであるかということを彼は突きつけられてきた。 もう心が震えるほどに彼は突きつけられていったのでありました。彼はそういう意味では真面目な人間であって、神を信じ神を恐れる人間であって、正しい事を正しいとしてやり通してきた、そういう人でありましした。 でも、十字架の前に立ってみて、自分を振り返ってみた時に、むしろその正しさの故にいかに人を見下していたか、いかに人を裁いていたか、自分の義をもってその事が判っていった時に、彼がやっていたこともそうでした。 キリストの弟子たちに対して、パウロは迫害しました。「彼らは間違っている。彼らは異端である。彼らは滅ぼさなければならない。」一方的にそのように彼はやってきていたのでありました。あまりにも、それは見えていない自分、判っていない自分、すなはちそれは自分を義とする姿であった。 そして、そのことこそが、キリストを十字架につけて、「父よ、彼らを赦してやって下さい。彼らは自分で何をしているか判らないからです。」と言わせる。イエス様はあえてパリサイ人を裁かれました。そのように私たちが心を義とするその事がどんなに実は深い罪であることかということであります。 皆さん、私たちは胸に手を当ててみる時にそうですねー。子供に対してそうです。人に対してもそうです。誰に対してもそうです。ふと気がついたときに、私たちは自分の物差しで人を見ていて、いや裁いていて、見下していて、どんなにそれが罪深いかということに気がつかないで、それを良しとして、更には、それが自分の生き方だと断じている自分がそこに居るということであります。 パウロは自分を知れば知るほど、そのようにして自分を義とする事の故に、何と自分は罪深いものであるか、罪人の中の罪人、大罪人であって「私こそが罪人の頭です。」彼はそう言わないではいられないほど深く深く認罪・罪を認めていったのでありました。 しかし、その中にキリストのもう一つの十字架の愛が伝わって参りました。その罪深い自分のためにこそキリストが自分に代わって身代わりになって死んでくださった、裁かれてくださった。 「父よ、彼らを赦してやってください。」と自分の正しさを全部かなぐり捨てて十字架に自分を明渡しているキリストの姿がそこに浮き彫りにされてきた時に彼は涙せずにはおられなかった。 自分の罪深さのゆえに、彼はそこにくずおれないではいられなかった。自分こそは裁かれて、呪われて地獄の奈落の底に突き落とされなければならない存在だと深く認めていったのでありました。 でも同時に、そこにキリストの赦しがあって、そこにキリストの愛があって、救ってくださるみ手がそこに伸べられていて、そんな自分を救ってくださる愛のみ手があることを彼は深く感動をもって受け入れていったのでありました。 そして更に、キリストは単に赦してくださっただけではなく、そんな自分を永遠のいのちを以って贖って、永遠のみ国天国へと招き入れてくださるという事に目が開かれていった時に彼にとってイエス・キリストを通して開かれる、再臨を通して開かれる天国がどんなに慕わしいものに変えられていったかです。 同じピリピ人の手紙の最初のほうに一寸目を移してみたいのですが1章21節をご覧ください。そこにパウロは自分についてこういう言い方をしています。
パウロの信仰のエッセンス、昇華された簡潔な言葉でこう表現されています。「生きることはキリスト」と言っていますが、自分がどんなに罪深いか知り尽くしてみた時に、最早自分は今までの生き方で存在する事は不可能となっていった。 ですから、ガラテア人への手紙2章20節にはパウロはこう言っています。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」 表現は抽象的、哲学的でありますが、それは単なるそういう表現ではなくて、彼にとってのリアリティー、彼の現実であったのです。まさに、「私は最早今までの自分をそのまま生きていたんではどうにもならない。」ということを嫌というほど知った中にあって、キリストが生きてくださるそれ以外に私の生きる意味も存在価値もない。 ですから、「今、生きる事はキリストです。」と言った。伝わって参ります。続いて「死ぬこともまた益です。」こう言っています。なんかこれは、とりようによっては厭世的といいましょうか、娑婆に居る事を諦めてあの世に行きたいという風にも取れます。 しかし、決して生を軽視したり、厭世的な意味でそう言っているんではない。そこにあるものは、この世に存在しているそんな自分に神様が備えてくださっている永遠のいのち、天国がどんなに素晴らしいかがパウロの目に開かれてきた時に彼はそう言わないではいられない。 それは又、もう少し先の23節を見てみますと良く判ります。「私は、その二つのものの間に板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。」 皆さん、そこには死の境を越えて、天国がもう目の前にあるかのようにして、パウロはそう表現して、「この地上を終わって天国に行ったならば、キリストと共に住む事ができる、キリストの内に生きる事ができる、文字通りそうなれる事ができる。それは遥かに勝っている。比較にならないんだ。」と言っている。 皆さんこれは、パウロという人のリアリティー、罪のリアリティー、そして同時に天国のリアリティーがそこにあります。 このようにして、パウロの心の中に開かれていったものが、どんなに素晴らしいか、それは同時に私たちに神様がしてくださっている約束、今日一人ひとりに語られている素晴らしい約束である事を心に留めたいのです。 もう1度、3章のほうに戻ります。3章の17節に目を留めてみたいと思います。「兄弟たち。私を見ならう者になってください。」こう言っています。彼が自分の罪の姿を嫌というほど知らされていって、しかし、そこから天国がはっきりと見えていって、天国の素晴らしさの中で、彼は今生かされている恵みを深く深く知っていったときに、 「それは決して例外的に自分だけに開かれたものではなくして、それは皆に開かれているものであり、皆がそこに行く事が出来るように、主が私たちを招いてくださっている。だから、見習って欲しい。自分を知ることにおいて、自分自身の内側がどんなものであるか深く知ることをしって、更にそこから開かれていって欲しい。」 パウロの訴えが伝わって参ります。18節に目を移してみますとこうあります。「というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。」 パウロは「涙をもって言うのですが、」とこう言っています。ここのパウロの涙、それは1つには、先ず多くの人々がキリストの十字架を敵として歩んでいる姿を見るときです。これは十字架を全く知らない人たちを言っているのではなくして、主の十字架を知っている、十字架を通った人、1度救いを頂いた人たちであります。 でも、この十字架の救いを頂いていながら、いつしか自分が以前の自分、肉の自分、あるいは十字架を信じる信仰が何時しかマンネリ化してしまって、気がついたときに自分の心を支配しているのは十字架の愛や十字架の素晴らしさ恵みの中にある自分ではなくして、心の中にさまざまな利害や自己中心や自分の願いといった物に動かされている自分。 ですから、そこではおのずから、いつしか十字架がその人の心の中で生き生きと生きていかない。十字架にしっかりと打ち付けられて、今日あるんではなくして、なにか十字架がアクセサリー的になってしまっているでしょうか。 パウロはそれを感じた時に、おもわず涙が流れてきた。イエス様が十字架にかかって下さったということが、どんなにそこで苦しまれて、傷まれて、血の汗を流して「父よ、彼らを赦してください。」と私に代わってとりなして下さっているイエス様の十字架。その事を思う時に、おもわず涙が噴出してくる。 パウロがピリピの教会を見たときに、当時のクリスチャンたちを思った時に、多くの主にある人たちを思った時に、教会が何によって動かされているかを見た時に、おもわず彼はこのような涙をもっての訴えをしないではいられない。 皆さん、先週ビジョン礼拝を持ちました。応答用紙を配らせていただきました。そしてまた新たな取り組みをするという方向転換がなされようとしています。ともすると、そういう方向転換に対して、どうして又、1年もしないのにこんな事になるのでしょうかと、そういう動きに対するいろんな声もあるかなと思います。 でも、私たちが何故それを敢えてしようとしているのか。それは、いつも私たちの歩みが主の前に本当にそれが最善なのかということを絶えず振り返りながらいるということです。具体的にもゾーン中心に奉仕をしてまいりました。それはそれとして大事だなと思いました。ゾーンの中でいつもフォローされながら、ゾーン体にする事によって、奉仕がしっかりガードされて出来るということでやってまいりました。 でも、それをやってきたときに、そのメリットはあるけれども、同時にゾーン、ファミリーに属していない方々は唯ここに来ているだけで終わってしまっている。そしてゾーンの皆さんがそこで霊的な育みを受ける以上に奉仕を中心になって、奉仕のためのゾーンでもあるかのようになっている。そういう声もあがってまいりました。 そういう中で、傷んだ魂があるということも知りました。そうした傷んだ魂や、奉仕中心の働きは教会全体としてみた時に、犠牲が伴うかもしれないけれど、方向転換をしていくべきであろう、それが基本的な大事な判断でありました。 そのようにして、私たちは何がいつも中心でしょうか.イエス・キリストの十字架の愛です。愛の中で埋もれていて、傷ついていたんでいる弱い魂をいつも大事に考えていきたいのです。 そして又それは、教会としては全体として、みんなが分け合って、皆が犠牲を持って、皆さんここにこうして礼拝に座っている、席を暖めているということは、その1つの席のために背後でどれだけの祈りがあって、奉仕があって、支えがあって、今ここにあるかということです。 決して当たり前ではないのです。ここに来ればそれで良いという事では無いのです。でも、それは皆が喜んでそうしている事である。同時にそれは又、お互いが恵みを受けたらば、その恵みを何等かの形で主にお返しをし、お互いに仕えあう事に、私たちも労する事。それが教会、それが兄弟姉妹。 パウロは一つひとつ思った時に、涙が溢れてきたのでありました。そして、「なんとしてもピリピの教会を皆さんが一致して欲しいんです。」と。 4章にいきますと、そのような勧めがなされてまいります。でも、具体的なことをいかに推進していくか、それを励ましていくか、それは、何よりもあなたの目が天に向かって開かれる事です。天の恵みがどんなに素晴らしいかをしっかりと心の中に刻まれていく事です。 そうする事によって、地上で私たちが労する事、或いは地上で犠牲を払う事、それは天国の恵みの前には、最早それは小さな事になっていくでしょうか。相対的に祝福と感謝に変えられていくでしょうか。 今までは担われてきました。今までは祈られて参りました。誰かに負んぶに抱っこで参りました。でも、これからは少しでも仕えさせてください、これからは少しでもお役に立つ事があるのなら、使っていただきたいのですと、そのようにして、主の前に出る事、その分かち合いをしていきましょう。 大切な事として、受け止めた事でありました。ふと私はその事を考えた時に、この20節に「私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。」とあります。 パウロは本当に天が開かれていると思っていた時に、何故か私の心の中に内村鑑三の事が思い起こされて参りました。そして「あー何処かにかいてあったなー。」と思いまして、ヨブ記の注解の後書きを見た時に、それがあるのを発見いたしました。 内村鑑三は20世紀が生んだ日本最大の良心であると評価されております。しかし内村鑑三は明治23年、教育勅語が発布されたその時の不敬事件を通して大変な辛いところを通って参ります。その事を一寸読んでみます。 明治23年の第1高等学校不敬事件に際して、教育勅語に拝礼しなかったことから、自称愛国者達の総攻撃を受け、日本国中枕するところの無いほどの迫害の中に、自身は大病を患い、更に最愛の妻を失い、職を追われ、国賊として鞭打たれ、おおよそ不当な苦難の限りを味わったのであります。 後年著者はこれをヒの洗礼と呼びましたが、絶望のあまり神の愛を疑い、死を望むほどの苦痛の只中にあって、慰めとなったのはヨブ記であった。 そして、ヨブ記の注解のあるところでありますが、それは19節25節のところの解説に到ったところのことが書いてあります。「こうじ進んでヨブ記の中心をなす第19章25節に至った時ーーーー」とありますが、そこにこうあります。 「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。」とあります。「著者はついに心熱して病に倒れ、数回のキュウコウを余儀なくされたほどでした。」内村鑑三はこうした苦い経験の中から、しかし、天国が開かれていったのでありました。 「私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれる」ヨブがあの苦しい中から、このように信仰の叫びを告白いたしました。 あたかもそのように、内村鑑三も「自分は最早あたかも国賊扱いされて、自分の枕するところの無い中に置かれながら、そんな自分ではあるけれど、後の日にそのちりの上に立ってくださるお方が居る、その方がこんな者であるけれども贖ってくださる、彼は感動とそのみ言葉の力の前に、熱を出して床に伏せねばならないほどのことであった。 彼にとってこのみ言葉が彼を永遠の世界へと開いていく門口になっていたのでありました。パウロも自分の罪を知れば知るほど、自分のようなものに目を留めて下さる十字架の愛の中に溶かされていったのであります。 お互いに主の前に自分自身がどんな者であるのか深く知りながら、でも、そこに注がれているイエス・キリストの十字架の愛を深く知っていくときに、私たちの心は溶かされていくはずです。私たちの心は変えられていくはずです。私たちの心はキリストの愛によって支配されていくはずであります。 その時に、私たちはいかに人を裁く者であったか、親が子を裁き、夫が妻を裁き、妻が夫を裁き、子が親を裁き、家の中が修羅場のような世界が私たちの身の回りにある現実です。そこに十字架が打ち立てられなければ、キリストの愛がしっかりと間を結び合わせられなければ最早そこには真の癒し、心を真に変える力は生まれてこない。その事を深く思わせられるのであります。 イエス様はマタイの24章30節以下にこのように言っておられます。 “マタイ”
イエス様は来られます。確かに来られます。イエス様のこの地上における大事な遺言でもあり、宣言であり、約束の言葉であります。この世界は必ずイエス・キリストによって新しくされるのであります。 最初の時にお読みしました黙示禄の21章でありますが次のようにあります。 “黙士録”
やがての世界をこのように明確に示されております。お互いはそのみ国に向かって歩んでいる者として、今置かれたところで、私たちの愛の原動力でしょうか、あるいは行動の原動力でしょうか。私たちの赦せない小さな心を大きく変えていく原動力でしょうか。 したいと思いながら出来ない自分を可能にしていく原動力でしょうか。あなたが真にイエス・キリストが私にとって「大切な私のいのちです。」と言えるように返られていく原動力でしょうか。 私たち一人ひとりは、いざとなったとき、なんと小さくて弱くて自己中心で自分を義としてしまう者か。それを変えうる唯一のみ力はこの十字架にあるのです。今日新しくそのイエス・キリストを深く心に留めながら、主を見上げつつ、主のみ心に沿って歩んでいく事の出来る者とさせて頂きたいのであります。 お祈りを致します。 あなたの十字架だけが私たちを徹底的に打ち砕いて、私たちを新しく作りあげていく。本当に私たちを新しくする唯一の祝福の道である事をもう一度心に留めさせて頂きました。どうぞ一人ひとりがこの主と共にあるものとして整えてください。今日も御前にお一人お一人がどうぞ、主のみ声に、細いみ声に聞き従う事が出来る者として下さい。 尊いイエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン! |