2002年12月1日 主日礼拝 
イザヤ8:17〜9:2

クリスマスを待つ(1)

池田 博師 宣教メッセージ

今日のメッセージのみ言葉をお読み致します。今朝はイザヤ8:17〜9:2を開けて下さるようにお願い致します。旧約聖書の1043ページであります。

イザヤ書
8:17 私は主を待つ。ヤコブの家から御顔を隠しておられる方を。私はこの方に、望みをかける。
8:18 よ。私と、主が私に下さった子たちとは、シオンの山に住む万軍の主からのイスラエルでのしるしとなり、不思議となっている。
8:19 人々があなたがたに、「霊媒や、さえずり、ささやく口寄せに尋ねよ。」と言うとき、民は自分の神に尋ねなければならない。生きている者のために、死人に伺いを立てなければならないのか。
8:20 おしえとあかしに尋ねなければならない。もし、このことばに従って語らなければ、その人には夜明けがない。
8:21 彼は、迫害され、飢えて、国を歩き回り、飢えて、怒りに身をゆだねる。上を仰いでは自分の王と神をのろう。
8:22 地を見ると、見よ、苦難とやみ、苦悩の暗やみ、暗黒、追放された者。
9:1 しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。
9:2 やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。

はい、聖書は以上であります。今日からは待降節であります。イエス様のご降誕を待ち望む時として、恒例、慣例と言いましょうか、ロウソクを灯しながら、1週1週、主を待ち望む、とても心踊る嬉しい時、嬉しい期間であります。

今日はその1回目でありますが、今日からこのクリスマスを待つと言うことを、聖書から見て参りたいと思っておりますが、今日は、第一回でイザヤを読まして頂きましたが、21世紀を迎えました。色んな人が20世紀を振り返っての、色んな表現をしておりますけれども、ひと言で総括して20世紀は、戦争の世紀であった。とまあよく言われます。成る程その通りかなぁ、と思います。

で迎えた21世紀、昨年から21世紀を迎えました。この21世紀をどういう世紀にしたいのか、と言うことで、人々は希望の世紀、平和の世紀、暗黒から光りの世紀、混沌から秩序の世紀になるようにと、まぁ、そう言う言葉をよく聞きます。

1人1人の願い、人類の願いでもあるのかなぁ、とそう言う風にも思います。しかし、その迎えた21世紀、だれでも平和を願っていたのでありますけれども、あの、9月11日の事件 (SEPTEMBER ELEVEN)と言い、世界中が、この日を今この心に否応なしに刻まれていると言うことが出来るのかなぁと思います。

新しい世紀を希望の世紀とそう願ってスタートしたのでありますけれども、何かそこに一瞬にして、1つの事件を通して世界は、暗雲が漂うような、そう言う暗闇が一気に襲って来るようなそんな思いが、世界中の人々に漂っているのかなぁ、そんなふうにも思います。

世界中の誰でもこの世紀を平和にと願ったんだけれども、それを立ちはだかるようにして、暗雲が漂っているかのように思います。アメリカの繁栄と栄誉の象徴であったあのTWIN TOWERS。あるいはそれは文明の象徴である。それが一瞬の前に崩れ去ってしまった。誰もが考えもしなかったことが、起こってしまったことであります。

人類が築いて来た文明の象徴が、こんなにも簡単に、しかも一瞬にして、崩れ去ろうとは、まぁ誰も予期しなかったことであろうと思います。それはテロリストがやった大変な事件ではあるのですけれども、でも唯それだけではないのであろうか。良識ある世界の人々は、そこに何か背後にあるもの、黒いもの、そう言うものを指摘もするし、あるいは又、現代のバベルの塔に対する神の怒りでもある。そう言う声も聞きます。様々の事が言われる中にあって、現にその事がもたらしているもの、それは計り知れないものがあるのかなぁ。

アメリカは、即、同盟国と共に、そのテロリスト大掃討作戦と言うことでもって、アフガン戦争を間もなく開始し、まあそれなりの成果を得て、そして終戦したと言えるのでありますけれども、でも、テロリストの活動はそれで決して一掃されたわけではなくして、益々潜伏化して、広がって、そしてその姿が増している、と言うのが現状かなぁ。そして、このテロリストのやり方と言うのは、本当に命がけであるわけです。自爆テロと言う、文字通り自らの命をそこに献げていると言う、そこに不気味さ、恐さを感じるわけであります。

国と国の戦争、民族と民族の戦争、それは、そこに何がしかの理由があって、戦争になっている。だから、仲裁、裁定と言うものがなされて、そして、和平の交渉と言うものがなされるものでありますけれども。でもテロリストが仕掛けて来る戦争は、全く和平の道が見えない。そこに恐さを感じるわけでありますけれども。9月11日から1年が経って、解決の糸口は益々見えない。

混沌としている。そして、一色触発の状況の中で、何時戦争が起こってもおかしくない。アメリカの大統領は圧倒的な、これまでにない、国民の支持を得て、そして、明日にでも戦争をしようと言うような、そんな緊迫した空気が今漂っております。世界の良識は、そのアメリカの取ろうとしている態度、行動に対して決してそれを許してはならないと言う声を、聞くわけであります。もし、それを押して戦争を起こしたならば、いよいよ世界は泥沼化していまうであろう。と言うそう言う警告も発せられているわけでありますが。そうした現実ですね。

世界は何か新しい世紀に向けて一気に、この暗さを増してしまっていると感じないではいられないのです。まあ、もう既によく言われる、その中心人物の主たるビン・ラディンと言う人がいますけれども、私も殆ど知らないのですけれども、とても私の心に残っていることがあります。それは彼はアラビヤの大富豪の息子として生まれた。と言うのでありますけれども、ある時期迄は親米派というかアメリカに好意を持っていた。かれの活動には、CIAの支持を得てのロシヤのアフガン侵攻には力を入れていた、と言うことでありますけれども。

でも故国サウジアラビアが、あの湾岸戦争においてアメリカが基地を設定して、そして、そこからイラクへの戦争への基地としての働きがなされている現実を見た時に、彼は自分の心からそれまでにない、自分達に取ってこの大事な聖地が汚されている。聖地が戦争の手先になっている。それに対しての怒りが、それに対して赦せない彼の心を深く捕らえて行った。

しかも、そこで戦っている戦士達は、戻って来れば物見遊山で町を歩いている。その姿を見た時に、益々彼の感情は許せなくなって行った。そう言うことを見る時に、人間が大きな戦争をする。世界が暗黒のルツボにのめり込んで行く基(もとい)をずうっとたどって行くならば、あるいは、1人の人間の許せない憎しみがある。そして、そういうものが集まって行った時に、結果として世界を暗黒に落としめてしまう。そのようなことを思う時に、人間が人間を治める、人間が人間の力や人間の手だてで平和を作り出すことが、どんなに困難なことであるか。改めて感じないではいられない。そのようなことを思わせられております。

さて、今日のみ言葉に目を移したいのであります。イザヤ書の8章の17節であります。まず、そこに預言者イザヤはこう言います。

イザヤ書
8:17 私は主を待つ。ヤコブの家から御顔を隠しておられる方を。私はこの方に、望みをかける。

こう告白しております。 私は主を待つ。このイザヤが存在した時代、この時代がどういう時代であるのか。まあ、その前後を見れば分かるのでありますけれども、この時代は近くにアッシリヤと言う大国が、この時代隆盛を極めて、そして、世界を征服すると言う、そう言う時代でありました。

イスラエルは2つに分かれて、北のイスラエルと南のユダ、がありました。イザヤは南の王国ユダに住んでおりましたけれども、そう言う中にあって、この時は北イスラエル王国と、そして、その隣にありますアラムあるいはシリヤと言う国が同盟を結んで、そして、その同盟の輪を更に広めて、南の王国ユダにも広げて、そして、我々は結束しようではないか。あの大国アッシリヤに対抗しよう、と言うそう言う動きがあったわけであります。

アハブと言う王様に、呼びかけて来るわけでありますけれども、その時にこのアハブは、呼びかけに対して彼は判断する、北イスラエルとアラムと同盟を結ぶ。と言うことが有利なのか、いや、そうではないかも知れない。アッシリヤのあの大国が、武装を強めている中にあって、3国がどんなに同盟を結んでも、あのアッシリヤの大国には勝てない。彼は寧ろそうではなくして、アッシリヤに貢ぎを持って行って、手を結ぶ方がいいであろう、と言う考えもよぎるわけであります。

でも、同時にアッシリヤは、こんな小さなユダの申し入れを、果たして受け入れてくれるだろうか、と言う不安もあったわけであります。そうした不安がよぎっているこの時代であったのであります。イザヤはその中で私は主を待つとこう言っているわけですね。

その先を見て行きますと、このアハブと言う王様が決して神の前に神を恐れつつ歩んでいたのではない。今言ったように、国と国、王同士の同盟を結ぼうかと言うようなことにしか、心が向いていないわけであります。その現状がその先を見て見ますとよく分かります。

イザヤ書
8:19 人々があなたがたに、「霊媒や、さえずり、ささやく口寄せに尋ねよ。」と言うとき、民は自分の神に尋ねなければならない。生きている者のために、死人に伺いを立てなければならないのか。

とこう言っているわけであります。ここに人々がイスラムの国は真の神を頂いているにも拘わらず、その真の神に彼らは祈り求めることをせず、「霊媒や、さえずり、ささやく口寄せに尋ねている」 今日で言えばオカルトに心が惑わされている。様々な偶像に心が奪われている。世のものに心が奪われている。それがここに言われているわけであります。更に21節に目を移して見ますと。

イザヤ書
8:21 彼は、迫害され、飢えて、国を歩き回り、飢えて、怒りに身をゆだねる。上を仰いでは自分の王と神をのろう。

とこうあります。国全体が今危急存亡の中にある中にあって、彼らは何を言っているか。オカルトに心を惑わされている。そして、一方では、神は我々を見捨ててしまっている。我々に目を留めてくれないのか、我々を助けてくれないのか、と言って神を呪っている。21世紀を迎えた世界、私たちの姿を見る時に、何かこの時代のこの姿は、私たちの今日の姿、今日の世界ですね。何かこう重複する、だぶって見えるそんな気もするわけです。

そして、何時の時代もそうであろうか、時代を超えて何時も世界は、何時も人類はこのようにして、神が平和を、神が祝福を与えようとしている中にあって、でも、人間は自らの手で、自らの力で、それを治めようとして、自らをおとしめているそう言う姿がある。

私たちはその中にあって、何を待つのか。そして、イザヤは、私は唯、主を待つ。そして、ヤコブの家から御顔を隠しておられる方を、私はこの方に望みを掛ける。王達を見てもそう、人々を見てもそう、何処を見ても最早希望のない所に置かれているけれども、その中にあって、だからこそ、私は主に、主にのみ目を向ける。そして、9章に入りますと、

イザヤ書
9:1 しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。
9:2 やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。

とこうあるのです。イザヤの中にこれらが、み言葉が、光りが差し込んで来て、この言葉は何時も取り上げたりする所でありますけれども、やがて、イエス・キリストがおいでになって、そして、人類に救いをもたらすことの預言でもありますけれども、何時の時代にも希望を持つ者に、神は答えて下さると言うお方、そのお方の約束でもあります。イザヤはその中に何時も希望を置いた時に、やがて、まもなくして、その子ヒデキヤを通して、素晴らしい神のみ業を、具体的に目の当たりに見て行くわけであります。それはイザヤ書の36章以下を見て参ります。

とヒゼキアを通して、このユダの国があの大国アッシリヤから守られて行くと言う奇跡的な業を見て行く。アッシリヤが押し寄せて来た。でも一晩で約20万のアッシリヤの大軍が滅ぼされて行くと言う奇蹟をもって、救いの業を見て行くと言うことでありますね。

私は主を待つ。そこに主は救いをもたらして下さる。そして、時代がそうであり、社会がそうであり、人々の間がそうである、と同時に、もう1つ私は、私たちの心がそうであると思います。社会から受ける故に心が荒むと言うこともありますが、それぞれが抱えている問題があるでしょうか。悩みがあるでしょうか。そのことの故に心に闇が、心が痛んでいる。そして、今心が崩壊しつつある、その姿を目の当たりに見せられる。そう言う時代でもある。

一昨日私は、「友」のドキュメンタリーの映画を見ました。そこに行って映画を見さして頂いてとっても感動しました。この「友」では私たちの教会員も働いています。「友の時間、母達の季節」と言うタイトルでドキュメンタリーの映画が完成して、その試写会と言うことで福田さんから券を頂いて見させて頂きました。

「友」はご存知のように、重度の障害者を扱っている所であります。そこに登場して来る人達は重度です。言葉を発することも出来ない、あるいは自分で歩くことも出来ない、1から10、全部人の助けを受けなければ、何1つ出来ないと言う人達が多い。本当に重度な人達ですね。そう言う人達、とても悪い見方と言ったらいいでしょうか。そう言う言い方をするならば、やっと動いている物体に過ぎない。そんなふうにすら思えるような人達、そして、そう言う子を持った親、そう言う家族にとって、それがどんな重いことか、想像に余りありわけでありますが、でも、ここに登場して来る親達、特にお母さん達。自分達はそう言う子供を与えられて、幸せです、最高の幸せです、これ以上ない幸せを私たちは味わっています。そう言っておられる。

それは決して無理した言葉でなくして、作った言葉でなくして、心の底からそう言えている。そう言う所に感動がありました。瞬き1つの中に、そこから訴えている、その人の全人格の言葉。それを「友」の職員、そして、親達は、満身をもって受け止めている。1人の人の言葉が本当に私の心を捕らえました。「神様はあえてこういう重度の障害者を摂理をもっておいて下さっている。彼らは世話されながら、下から何も言わない、じっと見つめている。それは沈黙した神の目である。そして、怖い目でもある。親も回りの者たちも本気で、本物の愛で接しなければ、たちまち見抜かれてしまう。しかし、本気で愛をもって接するならば、それは伝わる。」その人は喜んでいる。そして、その伝わって来る喜びのメッセージは添乗者に通じるものとはまったく較べものにはならない。最高の幸せである。

それはどんな有能な子を持った親にも勝る喜びである。そして、それまで絶望の淵にいた者に希望の光りを与え、暗闇に差し込んで来る光りである。生きることを支える大きな力でもある。そのようなことを言っておられました。重度の障害者、生まれた瞬間、あるいはそうなって行く状態を見る時に、誰もが、どうして自分にこのような子供が許されるのか、あるのか。苦しみ抜いて、たった1つの道は、共に死ぬことだ、それ以外にない。誰もが突き当たる所ですけれども、でもこの「友」の人達は、そうではなくして、そう言う存在を神が敢えて摂理の中に許されて、彼らの心の深い所にあって、彼らの持っている純粋な心は、誰も、どんな人間も持ち得ないほどの、純粋な神を見る目には、それを知った喜びがどんなに深いかを、本当に感動しました。そして、ああここにも暗闇に光りを投じられる神の愛が注がれているなぁ、とそう思わないではいられません。

私たちが置かれている状況の中で、困難の中で絶望しているでしょうか。光りが見えないでしょうか。闇が覆っているでしょうか。でもイエス・キリストは新たに光りをもたらし、イエス・キリストの降誕は闇を光りに変えます。光りが来た時に、闇は一瞬にして消えていきます。イエス・キリストはそのようにして、この世界に来て下さいます。今日あなたの心の中に来て下さいます。主よ来たりたまえ。私は主を待ちます。そう主の前に出たいのであります。


お祈りを致します。
愛する天のお父さま。
今日あなたがこのようにしてここに臨んで下さって感謝します。
闇を光りに変えて下さる主の恵みを感謝します。
尊いイエスキリストの御名によってお祈り致します。
アーメン