2002年12月8日 主日礼拝式
“イザヤ” 9章6〜7節

「“クリスマスを待つA”」

“池田 博牧師” 宣教メッセージ

今朝のメッセージのみ言葉をお読み致します。今朝は イザヤ書9章6節から7節 です。旧約聖書の1045ページになります。

“イザヤ”
9:6 ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
6:13 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。

はい、聖書は以上であります。クリスマスが真近かに迫ってきていますが、今日は待降節の第2主日です。今日もまたクリスマスを前にして「クリスマスを待つ」ということで、ご一緒にみ言葉に目を留めていきたいと思います。

今読みました中に、「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。」とあります。子供が生まれるということはどんなに喜ばしい事かと思います。聖書を見てまいりますと、聖書もといいますか、聖書こそがいのちの誕生について、それをとても大切な事として扱っているということが判ります。

イザヤ書の43章にこういう風にあります。「イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。『恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。」(43:1)更に「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(43:4)とあります。

「イスラエルよ。あなたを形造った方、」とありますが、イスラエルというあなたでありますが、それは又私たち一人ひとりを指してもいます。神様は人間の存在、一人ひとりの存在をとても大切にしておられる、尊厳ある存在として見ていて下さるということであります。

ここに、「私たち一人ひとりを贖う」とありますが、それは私たちを罪から、滅びから、裁きから救い出してくださるということであります。そのような大切なものとして見ていて下さる。そして「わたしはあなたの名を呼んだ。」名というのは大切であります。

一人ひとり、その人でなければならない大切な存在ということであります。そして「あなたはわたしのもの。」また「わたしの目には、あなたは高価で尊い。」と言って下さっている。ここに神様の命に対する尊厳あるいは評価、意味付けというものを見るかと思います。

私たちもいのちの誕生というのは、どんなに嬉しい事か、喜ばしい事かというのは言うまでも無いということであります。赤ちゃんの誕生といいますとおもわず皆で拍手して、歓迎し、喜びを分かち合うということです。

そして、その誕生した赤ちゃんへの親の期待、周りの期待というのも、これまたひとしおであるかと思います。親の子に対する、或いは家族の子に対する期待は端的に現れているのは名前にあるのかなーと思います。

親はやはり期待を込めて、こうなって欲しいと期待を込めて名前を付ける。末は博士か大臣か、それを夢見てすごい名前をつけてくれます。皆さん、自分の名前に満足しているでしょうか。嬉しいと思っているでしょうか。どうでしょうか。

私は「池田 博」まあまあ満足している。中学生の頃だったと思いますが、親に「名前をどうしてつけたのか、どういう謂れがあって、博と付けたのか。」と聞きました。そしたら、教えてくれました。父はその昔、中野というところで酒屋をしていてよく配達をしていた。その時ひときわ目立った大きな屋敷があった。その表札を見たら「何とか博」と書いてあった。

出産真近だったので、生まれ出る子供にはその名前にあやかってこんな立派な家に将来住めるようになったらいいなーということで、とても安直、でも何か、うちの父らしい期待を込めたとの事で、博という名前が付けられたという事であります。複雑な喜びでありますが。皆さんもそれぞれだと思います。

あるとき私はアルバイトをした事があります。その時に皆から「金ちゃん。」と呼ばれている、少し先輩の人がいました。二人で話しをしたときに、「金ちゃんと呼ばれているんですが、フルネームでは何と言うんですか。」と聞きました。そうしたら「教えない。」と言うのです。あまり無理に聞き出すこともしなかったのですが、しばらく経ってから彼のほうから二人でいるときにそっと言ってくれたのです。

「実は僕は金太郎とい言う名前なんだ。」というのです。彼は華奢な体で病気がち、そんな弱い体なのに金太郎と名付けられている。小さい時からそれが嫌で、辛くて、からかわれて、馬鹿にされて、そういうところを通ってきた。だから、名前が嫌で嫌でたまらなかった。本当に名前負けをしたというのでしょうか。そんな出会いもありました。

聖書を見てまいりますと、聖書は名前をとっても大切な事として扱っているということが判ります。旧約聖書にイスラエルの父祖としてアブラハムという人がいます。この人は最初はアブラムと呼ばれていました。それは高貴な父という意味があった。

ところが、やがて神様はアブラムを召し出して、後になって「あなたはアブラムではなくしてアブラハムと呼ばれなければならない。」と言われた。アブラハムというのは多くの国民の父という意味だといわれるのです。

そして、それはやがてイスラエルの父であり、さらには全人類の父となる、そういう使命を帯びた存在になるということでアブラハムという名前になっていく。大切な意味がそこにあるのです。

また、皆さんご存知の十戒のモーゼ。モーゼは生まれた時エジプトに住んでいて、当時エジプトはイスラエルの民があまりにも多産で子供が生まれすぎ、そのために恐怖を感じて、生まれ出る子供を皆殺せという命令が出た。

モーゼも生まれて、隠されて育っていたのでありますが、ついに3ヶ月をすぎ、隠し通せないために、葦で編んだ中にモーゼをいれてナイルの川に流した。それがパロの娘の目に留まって、助け出されて、葦の茂みの中から引き出されて助かったということから、引き出されるという意味のモーゼという名前が付けられた。

でも、それはやがて、イスラエルの民が奴隷の状態から救い出されていく、引き出されていくための使命を帯びる存在になっていく。そのようにしてモーゼは大切な名前を最初から与えられていたということであります。

新約になっても、イエス様も名前を大切にしておられるというのが判ります。有名な12弟子の一人、ペテロ。このペテロは最初はシモンと呼ばれていました。でも、イエス様はシモンに対して「あなたは今日から、シモンではなくしてペテロと呼ばれる。」と言いました。

ペテロ、それは岩という意味です。ペテロはご存知のように本当にでしゃばりでおっちょこちょいで、いつもイエス様に叱られている存在だった。でも、イエス様はその彼がやがてどうなっていくか、そして又、その事を期待してペテロ・岩という名前に変えました。

そして、ペンテコステを過ぎて、その変えられた名前の通りに、彼は初代教会の岩となるような重鎮として名前のように成長していくということであります。聖書を見ていきますと、このように名前がとても大切だということが判ります。

さて、今日のところに移りますが、9章の6節、そこに「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。」とあります。

「ひとりのみどりごに名が付けられて、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。」とこうあるわけです。これにふさわしい方、それはイエス・キリスト、このお方以外には無いわけです。

預言者イザヤはやがて生まれるイエス・キリストに対して神の預言を通してこのように語りつけているわけです。イエス様がお生まれになる700年以前に、既にこのようにして、やがて生まれる子に対して、どのような存在であるかをはっきりとここに語っておられる。

今日はその付けられる名前について、イエス様のご生涯、公生涯の中でそれがどのように表されたか、どのような所にこの名を裏付ける事があったのか少し見てみたいと思います。

最初の処に「『不思議な助言者』と呼ばれる。」とあります。不思議な助言者、これは新共同訳を見ますと「素晴らしい助言者」と訳されています。英語訳を見ますとWonderful Counselorとあります。「おー、ぴたっとくるかなー。」という感じであります。本当にワンダフル、素晴らしいカウンセラーとあるわけです。

イエス様の公生涯の中で、まさにそれを裏付けた出来事があるなーと思います。そこに少し目を留めてみます。マタイの9章10節から13節をお読みします。

“マタイ”
9:10 イエスが家で食事の席に着いておられるとき、見よ、取税人や罪人が大ぜい来て、イエスやその弟子たちといっしょに食卓に着いていた。
9:11 すると、これを見たパリサイ人たちが、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか。」
9:12 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。
9:13 『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」

有名な話しであります。イエス様は言われました。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。」とても当たり前なことであります。でも、この当たり前の言葉の中にイエス様はとっても深く大切な事を語っておられ、また、それを実行しておられるのを見ることができます。

体が病んでいるかどうか、医者は座ってみればピタリ判り、適切な治療をしていく。イエス様は心の病める者の医者、イエス様の下に来るならば、イエス様はその人がどのような状態でおられるのかをピタリと判り、適切な治療をする事が出来る。

病人に医者がとっても大切なように、あなた方心の痛める者に主はなくてはならない存在です。わたしはそのような人たちの為に来たのです。「そのように『自分の心が傷んでいる。』と思っているあなたの元にわたしは来たのです。」と言って下さっている。

イエス様が素晴らしい助言者、ワンダフル カウンセラーとして来て下さった姿がそこにあります。今日もあなたの心が傷んでいるでしょうか。不思議な助言者として素晴らしい助言者として、主はあなたに近づいて下さる。それを覚えるのであります。

そして、2番目でありますが、そこには今度は「力ある神」とあります。別訳では「全能の神」となっております。イエス様は人でありつつ、神の力を持っておられた方だということであります。そのことも、随所にイエス様がそれを顕しているところがありますが、今マタイの9章10節以下を見ましたが、1節から8節を見てみますと、そこにイエス様の神としての権威が顕されているのを見ることが出来るかと思います。

“マタイ”
9:1 イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰られた。
9:2 すると、人々が中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」と言われた。
9:3 すると、律法学者たちは、心の中で、「この人は神をけがしている。」と言った。
9:4 イエスは彼らの心の思いを知って言われた。「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。
9:5 『あなたの罪は赦された。』と言うのと、『起きて歩け。』と言うのと、どちらがやさしいか。
9:6 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」こう言って、それから中風の人に、「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」と言われた。
9:7 すると、彼は起きて家に帰った。
9:8 群衆はそれを見て恐ろしくなり、こんな権威を人にお与えになった神をあがめた。

中風の者を癒し、罪を赦すと宣言された一連の出来事をつぶさに見ていた人々は感嘆して驚嘆して恐ろしくなり、こんな権威を人にお与えになった神を崇めた。キリストのみ姿、キリストのその行為の中に、人々は神の権威を認めないではいられなかった。そして、神を崇めたとあります。

イエス様はそのようにして、ご自分に与えられた名にふさわしい事を成されたということを見ることができます。

それから、3番目でありますが「永遠の父」と呼ばれるとあります。イエス様は父として人々を愛する、親として人々を愛する、そしてまた保護する、そういうお方であるということを見ることが出来ます。

その事を裏付ける1つの出来事として、今度はルカの福音書13章10節から17節までをお読みしたいと思います。

“ルカ”
13:10 イエスは安息日に、ある会堂で教えておられた。
13:11 すると、そこに十八年も病の霊につかれ、腰が曲がって、全然伸ばすことのできない女がいた。
13:12 イエスは、その女を見て、呼び寄せ、「あなたの病気はいやされました。」と言って、
13:13 手を置かれると、女はたちどころに腰が伸びて、神をあがめた。
13:14 すると、それを見た会堂管理者は、イエスが安息日にいやされたのを憤って、群衆に言った。「働いてよい日は六日です。その間に来て直してもらうがよい。安息日には、いけないのです。」
13:15 しかし、主は彼に答えて言われた。「偽善者たち。あなたがたは、安息日に、牛やろばを小屋からほどき、水を飲ませに連れて行くではありませんか。
13:16 この女はアブラハムの娘なのです。それを十八年もの間サタンが縛っていたのです。安息日だからといってこの束縛を解いてやってはいけないのですか。」
13:17 こう話されると、反対していた者たちはみな、恥じ入り、群衆はみな、イエスのなさったすべての輝かしいみわざを喜んだ。

安息日にイエス様は敢えて18年もの永い間苦しんでいた病人を癒されたということであります。それを見た会堂管理者は「どうして、わざわざ安息日にそんな事をするのか。律法には安息日に働いてはいけないとあるではないか。あなたはそれを敢えて犯しているのか。」とそう詰問したのであります。

でも、イエス様はそれに対してこう言われるのです。「あなたは動物でさえ、安息日に、水が飲みたいというときに、敢えて水を飲ませるでしょう。ましてや、人の子が癒されたいと願うその心情は、その日が何の日かは関係なく、何時でもそれを求めてくるでしょう。願うでしょう。又苦しむでしょう。だから、助けてあげるのは当然だ。」とおっしゃって、敢えて安息日にそれをしておられる。

そして、ここではないのですが、イエス様はこうおっしゃっている。「安息日は人の為にあるのです。そして、人の為に安息日が備えられている。安息日の為に人が備えられているのではなく、人の為に安息日があるのです。」

イエス様はそのようにして大切な事をここで教えておられる。そして、律法を越えて人の心、人の弱いところに目を留める事を大切にしておられるのを見るのであります。父の愛の心、親の心がそこに深く表されている。それを見ることが出来ると思います。

そして、もう1つでありますが「平和の君」ということがいわれています。イエス様は平和の君としてこの世界においで下さったという事を表しているところがあります。同じルカの福音書の19章29節以下であります。

“ルカ”
19:29 オリーブという山のふもとのベテパゲとベタニヤに近づかれたとき、イエスはふたりの弟子を使いに出して、
19:30 言われた。「向こうの村に行きなさい。そこにはいると、まだだれも乗ったことのない、ろばの子がつないであるのに気がつくでしょう。それをほどいて連れて来なさい。
19:31 もし、『なぜ、ほどくのか。』と尋ねる人があったら、こう言いなさい。『主がお入用なのです。』」
19:32 使いに出されたふたりが行って見ると、イエスが話されたとおりであった。
19:33 彼らがろばの子をほどいていると、その持ち主が、「なぜ、このろばの子をほどくのか。」と彼らに言った。
19:34 弟子たちは、「主がお入用なのです。」と言った。
19:35 そしてふたりは、それをイエスのもとに連れて来た。そして、そのろばの子の上に自分たちの上着を敷いて、イエスをお乗せした。
19:36 イエスが進んで行かれると、人々は道に自分たちの上着を敷いた。
19:37 イエスがすでにオリーブ山のふもとに近づかれたとき、弟子たちの群れはみな、自分たちの見たすべての力あるわざのことで、喜んで大声に神を賛美し始め、
19:38 こう言った。「祝福あれ。主の御名によって来られる王に。天には平和。栄光は、いと高き所に。」

イエス様は敢えてロバの子に乗ってエルサレムに入場したとあります。ロバ、それは平和の象徴、そしてその平和の象徴のロバに乗って入場され、人々から祝福され、「主の御名によって来られる王に。天には平和。栄光は、いと高き所に。」そう叫ばしめている。

平和の君としてのイエス様、やがてそれは本物として来られる姿でもありますが、でもこの地上に平和の君としておいで下さったということです。かいまみせてくださっております。こうして、イエス様は一つひとつその名にふさわしい行為をなさって、ご自分を明らかにして下さいました。

最後にマタイの1章の21節をお読みしたいと思います。イエス様が生まれなさった時の出来事であります。天の使いを通してのマリヤへの言葉です。「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」

イエス様の名前がここに明確にされました。その明確にされたご人名はどういう意味かということについて、ご自分の民をその罪から救ってくださる、これがイエスという名前の意味だと言われました。

様々な状況の中に閉じ込められた人々を、そこから解放し救い出す、それがイエス、そのためにおいでくださった。その昔、ご在世当時になさったイエス様の様々な玖珠しいみ業であります。でも、そのイエス様は今も変わらずに教会を通して主にある兄弟姉妹たちを通して、そして又主に祈られる祈りを通して業が続けられている。

先ほど、金ちゃんという人のことを話しました。わたしがアルバイトしたしばらくの期間での事でありました。その金ちゃんことIさんという人は、わたしが牧会して数年した時に突然たずねてまいりました。わたしは大船でしばらく話しをしたときに、彼は主を受け入れる決心をして、帰っていきました。

僅かな期間の出会いであった。でも、私の心の中に、その人のことがずっと気になって祈りに覚えていた。何年も経った後のことでありましたが、主はその祈りを覚え、その彼の心を訪ね続けて下さった。そしてもう一度会う事が出来て、彼が主に立ち返ることが出来た。主の本当の不思議さを覚えた事であります。

最後に、ここにも来ていただいたこともある福沢みつお先生が出しております機関紙の中にとっても心温まる1つの記事がありまして、ずーっと私の心の中に残っておりますので、そのあかしをお読みして終わりたいと思います。


札幌の小さな喫茶店に一人の女性がふらっと入ってきて、コーヒーを注文した。彼女はこの1杯のコーヒーを飲んでから死のうと思っていた。2歳で母に死別、3兄弟ばらばらにされて親戚に預けられた。6歳で父が再婚、再びひとつ屋根の下で5人の生活が始まった。

しかし、彼女だけは新しい母に愛されなかった。姉はいつも彼女を励まして「大きくなったら家を出て、一緒に暮らそう。それまで我慢して。」と支えてくれた。しかし、彼女が高校3年の時その姉が事故死してしまった。彼女は支えを失い、居たたまれないで、父に書置きの手紙を残して家出した。

札幌まで出てきた。孤独、空しさ、寂しさ、やるせなさにもう耐える力を全く失ってしまった。そして、死ぬ決心をした。ふと気がつくと、その店の中に賛美歌が流れていた。なんとそこは牧師夫妻が開いていた福音喫茶だったのです。

手渡されたヨハネの福音書を最初何気なく読んでみた。しかし、そのうちに気がつくと夢中で読んでいた。渇いた砂地に水が染み込むようだった。そして、心に暖かい光が差し込んで、あれほど死を決心した彼女が次の日も又次の日も引き寄せられるように、出かけた。

そして、牧師の言葉を聞いているうちに、私と一緒に泣いておられるイエス様に出会ったのです。孤独で寂しくて空しくて、死だけを考えていたこんな者に出会ってくれた。そう思うと嬉しかった。生きていて良かった。自然に不思議にそう思えるようになった。


イエス様がそうして下さった。彼女はイエス様の愛で癒されたのです。そして、救われたのです。最後の一杯のコーヒーを飲んで死のうとした、しかし、それは命の水に変えられたのです。主の言葉「人の子は失われた人を捜して、救うために来たのです。」

こうして、失われ行く一人ひとりをイエス様は訪ねておられる。イエス様の手は伸べられておられる。今日もここに、一人ひとりに伸べられております。あなたの心がどんなに辛くとも、でも、主の手は伸べられていて、愛の声がかけられているのです。

今年もクリスマスを迎えますが、1年を振り返って、もし、心に恵みを覚えたなら、それを感謝したいですね。尚、心の空洞を覚えている者は更に主に近づいて、主の慰めを、そして、心にこそこのともし火を灯して、主の恵みをしっかりと頂いて、この年を感謝と共に送りたい、そう願って止まないのであります。


お祈りを致します。
まことに、哀れみと恵みに富んでおられるイエス様、今日も私たちの内においで下さって、まことに感謝致します。この方こそご自分の民をその罪から救うお方です。

あなたはそのようにして、この地上においで下さって、一人ひとりに届いて下さいました。感謝致します。今、なお御一人ひとりの心の内にあなたが改めてともし火を灯してくださって、あなたにしか与え得ない恵みを頂く事の出来ますよう、そして救いの喜びをお与え下さい。

尊いイエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン!