| 2002年12月15日 主日礼拝式 “イザヤ” 53章1〜6節 「“クリスマスを待つB”」 “池田博主任牧師” 宣教メッセージ |
| 今朝のメッセージのみ言葉をお読み致します。今朝は イザヤ書53章1節から6節
です。旧約聖書の1114ページになります。 “イザヤ”
もう1ヶ所、 新約聖書ピリピ人への手紙2章6節〜8節 です。新約聖書の352ページになります。 “ピリピ”
聖書は以上です。今日は待降節の第3主日で、来週はクリスマスです。楽しみながら、期待をしながらクリスマスを待つのは素晴らしいことです。 今日はペットの話から入りたいと思います。ペットは大好きです。日本人の90%以上がペットを好きらしいです。実際飼っているのは67%、ペットを全く飼ったことがないという人は1.3%、ほんのわずかです。ほとんどの人がペットを飼った経験があり、今飼っている、ということのようです。 町には、内科や小児科と同じくらい動物病院がありますね。洒落た病院が多くあちらこちらにあって、成り立つかなと思うほどですが、みんな成り立っているのですね。スゴイと思います。病院だけでなく、ホテルやショートステイできる所もあります。 先日気がついたのですが、川崎で、ペットを飼っている人、ペットが大好きな人のための特別な分譲住宅の売り出しがあったそうです。 その住宅の中には、ペットショップはもちろん、ペット食堂あり、ペット美容室、ペットの洋服屋さんがあります。そしてまた、しつけ訓練センター、ドッグライフプランナーズ、ペットの葬儀屋さんがあります。さらにはペットのタクシー、ペットシッター、ペットキャブがありと、至れり尽せりです。 今日、日本ほどペットが好きな国はないということが世界の中でも言われ、それはあまりいい意味で思われてないようですが、でもとにかく、年間のペットの輸入量もすごく、ビックリするほどの金額で輸入されているようです。 ペットをどういう風に思っているかという統計を見ますと、73%にあたる方々が、家族の一員、兄弟、姉妹とか、仲間とか、同僚と思っているらしいです。 でも、かわいがっているとか、家族の一員だ、仲間だとか言っているのですが、ペットたちに聞いたら、もういやだとか、うるさくてたまらないとか、エサだけくれればそれでいいんだ、と思っているのかもしれないですね。 でもとにかくまあ、飼ってみれば、愛情が通じるし、かわいいということが、分かりますね。我が家にもペットがいます。チコちゃん、と呼んでいる猫です。このチコちゃんもほんとにかわいいです。 早天祈祷会が終わり家に帰りますと、ちゃんと家族の足音を聞き分けていて、それでボッと迎えて、ゴロンと横になって歓迎し、そしてエサを欲しい、と言うのです。最近は、なんと車の音を聞き分けて、車で帰ってきてもチャンと迎えるのです。その耳の鋭さには、驚かされますね。 そして、高く網戸に足をかけて、「エサが欲しい。」と言うのです。缶詰を見せて、「これか?」と聞くと、「そうだ。」とちゃんと返事をするというか、応答するのです。(笑)可愛いですね。 でもそのチコちゃんも、突然いなくなるのです。何日もいなくなって、「どうしたのか?、旅に出たかな?」と心配するのですが、でも3、4日すると帰ってきて、何食わぬ顔をしているのです。「どこに行ってたの?」と聞くのですが、黙秘権を行使して、答えません。そしてまた、可愛いから家の中に上げたりするのです。 でも突然私や家内の後を追いかけて、噛みつくこともあるのです。どうして噛みつくのか?、よく分からないんです。「フラストレーションが溜まっているのか?」とか思います。そうかと思うと、時にマーキングをしてくれて、それで放り出したりします。まあ、可愛くて愛すべきペットであるのですが、でもやっぱり分からないのです。 でも分からないそのペットを、なお愛して、「なんとしても、私は理解したい。理解するために、仮に犬であるならば、私は犬になって、犬と共に私の人生を送りたい。」とそこまで考える人はいるでしょうか?いないですね。世界中に誰もいないんじゃないでしょうか?いくら家族の一員だ、そしてかわいい、愛すべきペットだと言っても、人間がペットになって生涯を過ごすということはあり得ないですね。 今日はペットの話ではありません。イエス様の話です。先程ピリピ人への手紙2章6節、7節をお読みしました。もう一度そこに目を留めてみたいと思います。そこにこうあります。 “ピリピ”
「キリストは、神の御姿であられる方なのに」とあります。キリストは神の御姿、神であられた、神そのものであられた、と聖書が告げているところです。 けれども、その神そのものであられたキリストが、そのあり方を捨てることができないとは考えないで、神の全能の力によって、神であることをそこでやめられて、そしてご自分を無にして地上に降りて来られた、とあります。 人間がいくらペットを愛しているからと言って、ペットになろうなどと思う人は誰もいません。でもここに神であられるイエス・キリストは、神であることをやめることはできないとは考えないで、神であることをやめて、そして人間となって降りて来られたのです。 そしてここに「ご自分を無にして」とあります。分かりやすい説明があります。 日本ではあまり軍隊というものはないのですが、軍隊で一番偉い大将が、バッジを付け軍服を着て兵舎に行けば、みんな敬礼し、平伏して迎えるわけです。 でもその同じ大将が、バッジを取って軍服を脱いで平服で兵舎に行くならば、彼らと同じ立場に立つことになります。そこで一緒に過ごし、会話もできるということです。 「ご自分を無にするというのはそういうことです。」と説明されていたことがありました。 イエス・キリストは神をやめられて、人間として同じ立場に立って、そして降りて来られた、とあります。そして更にその先には、仕えるものの姿をもとられた、とあるのです。
この仕えるというのは、奴隷という意味ということです。同じ立場に立っただけでなくして、更に低く奴隷として仕える姿をもって、この地上に降りて来られたのです。それがキリストです。 イエス様も、マルコ10章45節を見ますと、 “マルコ”
と、こう言っておられます。 「仕えられるためなのではなくして、仕えるために来た」とおっしゃっているわけです。「キリストは文字通り、人間として来られたのです」と言おうとしているのです。 でも皆さん、こう書いてありますが、多くの人々にとって、それはちょっと考えられないことです。今私たちも説明を聞いて、「そんな事ってあるのか?、常識的に考えられないしあり得ない。」とそう思います。多くの人はそう思います。 それで昔から、もう2000年も前からずっと、こう考えられてきたのです。 「キリストが、神であるキリストが、人間のキリストになるということはあり得ない。聖書を見ていくと、キリストは最初にナザレから出てきて、バプテスマのヨハネから洗礼を受けて、そして公の生涯に入られたと書いてある。あの洗礼を受けた時に、ナザレ人イエスに天から鳩のように聖霊が下ってきたとあるが、実は、あの時、聖霊がナザレ人イエスの中に入ったのだ。そして仮の人の姿をとられたのだ。そして3年半、人としてナザレ人イエスの中に霊が宿って、キリストとして歩まれたのだ。」とこう説明をするわけなのです。 これを「キリスト仮現(かげん)説」と言います。難しい言葉、聞き慣れない言葉ですが、ラテン語でドケチズムといい、「仮に現われる」ことを意味するのです。ドケチ…、覚えましたね?(笑い) 「仮に現われて、人となった。」とそうでも説明しなければ説明がつかないということで、この説が実はずっと長い間、まかり通っていたわけなのです。「最後は十字架にかかられて、亡くなる直前にその霊は天に帰っていかれた。あの十字架について死んだのはナザレ人イエスである。」というのです。 でも聖書を見ていったときに、そういう風には言われていないのです。もしそうであったとするならば、キリストの十字架というのは何の意味もなくなってくるわけです。ですから聖書はそういう風には語っていないのです。 イエス・キリストは100%神であり、100%人となられたのであります。人間的には考えられないけれど、でも聖書はそのことをはっきり告げているところに、大事な大事な意味がある、ということです。 そして最初に読みましたイザヤ書53章に、もう一度目を留めてみたいと思います。先週も、先々週も、イザヤ書からキリストについて見て参りました。そこではキリストの本当の姿が表わされておりましたけれども、でも今日のこの53章は、あえてキリストが人となられたもう一つの側面である、苦難のしもべとしての姿が、表わされております。 これはイエス様がお生まれになる700年以前に預言者イザヤが語った言葉です。少しそこを見て参ります。53章1節を見てみますと、 “イザヤ”
とこういう書き出しであります。 預言者イザヤがキリストについて預言を語ることについて、「私が神から告げられたこの言葉は、果たしてだれが聞いてそれを本当のこととして信じられるだろうか?いやだれも信じられない。私自身がそうだ。 『主の御腕は、だれに現われたのか。』そこに神の力が現われたとするならば、それはどういう意味においてそうなのか?どう信じたらいいのか分からない。 でもまた同時に、神の力がなければ、神の御腕が支えていなければ、そのようなことは起こり得ないであろう。さあ、私が語られたことを語ります。ですから聞いてください。」という書き出しであります。 そして2節には、 “イザヤ”
すなわちイエス・キリストは、「主の前に若枝のように芽生えた。」とあります。 この若枝というのはメシヤ、救い主という意味です。神はイエス・キリストをこの世界に救い主、メシヤとして送り届けられたのです。若枝のように、大事なメシヤとして送られました。でも同時にその若枝、メシヤは「砂漠の地から出る根のように育った。」のです。 砂漠、そこは焼け付く地。砂漠、そこは命のない場所。ですからそこに仮に芽が出たとしても直ちに枯れてしまうような、そういう地です。そういう地にかろうじて育つかのようにして、この若枝、メシヤはこの世界に送られる、とそう言われたのです。 私たちは来週イエス様のご降誕を祝います。イエス様がどのように生まれられたかについて、先程読みました。ナザレに住んでいたヨセフとマリアは、婚約中でありました。マリアが妊娠し、そしてまもなく生まれようとする臨月を迎えました。 でもその時に、そんなことは関係なく、容赦なく、その当時世界を支配していたローマ帝国は、支配している国々の人口調査をするという皇帝アウグストの勅令が出て、そして皆それぞれの本籍地に行って登録をするようにと命令が出たわけです。 イスラエルの人々も植民地でありましたから、否応なしにその生まれた地に行って登録をすることになりました。ヨセフとマリアはベツレヘムの生まれ、ベツレヘムの出なので、そこに行かなければならなかったのです。「臨月だから待ってください。」とか、「先延ばしさせてください。」という風に願い出ることもできない絶対命令であったわけです。 ナザレからベツレヘムは120キロ以上もあるという遠い距離です。その遠い距離を、おそらくロバに乗って、このヨセフとマリアはとぼとぼと旅をし、ベツレヘムに向かったのです。 臨月を迎えたこのマリアにとってこの旅がどんなに辛い過酷なものであるか、想像に余りあります。そして当然途中で、あるいは死産、あるいは流産、あるいは異常事態が起こっても少しもおかしくない、そういう旅であったと思います。 でもかろうじて守られて、そして目的地ベツレヘムに着きました。着いてまもなく赤ちゃんが誕生したということであります。でも、あちらこちらから人々が集まってきた故に泊まる宿屋もなく、しかたなく家畜小屋の飼葉桶の臭い中にその誕生を迎えなければならなかったのです。 まさに砂漠の地に育つ根でしかなかったわけです。いつそれがなくなってもおかしくない、汚い、汚れた中にイエス・キリストは誕生したということであります。 そしてさらにその先を見ますと、 “イザヤ”
とあります。 イエスが生まれて間もなく、ヘロデ王はだまされたことを知って、「ベツレヘムに住む2才以下の子供を全部殺せ」という命令を出しました。生まれたての赤ちゃんを抱いたヨセフとマリアはやむを得ず、夜、逃亡しました。そして遠い遠いエジプトまで逃れた、と聖書は告げています。 そのようにして、生まれもそうでした。生まれた後もそうです。そしてまた、やがてナザレに移り住んでいくのですが、そこでも貧しい貧しい生活をしていきます。まさにここに言われているようなことが起こっていくわけです。 いつキリストがこの地上に生まれるかについて、生まれた後について、一つ一つについて、既に700年以前に記されているのです。すなわちシナリオがここに記されているということです。キリストが生まれた後どういう風に育っていくかを、前もって聖書は私たちに、人類に知らせてくださっているのです。 このことを置き換えて考えてみたいのです。皆さんの生涯について、皆さんの人生について、皆さんが起こり来る様々な出来事について、あらかじめどこかに知らされていたとするならば、あなたにそのことが知らされたとするならば、どうでしょうか? あなたにとって生きるということ、あなたにとっての人生、これは全く違った意味を持ってくると言いましょうか?いや、あなたにとってもはや生きること自体が無意味なことになってしまうのではないでしょうか? 私たちも振返った自分の人生を思えば、「そこに嫌なことばかりではなく、良いこともいっぱいあって、楽しいこともいっぱいあって」ということが言えると思うのですが、しかしどんなにいいこと、どんなに楽しいことがあったとしても、でもそれがあらかじめ分かっているというならば、その良いことも楽しいことも、もはや色褪せてしまうのではないでしょうか?知らないで、それを知ることの喜びからするならば、もはや喜びが決して喜びとなっていかないのではないでしょうか? ましてや試練があって、病に倒れて、苦しいことがあって、人に裏切られて、嫌なことがいっぱいあり、そうしたことが前もって分かっていたとするならば、もはや生きることを誰もよしとしないでしょう。 私たちは前もって自分がどうなるか分からないからこそ、未知の世界だからこそ、可能性に期待をかけ、喜びをそこに託しながら、人生を生きていく意味があるのではないでしょうか? 「やがて必ず〜才の〜月〜日に死が訪れます」ということが知らされたとするならば、それが例え100才生きたとしても、死がそこに厳然として自分の前にぶらさがったとするならば、もはや生きる意味を失ってしまいます。 しかしイエス・キリストは、そのことを全部つぶさに知らされていたのであります。今読みましたところもそうです。 そしてさらに4節から6節を読んでみますと、こうあります。 “イザヤ”
キリストが辿らなければならない道筋、キリストが受けなければならない苦しみ、それがどんなものであるかについて、ここに記されております。「彼は人のために自らを犠牲にする生涯を歩む。それが定められた、いわば運命である。」ということです。 それを知っていて、それを承知の上で、いや承知だからこそ、神であることをあえてやめられて、この人間の世界に降りてこられて、そして人間が受ける全ての苦しみを自らの苦しみとして身代わりになって受けることを、キリストは良しとされたのです。 ペットのことを先ほどお話しました。愛するペット、大好きなペット。ペットのためにいくらでも、何でもしようと思っています。けれでも誰一人、「ペットになってペットの苦しみを私は身代わりに受けましょう。」という人はいないはずです。 そしてさらに、お互い人間同志のことを考えて、どうでしょうか?私たちには夫婦、親子、友人、いろんな形での愛の関係があります。でも時に私たちは、その愛の関係がどんなに大切であると分かっていたとしても、その限界を感じることがしばしばあるのではないでしょうか? 「これ以上は自分にはできない」という限界を突き付けられることが、あるように思うのです。しかしそれを越えて、本当に最後まで、命を捨てても惜しくないと尽くせる、そういう愛の関係も、もちろんあることも知っています。 でも、仮に自分の命をそのために捨てても惜しくないという愛の関係があるとするならば、それは、私が、あなたが、その相手の人から愛を受けた故に、愛を注ぐことを惜しみなくできるのではないでしょうか? 受ける愛があってこそ、与えられた愛があってこそ、「私も惜しみなく尽くそう!命を賭けてでも尽くそう!自分の命に代えて尽くそう!」と思うのではないでしょうか?相思相愛、愛し愛されるからこそ、私たちは惜しみなく注ぐことができます。 そこにそこまでの愛の深い関係がなくても、その人に尽くさなければならない時、私たちはそれは辛くて悲しくて過酷でできないとギブアップしてしまいます。それが私たち、それが人間ではないでしょうか? けれどもキリストは、そういう私たち、そういう人間を愛したのです。私たちの誰が、「キリストを愛し、キリストのために愛を惜しみなく与える。」とそう言える人がいるでしょうか?いないのです。 キリストを取り囲む多くの人々のことが聖書の中に記されております。病気が治りました。目が見えるようになりました。足が動けるようになりました。多くの人がそういう恵みを受けました。でもやがてキリストが捕らえられ、十字架にかけられるという展開になっていった時、みんなキリストから離れていきました。 そして、最後には弟子たちすらも離れていきました。キリストは弟子たちに向かって言いました。マタイ16章21節を見ますと、「私はエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺されるのです。」とそう言いました。 キリストは自分がどうなっていくか全てあらかじめ知っておりました。いつかどこかで弟子たちにそのことを打ち明けて、そして受けとめてもらって、そして弟子たちの愛を受けて、イエス様も励ましを受けたいと思って打ち明けたのでしょうか? しかし、弟子たちはそれを受けとめ切れませんでした。いや、受けとめる用意など全くなかったのです。そしてそういう弟子たちにイエス様は繰り返し繰り返し、17章以下に何度も何度も、「私は捕らえられて殺されなければならない」とそう打ち明けています。でも弟子たちは、そのことが繰り返されれば繰り返されるほど、少しずつ少しずつキリストとの間に溝ができていきました。 最後、現実に捕らえられた時に弟子たちがとった態度、それはマタイ26章56節に書かれています。 “マタイ”
「見捨てて、逃げてしまった。」とあるのです。計り知ることのできない一杯の恩恵を受けた、愛を受けた弟子たちでした。でもその弟子たちですら、キリストを見捨てて逃げていった、ということです。 そういう中で一人、キリストは更に裁判にかけられて、一方的に己を神としたということの故に死刑の判決が出て、そして裁判の下で死刑が執行されていくのです。 ピラトから40の鞭を受けていきます。さらに兵隊たちから罵詈雑言、つばきをかけられ、こぶしで殴られ、そして荊(いばら)の冠をかぶせられて、ありったけの辱めを受けていきます。 そして遂に十字架にかけられ、両手両足に釘打たれて、やがてわき腹に槍が刺されていき、この上ない残虐な死刑が執行されていきました。 キリストはその中で、こう祈りました。こう告白しました。「父よ、彼らを許してやってください。彼らは自分で何をしているかわからないからです。」キリストの祈りです。キリストの神への訴えです。そしてキリストはまさにそのためにこそ、この地上に来たのです。 人間となって、人間の苦しみを自ら負って、彼らを救い、彼らを本当に愛し、彼らに命を与えようとしたのであります。世界の、人類の誰が、そこまでして救う道を、愛する道を開いたでしょうか?ただ一人、この方イエス・キリスト、この方が自らの人生をどう生きなければならないかを全て知った上で、生涯を全うされました。 クリスマス、そのイエス・キリストが地上に降りて来られるその日です。私たちは改めて、キリストの御降誕、そこから始まる人生が、そしてそこから始まって終わる最後がどのようなものであるかを知った上で降りて来られたイエス・キリストの、計り知ることのできない深いみ旨、その愛を深く心に留めたいものです。 私たちに闇から光への道、死から命への道、裁きから救いの道が備えられたこの素晴らしい祝福の始まり、救いの恵みの始まりを心に留めて、感謝してイエス・キリストの御降誕を祝いたいのであります。 お祈りを致します。 まことに神であられる方であるのに、それを堅く保とうとはなさらないで、ご自分を無にして仕える者の姿をとり、人と同じようになられました。キリストは人としての性質を持って現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。今日また私たちは、御降誕を通して私たちに示され、表わされました、十字架の贖いの愛を深く心に留めさせていただきました。 主よ、どうぞ主のこの計り知ることのできないご愛を、今日また新しく心に刻む時としてください。この主にまた私たちの人生をゆだね、この素晴らしい救いを喜ぶことのできる者とさせてくださいますように、お一人お一人に主が臨んでください。 尊いイエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン! |