| 2002年12月22日 主日礼拝式 “ガラテヤ” 4章4節 「“時が満ちた”」 “池田 博牧師” 宣教メッセージ |
| 今朝のメッセージのみ言葉をお読み致します。今朝は ガラテヤ人への手紙4章4節 です。新約聖書の336ページになります。 “ガラテヤ”
クリスマス、おめでとうございます。今年このようにして、共にクリスマス礼拝を祝えることを本当に喜びと思っております。先ほど受洗者が与えられて、転入者も与えられて、又主がそれぞれを祝福してくださっている事を覚えて、本当に感謝であります。 しばらく前の礼拝部会で「今年のクリスマスはそれぞれ夫婦で立ってもらいましょう。」と決定したそうです。そして、第1、第3礼拝は主任牧師、第2礼拝は木島牧師、そしてユースには月井牧師夫妻それぞれが立たせられて、奉仕をさせていただいております。 今日もこのようにして、共に礼拝できる恵みを感謝します。先ほど家内がレストランに連れて行ってもらった話しをいたしました。私は家内にとってベターハーフ、素晴らしい夫でもあるのですが、私にとっても、家内は素晴らしい、世界1素晴らしいと本当にそう思っています。 その感謝を込めて、ささやかですが、本当に一杯いっぱいの感謝を込めて、食事を共にしました。忙しい中でしたが、ウエイトレスに「一寸お願いします。』と言って、2ショットで写真も撮ってもらいました。これは記念ですね。 世のご主人方よ。奥様を招待して、レストランに連れて行くこと、とっても素敵な事ですね。年に1度そんな時を持ちながら、夫婦だけの時を持つ事、また愛を実践する事、それは夫婦の関係、家族の祝福、そして人生に潤いをもたらすとっても素敵な事、素晴らしい事、そして主が喜んでくださる事です。 暖かいところから始まって、共にみ言葉に目を留めていきたいと思います。先ほどガラテア書の4章4節を読みましたが、この最初のところに「しかし定めの時が来たので」と新改訳聖書ではなっていますが、これは口語訳も文語訳も新しい新共同訳も皆そうでありますが、「時が満ちたので」「時が満ちるに及んで」こう訳されています。 「時が満ちる」という表現です。私は大好きです。いやー、本当にこれは素晴らしいとそう思わないでしょうか。「時が満ちる」私は40数年前に、初めて教会に行った、その教会での何年目かの礼拝において、牧師が「時が満ちる」ということからメッセージをされて、その時私の心にその言葉がしっかりと刻まれて、このたびも静まっていた時に、改めて思い起こさせられました。 「時が満ちる」本当に素晴らしいな。そして、本当にその事が意味する事が何であるのかをもう一度深く心に思わせられた事でもありました。ずーっと新しくなって1990年代に教会でベテル聖研ということでもって、6年間共に学びました。その中で新約篇の第1回目の中に「時が満ちるに及んで」ということで学んだことでありました。 そのタイトルの絵が又これ素晴らしい絵でありました。一寸ご一緒に見ていただきたいのですが、こんな絵であります。光が届いております。地球に届いております。光は宇宙の奥でしょうか、宇宙の上でしょうか、そしてそれは栄光の神の座です。 その栄光の神の座から、宇宙を貫いて、暗闇の中、そして地球、そこはイスラエルの国ベツレヘムであります。ベツレヘム、そしてその中の馬小屋であります。そこに光が届いたということであります。まさに「時が満ちた。」そう言える出来事であります。 ルカの福音書を見ますと、そこにはこうあります。「すると、主の栄光が回りを照らした」(ルカ 2:9)羊飼いがいる回りでした。そしてそれは、ベツレヘムに回されていた光であったわけです。 ベテル聖研の教材の中に、そのことをとても適切に表現しております。何故、その時に光が、何故、その時にこの出来事が起こったのか。あるいは、起こらなければならなかったのか。それがはっきりと書かれております。少しその事をご一緒に見てみたいと思います。 最初にこの様な事が書かれています。「歴史の最も輝かしい時、天から光が暗黒を貫いて輝いた。ひとつの星がその軌道を離れ、(これは、民数記の24章17節にありますが、ヤコブから一つの星が出るというあの預言の言葉を指しています。) そして、道を求める博士たちはその座から出で立ち、そして羊飼いたちは牧場を出た。(先ほど読みました、ルカの2章9節です。)全ての天の軍勢が歴史の最も輝かしい時の到来を告げてハレルヤの大合唱に和している時、人々の魂はあたかも、鷲が翼を得たかのように、天高く舞い揚った。まさに、時が満ちて神と人との最高の期待がベツレヘムの馬小屋で出会ったのである。」 そして、何故その時であるのかという事についてでありますが、「神のみ手はキリストの降誕に備えて、到るところで歴史の進路を整えておられた。1つ、一人の世界の制駆者がいた。(これはアレクサンダー大王のことを指しています。)そして、一つの民の世界統一と平和の確立(これはローマ帝国の確立の事を指しています。)そして、同時にローマの世界の征服の下にあって、当時の世界の人々は平和であると同時に、心は闇であった。空しさが彼らの心を支配していた。 深く彼らはむなしさの中に閉じ込められていた。これらのものが舞台設定として整えられた時に、まさに、時が満ちて、そこに光が、イエスキリストの光が投じられたのである。」ということであります。 皆さんも世界史の中で、アレキサンダー大王の事はご存知かと思いますが、アレキサンダー大王は紀元前336年に即位し、しかもその時は若干20歳であった。これは父親の死の中で、即位したということがいわれております。 私はこの人は唯武力の強い人というだけだったかなーと思っておりましたが、少し調べてみましたら、そうではなくして、むしろ彼の心を豊にしていたのは当時のギリシャの哲学であり、ギリシャの文化が彼の心を支配していて、彼はアリストテレスの指導を受けながら、有名な天文学者、プトレマイオスと一緒に勉強したという関係にあったということがありました。 そして、彼が立ち上がって、戦いに挑んだ時に、不思議な程に当時の世界を征服していきました。彼の逸話として残っているのでありますが、最早征服する国が無いと嘆いていたというほどの人であった。しかも、僅か10年そこそこで成し遂げてしまったという、世界の歴史の中でも例を見ないようなことが起こった。 アレキサンダー大王は単に征服をして、武力で押さえ込んだということではなくして、征服した地域、民族、国々をギリシャの文化で彼らの心を支配していった。彼らの心を豊にしていったということであります。 その中の恩恵の1つ、それはギリシャ語、コイネーという判りやすい、話しやすい言葉を普及させる事にあった。これは後に、聖書の言葉がギリシャ語でかかれ、その聖書の言葉を当時の多くの国々、ローマもアジアもアフリカも、何処にでもギリシャ語を話せる人がいて、通じる事が出来て、聖書の言葉が直接聞く事が出来るという、素晴らしい普及がなされていったということであります。 今日、いかに世界の共通語英語が普及しているといっても、私たち日本人にとって、「いやー、英語のほうが判りやすいなー。」と言える人はほんの一握りでしょうか。まして、日本国の様々な書物が英語のほうが読みやすいという人はいない。 でも、イスラエルの人たちは、旧約聖書はへブル語で、自国の言葉で持っておりますが、新約聖書はへブル語ではなくして、ギリシャ語で書かれていて、ギリシャ語で読んでいたということであります。そしてそれを理解できたということは不思議な事、素晴らしい事、それ故に聖書が当時の世界にどんなに早く普及していった事かということが言えます。 でも、たった10年で世界征服したアレクサンダー大王はやがて病死していきます。国は4分割され、国々が争いをする中にあって、その間で頭角を表してきたのがローマだったのです。このローマ帝国がやがて世界を征服していきます。 ローマ帝国は武力を以って制圧をしていくのです。アレクサンダーのとった失敗を2度と繰り返さない為に、いつでも武力を以って制圧できるために、何をしたか。それは、道を完備したということであります。有名な「全ての道はローマに通ず。」という言葉であります。 でも、まさにその道こそ、ローマは軍隊を走らせ、武力を持って制圧したのでありますが、やがて、キリストの福音の使者達はその道を利用して、世界に福音を伝える事が出来るようになっていたということであります。 ローマは武力で制圧して、力で平和を確立しました。戦いの無い時代がそこに出現して参りました。ですから福音にきくチャンスが多く訪れた。ローマの平和が福音にとっても大きなプラスになっていったということであります。 しかし又、ローマの武力による平和、権力による平和は人々の心を荒ませていったという事も事実であったようであります。暗黒の時代が同時に訪れてきていたということであります。人々の心は荒んでいき、彼らは退廃し、彼らは様々な宗教様々な神々を持つようになっていき、宗教的にも道徳的にもあらゆる面において、これ以上無いという混乱と暗闇がその当時を支配したということであります。 衣食足りて礼節を知るとは儒教の教えでありますが、ローマの制圧した平和は衣食足りて心の空しさを知るであっただろうと思います。そのようにして、時代はアレキサンダーの支配の中で世界が統一されて、ギリシャ語が普及して、人々はそのまま聖書が読めるという時代、そしてローマの支配の中で、平和の到来の中で、何時も何処にでも行く事が出来るような時代設定が出来たということです。 人々がその中にあって、荒みきって滅びに向かっていたそこに、世界の救いとしての光が到来したということであります。その到来は1分たりとも早くともいけないし、遅くともいけなかった。神のなさる業は寸分たがわない形で常になされている。聖書を通してそれを知ることが出来る。 その元で、この地上に来られたイエス・キリスト、やがて30歳になって公生涯に入られます。公の生涯に入られた時のイエス様の語られた最初の言葉、それがこの言葉であります。マルコの福音書の1章15節であります。そこにこうあります。 “マルコ”
これが口を開いて最初に語られたイエス・キリストの言葉であります。「時が満ちた。」先ずそう語られました。キリストの降誕が時が満ちた中で起こったことであります。イエス・キリストが「時が満ちた。」と言われる中に、それは「最早古いときは去りました。新しい救いの時がまさに到来したのです。」そういう意味合いがそこにあります。 古いときは過ぎ去り、新しい救いの時代が今ここに来たのです。その満ちるという事は、時が昨日から今日そして明日へと流れていく、過ぎ去っていくというような時ではなくして、ここでいわれている時、クロノスとカイロスという言葉の使い分けがギリシャ語にはありますが、時の流れのクロノスの時ではなくして、カイロスとしての時である。 それは今までの時代の時とは全く違った新しい時がそこに到来して、今これから後の世界はその時によって支配される、そういう時であると聖書は告げているのであります。今までは暗闇の世界が支配した時、でも今は光、救いがもたらされるという時によって支配される時が満ちたのです。そういう時が到来したのです。 それは、旧約から新約への時代であり、イエス・キリストが居られない時代からイエス・キリストが到来しイエス・キリストを通して福音がもたらされた時代であるということであります。 ある訳によりますと、それは隠された中で熟して一挙にそれが起こった、そういう出来事である、そういう変化であるという時の理解であります。 素晴らしい事です。そして「神の国は近くなった。」この神の国というのは、そこにあるここにあるという領土の神の国という事ではなくして、それはもっと精神的な支配という意味における神の国、すなはち神があなたの心を支配します。神があなたの人生を支配します。神があなたの生き方そのものを支配して下さるのです。 そういう「神の国が近くなった。」とありますが、この近くなったというのも、やがてまもなく来るというそういう意味ではなくして、既に来たのです。あなたの戸口の前に来たのです。あなたの心の扉のまん前に来たのです。あなたが心の扉を開くならば、そこに入ってくださるという、そういう来方をした、それが近くなったということです。 イエス様が来てくださって、「時が満ちて、神の国は近くなった。」と言われた。その言葉、何と素晴らしい、深く豊な意味を持って私たちに語ってくださった事でありましょうか。 それでは、私たちは何をしたらいいのでしょうか。どうしなさいと言われるのか。それはその先にあります。「ですから、悔い改めて福音を信じなさい。」悔い改めということがありますね。この悔い改めと言うのも、私たちの日本語の理解からすると、「今までは悪うございました。もう一切悪い事は致しません。心を入れ替えて良いこと、正しいことを致しますからお赦しください。」というような意味合いで恐らく理解するかなと思います。 聖書がいう悔い改めはそうではない。聖書は、神様は良く知っています。我々の心はどんなに「悪い事をしません。」と言っても、その舌の根が乾かないうちに、またしてしまう、それが人間の罪、人間の弱さ、人間の持つ罪の性質であります。 ですから、聖書がいう悔い改めは「心を廻しなさい、心を神様のほうに向けなさい。」というのが悔い改めという事であります。あなたの心がこれまで、ものものの宗教だったでしょうか、偶像だったでしょうか。「己が腹を神とする。」とありますが、欲望を神としていたでしょうか。 欲望に支配された生き方だったでしょうか、その方向から転換して、まことの神様に、イエス・キリストにあなたの方向転換をしなさい。そうするならばイエス・キリストが最早あなたに近づいて、心の扉の前にいますから、心を開いて迎え入れてご覧なさい。 イエス・キリストがあなたの心の中に入って、イエス・キリストがあなたを支配してくださる時に、そこに、闇から光、死からいのち、新しい人生が開かれていきますから、そのようにして悔い改め、さー、あなたはしてください。「福音を信じなさい。」とあります。 「福音」それは良き訪れです。私たちがどんなに頑張っても、努力してもそしてどんなに嘆いてみても、誓ってみても、禁煙禁酒とどんなに貼ってみても、翌日「御免なさい。」と破ってしまってまたやってしまう、私たちの決断、決意はそんなものであります。 その、私たちの出来ない、私たちにとって不可能な罪のしからしめるもの、罪に支配された人間性、肉の弱さをキリストは全部ご存知でした。ですから、その罪の為に、私たちの弱さを担うために、身代わりになるために、キリストは十字架にかかって下さったのでありました。 十字架にかかって、私たちの罪の罰を身代わりになって受けてくださった。私たちの罪です。私たちが当然受けなければいけない、蒔いた種ですから当然それを刈り取らなければいけない私たちの責任であり、私たちがそれ故に、それに縛られてしまうそういう罪です。 でも、キリストはそれを自らの身に受けてくださいました。「父よ、彼らを赦してやってください。彼らは自分でどんなに努力しても、どんなに頑張っても出来ないですから、わたしが身代わりに裁かれますから、私を裁いて彼らを赦してやってください。」 愛は人を動かします。愛は人の心を変えていきます。キリストはそのようにして、命を捨てて私たちを救うために愛して下さいました。その十字架、それが良き訪れです。私たちの為に、あなたの為にキリストはそうしてくださいました。この十字架において許しが、この十字架において私たちの救いの道が備えられたのであります。 クリスマス。イエス・キリストはそのために、唯その十字架を一点に焦点を合わせてこの世に来られるそのために、あの馬小屋に生まれてくださったのです。その最初から、やがてその最後がどうなるか全てご存知の上で、ご自分の身をあの卑しい貧しい馬小屋にその身を置いてくださいました。 イエス・キリストを通してもたらされた救い、まさにそれが私にとって、無くてならない福音であります。今日私たちはこのような素晴らしい福音を頂ける事を、提供されている事を心から感謝したいのであります。あなたの心の扉を開いて「主よ私の内にお入りください。私の内にこそお生まれ下さい。」そう言える者とならせていただきたいのであります。 お祈りを致します。 尊いイエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン! |