| 2002年12月29日 主日礼拝式 “詩篇” 103章1〜5節 「“1年の恵み”」 “池田博主任牧師” 宣教メッセージ |
| 今朝のメッセージのみ言葉をお読み致します。今朝は 詩篇103章1節から5節
です。旧約聖書の925ページになります。 “詩篇”
2002年、今日を最後の主日としてこの年を終えるわけですが、今日それぞれ皆さんも感謝な思いを持って、感謝礼拝としてここに出席しておられると思います。またそのことが大切であろうと思います。 ざっと振返って、いや感謝できないなと、そんな風に心の疼き(うづき)や重さを感じている方もあるかと思いますが、でもなおその中で感謝する、その心を持つということを、今日はご一緒に主の前に出て心に留めたいなと思っております。 この「感謝」というのは、私たちが感謝できる状況とか、感謝できるようなことが次々と起こるから感謝があるということではなく、状況は感謝できるようなものではないけれども、でもその中に感謝を発見していくことが大切であると思います。 感謝できないような状況を、「ああ、これは恵みだった。」という風にして、きちんと恵みという目で見ていくという心、それがとっても大切だと思います。 例年、私は皆さんに、「1年を振返って、ご自分の年の数だけの感謝、恵みを具体的に記してみましょう。」という風に申しあげております。どうでしょうか?すでにそれをなさった方はおありでしょうか?私も改めてそれをしました。今まだ完全でなくて、まだ半年分ですが、自分の年の数は既に越えました。 その恵みを思い返すのに、記憶をたどるだけですと、どうしても人間の記憶というのは、あまり感謝なことは心に留まりにくいですね。また留まってもでもそれ以上に嫌なこと、辛いことがスーッと思い出されてしまうものです。 どちらかと言うと、人間は嫌なことは覚えているけれど、感謝は忘れるものです。ですから私たちは恵みを心に留めること、一つ一つしっかり留めることが大切であると思います。 個人として振返ること、そしてまた教会としても振返ること、これも大事ですね。今日は最初に、教会としてこの1年振返ってみたいと思います。 まだ記憶に新しいと思いますが、何と言ってもこの1年、嵐のように吹いて去ってゆき、そしてそこから素晴らしい恵みも頂戴したということが言える、例の「ワールドカップ」がありました。6月の1ヶ月間、本当にフル稼働いたしました。本当に皆さん、よくよく犠牲的に奉仕をしてくださったと思います。 スポーツのイベントではあったのですが、それは神様が与えてくださった素晴らしい伝道のチャンスでもあったと言えるかと思います。世界中の多くの教会から、ボランティアが日本に少なくとも500人は送られてきた、とありました。そしてまた、日本の教会からも600人のボランティアが出た、とありました。もっとそれ以上いたと思います。 本郷台教会からも、大勢の若者たち、また婦人たち、壮年たちも、あの国際競技場に、あるいは駅に、あるいは町の中に出ていって、様々な形で活動しました。本当にフル稼働であったと思います。 この教会に大勢のサッカーチームの人達やいろいろ人達が泊まられ、そういう人達の接待も本当に大変でしたが、させていただきました。サッカーフェスティバル、6月1日と8日の2度行なわれ、合計で3000人以上の人がそこに集められたということも本当に素晴らしいことだった、と思います。 「それを神様は見ておられた。神様は目を留めてくださった。さらには選んでくださった。」と思えることがあります。それは、ちょうど地球の反対側、真反対のアルゼンチンから、一人の元プロサッカー選手が、この教会に送られてきたことでした。 「日本に重荷をもって、日本に行って少年たち、若者たちにサッカーのスクールを開設し、また伝道もしていきたい。」という重荷を与えられた、「オルテガさん親子」が、6月19日私たちの教会に、忙しい真っ最中に送られてきたのでした。 オルテガ選手は、それから50日間、この教会に滞在することになりました。その滞在した50日間の間の働きや交流、そこでなされた一つ一つの出来事の中から、兄弟の中に起こされた熱い願いが、この日本で、そしてこの本郷台で実現すべく道が開かれた、ということが言えると思います。 そして国に帰ってから色々と整理をなさって、何と今飛行機に乗って、まもなく午後3時に成田に到着して、家族挙げて日本に来る、という展開になってまいりました。本当に主のなさることって素晴らしいし、驚くようなことだと思いますね。 皆様方の一人一人の人生においてもそうです。主の前にあるあり方においてそうです。自分の人生にいろんなことが起こってくる中で、「主よ、あなたのみ心は何でしょうか?あなたは私を通して何をしようとしておられるのでしょうか?あなたに信頼して、あなたに従っていきます。」そう決断して従ったその先には、私たちの計画、私たちの思いを越えて、また私たちの思いとは違ったところで、神様は道を開いてくださるのです。 そして、神様の良きわざをなそうとしてくださるのです。そのことを神様は私たちの教会に見せてくださったのです。一人一人の人生にも同じようにわざをしてくださるのだと、教会の中でサンプルとして見せてくださったと思っております。本当に感謝でありました。 先発隊としてグスタボ兄弟がすでに今日来ております。兄弟はなんと、本郷台で洗礼を受けたいということで、来週洗礼式であります。ハレルヤ! 私たちもオルテガさん家族を待ち焦がれてもいるのですけれど、やっぱり兄弟はもっともっとのようでね。「どうしたら早く3時になるのかな?寝ていたらいいのかな?走ったらいいのかな?」と待ちきれない思いを、先ほども言ってました。もうちょっと待ちましょうね。 本当に神様は今年様々な恵みのみわざをしてくださり、またなさってくださりつつあり、そしてさらにこれからしてくださる、そう信じるものですね。先程の詩篇103篇に目を留めたいと思います。1節、2節です。 “詩篇”
「主をほめたたえよ。」とあるわけです。主をほめたたえることが、いかに大切であるか、を聖書は教えています。特にこの詩篇103篇はそのことをはっきりと教えています。 皆さん、私たちが普通の生活をしている時には、なかなか主をほめるとか、感謝すると、いうことにならないと思います。「思い起こして見ると、思い起こされてくるのは嫌だったなあ。辛かったなあ。思い出すたびにいらいらしちゃうなあ。」ということが多いものです。 私たちの心に残るものっていうのは傷とか痛みとかが多いのかなと思います。ですからなかなか、「主をほめたたえよ、恵みを感謝せよ。」というようなことになっていかないものだと思います。ですから聖書は、「主の名をほめなさい。」とこう言っているのです。 基本的には私たちの生活の中では、確かに誰もが例外なく試練があって、困難があって、問題があって、数えていったら、はるかにそちらの方が多いと思うのです。でもひとまずそれを置きなさいということです。脇に置いて、「あるいは問題を目をつぶって、と言ったらいいでしょうか?、あるいはもう少し積極的に言えば、いいことを一つ描いてみるっていうのもどうかな?」と思いますね。 これから3ヶ月後にハワイに行くんだなって思うと、全て楽しくなっていきますね。もう卒業だとか、結婚があるとか、素敵なことがあると思うと、何か人生がバラ色になってきたりしますね。バラ色にならないまでも、一つの光に向いてきますと、そういう思いに人の心って変えられていきますね。 私たちの心は主に向いていく、主を思うときに自然にそうなれるようになったら素晴らしいですね。朝ごとに主を深く思う時、私の心は熱い思いで心が溶かされていく、そうなっていくようになれたら素晴らしいですね。 朝ごとに聖書を読んで、朝ごとに主の名を呼ぶ時に、何かこう、全部溶けていく、全部変えられていくという経験です。主の恵みを心に留めるという出発は、そこにあるという風に思いますね。 私も振返りまして、「どういうことが恵みだったか?」と一つ一つ数え上げてみたとき、なんとなく記憶から薄れていたなというようなことも思い出されてまいりました。1月24日、ほぼ1年前ある方をお招きしてお話を聞いたのです。 その時、心が何となくこう、本当に熱くされましたね。ご主人をずっと看病しながら、素晴らしい恵みをそこで受けていたという証しを伺って、本当に涙が出る、熱い恵みを経験しました。本当にその記憶がよみがえってまいりました。 皆さん、簡単なものでいい、数行でいいですから、その日に心に留まったこと、出来事をきちんとこうチェックしておくのです。そうすると、こうして後から振返ってみますと、「ああ、これも恵み、これも感謝、これも素晴らしい。」という風にして、一つ一つが掘り起こされ、思い起こされてまいります。いつしか心がほのかに暖かくなり、主を讃美することができるように変えられていくということです。それがとても大切です。 合わせて、「私は、いつクリスチャンになって、主の前に、主と共に歩み出したか?」と考えました。私が洗礼を受けたのは1958年11月2日です。まだ生まれてない人が結構いるかと思いますが、44年になります。そしてこの44年間、いろんな所を通りましたけれども、おしなべてやっぱり感謝が一杯だという思いになりました。 そして、今日洗礼を受けた梅村さんもおられるのですが、でも、たとえ先週でも今日でも、洗礼を受けて変えられることがあります。洗礼を受けてはっきりとスイッチされることがあります。それは自分の過去も将来もそうですが、自分の人生を主の目で見るということです。 主の目で見るということ、あるいはもっと言うならば、恵みの目で見るという、その切り替えがなされるということです。それをする時に、私たちの過去は全部恵みに変えられていくのです。 救いに至る自分の過去は、本当に辛い辛い中に追い込まれ、追い込まれて、もう何か死と向き合うような、絶望と向き合うような、どうにもならないところに突き当たっていたかもしれません。しかし、よくよく振返ってみた時に、そのところで主に出会ったのです。 だからこそその辛い所が、絶望の淵が主への導きの手であったんだなと思えるようになるのです。そう決断できた時こそ、試練が恵みに変えられるところなのです。 聖書を見ていきますと、イスラエルの民の歴史がまさにそれであったのです。それはまた、私たちの人生の一つのお手本でもあると思います。イスラエルの民は、エジプトの国に奴隷として、とってもとっても辛い中に置かれておりました。あまりの辛さに、その叫び声が天に届いた、神のところに届いた、とあるほどです。そして出エジプト記3章を見ますと、「神はその彼らの声を聞かれた」とあるのです。 聞かれた神様は、彼らを救い出すために一人の人、モーセをおこして、モーセを訓練し、モーセを遣わしなさいました。そしてモーセを通して、やがてこのイスラエルの民は、あの奴隷の苦しいエジプトの時代から、導き出されていきます。 そして紅海が二つに分かれ、荒野を旅する中に、神が共にいてマナが降り、そしてうずらが降って彼らの生活は守られました。その一つ一つの恵み、一つ一つの奇跡の中に、神がどんなに生きて働かれるお方であるかが、嫌というほど彼らの心に刻まれていきました。 そこから生まれてくる讃美、感謝、それが詩篇の中にたくさんあります。その一つ、中心でもありますけれども、ちょっと目を留めてみます。詩篇136篇です。そこにとても素晴らしい詩が連ねられております。 “詩篇”
これは司会者と会衆とが交互に交読文のように歌われたものと思いますが、聴衆は繰り返し繰り返し「その恵みはとこしえまで」と応答していきます。 そしてその中の中心は何かと言うならば、それは10節以下です。そこを読んでみます。 “詩篇”
出エジプトの一つ一つの出来事、その中に恵みが、その中に主の手が確かにあったことを彼らは経験していきます。その時にもはやあの奴隷の時代が彼らの心の中から感謝にすら変えられていきます。 “詩篇”
と、カナンの地への約束の成就を見て彼らは喜びます。そして締めくくりとしてこのように讃美します。 “詩篇”
こうして彼らはあの暗い苦しい時代から、神ご自身の恵みの中で救い出されて、「天の神に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。」と変えられていっております。 イスラエルの民の歴史がここにあります。モーセ五書の中心、それは出エジプトであり、出エジプトという出来事を見て、そのところから二つに分けられています。そして以前のその状態にも感謝であり、彼らの歴史もまた素晴らしい、神が共にいる歴史となっていくということが、ここに記されているわけであります。 もう一度103篇に戻りますが、2節の後半部分は “詩篇”
と、こうあります。 「主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな」とあるように、一つ一つを心に留めることが大切です。たったこの1年を振返っても、私の記憶の中から既に忘れてしまっていることがあります。ですから書き留めることが大切です。 書き留めてもう一度それを、こういう区切りの時に思い起してみて、改めて目を通してみた時に、「恵みだった。こんなに多くの恵みがあったのだ。」というように思い出されます。そうなった時に、1年全体を感謝することができるようになっていくのです。 そしてその目でこれから先を、その目で一つ一つに目を留めていきますと、今たとえ試練が、たとえ問題があったとしても、ここまで支え導いてくださった恵みの主は、必ずこの中でも試練を恵みに変えてくださる、涙の谷を泉のわく所としてくださるという深い信頼が湧いてまいります。そしてそれは主の手を動かしていきます。主はいつも私たちの信仰に目を留めてくださいます。 「あなたは私を信じるか?信じるなら神の栄光を見る。あなたの信仰があなたを救った。」と主は言っておられるのです。それを私たちが、「もういいのです。私はどうなってもいいのです。滅びたってしょうがないのです。」と自分であきらめていたら、主の憐れみの御手を伸ばしようがないのです。 「さあ、どんな中からでも私を見上げなさい、私に信頼しなさい。」と言われる主です。その主に手を伸ばすことです。そこから主の手、そこから主の救い、そこから主のみわざを私たちは見出していくのです。 ですから恵みの一つ一つを忘れてはならないのです。口語訳では「そのすべての恵みを心にとめよ。」とあります。そのようにして一つ一つを心に留めていくことが大切だなと思います。 そして14節だけ目を留めてみます。 “詩篇”
これも素晴らしいですね。「本当に私たちが何者なので、主はみ心に留めてくださるだろうか!」とありますね。私が神様の前に自分を見た時に、「自分は何者か?何ほどの者か?こんな罪深い、こんな汚れた、こんな自己中心な者でしかない、ちりに過ぎないこんな私です。でもそれをご自身のみ心に留めてくださる。」ということは何と素晴らしいことなのでしょうか? 皆さん、この1年を振返ってどうでしょうか?教会として、この1年贖われた者が帰ってくるように、ということで祈ってまいりました。正確な数字は年越し祈祷会の時にお証ししますけれども、多くの人たちが贖われて帰ってきました。今日もここに出席している方もあります。本当にうれしいことですね。 今年は会堂返済3年目ということで、9000万円という大きな山を乗り越えなければならない、本当にずっしりと重かったですね。そのために2回の半徹夜祈祷会をし、会堂返済委員会は毎週毎週集まって、祈りを共にし、涙の訴えをしておられました。 主はそういう祈りにも答えてくださいました。本当に何百万という、「エッ?どこからこんな献金が?」と思われるような献金が捧げられているのですね。 犠牲の、いや感謝の献げ物として献げられて、そしてこうして大きな大きな山が越えられているのです。主はその一つ一つを心に留めてくださっているのです。そしてその宝は天に積み上げられて、やがて主からどのような恵みをいただくことでしょうか? こうしてこのダイヤモンドチャペルも、もう何か狭いかなと思うほどになってきている、そんな祝福がそこにあるわけですけれども、主はさらにこのチャペルを通して、「サッカースクール・エスペランサ」(スペイン語で「希望」という意味だそうです)、これを立ち上げていきます。 そして、託児所「のあ」の働きも立ち上げられつつあります。まだ、たった一名ですけれども、必ず多くの子供が与えられると信じています。 そして作業所も立ち上げようとしているんですね。作業所の名称は、「まってる」だそうです。 一つ一つ働きが来年に向けてスタートしようとしております。主のわざがいよいよまた具体化しようとしております。 そして今年25名の受洗者が与えられましたけれども、さらに来年贖われた者が帰るとともに、新しい人たちがもっともっと帰されていき、そしてこの町は主の名がおかれる町であり、主の栄光が現される町となっていくように、私たちも励んでいきたいのであります。 お祈りを致します。 愛する天のお父様、今日このようにしてあなたの前に、ともに今年最後の祈りの時、この恵みの時としてあなたが備えてくださいました。感謝します。 どうぞ主が先だってくださいまして、この1年の感謝とともに新しい年に向かってビジョンをもって進み行くことのできる者としてくださいますようにお願いいたします。 お一人お一人の心の感謝に合わせ、尊いイエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン! |